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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人の生きる目的。

2020年11月02日 | キリスト教
【知恵の木】ルーカス・クラナッハ


「わたしはなんのために存在し、生きているのだろう……」といった疑問は、誰しも心に抱いたことがあると思います。

 けれども、そんなことは考えても仕方のないことと、何かその時々にある「生きる目的」に向けて、人は情熱を傾けようとするのではないでしょうか。とはいえ、そのような「生きる目的」のようなものがはっきりあってさえなお――「こんなことをしていて一体何になるのだろう。虚しい」といった物思いに、人は悩まされることがあります。

 仏教の仏典などを読むと、このあたりのことに関して非常に参考になったり、慰めになったりすることが書いてあると思うのですが、キリスト教においては「すべての人はイエス・キリストのため、神のために生き、存在する」といったように教えています。


 >>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

(使徒の働き、第17章26~28節)


 もちろん、ノンクリスチャンの方にとっては、「え?じゃあキリスト教を信じてない人は一体どーなんの?」という話と思うのですが、わたし自身、自分がイエスさまを信じるようになる前までは――自分なりに「これが生きる目的」と思われるものに向かっていましたし、そうした時に果たして「すべての人が生きるのは、神のためである」と聞かされたとしたら、エセ宗教の絵空事といったようにしか思えなかったのではなかろーか……という気がします(^^;)

 それはさておき、前回の記事からの関連でいうと、人がイエスさまのことを信じて、イエスさまのことを心(霊)の中心にして生きはじめる時――すべての罪が赦されて天国へ行けるという特権が与えられるのと同時、その方は神さまの無代価の愛によって買い取られた身となるので、すでにもう「自分の人生の責任を自分で取らなくてよい」状態にされているといっていいと思います。

 ちょっと誤解を招く言い方かもしれませんが(汗)、イエスさまを信じた時点で、わたしは「自分の罪ごと買い取られた」存在であるので、信じて以降犯した罪についても、心から悔い改めるなら、必ずイエスさまに赦していただくことが出来ます。実際のところ、わたしが死ぬまであと何年、あるいは何十年あるかわかりませんが、その間にもおそらくわたしは色々な罪を犯すことでしょう。けれども、その都度ごとにイエスさまにその罪を告白し、赦しを乞うとしたなら……赦しの確信のようなものは、聖霊さまから必ず与えていただくことが出来ます。

 また、そうした心がけを持ちつつ、毎日祈ったり聖書を読んだり、日曜礼拝を守ったり、十分の一献金をしたり、「良いことも悪いこともすべて神さまに委ね、感謝し賛美する」ことを実践し、祈りや礼拝を通して聖霊さまがお語りになることに聞き従うなら――わたしの残りの生涯は、何も問題などないような気がします。

 ところが、やはり問題というのはやって来ます。これらのことをすべて行っていてさえ……あるいは行っているからこそ、敵(悪魔(サタン)・悪霊)からの攻撃を受けたり試しを受けたりといったことがありますし、そうした試練を通して信仰の足腰が鍛え上げられる過程というのがあるわけですが、まあ、わたしの信仰なぞというものは、吹けば飛ぶよなチリにも等しいものといっていいと思います(^^;)

 けれども、わたしがこうした信仰的原則を働かせることがもっとも重要であると理解しているだけでも相当違うことですし、仮にそのすべてを行えなくても――自分にとって「出来るだけのことをする」ということを心がけるだけでも、イエスさまは必ず聖霊さまを通して力を与え、必要に応じた助けを与え、守ってくださいます。

 わたしにしても、「今度こそ駄目だろう」、「今度こそ本当にもう駄目だろう」……と思ったり、感じたりしたことは、これまでの人生で何度となくありました。それで、わかるのです。イエスさまのことを信じていなかったら、これはもう自殺でもするしかないというくらい追い詰められていたかもしれない。けれど、その都度ごとに祈り、また自分の人生にそれほど差し迫った問題がない時にも祈り続けてきたからこそ――「もう本当に駄目だろう」という時にも助けられ、何より心が強く守られたということが、一体何度あったことでしょう。

 今、コロナ禍という特殊な状況下にあって、慢性的な鬱状態になるなどして(でも、ご本人にその自覚もないことも多いのではないかと想像しています)、自殺される方が増えていると何度かテレビを通して聞きました。

 人は、「人生の目的」があって、それが宇宙飛行士のような素晴らしいもので、実際スペースシャトルに乗るという目的を成し遂げてさえ……「生きているのが虚しい」と感じることが時としてあるそうです。このあたりのことはもうちょっと調べてから書こうと思っていたのですが(汗)、宇宙飛行士の方の中には、宇宙へ行った時、「神さまを感じた」、「神は絶対にいる」と突然確信されて、それまでは100%科学の使徒であり、無神論であった方が180度変えられて、イエスさまを信じるようになった――ということが、多くあるそうです。

 もちろんわたしは宇宙へ行ったことがないのでわかりませんが(笑)、「神さまは人を御自身の喜びとするために造られ、わたしたち自身が神さまの喜びために生きようとする時」……わたしたちの心から虚しさは消え去り、聖霊さまから朝ごとに生きる力と無償の喜びを与えていただくことが出来ます。

 旧約聖書にある、アダムとイヴの話は誰もが知っているでしょう。イヴが蛇に惑わされたことによって、食べてはいけないと言われていた知識の木の実を食べたことにより――わたしたち人間の祖先が罪を犯したことによって、死がこの世界に入ってきました。また、わたしたち人間が元は持っていた完全性もその時に失われたわけですが、イエス・キリストを信じることによって、わたしたちは罪のない人としての完全性を取り戻すことが出来ます。

 けれども、今その完全性を自分たちの内にわたしたちは見出すことが出来ません。イエスさまを信じた時に(聖霊さまを与えられた時に)、霊においては完全性を与えられるものの、まだ肉体の内にある間は、肉体を持っていることに付随する罪から完全に離れるということが出来ないからです。

 と、同時に深い慰めや恵みや喜びを聖霊さまからいただくことが出来るので、それでわたしたちは日々霊的に新しく更新されて、イエスさまのおられる天上の喜びを、今地上で自分のものとしているかの如く、喜び楽しむことが出来るのです。

 さて、わたし自身もそうですが、クリスチャンの方すべてが「何も問題のない人生」を送っているわけではありません。けれども、この喜びと楽しみの霊(聖霊)による更新が日々信仰を通して与えられるということ、この部分こそが、わたしがイエスさまを信じる前と信じて以降の違いといっていいのではないかと思います。

 また、この信仰を通してのイエスさまの愛と恵みを、今日今すぐにでも、すべての方が受け取り、味わうことが出来るよう、心からお祈りしています

 それではまた~!!






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