【ヨブに襲い掛かるサタン】ウィリアム・ブレイク
旧約聖書の中に、「ヨブ記」という書があります。
内容のほうをかいつまんでいうとすると、ウツの地にヨブという心の清く正しい人がいて、神さまからとても祝福されていました。
ところが、神さまのおられる天上の会議にサタン(悪魔)が入りこみ、こう言うのですね。「今ある祝福を取り上げられたとすれば、ヨブはブツブツ不満を洩らし、神を呪うに違いありません」と。
けれど、神さまはこう仰せられます。
「ヨブのように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にいないのだが。しかし、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」
そこでサタンは、七人いた彼の息子と三人の娘の命を奪い、また家畜といった持ち物(ようするに財産ですね)を火災や他の遊牧民の襲撃によってヨブが失うように仕向けました。
ところが、それでもヨブは>>「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って、神さまに愚痴をこぼすこともなければ、また神さまへの信仰を失うこともなかったのです。
ところが、サタンは今度はこれもまた神さまに>>「今、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっとあなたを呪うに違いありません」と言って、病いでヨブのことを打ったらば、今度こそ彼は神への信頼も信仰も失うはずだと言うのでした。
そこでまた神さまは、「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼の命には触れるな」と申し渡した上で、サタンがヨブを攻撃することをお許しになられます。
そして――ここでとうとう、ヨブの信仰は初めて折れかかってしまうのです。
>>サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂きまで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
すると彼の妻が彼に言った。
「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を呪って死になさい」
(ヨブ記、第2章7~9節)
自分の奥さんにこうまで言われるくらいだったのですから、実際この時ヨブは相当ひどい状態だったのでしょう。
そして、ヨブが病いに苦しみうなだれているところへ、かつての友が三人やってきます。ヨブは「自分は正しい者であるのに、何故神さまは自分をこんな目に遭わせるのだろう」と、言ってみれば愚痴をこぼすのですが、この友人三人――エリファズとビルダデとツォファル――は、ある部分においては正しいことを言うものの、別のところではかなりひどいことを言ってヨブのことを責めました。
つまり、ヨブには実は何か隠れた罪があって、それで今おまえはそんな目に遭っているのではないか……というのですね。
ヨブのほうではそのような友人の言葉が耐え難く、自分が今までいかに清く正しく生きようとしてきたかを主張します。
結局のところ最後、ヨブを含めたこの四人の話を聞いていたエリフという若者が会話に介入し、さらには神さま御自身が裁定をなしてくださったことで、ヨブはサタン(悪魔)によって受けた痛苦の二倍以上もの祝福を受け、物語のほうは決着を迎えます。
【ブズのエリフは激怒する】ウィリアム・ブレイク
>>主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
また、息子七人、娘三人を持った。
彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。
ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。
この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。
(ヨブ記、第42章12~17節)
――これがヨブ記の物語の終結部分なのですが、わたし、このヨブ記に関して「ひどい話だ」といったように非難されている方の文章を以前お読みしたことがあります。
ようするに、ヨブは確かに心正しく清い生き方をしていたのに、サタン(悪魔)によってひどい目に遭わされたわけですよね。そして神さまには「ヨブはどんな目に遭おうとも決して自分に対する信仰を捨てはしない」という確信があったのかもしれませんが……それにしても、ですよ?災害によって一度に息子さんや娘さんを失ったり、その他財産を失ったのも――サタンがしたことであったにせよ、神さまは「ヨブは信仰を捨てはしない」という信頼に基づいてそのことを許可しているわけです。
そして、実際ヨブの「こんなに心正しく清く生きてきたわたしが、何故このような目に遭わねばならないのか」ということに対する、わたしたち人間が納得できる神さまの回答は提示されてはいないのです。
ヨブと三人の友人たちとエリフの会話とに、神さまは途中で御自身をお現わしになって回答するのですが――でもその時神さまは、「あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか」とか「稲妻に号令を下せるか」といったような、自然界を支配する創造主である御自身の力に言及はしても、実はサタンとある話しあいをしたのだ、といったことについては一切言及されないのでした(^^;)
いえ、このお話実際とても深いお話なので、結局のところこの世の知者と呼ばれる方が100人くらい集まって論じても、誰もが納得できる<答え>のようものは決して出ないと思います。
ただ、ある種の教訓話というのでしょうか(もちろん、信者にとってはただの教訓話以上のものですけれども)。何かそうしたものとして読んだ場合――ひとつの問題点があぶりだされてくるかと思います。つまり、人間がこの世で生きる時に受ける苦難と、そのことには何か意味や理由があるのか……といったことです。
わたし、以前にこれもまた別の本で、なのですが、イエス・キリストも仏陀もマホメット(ムハンマド)も、実際大したことはない――といった文章を読んだことがあります。どういうことかというと、イエスさまはまあ、(人間的な視点から見た場合)確かに地上で何か<報い>のある人生を生きたわけではないかもしれない、それでも仏陀やマホメット同様弟子がいて、死んだのちにも彼のことを信じる信者が多数現れた……そこにはある種の間違いのない<意味>がありますよね。そうした意味において、彼も仏陀も歴史上にその名を刻んだということ含め、十分な人生だったと言えるだろう、と。
けれども、地上には彼らが生まれる前にも彼らが死んだのちにも(イエスさまは復活されたのですし、仏陀は入滅したと思うのですが)、まるでなんの意味も価値もなく虫ケラのように死んでいかざるを得なかった数え切れないほど多くの命と魂がある。そして、真に偉大なのはイエスでも仏陀でもマホメット(ムハンマド)でもなくそのような名もない人々の人生だ……ということでした。
そう言われてみると確かにそれも一理どころか五里も六里もある――みたいに感じる方は多いのではないでしょうか。そして<今>というこの瞬間を生きているわたしたちもまた、その多くが「何か選ばれたような優れた人間でない、その他大勢としての自分」を生きている場合がほとんどなのではないでしょうか。
そして、こうした論理を突き詰めていくと、聖書に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書、第43章4節)とか「神は愛です」(ヨハネの手紙第一、第4章16節)という言葉とに、非常な矛盾を感じるのです。「え?神さまが愛なら、わたしのことを愛しておられるなら、何故こんなひどい目に遭わせるの?」ということが、この世の中には本当にほんとうにたくさんたくさんありますよね。
こうした事柄に関して、マーリンさんはその御著書の中で、神さまにその問題のすべてを委ね、感謝し讃美する時、人生上の不信仰の黒雲が打ち破られていく――と言っておられると思います。本当は本の中から丸ごと文章を写したかったのですが、ちょっと長くなってしまうので(汗)、簡潔に説明するとしますと、ようするに天上に神さまがいるとして、そこにわたしたちが到達する前には厚い黒雲が存在しているのです。その黒雲を「疑いや不信仰の黒雲」と名づけてもいいかもしれません。マーリンさんはある時、幻を見てクリスチャンの方々がそこに「讃美のはしご」をかけて、天上へ向かおうとするものの、その黒雲にぶち当たって、多くの人々が下に落下してきて倒れるという場面を見たそうです。
そしてマーリンさん自身がその「神さまを讃美するはしご」に手をかけてのぼっていってみると、黒雲にぶち当たった時、方向感覚を失い、手をはなして滑り落ちそうになるような強烈な力を感じたそうです。けれど、なおも一歩一歩上へのぼっていってみると、そこには光り輝く本当に素晴らしい世界が広がっていたと言います。けれど、そのような世界へ至っていてさえ、下の黒雲の性質を調べようとして下を向くと、たちまち沈みはじめてしまったと書いておられました。
マーリンさんはこうした事柄や、他に聖書を通して、あるいは聖霊さまを通して日々イエスさまに祈ったりする中で――どのような問題が起きても、神さまに感謝し讃美することが、神さまの御心なのだということを理解し、他の人々にもそのことを伝えていったところ、普通では考えられない人生上の解決や希望が、数え切れないほどたくさんの方々に起きていった……という、マーリンさんの本に書かれているのはそうした神さまの教えや、実際の他の方の経験談などです。
そして、わたし自身、「なんでAはBでなくCなのですか」などと神さまに文句を言ったり、哲学的な質問を頭の中でこねくりまわしても仕方がなく、そうした理屈については一旦脇に置いておいて、とにかくどんな事柄に対してでも(この「どんな」の中には「なんでこんなことを感謝しなきゃいけないの」といった問題をも含みます)神さまを感謝し讃美するということが――最良にして最善の、神さまが与えてくださった問題の解決法ではないかということに、今ではすっかり落ち着くことが出来ました。
ここで少し、ヨブのことに話を戻してみますと、ヨブと友人三人の問答の中に、このような言葉があります。
>>あなたは言う。
「神に何がわかろうか。
黒雲を通してさばくことができようか。
濃い雲が神をおおっているので、
神は見ることができない。
神は天の回りを歩き回るだけだ」と。
(ヨブ記、第22章13~14節)
つまり、神さまは雲の上を歩きまわっているだけで、そこから人間に具体的に助けの手を差し伸ばしたりすることはない……ということですよね。わたし自身も確かに、このことには思い当たることがあります。神がもしいて、人々の苦悩を見ておられるのなら、何故その人々は必要な助けを得ることが出来ないのだろう、と。
このことについては、あくまでも「個人的な答え」として、先日ある聖書箇所が示されました。
>>私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。
それは、主が、
悩みの日に私を隠れ場に隠し、
その幕屋のひそかな所にわたしをかくまい、
岩の上に私を上げてくださるからだ。
今、私のかしらは、
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。
(詩篇第27編、第4~6節)
>>あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。
あなたは、私の悩みをご覧になり、
私のたましいの苦しみを知っておられました。
(詩篇31編、第7節)
けれども、これはあくまでも「わたし個人にとっての答え」なのであって、他のキリスト教信者の方が神さまに聖霊さまを通して祈った場合には、聖書の別の箇所の聖句を示されたり、祈った時に別の語りかけを与えられたりという、そうしたことなのですよね。ゆえに、何故この聖書箇所がわたしにとっての「神の答え」となるのか、ちょっとわかりにくいと思います(長くなりますので、今回はそのことについては触れません^^;)
つまり、「すべての人がそうと聞いて納得できる答え」というものは、人間の言葉によって理路整然と説明できるものではありません。
また、ヨブ記には、エリフがヨブに対してこう語る場面があります。
>>今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。
しかし、神が吹き去るとこれをきよめる。
北から黄金の輝きが現われ、
神の回りには恐るべき尊厳がある。
(ヨブ記、第37章21~22節)
わたしたちの人生上の問題――ようするに<黒雲>を払うことが出来るのは神さまだけです。
ここを耐えてその上の天上の世界へ到達するか、それとも途中で折れて墜落してしまうか……ここにはなかなかに厳しい信仰上の戦いがあります。けれども、最後まで決して諦めず、神さまの御旨に従っていく時――必ず新しい世界が開けるというのは、本当のことだと思います。
では、次回はこの箇所についてマーリンさんの書いておられる文章のほうを詳しく写し取っておこうと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
旧約聖書の中に、「ヨブ記」という書があります。
内容のほうをかいつまんでいうとすると、ウツの地にヨブという心の清く正しい人がいて、神さまからとても祝福されていました。
ところが、神さまのおられる天上の会議にサタン(悪魔)が入りこみ、こう言うのですね。「今ある祝福を取り上げられたとすれば、ヨブはブツブツ不満を洩らし、神を呪うに違いありません」と。
けれど、神さまはこう仰せられます。
「ヨブのように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にいないのだが。しかし、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」
そこでサタンは、七人いた彼の息子と三人の娘の命を奪い、また家畜といった持ち物(ようするに財産ですね)を火災や他の遊牧民の襲撃によってヨブが失うように仕向けました。
ところが、それでもヨブは>>「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って、神さまに愚痴をこぼすこともなければ、また神さまへの信仰を失うこともなかったのです。
ところが、サタンは今度はこれもまた神さまに>>「今、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっとあなたを呪うに違いありません」と言って、病いでヨブのことを打ったらば、今度こそ彼は神への信頼も信仰も失うはずだと言うのでした。
そこでまた神さまは、「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼の命には触れるな」と申し渡した上で、サタンがヨブを攻撃することをお許しになられます。
そして――ここでとうとう、ヨブの信仰は初めて折れかかってしまうのです。
>>サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂きまで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
すると彼の妻が彼に言った。
「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を呪って死になさい」
(ヨブ記、第2章7~9節)
自分の奥さんにこうまで言われるくらいだったのですから、実際この時ヨブは相当ひどい状態だったのでしょう。
そして、ヨブが病いに苦しみうなだれているところへ、かつての友が三人やってきます。ヨブは「自分は正しい者であるのに、何故神さまは自分をこんな目に遭わせるのだろう」と、言ってみれば愚痴をこぼすのですが、この友人三人――エリファズとビルダデとツォファル――は、ある部分においては正しいことを言うものの、別のところではかなりひどいことを言ってヨブのことを責めました。
つまり、ヨブには実は何か隠れた罪があって、それで今おまえはそんな目に遭っているのではないか……というのですね。
ヨブのほうではそのような友人の言葉が耐え難く、自分が今までいかに清く正しく生きようとしてきたかを主張します。
結局のところ最後、ヨブを含めたこの四人の話を聞いていたエリフという若者が会話に介入し、さらには神さま御自身が裁定をなしてくださったことで、ヨブはサタン(悪魔)によって受けた痛苦の二倍以上もの祝福を受け、物語のほうは決着を迎えます。
【ブズのエリフは激怒する】ウィリアム・ブレイク
>>主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
また、息子七人、娘三人を持った。
彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。
ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。
この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。
(ヨブ記、第42章12~17節)
――これがヨブ記の物語の終結部分なのですが、わたし、このヨブ記に関して「ひどい話だ」といったように非難されている方の文章を以前お読みしたことがあります。
ようするに、ヨブは確かに心正しく清い生き方をしていたのに、サタン(悪魔)によってひどい目に遭わされたわけですよね。そして神さまには「ヨブはどんな目に遭おうとも決して自分に対する信仰を捨てはしない」という確信があったのかもしれませんが……それにしても、ですよ?災害によって一度に息子さんや娘さんを失ったり、その他財産を失ったのも――サタンがしたことであったにせよ、神さまは「ヨブは信仰を捨てはしない」という信頼に基づいてそのことを許可しているわけです。
そして、実際ヨブの「こんなに心正しく清く生きてきたわたしが、何故このような目に遭わねばならないのか」ということに対する、わたしたち人間が納得できる神さまの回答は提示されてはいないのです。
ヨブと三人の友人たちとエリフの会話とに、神さまは途中で御自身をお現わしになって回答するのですが――でもその時神さまは、「あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか」とか「稲妻に号令を下せるか」といったような、自然界を支配する創造主である御自身の力に言及はしても、実はサタンとある話しあいをしたのだ、といったことについては一切言及されないのでした(^^;)
いえ、このお話実際とても深いお話なので、結局のところこの世の知者と呼ばれる方が100人くらい集まって論じても、誰もが納得できる<答え>のようものは決して出ないと思います。
ただ、ある種の教訓話というのでしょうか(もちろん、信者にとってはただの教訓話以上のものですけれども)。何かそうしたものとして読んだ場合――ひとつの問題点があぶりだされてくるかと思います。つまり、人間がこの世で生きる時に受ける苦難と、そのことには何か意味や理由があるのか……といったことです。
わたし、以前にこれもまた別の本で、なのですが、イエス・キリストも仏陀もマホメット(ムハンマド)も、実際大したことはない――といった文章を読んだことがあります。どういうことかというと、イエスさまはまあ、(人間的な視点から見た場合)確かに地上で何か<報い>のある人生を生きたわけではないかもしれない、それでも仏陀やマホメット同様弟子がいて、死んだのちにも彼のことを信じる信者が多数現れた……そこにはある種の間違いのない<意味>がありますよね。そうした意味において、彼も仏陀も歴史上にその名を刻んだということ含め、十分な人生だったと言えるだろう、と。
けれども、地上には彼らが生まれる前にも彼らが死んだのちにも(イエスさまは復活されたのですし、仏陀は入滅したと思うのですが)、まるでなんの意味も価値もなく虫ケラのように死んでいかざるを得なかった数え切れないほど多くの命と魂がある。そして、真に偉大なのはイエスでも仏陀でもマホメット(ムハンマド)でもなくそのような名もない人々の人生だ……ということでした。
そう言われてみると確かにそれも一理どころか五里も六里もある――みたいに感じる方は多いのではないでしょうか。そして<今>というこの瞬間を生きているわたしたちもまた、その多くが「何か選ばれたような優れた人間でない、その他大勢としての自分」を生きている場合がほとんどなのではないでしょうか。
そして、こうした論理を突き詰めていくと、聖書に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書、第43章4節)とか「神は愛です」(ヨハネの手紙第一、第4章16節)という言葉とに、非常な矛盾を感じるのです。「え?神さまが愛なら、わたしのことを愛しておられるなら、何故こんなひどい目に遭わせるの?」ということが、この世の中には本当にほんとうにたくさんたくさんありますよね。
こうした事柄に関して、マーリンさんはその御著書の中で、神さまにその問題のすべてを委ね、感謝し讃美する時、人生上の不信仰の黒雲が打ち破られていく――と言っておられると思います。本当は本の中から丸ごと文章を写したかったのですが、ちょっと長くなってしまうので(汗)、簡潔に説明するとしますと、ようするに天上に神さまがいるとして、そこにわたしたちが到達する前には厚い黒雲が存在しているのです。その黒雲を「疑いや不信仰の黒雲」と名づけてもいいかもしれません。マーリンさんはある時、幻を見てクリスチャンの方々がそこに「讃美のはしご」をかけて、天上へ向かおうとするものの、その黒雲にぶち当たって、多くの人々が下に落下してきて倒れるという場面を見たそうです。
そしてマーリンさん自身がその「神さまを讃美するはしご」に手をかけてのぼっていってみると、黒雲にぶち当たった時、方向感覚を失い、手をはなして滑り落ちそうになるような強烈な力を感じたそうです。けれど、なおも一歩一歩上へのぼっていってみると、そこには光り輝く本当に素晴らしい世界が広がっていたと言います。けれど、そのような世界へ至っていてさえ、下の黒雲の性質を調べようとして下を向くと、たちまち沈みはじめてしまったと書いておられました。
マーリンさんはこうした事柄や、他に聖書を通して、あるいは聖霊さまを通して日々イエスさまに祈ったりする中で――どのような問題が起きても、神さまに感謝し讃美することが、神さまの御心なのだということを理解し、他の人々にもそのことを伝えていったところ、普通では考えられない人生上の解決や希望が、数え切れないほどたくさんの方々に起きていった……という、マーリンさんの本に書かれているのはそうした神さまの教えや、実際の他の方の経験談などです。
そして、わたし自身、「なんでAはBでなくCなのですか」などと神さまに文句を言ったり、哲学的な質問を頭の中でこねくりまわしても仕方がなく、そうした理屈については一旦脇に置いておいて、とにかくどんな事柄に対してでも(この「どんな」の中には「なんでこんなことを感謝しなきゃいけないの」といった問題をも含みます)神さまを感謝し讃美するということが――最良にして最善の、神さまが与えてくださった問題の解決法ではないかということに、今ではすっかり落ち着くことが出来ました。
ここで少し、ヨブのことに話を戻してみますと、ヨブと友人三人の問答の中に、このような言葉があります。
>>あなたは言う。
「神に何がわかろうか。
黒雲を通してさばくことができようか。
濃い雲が神をおおっているので、
神は見ることができない。
神は天の回りを歩き回るだけだ」と。
(ヨブ記、第22章13~14節)
つまり、神さまは雲の上を歩きまわっているだけで、そこから人間に具体的に助けの手を差し伸ばしたりすることはない……ということですよね。わたし自身も確かに、このことには思い当たることがあります。神がもしいて、人々の苦悩を見ておられるのなら、何故その人々は必要な助けを得ることが出来ないのだろう、と。
このことについては、あくまでも「個人的な答え」として、先日ある聖書箇所が示されました。
>>私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。
それは、主が、
悩みの日に私を隠れ場に隠し、
その幕屋のひそかな所にわたしをかくまい、
岩の上に私を上げてくださるからだ。
今、私のかしらは、
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。
(詩篇第27編、第4~6節)
>>あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。
あなたは、私の悩みをご覧になり、
私のたましいの苦しみを知っておられました。
(詩篇31編、第7節)
けれども、これはあくまでも「わたし個人にとっての答え」なのであって、他のキリスト教信者の方が神さまに聖霊さまを通して祈った場合には、聖書の別の箇所の聖句を示されたり、祈った時に別の語りかけを与えられたりという、そうしたことなのですよね。ゆえに、何故この聖書箇所がわたしにとっての「神の答え」となるのか、ちょっとわかりにくいと思います(長くなりますので、今回はそのことについては触れません^^;)
つまり、「すべての人がそうと聞いて納得できる答え」というものは、人間の言葉によって理路整然と説明できるものではありません。
また、ヨブ記には、エリフがヨブに対してこう語る場面があります。
>>今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。
しかし、神が吹き去るとこれをきよめる。
北から黄金の輝きが現われ、
神の回りには恐るべき尊厳がある。
(ヨブ記、第37章21~22節)
わたしたちの人生上の問題――ようするに<黒雲>を払うことが出来るのは神さまだけです。
ここを耐えてその上の天上の世界へ到達するか、それとも途中で折れて墜落してしまうか……ここにはなかなかに厳しい信仰上の戦いがあります。けれども、最後まで決して諦めず、神さまの御旨に従っていく時――必ず新しい世界が開けるというのは、本当のことだと思います。
では、次回はこの箇所についてマーリンさんの書いておられる文章のほうを詳しく写し取っておこうと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます