神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

美の壺。

2018年06月18日 | キリスト教
【国宝、曜変天目茶碗】(出典:静嘉堂文庫美術館様よりm(_ _)m)


 今回のタイトルは「美の壺。」なのですが、HKさんの某番組とは関係ありませんm(_ _)m

 これはあくまでたとえ話なのですが、あなた(あるいはわたし)に、とても大切にしている「美の壺」があったとします。

 それを見ているとえもいわれぬ気持ちになり、とても幸せなのですが、この「美の壺」に花を活け、茶室で茶を点て、心静かに庭を眺むる……こうした種類の「わたしは<これ>をしている時が一番生きていると感じられて幸せだなーっ!!」というツボ☆みたいなものって、たぶん誰にでもありますよね。

 ところが、ですね。人間そうそうそうした幸せな趣味の世界にだけ生きてもおられず、日常の雑事や人との面倒なつきあいや、「そんなことしてる暇があるんだったら、我が美の壺と触れあい、魂の時間を大切にしたい」みたいに思っていても、ままならぬのが人の世の常というものなのだろうと思います。。。

 それで、ここはキリスト教のことについて何か書くといった主旨のブログなもので(汗)、実はこの「美の壺」というのは、信仰のたとえだったりします(^^;)

 まあ、うちには茶室のような優雅な場所はありませんし、多くの方のおうちがそうかもしれませんけれども、でも神さまに祈ったりする時って、最低でも心の中ではそういう場所に身を置いて祈りの時間を取る……みたいなところがありますよね。

 でもやっぱり、日常の雑事や人との面倒なつきあいなど、色々なことがあって個人的に「神さまとの時間を取る」とか「祈りの時間を取る」っていうのは結構難しいことなんじゃないかな、という気がします。


 >>あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(マタイの福音書、第6章6節)


 日本は基本的に葬式仏教徒の占める割合が多いので、「神さまに祈っている」と仮に誰かに言った場合、「そんなことよりもっと実用的なことを考えなさい」といった向きが強いかもしれません。

 でも、聖霊さまを通した祈りって本当に聞かれます。


 >>ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

(ヤコブの手紙、第5章16~18節)


 ただ、普段の日常の中で、「神さまのために時間をとる」、「祈りの時間をとる」ってとても難しいと思うんですよね(^^;)

 わたしが初めて教会に通った時、「まずは一日一時間の祈り」といったことを言われたように記憶しています。

 そして、普通に働いていたりすると、朝はせいぜい祈れても10~15分ということも多く、夜寝る前に布団の中で……とか言っても、疲れて祈ってる途中で寝てしまったりとか、色々と障害も多かったり。。。


 >>どちらが一等強く祈るでしょう
 形に表わせる唇でしょうか
<出来得れば>と努力しつつも
 形にすべき術もなく 
 眠りについた心でしょうか

(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)


 これはエミリー・ディキンスンの詩なのですが、私の経験上、この朝の10~15分とか、夜祈っていても途中で寝てしまうとか、そんな形でも聖霊さまのとりなしによってか、神さまって本当にそんな祈りでも聞いてくださるのです。

 そして、一度「祈りが聞かれる」ということがわかると、たとえば、電車の中で通勤中とか移動中に祈るとか、だんだんコツ☆がわかって来ます。

 ただ、わたしの場合、日常に色々な困難があったので、そんなふうに「どんな時にも神さま、イエスさまを頼りにする」といった追い詰められた心理があったから祈れたのであって――もしかしたら「べつに神さまに祈りたいこともないな」といった方にとっては、いまいちピンと来ないことかもしれません(^^;)

 そして、真実の神さまに祈れて幸せ……ということが習慣づいてくると、どんな時にも神さまが助けてくださるという感謝と賛美の心がさらに湧いてくるので、この好循環が生まれるということが、もしかしたら<信仰>には大切なことかもしれません。

 ただし、わたしの場合、いつまでもその良い循環が続くということはなく、その良いサイクルを根底から打ち砕くことというのは、これまでに何度も人生の中でありました。でも、そうした時にも三日とあけずに祈らないということはありませんでした。

 せいぜいのところを言って一日か二日くらいですかねー。もう三日も神さまに祈らないと落ち着かないというか、何かのことで自分の願いが叶わなかったり、願いの通りじゃなかったとしても――時間が経ってみると(わたしの場合)その神さまの判断のほうが正しかったということがとても多かったので、「祈りが叶えられないことにも理由がある」ということがだんだんにわかってきたのです。

 ただ、これも教会でよく言われていたことなのですが、祈りに専心しようとすると敵から邪魔が入るということも実際たびたびありまして、「祈ることはいいことなはずなのに、どうして?」的に思うこともよくありました。

 でもその後、「その祈りが重要であればこそ、敵から妨害や邪魔も入るのだ」ということがわかり、引き続き継続して祈るということが出来るようになっていったというか(もちろん、このこともまた聖霊さまの助けによって!


 >>いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った」

 主は言われた。

「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」

(ルカによる福音書、第18章1~8節)


 この箇所も、聖書の中のイエスさまがされた、とても面白いたとえ話だと思います♪(^^)

 けれども、イエスさまは>>「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」ともおっしゃっておられます。また、>>「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」(ルカの福音書、第12章49節)とも。

 わたしもイエスさまががっかりされないように、聖霊の火を点し続けて、これからも祈っていきたいと思っています

 それではまた~!!





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