
さて、今回も前回と同じく、第16章「スポーツとフィットネスに夢中になる」の本文については、マーリンさんのお書きになられた文章のほうをお読みいただくとして……このことに関連したことを何か書いてみたいと思いますm(_ _)m
いえ、こちらも「何を人生の中心にするか」、「自分の関心事の第一位に来ているものは何か」という優先順位の問題として――スポーツをするのは良いことですし、クリスチャンのスポーツ選手を応援することが、誰か他の方にイエスさまのことを伝えるきっかけになるかもしれませんし、フィットネスに関しても、わたしたちの体は神の宮ですから、その体を健やかに保つというのは大切なことだと思います。
ただ、海外のドラマや映画などで、大きな体をした旦那さんがテレビの前にどっかと座ってスナック菓子を頬張り、アメリカンフットボールの試合を見ている、そして奥さんが「うちの主人は休みの日はああして椅子から動くことがないのよ。唯一トイレ以外ではね」みたいに愚痴をこぼす……といったシーン、誰でも一度くらい見たことがあるのではないでしょうか(^^;)
いえ、アメリカンフットボールはとても面白いです


ただ、ここでも「程度」の問題として、イエスさまのことよりもスポーツ観戦のほうが上にくる、健康管理のためとはいえ、何かの競技のためでなく筋肉を鍛えに鍛えまくることに夢中になったり、必要以上に自分がどう見られるか、スタイルのことを気にしたり……「そこまでいくとむしろマイナスというか、害になっているとさえ言えないだろうか

つまり、ここもバランスの問題であるのと同時に、クリスチャンの方の場合はイエスさまのことに思いを潜めつつ体を鍛えたりですとか、自分が健康であることを神さまに感謝しつつフィットネスに励むですとか、心の中心が常にそこにあるということがとても重要になると思うのです

>>肉体の鍛錬もいくらか有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
(テモテへの手紙第一、第4章8節)
正直わたし、滝に打たれたりですとか、あるいはお寺の内観療法など、ある程度、また人によってはかなりのところ有用で、その方の心の悩みにも効果があるのではないかと思っています。
ただ、「音を立てないようにして毎回食事をすることも修行です」といった出家した方の生活をテレビで見ていて……「それは神の本質とはあまり関係のない、少し別の修行と言えはしないだろうか

つまり、わたしが毎日滝に打たれて、お寺の床を雑巾がけしてから質素な食事をし、そのあとは瞑想……といった毎日を過ごしたとしても、こうしたことというのは「ある程度」は確かにわたしの精神と肉体に有用だと思います。けれども、(キリスト教の場合)「神の本質」ということを知るためには、聖書を読んだり祈ったり、教会へ通ったり……こちらの場合は、何か肉の修行といったことを厳しく求められることは基本的にありません。
ただ、イエスさまに祈り聞き従い、ひとりでも多くの方にイエスさまの福音を伝えるためには――ある程度体力も必要と思いますし、そうした意味合いから体を鍛えたり、健康のためにフィットネスに励むというのはいいことなのではないでしょうか。
一応、つけ加えておきますと、わたしは仏教の教えというものを「人の思想」として好きですし、他の方の信じているものを尊重する気持ちも持っているつもりでいます(これはイスラム教を信じている方に対しても同様です)。
そしてこの、「一般的な人の思いとして」、最近ヨガとかかなり流行ってますよね(^^;)
わたしもテレビで、ヨガのポーズをいくつか真似事としてやってみて、「確かにこれは効果があるな


>>ヨガとヒンズー教
ヨガは、しばしば見過ごされている入口です。ヨガの目的は、ヒンズーの神ブラーマンと『つながりを持たせる』あるいは『くびきをいっしょに付けさせる』ことです。ヨガは単なるからだの体操ではありません。ヨガとヒンズー教を区別するのが不可能である理由は、ヨガ自体が宗教だからです。
ヨガの教えには、瞑想とか精神的健康などの教えが必ずつきものです。たとえば、クンダリ二・ヨガの目的とするところは、このクンダリ二の力を呼び起こしてコントロールすることです。
クンダリ二とは、『とぐろを巻いている』という意味で、ヒンズーの女神の名前であり、その象徴となっている蛇は三回半とぐろを巻いていて、口で尾を加えて横たわっています。
この蛇は人間のからだの中の骨盤近くに住んでいると考えられています。この蛇を適切にコントロールして呼び起こせば、それは力や知恵、また多くの心霊能力、さらに奇蹟的に癒す力さえもたらすというのです。このクンダリ二の力とは、悪霊以外の何ものでもありません。
(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊より)
もちろん、こうしたことについては「考えすぎなんじゃねーの?


ただ、以前テレビで、ヨーロッパは全体として真のクリスチャン人口がどんどん減っていっているその中で……教会に人を呼ぶために、午前中は日曜礼拝を行い、午後からはヨガを教えている――といった場面を見て、正直わたし「それはちょっと違うんじゃないかな」って思ったことがあります(^^;)
キリスト教界では、アフリカで百万の人をクリスチャンにするよりも、フランスのパリやアメリカのニューヨークで、ひとりの人を真のクリスチャンに導くことのほうがよほど難しい……と言われたりするわけですけど、そのためのエサ(?)としてヨガを教えるのはいいことなのか悪いことなのかって言われたら、「教会へは神の教えを聞くために通い、ヨガを習いたいならヨガ教室のほうへよく吟味した上で通いなさい」といった感じのことではないかと、個人的にはそのように感じています。
また、ここからはちょっとキリスト教の信仰的なことからは離れますが、以前、

最初、それほど見る気もなく見ていたのですが(というか、岡部友先生の容姿の美しさに惹かれて見ていたというか^^;)、最後にはとても感動して見終えることになったのでした♪

その回のタイトルは「お尻から人は変われる~美尻トレーナー岡部友」というものだったのですが、その前から岡部友先生が美尻先生、桃尻先生と呼ばれて有名なのは、他のテレビ番組などで見て知っていました。それで、特に若い方がああしたきゅっ☆と引き締まった桃のようなぷりぷりした素敵なお尻を手に入れるために――厳しいトレーニングを続ける気持ちはわかるなあ……みたいにぼんやり思っていたのですけれども、その時もまた「なんて美人のトレーナーの先生やろ

それに、一般的に見た場合、ああしたいわゆる桃のようなプリケツ☆(笑)を手に入れたいというのは、人からこう見られたいとか、今つきあってる彼氏がどうこうとか……何かそうしたある部分浅はか(?)なことを連想しがちではないかとも思うのです。。。
でも、

お尻とか太もものあのあたりの筋肉って、人間の中で一番大きな筋肉で、負荷をかけて努力するなら、必ず応えてくれるそうです。つまり、トレーニングしたらトレーニングした分だけ、必ず成果はお尻に表れる、その過程で精神や心の部分も整えられて変わっていくということだったんですよね。
なんていうか、テレビを見ていて個人的に思ったことなんですけど……人が苦しんだり悩んだりするのって、「自分が努力すればどうにかなる」ということのためではなくて、「自分がどんなに努力したとしても、人の心はどうにもならない」ですとか、何かそうした種類のことですよね、たぶん。でもその点、お尻の筋肉というのは鍛えたら鍛えた分だけ、努力したら努力した分だけ、必ず応えてくれるわけです。
最近、何か割と男女問わず、体や筋肉を鍛えるということが流行っていると思うのですが、そうしたことに嵌まる方の中には「努力した分だけ、目に見える成果、手応えがある」という達成感――他のことではなかなかそうはいかないけれど、筋肉だけは人と違って裏切らない……そんな側面もあったりするのかな、なんてテレビを見ながらぼんやり思ったのでした(つまり、こうした努力=達成感ということを通して、人生の他の部分も変わっていくということですよね。厳しいトレーニングをしたことで顔色がよくなったり、あるいはエネルギッシュになったことで周りの人から「最近変わったんじゃない?」とか「明るくなったんじゃない?」と言われたりといったことは、実際あると思います



岡部友先生の、その「お尻哲学」と言いますか、トレーニングで体を変えていった時に心も変わる……ということには、とにかくものすごく感動しましたし、その点に至るまでに岡部友先生自身が人生でいかに苦闘したかということにも、ものすごく感銘を受けたというか

それで、話を元に戻しますと、わたし、肉体の苦行と「神の本質」は別のことだと思う、と書きましたけれども、この番組を見たあとには「肉体の苦行」もたとえば頭の中のあらゆる煩悩を振り捨てたり、精神の健全な発達のためにもとても有用なことなんじゃないかな……みたいに、かなりのところ考えが変わったのです(^^;)
わたし自身もともと、「フルマラソン42.125キロ?なんでそんなことせなあかんねん☆

「精神が変わるのが先か、それとも肉体のほうか」――といった場合、今は何かと理屈先行型社会ですから、精神・言葉・心で先に納得しないことには指先一ミリたりとも動かす気はない……みたいなことって多いと思うんですけど、でもそうではなく、イエスさまを信じるのにも、まず理屈は脇へ置いておいて、「まずは教会でイエスさまを信じる決意をする」ということが大切なわけですし、実際、最初はまったく気が進まなかったものの、クリスチャンの友人にしつこく誘われ、それで聖霊さまに触れられて信じることが出来た――という方もいらっしゃるわけですよね(^^;)
「肉の苦行」と「神の本質」ということでいったら、もちろん上にくるのは「神の本質(とその教えに触れること)」ですけれども、でも、神さまに祈り聞き従うという道をまっとうするためには、聖パウロが「いくらかは有用」と言っている「肉の苦行」(自らを律し、嫌々ながらでも肉を打ち叩いて神つまに聞き従う)ことも大切なことなんじゃないかな、みたいに思ったりしたのです。。。
あ、あと、わたしヨガに対して何かおかしな偏見があるわけでもなく、むしろ逆に「(自分でやらなかったとしても)ヨガっていいな♪


また、ヨガをやってる方の中の多くがヒンズー教の思想等については考えもおらず、ゆえにそこから霊的影響があるとかなんとか言われても、「バカじゃないの?

というか、ヒンズー教云々でない瞑想やマインドフルネス(精神の部分)とヨガ(体の部分)が結びついている……そして、自分は(葬式仏教徒的)無宗教で、心身だけでなく、魂や霊もバランスが取れていて健全だと思う――ヨガは心身の健康を保つのにとても良いものです……といった感じなんじゃないかな、というか(^^;)
ではでは、次回は第17章「金銭欲と浪費のわなにかかる」より、引き続き学んでいきたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!

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