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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

いつでもイエスさまを中心に。

2019年02月26日 | キリスト教


 わたしがこの、「台所の祈り」のことを知ったのは、自分的パワースポット(笑)である、市内某所のキリスト教書店にて、だったりします

 わたしがいつもそこで見るのは、ポストカードと、あとは額に入っている壁に飾れるタイプのとあるのですが、いつも「素敵な祈りの言葉だな~♪」と思っていたので、ちょっと取り上げてみることにしました(^^)

 今回のタイトルは「いつでもイエスさまを中心に」ですが、やっぱり365日毎日24時間100%絶対的に神さまのことを中心に置く……って、とても難しいことだと思います。

 日々の忙しい中で、まるでやっつけ仕事のように料理や掃除、洗濯などの家事を行なっているですとか、仕事の手順について色々考えている時には、そのことについてイエスさまに助けを求める以前に、「何もかも自分の力でやらにゃあならんのだ☆」とばかり、そうした心配事に100%完全に支配されている――ということは、実際のところ珍しくないことだと思います。

 また、日曜礼拝を守っている間は、確かに神さまのことを中心にして考えていたものの、教会から一歩外へ出た途端、この世的なあらゆる何かのことについて考えていたり、あるいは礼拝を守っている間でさえ、「明日の月曜にある○△については、俺がどうにかせねばならんのだよ」と、賛美をしたり牧師さんの説教を聞いている間でさえ、ずっとそのことばかりを中心にしている……けれども、神さまはそうしたわたしたちの弱さについてもよくご存じですから、何も心配する必要はありません。

 わたしたちがなかなか神さまを中心に出来なくても、「ハッ。いかんいかん。こんな時こそマーリン・キャロザースさんの感謝と賛美!」と思い、何かとこの世的不安や心配のことを神さまよりも中心にしがちなことを悔い改め、感謝とともにイエスさまに助けを求めるなら、イエスさまは喜んでわたしたちに御手を伸ばしてくださるのですから。

 たとえば、「イエスさまのことよりも、自分の仕事の手の業が祝福されるかどうか、預金通帳に今月の家賃分の稼ぎが振り込まれるかどうかと、そんなことばかりが気になる弱いわたしを許してください」といったように祈ればいいのですし、何より、マーリン・キャロザース先生の「あらゆることを(いいことも悪いことも)神さまに感謝する」という習慣を生活の中心にしていれば、日常生活でこの「ハッ」と感じる機会が増えてきます。

 電車で移動中も、「ハッ。今、神さまのこと、中心にしてなかったな」と気づいたり、緊張感を伴う相手、あるいは嫌いな相手や嫌な相手と会わなくてはいけない前にも、「ハッ。こんな時こそ、マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美!」と気づくことさえ出来れば……「イエスさま。こうした自分を取り巻く嫌な環境のすべてをあなたに感謝します。また、このことゆえにあなたを賛美します。今、こうした問題のすべてをあなたにお委ねいたします。とにかく、最終的にあなたの最善の御計画がこのことを通して現わされますように!」と目的の場所へ向かう間も、歩きながらでも祈っていたらいいのですから。

 もちろんそれで、不安や緊張感が不思議と軽減されることもあれば、あまりそう感じられないこともあると思います。よく、「困った時の神頼み」と言いますが、一度クリスチャンとしてイエスさまのものとされた人は、365日24時間毎日毎時間毎分毎秒、いつでも神さまと聖霊さまを通してオンラインで繋がっているようなものなので、自分のほうで「困った時だけでなく、いつでもイエスさまを心の中心に!」と意識して心がけることさえ出来るなら……確かに、折にかなった助けをイエスさまから受け続けていくことが出来るのです。

 また、そのために何が必要かも、祈りの中、あるいは聖書を読む中で、他に礼拝の牧師さんのメッセージを通してなど、聖霊さまが教えてくださいますから、とにかくその流れに身を任せていったらいいわけです。

 ただ、この「聖なる流れ」とでも言うべきものを捉える、というのはちょっとしたコツ☆がいると思います。たとえば、わたしもしょっちゅうそんな感じですが(汗)、「神さまから聖霊さまを通して語りかけを受けても自分にとって嫌なことであれば聞き従う気がなく、自分にとって都合のいいことだけを叶えてもらおうとする」ですとか、なかなか聖霊さまを通してイエスさま、神さまと常に一致した状態を保つ……というのは、確かに難しいことでもあります(^^;)

 それでも、「ハッ。今、イエスさまのことを中心にしてなかったな」と気づく機会が増えれば増えるほど、聖霊さまによるイエスさまとの繋がりも、最初は蜘蛛の糸のように細かったのが、驚くほど太いパイプ――それも、ちょっとやそっとでは破壊されない鋼鉄の外観を持つようなものに変えられていくのです。

 とはいえ、イエスさまに聞き従うためには柔らかい心が重要と思いますし、また教会ではよく「神さまの通りよき管」として「あなたに祈り聞き従えますように」ということが言われると思うのですが、この通りよき管というのはわたしの中ではやはり、柔らかいイメージです(^^;)

「いつでもイエスさまを中心にする」というのは、つまりこの「通りよき管として、イエスさまに祈り聞き従える者になる」ための喜びの訓練といった側面があると思うのですが、ようするにイエスさまのことを何を置いても中心にするというのは……自分が今抱えている問題や悩み、苦しみなどを、イエスさま、神さまよりも上に置かないということです。

 イエスさまのことを考えるより、その不安や悩みについて考えている時間のほうが多い、あるいは神さまよりも(無意識の内にも)上に置いていることさえある……というのは、ある意味それは偶像礼拝とすら言えるかもしれません。

 実際のところ、わたしもしょっちゅう似たことをやっています(^^;)

 神さまのことよりも、今月分の家賃が支払えるということや、必要経費として必要なあれやこれやが備えられることのほうが――仮にされが一時的なものでも、イエスさまのことを心の中心に据えるよりよほど重要だ……といった瞬間が、一体人生にこれまで幾度あったことでしょう

 けれども、お金や経済的なことに関して言えば、「ないことを感謝する」、また「これから与えられることを神さまに賛美する」など、信仰の対応をとることでいつでも与えられてきたわけですし、旧約聖書の申命記に、


 >>私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。

 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全工程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練させることを、知らなければならない。

 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。

 そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。

 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

 あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。――

 あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。

 あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。

 あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。

 主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。

(申命記、第8章)


 とあるように、実際、わたしの信仰生活というのも、旧約聖書のイスラエルの民とまったく似たものでした。唯一の違いといえば、聖霊のバプテスマを受けた時に、神さまの教えが直接霊に書き記されたことにより、その恵みによって彼らのようには偶像礼拝に走ったり、そのことゆえに滅びる羊のように散らされる……ということだけはなかった、ということくらいです。

 なんにしても、今自分が抱えている問題、悩み、苦しみを、もしイエスさまより上に置いていたことに気づいたら、それをイエスさまの十字架の下に置いて、イエスさまがすでにこのことにも勝利をとっておられる、すべての物事は神さまの足の下にあるということを覚えましょう。


 >>主は、私の主に仰せられる。

「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ」

(詩篇、第110編1節)


 >>平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。

 どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにあるように。

(ローマ人への手紙、第16章20節)


 わたしにはサタン、言葉そのままの意味であると同時に、そのような象徴としての問題や悩みや苦しみを踏み砕く力はありません。けれども、イエスさまに力があるゆえに、自分の足の下にサタンの頭があり、これを踏み砕く力を神さまが与えてくださると信じることは出来るのです。



【聖アンナと聖母子】ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ


 それは、たとえばこんな感じのことと言っていいと思います(笑)

 とにかく、イエスさまよりも上に自分の問題や悩みや苦しみを置かない、それらはすべて十字架の下にあるということ、またこのことを覚えてイエスさまの勝利を感謝し賛美すること――神さまのことをいつでも心の中心にするためには、こうしたちょっとした信仰のコツ☆が必要と思うんですよね♪

 それではまた~!!





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