神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人はみんなマトリョーシカ。~その2~

2018年06月15日 | キリスト教
【エルサレムの滅亡を嘆く預言者エレミヤ】レンブラント・ファン・レイン


 >>主はこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
 心が主から離れる者はのろわれよ。

 そのような者は荒地のむろの木のように、
 しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

 主に信頼し、
 主を頼みとする者に
 祝福があるように。

 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる。

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。

 わたし、主が心を探り、思いを調べ、
 それぞれの生き方により、
 行ないの結ぶ実によって報いる。

(エレミヤ書、第17章5~10節)


 この箇所はなかなか怖いですよね

 というか、わたし特に>>人の心は何よりも陰険で、それは直らない。という箇所を最初に読んだ時にはドキッ☆としたものでした。

 なんていうか、自分も含めて、人間っていうのは本当にそんなものだよなあ……みたいに身につまされたと言いますか(^^;)

 自分が恵まれて祝福されたような立場にある時には、もしかしたら他の人にも優しくできるかもしれません。けれども、あの人を除け者にしなければ今度は自分がいじめられるとか、悪口の対象にされるといったことがあった場合、それでも「人として公平で正しい態度を取れる」という方は、どのくらいいるものでしょうか。

 なんていうか、こうした事柄って他にも本当にたくさんありますよね。自分の手元にある程度資産があるならば、人にも分け与えてあげられる……でも、資産がたくさんあってさえ、人はこれから百以上も生きるかわからないし、資産などいくらあっても足りないかもしれない――そうした不安感が強ければ、分け与える額というのもほんのぽっちり☆みたいになったり、あるいは自分が裕福であった時には人にも優しくしてあげられたけど、貧乏になってからは周囲の人にもつらくあたるようになった……とか、もちろん、そうではない方もたくさんいらっしゃるでしょうけれども、自分的にはつくづく「人って(わたし含めて)そんなものだよなあ」って思うのです(^^;)

 けれども、神さまはわたしたちが生まれる前から御自身を裏切る者であるとわかっていてなお、わたしたちどうしようもない人間を、そのどうしようもなさも含めて愛してくださる方なのです。

 今回のタイトルもまた「人はみんなマトリョーシカ」なのですけれども、わたしたちはオギャー☆と生まれてから、成長とともに色々な技術を身につけ、ひとつ、またひとつとまるでマトリョーシカのように何かを被って大きくなっていく……みたいなところがありますよね。

 でも人間って、たとえば会社で出世して重役になったり、年に数億とか数千万円とか稼いでいても――人間として分割に分割して、一番小さい単位の、一番ちっちゃなマトリョーシカの状態になった時、神さまに対して誇れるものって何もないと思うんですよね(^^;)

 あるいは何かの罪を犯して刑務所へ行くとか、麻薬やアルコールに溺れて、世間の人から「あの、どうしようもない奴」といった評価を受けたとしても……神さまはむしろそのような自分の罪に溺れてどうしようもなくなった人をこそ受け容れ、愛してくださるのです。


 >>自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

『神さま。こんなどうしようもない私をあわれんでください』

 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」

(ルカの福音書、第18章9~14節)


 13節の言葉は、わたしの聖書の訳では『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』となっています。ただ、わたし的な感覚としては『神さま。こんなどうしようもない私をあわれんでください』というほうが近い感じがしたので、そうしてみました(^^;)

 なんと言いますか、人ってどんなに光り輝く功績を積み上げていても、そうしたものを取り除いていって一番小さな単位になって神さまの御前に裸で立った時――右の人も左の人も、大会社の社長もホームレスの方も、神さまの目には実は大して違いはないのではないかと時々思うことがあります。

 また、だからべつに金儲けのための努力などしなくていいのだ……といったことでもなく、ただ、場合によっては天国ではどこかの会社のCEOやCOOと呼ばれる人が非常に低い地位にあり、そしてホームレスの方のほうが光り輝く神さまの御座に近い――ということがあったりするものなのではないでしょうか。

 ただ、神さまの御前に謙遜で、「こんなに罪深いわたしをお赦しください」といったようにへりくだって生きることが出来るか、それとも「あれもこれもわたしがこの自分の力でやったのだ。神など関係ない」として生きていくのか……その差というのはいつかどこかで現れるものなのではないかという気がします。

 なんというか、「少なくともわたしはあの人よりはマシだ」みたいに思うことって、人って誰しもありますよね。でも、神さまの目から見れば「あの人よりもマシ☆」と思うことの人の差って、実際は人間の大きなどうしようもなさに比べたら、神さまの目には0.1ミリとか0.2ミリくらいの違いしかない……それを人は人間的な視点から見て、人間Aは人間Bよりも少なくともマシである……といったその差を誇るわけですが、神さまの目にははっきり言って「どっちも同じである」というようにしか映らないものなのではないでしょうか(^^;)

 こうした種類の「わたしだって少なくともあの人よりは~~」みたいに思うことの内にも罪が内在するものだと思いますし、そうしたことも含めて「こんなどうしようもないわたしを、神さま、どうか赦してください」と祈れるとしたら……そのような小さく弱い者を神さまが放っておかれることは決してないと思うのです。

 それではまた~!!





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