神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

あのころはフリードリヒがいたに関連して-黙示録-

2015年09月17日 | キリスト教
【第五の封印】エル・グレコ


『あのころはフリードリヒがいた』って、本当に素晴らしい作品で、読み終わったあとに「自分の頭で考える」ということをさせてくれる本当に優れた作品だと思います。

 なので、わたしが何か他に余計なことを書いたりだとか、「わたしは読んでこう思ったけど、他の読者さんもそうだよね!」的に意見する必要さえないような気がするというか(*/ω\*)

 ただ、今回読んでいて、実はわたしが一番強く思わされたのが実は黙示録のことでした。

 いつかまた、ユダヤ民族にとって時代が悪くなった時、同じようにユダヤ人狩りのようなことが起きるだろう……というのではなく、聖書に記されているような真のクリスチャンに対する迫害というか、この時代のユダヤ人の方々に相当するようなことがキリスト教徒に起きてくるのではないかということです。

 ヨハネの黙示録の第13章には次のように書き記されています。


 >>この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。

 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。

 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。

 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、またその獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

(ヨハネの黙示録、第13章12~18節)


 この<666>という数字のことを聞いて、映画の『ダミアン』のことを思いだす方もいらっしゃるかもしれません(^^;)

 それはさておき、この獣というのは言うまでもなく反キリストのことですよね。

 そしてヒトラーという人はクリスチャンから見て<反キリストの器>として選ばれた人……といったように言われたりするわけですが、この世の終わりには、ヒトラー以上の恐ろしい反キリストが現われ、第二次大戦下であったホロコースト(※あくまで、わかりやすいようにこの語を使います)以上のことを行なう……また、この<反キリストの獣>に従わない人々に対する大量殺戮があるのではないかと思われます。

 つまり、クリスチャンにとっては、ホロコーストというのは、過去にあったユダヤ人にだけ起きた悲劇――というのではなく、実は非常に今日的な問題なんですよね。

 黙示録には、この獣から印を受けなかった人々には売ることも買うことも禁じられたとありますから、これはもう自分で畑でも持っていて自給自足の生活でも送れていないことには、相当困ることを意味します。そして、黙示録というのは比喩的表現によって書かれていますから、何かこのことが非現実的であるように感じてしまいますが、実際これは相当洗練された形で行われるのではないかということが予想されるわけです。

 日本で住民基本台帳カードというのが導入されていますけれども、たとえばこう、コンピューターに登録がない人は絶対に売り買い出来ません……といったような、そうしたことになるのではないかと、キリスト教徒の間ではよく言われていますよね(^^;)

 また、イエスさま御自身が「世界の終わり」、「この世の終末」ということに関しては、次のように言っておられます。


 >>わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

(マタイの福音書、第24章5~13節)


「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」……また他に、信仰上のことでは家族の中でさえも分裂が起きるとも、イエスさまはおっしゃっていますよね

 実をいうとわたし自身、家族の中でわたしだけがクリスチャンだったり(^^;)

 でももし、神と家族のどちらを選ぶのか問われたら、それはもう絶対的に100%かそれに近いくらい神さま、イエスさまのことを選ぶ覚悟でいます。もちろんそうした考え方がわたしの家族には理解できないでしょうし、そのことが原因で喧嘩になるといったことも起きてくるかもしれません。

 それはさておき、この「不法がはびこる時」というのは、第二次大戦下でユダヤ民族が経験したことと同じか、それ以上のことが起きてくることを意味していると思われます。時代が平和で、心に余裕のある時には、どんな隣人にも手を差し伸べて優しかった人々がそうは出来なくなる……終末にはきっと、そうした恐ろしい嫌な時代に入っていくのではないでしょうか。

 ここから『あのころはフリードリヒがいた』のお話に少し触れたいと思うのですが、『あのころはフリードリヒがいた』の中には、ユダヤ人に対して色々な反応をする人々が出てきます。

 まず、例のレッシュ氏や<ぼく>のおじいちゃんに代表されるような、はっきりとした反ユダヤ感情を持っている人々は、物凄く典型的な反ユダヤ派というカテゴリーに入れていいと思います。でも、もし反ユダヤ政策というものがなかったとしたら、ユダヤ人の家屋を襲撃するだなんて、考えてみたこともない……という人もいたに違いありません。けれど、『ポグロム』という章で<ぼく>がそうであったように、何か普段の生活の鬱憤を晴らしたいであるとか、そうした人々が八つ当たりするのにユダヤ人は恰好のいい相手だったという部分があったりと、明らかに時代がユダヤ人に不利になったからこそ、反ユダヤ派に回った人々がいて、これはわたし、きっと終末にも同じことが起きてくるんだろうなって思いました(^^;)

 なんていうか、そうなることで、真のクリスチャンとそうではない人々とが振るいにかけられ、その後<携挙>ということが起きるのではないでしょうか。

<携挙>というのは、イエスさまが御使いたちとともに雲に乗って再び地上に来られ、信徒たちを連れ昇ることを指してそういうのですが、この時に携挙に預かることが出来た人々は、こののちに起きる想像を絶する地上の災害を逃れることが出来るといいます。

 いえ、もしこの時<携挙>されなかったとしたらば、相当悲惨なことになり、恐ろしい災害によってもみくちゃにされるだけでなく、政治的には先に書いた反キリストの獣が頂点に君臨しており、そちらの勢力にキリスト教徒は迫害され通しということにもなりますから……もし携挙されずに地上に残されたクリスチャンは、おそらく全員殉教することになるだろうと言われています。

 つまり、この時あんまり色々なことがつらくて、反キリストの側に寝返ってしまうクリスチャンというのも出てくるだろうことが想像されますが、そちらの勢力には決してつくことなく殉教することを選ぶようにと、わたしは牧師さんのメッセージでこれまで何度も聞いてるんですよね(^^;)

 そして、わたしが今回『あのころはフリードリヒがいた』を読んでいて思ったのは、この時代にユダヤ人の方々が経験したことはいずれキリスト教徒にも同じことが起こってくるだろうということだったでしょうか。

 戦後七十年と言われますが、わたし自身は今もっとこの時代にあったことをよくよく考えてみる必要があるような気がしてなりません。もしわたしがキリスト教徒でなかったとしたら、「同じような戦争がまた起きるなんて、まずありえへんてww」という感じだったと思うのですが、「クリスチャンとして最後まで信仰を守りとおすには」ということを考えた場合、第二次大戦下で最後までユダヤ人擁護派にまわり、逮捕された人々がそうであったように――そのくらいの決然とした意志が必要になってくるのだろうと思います。

「出来れば助けてあげたいけど、ごめんね」と言うのではなく、自分の命を賭けても「わたしはわたしの信じる正義と信仰を守り抜く」という覚悟、その部分が問われてくるのだろうという気がするというか。

 ようするに、神さまの試しを受け、神さまから大きな振るいにかけられても、目先の楽なほうを選ばず、時代がどんなに苦しくとも天の御国のことを思って耐え忍ぶ……いえ、わたしには正直、「そんなことは無理だな~☆」というのが正直な気持ちですけれども、『あのころはフリードリヒがいた』や『アンネの日記』といった本を読む時、やっぱり色々と深く考えさせられるんですよね(^^;)

 何かわかりにくい記事で恐縮ですが、次回は他のブログで書いていてしてなかった記事をあげようかなって思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!





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