
一人でも大丈夫
一人でも大丈夫
なんて言い続けてたら
周りからも「大丈夫?」って
聞かれなくなってから
気づいた今の孤独な現状
身も心もエンスト
こっそり神様に SOS信号
転送してるのに既読になる気配がない
WHY? WHY ASK WHY? WHY?
聞いても答えは出るわけないから
好きなら好きだと伝えるべき
チャンス逃すな
ぶつけられる時ぶつけるべき
Let yourself go if you know that you want it
(Piece of me/m-flo)
この間、レイディオ(笑)からエムフローのこの曲がかかっているのを聞いて……たぶん、恋愛の歌とは思うのですが、「こっそり神様に SOS信号 転送してるのに既読になる気配がない WHY? WHY ASK WHY? WHY?」……というところを聞いて、「わあ。すごいうまいなあ♪」と思ったりしたのです(^^;)
いえ、よく考えるとわたしたちが神さまに疑問として一番文句言ってるのがこの点ではないかという気がしたもので。。。
たとえば、わたしも自分がノンクリスチャンだった頃、そうした考え方だったのですが、「神は知っているのに行動を起こす気がない」か「そもそも知らないから、救いの手を伸ばすことがない」かのいずれかだとよく考えたものでした。
つまり、地上で起きているすべてについてあまねく見渡して知っているのに、約七十億ばかりもいる人間のひとりひとりの個人的な悩みや苦しみについてまでは、流石の神にも把握が困難である……また、その内の幾人かを助けたというのでは不平等なので、人間にとって必要最低限の生存環境を整えて以降は、地上で起きるすべてのことについて、概ね介入しない――神さまというのはそのような存在なのではないか、と。
もっとも、一度聖霊さまを与えられると、わたしの場合、こうしたことに関しては悩むことがなくなりました(^^;)
何故なら、聖霊さまを通して神さまは――あえてわかりやすい言い方をするとしたら、パソコンのデータやインターネットの情報をすべて把握している管理者にも等しく、実はすべてをご存じなのだということがわかってきます。
では、神はある情報についてはしばしばアクセスするが、べつの情報(たとえば、戦争の悲惨な状態やホームレスの方の問題など)にはほとんどアクセスすることがないということなのか?といったような疑問が当然生じてくると思います。
そして、わたしたちの祈りについても、「未読スルー」しているのか、それとも「既読スルー」なのか?というかなり切実な疑問がありますよね(^^;)
たとえば、自分の願っていることが叶えられないままだと、「神さまは知っているはずなのに、何故わたしの祈りを既読スルーするのだろう?」という感じを受けるでしょうし、この場合問題なのは何より――ラインのあの機能と違って、果たして「既読」なのか「未読」なのかがわたしたちにはわかりようがないということかもしれません。
また、もし仮に「既読」であるにも関わらず、自分の祈っていることが聞かれなかったとしたら……「そんな神など神でない。なんと神はひどい奴なのか


でも、わたしが個人的に思うに(あくまで個人的、ですよ?^^;)、すべてのことは「後の日」になるまでわからないようにした――そして、それが神さまにとって(=人間にとっても)、一番良い、最良の選択だということではないだろうか……と、そんな気がするんですよね。。。
何故最良かといえば、人間が善行を行なってすぐ報いがあり、悪人が悪を行なってすぐに処罰が下ったとすれば……確かに人間は、すぐにも報いを与えてくださる神さまに気に入っていただくために、いくらでも善行に励むようになるかもしれません。
でもその場合――報いを期待して善に励むというのは、すぐご褒美が与えられるので人間の前で芸をする犬にも等しく、神さまは人間の心というものがもっと「深い」ということを当然ご存じであったわけです。
>>人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、
それぞれの生き方により、
行ないの結ぶ実によって報いる。
(エレミヤ書、第17章9~10節)
そして、こうした事柄に関して人間のほうで、「だってあーた(神☆)がそもそも人間をそんなふうに(陰険になるように)造ったんでしょーが

>>ああ。
陶器が陶器を作る者に抗議するように
自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形作る者に、
「何を作るのか」とか、
「あなたの作った物には、手がついていない」
などと言うであろうか。
ああ。
自分の父に「なぜ、子どもを生むのか」と言い、
母に「なぜ、産みの苦しみをするのか」と言う者。
(イザヤ書、第45章9~10節)
と、聖書にはあります。
人生に苦しみがある時、特に思春期や十代くらいの頃は、自分の母親に対して「何故わたし(俺)を生んだのか」と言ったりすることがあるかもれません。
でも、ある程度大きくなると、それがいかに親不孝な言葉かわかりますよね。それと同じように、「何故、あなたはわたしという者を存在するようにさせたのですか、神よ

逆に、わたしの経験としては(また、他のクリスチャンの方も大体同じ考えと思うのですが)、ヨブ記のヨブと同じく、神さまに文句や不満でいっぱいの時って、まず自分の祈りって聞かれないことが多いです。もちろん、時には「あなたの言い分ももっともだ」というように、べつのものが代わりに与えられたり、そうした種類の慰めを神さまが聖霊さまを通して与えてくださることもありますが、大体は苦しみの最中にあってすら、喜びをもって主を賛美し、感謝した時にこそ祈りというのは聞かれる場合が多いと思います。
つまり、「△□はどうして○□でないのか」といったことで神さまに理屈を述べるよりも、「何故か」ということはとりあえず一旦脇に置いておいて、まずは自分の苦しみや悲しみを神さまにお委ねし、感謝と賛美を優先順位として先に置いた時のみ……既読スルーとか未読スルーといったことを越えた、神さまの問題解決のブレイクスルーが与えられるということなんですよね。
このあたりのことは、聖書を通し、教会で学ぶことなどを通して、体験的に掴んでいく部分のほうが大きいかもしれませんが、マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の著作を通してなど、他の方の信仰の証しの体験記を読むことを通しても、学ぶべきところがとても多いように感じます。
それでまた~!!

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