神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

赤毛のアン。-【4】-

2017年08月26日 | キリスト教


「赤毛のアン」の記事の【1】~【3】はものすごく下のほうに沈んで(?)いるのですけれども、しかも今回はかなりお話のほうをすっ飛ばして、お話のほうが「赤毛のアン」シリーズの第7巻、「炉辺荘のアン」にまで飛びます(^^;)

 もしかしたら、「赤毛のアン」は1巻しか内容を知らない、あるいはシリーズ第3巻の「アンの愛情」でギルバートと結ばれるところまで読んだ……など、読んだ巻数がもしかしたら人によって違うかもしれません

 なので、一応念のためアンのその後について書きますと、ギルバートと結ばれたのち、アンは最初の子の死産を経験し(これは同じように二番目の子を失ったモンゴメリの悲しみでもあったのではないでしょうか)、その後は長男のジェイムズ・マシュウ、次男のウォルター、双子のナンとダイアナ、三男シャーリー、末娘のバーサ・マリラ(リラ)……と、六人の子宝に恵まれています。

 そしてこの「炉辺荘のアン」は、六人の子供たちを中心にした物語といっていいかもしれません。

 んで、ですね。ここはキリスト教について何か書くといったブログなものですから、今回はアンの双子の娘のひとり、ナンちゃんにちょっと焦点を当ててみたいと思います♪


 >>双生児は見かけ以上に違っていた。ダイは姿は母親似であるにもかかわらず、性質や特性の点では父の子であった。父の実際的な傾向、明快な常識、ユーモアを解する精神などを持ちあわせていた。ナンは母親の想像力の才能をあますところなく受けつぎ、すでに自分だけのやり方で人生を興味あるものにしていた。

 たとえば、この夏、神と取引を交わすことにより限りないおもしろさを味わっていた。要点をかいつまめば、

「あなたがこれこれのことをしてくれれば、わたしもこれこれのことをする」

 ということだった。

 炉辺荘の子供たちはみな、かの「いまやわが身を横たえ……」の古い古典で人生を始め……やがて「われらの神よ」に昇進し……つぎにはそれぞれの小さな訴えをも好きな言葉で述べるようにと言われた。

 よいおこないをしたり辛抱づよくしますと約束すると神が願いを叶えてくれるというふうに、どうしてナンが思いこむようになったのかはわからない。たぶん、ある若い美しい日曜学校の先生に間接の責任があるかもしれなかった。よい子になっていないと、神様はこういうこともああいうこともしてくださいませんよと、しばしば説き聞かせたからである。

 この考えを裏返し、こちらがこれこれの者になり、これこれのことをするなら、当然、神からこちらの願いを叶えてもらえるという結論に達することは造作なかった。

 ナンが春にしたはじめての『取引』はいくつかの失敗を償ってあまりあるほどみごとに成功したので、ナンは夏じゅうひきつづきおこなった。このことはだれも知らず、ダイでさえ知らなかった。

(『炉辺荘のアン』モンゴメリ作、村岡花子さん訳/新潮文庫より)


 このナンちゃんの神さまとの「取引」という行為、たぶん心当たりのある方、多いのではないでしょうか(^^;)

 わたしも、クリスチャンになったのは二十代になってからですから、それまではというか、小さな頃は特にこの神さまとの「取引」ということをよくしていたことがあります。つまり、「もう二度と○△しません」という代わりに、「これこれの願いごとを叶えてください」とか祈っていたということです。

 こうした祈り方は、絶対にしてはいけません。

 何故といって、その自分で勝手に思いついた約束を守れなかったりして、あとには罪悪感しか残らなかった……ということがわたしの場合多かったですし、その後クリスチャンになってからは「本当の神さまは無償でなんでもしてくださる方だ」ということを知りました。

 むしろ、こうした祈り方をしてしまうと、真実の神さま以外の霊的存在(キリスト教的には悪魔(サタン)や悪霊と呼ばれる存在)がそのことを聞いていて、罪悪感でその人を縛り上げる……という事態すら生じえます。

 ところで、ナンちゃんはその後どうしたかというと……。


 >>五月のある夜、ナンは祈った。

「来週のエイミー・テイラーのパーティの前にあたしの歯を生やしてくださったら、神様、スーザンがひまし油をくれるたびに少しも文句を言わないでのみます」

 そのあくる日、ナンのかわいい口にみっともない間のびした途切れ目をつくっていたところに歯があらわれ、パーティの当日までに生えきった。これほど確かな神業がまたとあろうか?

 ナンは契約の自分の分も忠実に守ったので、その後、スーザンはひまし油を与えるたびに驚きもし喜びもした。ナンは顔もしかめず文句も言わずにのんだが、ときには時を限れば……三カ月とでもすればよかったと思った。

 神は必ず応じるとはかぎらなかった。しかし、ボタンの紐に通す特別のボタンをくださいますように……ボタンの蒐集ははしかのようにグレンの小さな女の子たちの間にいたるところで流行していた……そうしてくださったら、スーザンがあたしのところへ欠けたお皿を持ってきても怒ったりしませんからと願ったら、つぎの日にそのボタンがあらわれた。

 スーザンが屋根裏部屋の古い服についていたのを発見したのである。美しい赤いボタンで小さなダイヤモンドが、あるいはナンがダイヤモンドであると信じたところのものがはめこんであった。その優美なボタンをナンはみんなからうらやましがられた。その夜、ダイが欠けた皿をいやだと断わったとき、ナンは殊勝げに言いだした。

「スーザン、それをあたしにちょうだい。これからいつでもそれをもらうわ」

 スーザンは天使のように無私だと思い、そう言った。そう言われてナンはひとりよがりの気がし、見た目にもそう見えた。

(『炉辺荘のアン』モンゴメリ作、村岡花子さん訳/新潮文庫より)


 そしてこののち、ナンちゃんは「お母さんの病気が治るなら、夜中に墓地を通り抜ける」という神さまとの取引を思いつくことになります。そして、そのことを実行しようとしたのですが、(かつての幼い頃のアンのように)自分の想像力が邪魔をして、結局のところ墓地を通り抜けることは出来なかったのです。

 ナンは夜中、泥だけらになって泣きながら家に帰ってきました。そして、恐れとともに思いました。(これで母さんは死んでしまうにちがいない!)……ですが、もちろんそうはなりませんでした。

 病いの床についていたアンは、その後快復し……そのアンの元にナンは泣きながらやってきました。


 >>「母さん、どうしても母さんに話さなくちゃならないの……もうこれ以上待ちきれないの。母さん、あたしは神さまをだましたのよ」

 アンはふたたび子供のとりすがる柔らかな手に触れて快い感覚を味わった……辛い小さな悩みに助けと慰めを求めている子供。ナンがしゃくりあげながら語る一部始終に耳をかたむけながら、アンはまじめくさった顔をしていようと努めた。そのことであとでギルバートと狂ったように笑いこけようとも、アンは必要なときにはいつもまじめくさった顔をしてみせていた。

 アンにはナンの心配がナンにとって現実であり恐ろしいものであることがわかった。またこの小さな娘の神学に注意が必要なことも知った。

「ナンちゃん、あなたはこのことではなにもかもひどくまちがいをおかしているのよ。神様は取引なんかなさいません。お与えになるだけなのです……愛のほかには、かわりのものをわたしたちに求めたりなさらずに、お与えくださるのよ。あなたが父さんかあたしに何か頼むとき、父さんも母さんもあなたと取引をしないわね……神様は父さんや母さんよりもずっとずっと親切でいらっしゃるのよ。そしてどんなものを与えたらいいか、あたしたちよりもっとようくご存じなのよ」

「それじゃ、神様は……神様はあたしが約束を守らなくても母さんを死なせないわね、母さん?」

「そうですとも、ナンちゃん」

「母さん、神様のことでまちがっていたとしても……約束をした以上、約束を守らなければいけないんでしょう?あたし守りますって言ったんですもの。自分の約束は必ず守らなくちゃいけないって父さんが言ったわよ。もし約束を守らなかったら、永久の恥でしょう?」

「あたしがすっかり丈夫になったら、いつか夜、あなたといっしょに行ってあげましょう……そして門の外で待っているわ……そうすればあなたは墓地を通り抜けるのがちっともこわくないと思うわ。それでかわいそうなあなたの良心も安心するでしょうからね。そしてもうこれ以上神様とばかげた取引などしないわね?」

「ええ」

 と、ナンは約束したが、欠点はあるにしても愉快なたのしいことをあきらめるのだという残念な気持ちもあった。しかし、目には光が戻り、声にはいくらか以前の元気のよさが返ってきた。

「あたし、顔を洗ってから戻ってきて母さんにキスするわ。それから金魚草を見つけただけ全部摘んできてあげるわ。母さんがいなくてせつなかったわ、母さん」

 夕食を運んできたスーザンにアンは、

「おお、スーザン、なんていう世の中でしょう!なんていう美しい、おもしろい、すばらしい世の中でしょう!そうじゃない、スーザン?」

「まあかなり結構な世の中だとは思いますね」

 と認めたスーザンは、台所に置いてある美しいパイの列のことを心にうかべていた。

(『炉辺荘のアン』モンゴメリ作、村岡花子さん訳/新潮文庫より)


 作者のモンゴメリは自身長老派の教会員で、信仰的なことに熱心であるのと同時、牧師夫人でもあった女性でした(ただしその後、牧師夫人でありつつ、その信仰はぐらついたりしたようです^^;)

 なんにしても、わたし初めてこの「炉辺荘のアン」のこの箇所を読んだ時――「まるで自分のことみたい!」と思って驚いたものでした

 そしてその後、自分もクリスチャンとなり、神さまは本当になんでも「無償でしてくださる方」であることを知ったのでした

 このことは一見小さなことのように見えるかもしれませんが、このことを「知ってるかどうか」って実はとても大きいと思うんですよね。欧米の方は基本的に「神さま」というとそれは「イエス・キリスト」であるといったように一般的に認識されるのかもしれませんが、日本はまずこの「イエスさまに祈る」という可能性を排除して「それ以外の神に祈る」といった形になってしまうと思うので……。

「子供祝福」のところでも書いたのですが、もし幼い時などにすぐ「イエスさまこそ本当の神さまだ」といったように認識・自覚しなかったとしても――その後、人生で何か困った時にそのことを思いだす、あるいは他の宗教のほうへ行ってから戻ってくる……という方もいらっしゃると言いますし、日本のように「最初からその選択肢はまずない」というよりは、「イエスさまに祈れる」選択肢があると知っている、なおかつその恵みに与ることも出来ている……というのは、本当にとても大きな奇跡にも近いような幸福だと思います

 それではまた~!!





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