神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神があなたを調べても大丈夫か。(ヨブ記、第13章9節より)

2021年04月01日 | キリスト教


 >>「神があなたを調べても大丈夫か」(ヨブ記、第13章9節)……なんて言われたら、ちょっとドキっ☆としてしまいますよね(^^;)

 ヨブ記について書きはじめると長くなってしまうため、クリスチャンの方でしたら「当然知ってるよん♪」ということで、ノンクリスチャンの方でご興味のある方は、当ブログであれば、「マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教え-【5】-」「功利的信仰」「つばを飲む間も、わたしたちを放っておかれない神」などの記事を参照してくださいませm(_ _)m

 ヨブ記の主人公であるヨブは、心の正しい清い人でしたが、サタン(悪魔)が「あなた(神)が心に留めているヨブも、試みにあってひどい目に遭えばあなたに背くはずだ」……といったように天上の会議で申し上げたことにより、ヨブはその後、子供や財産を失うだけでなく、自身も病魔に蝕まれ――彼の奥さんからは「神を呪って死になさい」とまで言われてしまいます。

 そしてさらにはこののち、ヨブの三名の友人、エリファズ、ビルダデ、ツォファルらが彼を慰めにやって来るのですが、彼らはヨブに対してある種の架空の罪さえ設定し、「だからあなたはこういう目に遭っているのではないか」といったように言われてしまうんですよね(^^;)

 ヨブ記に直接そう言及があるわけではありませんが、個人的に思いますのに、この三人の友人たちは、財産がたっぷりあり、社会的にも大変尊敬される地位にあったヨブに対し、嫉妬している部分もあったんじゃないかな~と思ったりします。

 こうして、ただでさえつらいのに、友人たちの鋭い言葉の矢を浴び、傷口にわさびやからしを塗ったくられた格好のヨブはとうとう、「(だったら)神があなたがたを調べても大丈夫か」と言ってしまいます。

 まあ、遥か後世の一読者であるわたしなどは、「まったくそのとおり!」などと思うわけですが、今回はヨブ記のこのあとの展開がどうなったかということではなく――「この世に悪が存在し、滅びないのは何故か」ということについて、少し書いてみたいと思います。

 聖書にはこの「悪」という事柄について言及している箇所がいくつもあるわけですが、「悪が存在する理由についてはわからないにせよ、滅びない理由について」は、大体多くの方が理解されるのではないでしょうか。

 何故といって、仮に「今この瞬間」わたしが悪を行っていなかったにせよ……ある「悪い環境」に置かれた場合は、もしかしたらお腹がすきすぎるあまり、たくさん持っている人から盗んでまでも自分の飢えを満たそうとするかもしれませんし、ヨブと同じようにある種の「運の良さ」、「常に善を志向していたい気持ち」、「神さまを恐れる気持ち」などから、今現在は悪を行っていなかったにせよ――そのような状態を一体いつまでキープできるか、という問題というのは常に存在しているわけです。

「神があなたを調べても大丈夫か」というのは、「神が腹の底まであなたを調べても大丈夫か」ということであり、言うまでもなく、神さまから「腹の底まで調べられて」無事で済む人間など、この世に存在しません。これはあくまで聖書の真理ということではなく(何分、神さまはもっと崇高なお考えをお持ちなのは間違いないので)、わたし個人の考えとしては、ということですが……「だからこそ、誰か人が悪を行っても、すぐに天から何かの鉄槌が落っこちてきてその人が罰されることがない」ことの理由のひとつではないかという気がします。

 もちろん、もし神さまが人間が悪を行うたびに、そのように一回一回罰をお与えになるのだとすれば、この地上にすでに人類は存在していないに違いありません。ゆえに、それが「いつ」というのは神さまにしかわからない、同じ罪を犯す弱い存在であるわたしたちにはわからないにしても――多くの場合、「その人が実際に死ぬまでの間」、ある種の執行猶予期間が置かれているようにも感じるわけです。そして、その人がもしイエスさまのことを信じていなかったとすれば、天国へ来ることは出来ない……そのことが究極的な罰として与えられている、という意味において平等だというのでしょうか。時々、聖書を読んでいるとそんなふうに感じたりもします。


 >>愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。
 彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
 善を行なう者はいない。

 主は天から人の子らを見おろして、
 神を尋ね求める、悟りのある者が
 いるかどうかをご覧になった。

 彼らはみな、離れて行き、
 だれもかれも腐り果てている。
 善を行なう者はいない。ひとりもいない。

(詩篇、第14編1~3節)


 神さまに心の底まで調べられて無事で済む人間など、この世に存在しません。だからこそ、神さまは地上にイエスさまのことを送ってくださり(イエスさまは、神さまからのこの世に対する最大にして最上の贈り物でした)、十字架で罪の贖いがなされ、わたしたち全人類の罪がすべて赦されることにより、言い換えたとすれば――イエスさまを信じるすべての人が、「神さまに腹の底まで調べられなくても、罪なしとされる」といった身分をわたしたちが受けられるようにしてくださったのです。

 イエスさまが十字架上で苦しみの極みを味わってくださり、その血があなたの罪にもわたしの罪にも降りかかったからこそ、わたしの罪も他の人々の罪もすべて赦され、罪がまったくなくなったからには、天国へ行くことが出来る特権を受けることが出来、死後にも裁かれずに済むという、そうしたことなのです。

 一度クリスチャンとなり、信仰生活が長くなると、あまりにもこのことが当たり前となり、神さま、イエスさまの深い愛と恵みが「あまりにも普通?」みたいになってしまう時があるわけですが――ほんっっとに、神さまの愛ってすごい!イエスさまの恵みってものすごおおおく深い~っ!!あーあ、神さま神さま、イエスさま~っ!!と、毎日深く実感できるような人生を送っていきたいと思います!

 それではまた~!!






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