【聖ヴォルフガングと悪魔】ミヒャエル・パッハー
>>偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。
(イザヤ書、第44章9~20節)
ええと、今回は前回の記事の続きなのですが、「空(から)の神」というか、日本の多くの方が信じているのはこうした種類の空中楼閣の神である場合がとても多いと思います(^^;)
あの~、わたし前にも何度か触れているとおり、仏教の教え自体はとても好きですし、クリスチャンになる前までは「いつか日本中の神社仏閣を見て歩きたい!」、「四国八十八箇所行脚したい!」とか思っていましたし、今もはっきり覚えていますが、小学一年生の時、通学路から遠く仏舎利塔を見て、「あそこに神さまがいるんだ!いつかあの仏舎利塔まで行って、本当の神さまに心からのお祈りがしたい!」とか思っていたという人です。。。
でも信仰の実質っていうのは、そういうことではない……ということを知ったのは、キリスト教徒になってからでした。
どういうことかというと、前回、「お守りと十字架」のところで書きましたとおり、神社のお守りって、一体自分の何を守ってくれるというのか……という部分があるんですよ(^^;)あと、大抵のおうちにある神棚などもそうです。わたしも自分がクリスチャンになる前までは母が入院した時などにそこに向かって手を合わせて祈っていましたし、大晦日から新年になる時にも「今年一年いい年でありますように」とか祈っていました。
あと、仏壇にお香を焚いて手を合わせたりとか、そうしたことが大好きな子供だったのです、本当に。
そして、前回書いたまだノンクリスチャンだった頃に持っていた十字架のネックレス……捨てた記憶はまったくないのですが、これ、その後何故かまったく見つからなくて……でも、おそらくそれで良かったのだと思います。その、わたしがこの十字架のネックレスをつけていて、これがもしなくなったとしますよね?でも、信仰の実質というのはそういうことではないのに、この<形あるもの>に縋って、「あれを失くしたからには神さまもお怒りだろう」とか、「わたしの信仰に落ち度があったから失くなったのでは?」とか、わたしがオロオロ考えるとしたら――それは本当に、本末転倒の信仰ということですよね
けれども、教会へ行って救いの招きを受け、そのことに同意してのち、聖霊さまが与えられてから……神社のお守りも家の神棚にも、本当の神は住んでいないということが、突然はっきりわかったのです。
ところで今わたし、某古本屋さんで「サタンのわな」という本を50円で買ってきて今読んでいるのですが、正直、キリスト教徒の方で(あるいはキリスト教徒の方であっても)、信仰にかなり進んだ方が読まないと、「気違いが書いた本か」と感じるような本です(^^;)
でも、ちょうどわたしが今知りたい、知識として、またこれからの信仰の実践のためにも、こうしたことが知りたいということが書かれていて、とてもためになっています。カトリック信者の方や、新約聖書におけるイエスさまの悪霊追い出しのことを繰り返し読んでいながらも、それはイエスさまの生きた時代にだけあったこと……といった形で教えるタイプの教会に通っている方にとっては、この本に書いてあることは受け入れられない部分のほうが大きいかもしれません。
でも本当に、聖書的に信仰熱心であろうとすればするほど、向こう(敵・悪魔(サタン)、悪霊)側の力や妨害ってだんだん強くなってくるんですよね(^^;)
まあ、わたしのことも「気違いだな、こいつ」と思われることを承知で書くのですが、わたし、随分長いこと「この攻撃はなんだろう」と思っていました。わたしが救われた教会は主の十字架クリスチャンセンターで、病いのあるものは悪霊から来ていることもあるから、悪霊の追い出しをしたり、あるいは日本の神社仏閣(あるいは世界の偶像崇拝の場所)などで霊の戦いをしている……ということは知っていて、そのことでは心から主を誉め称えていました。
もちろん、インターネットで「主の十字架クリスチャンセンター」と検索すると「異端」と出てきたりもしますし、「そんなことやってるから<異端>とか言われるんじゃねーの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、信仰熱心になって、本当に純粋な心から祈ったり賛美したりとかしてると、もう「あいつら(悪魔・悪霊)」としか言いようのない力や勢力とぶつかるというのは本当のことです。これはキリスト教だけでなく、仏教の教えを心から信じ、身を清めて祈ったりする僧の方でも同じ経験をすると聞いたことがあります。
正直、わたしそうした事柄とは関わりあいになりたくないなとずっと思っていました。教会の長老の方など、偉い方が悪霊の追い出しなどをするのは相手の方(悪霊を追い出して欲しいと願っている方)にとって良いことだし、他の多くの教会のように「悪魔(サタン)とか悪霊のことを言ったりして、信徒の方にどん引きされたくない」というので、そのあたりはソフトに対応する……といった形に教会がなってしまうなら、間違いなくそうした教会では聖霊さまの臨在の力、あるいは癒しなどの神さまが恵みによって与えてくださる賜物の力が弱まってしまいます。
そしてその結果、本来なら起きるはずの神さまの奇跡の力などが留められることによって、「神など信じても癒しなど起こらない」とか、あるいはほんのちょっとしたことで葦が折れるように信仰の力がなくなって信徒の数が自然と少なくなっていく……といったようになっていってしまうと思います(信徒の高齢化が進んでいる教会や、少なくなる一方といった場合は、こうした種類の信仰のボタンのかけ違いといったことが原因である場合があると思います)。
キリスト教徒、クリスチャンにとって悪魔(サタン)、悪霊の問題は現実の問題であり、こうした存在がいるのは間違いがなく(聖書にもそうはっきり書いてあります)、そのことで悩み苦しんでいる方がたくさんいるのに、その領域を人間的・理性的判断で締めだす、なくすということは絶対に主の御心ではありません。
それで、この本を読んでいて、ふと昔見た夢のことを思いだしたんですよね。畳みの上の床の間のようなところに、古い石のようなものが置いてあって――何か悪霊的な強い力のあることだけはわかっていたので、イエスさまの御名によって悪霊が去るようにと夢の中で祈るのですが、まったく効果がないという夢です。むしろ、見た目はそんなに大きくないのに、わたしひとりの祈りでは絶対にその石を一ミリたりともずらすことは出来ない……という物凄い霊的重圧というか、重みを感じて目を覚ましたという、そんな夢です。
この<重み>が何かというと、日本の神社仏閣などの、偶像礼拝の場となっている悪霊の住んでいる場所の重みなんだと思います。わたしの住んでいる街でも、あちこちサイクリングして出かけますと、本当にこうした場所に遭遇することが多いんですよね。
わたし、もともとはこうした場所が大好きだったわけですけれども、今はただ通りすぎる時にイエスさまの御名によって解放を祈るというだけで、中へは一歩も入ってみたいとは思わなくなりました。。。
そして、「サタンのわな」という本の著者レベッカ・ブラウンさんはアメリカの方ですので、本を読むと「向こうはまた、日本とは悪魔(サタン)・悪霊の力の強さや霊の流れのようなものが違うんだな」といったように感じるのですが、日本で一番多い「サタンのわな」は何かというと、お守りや神棚など、そうした本当は実体のない、それがどのような神なのか聞かれてもその当人が答えようのない神(外国の方から「この神棚の神はどのような神なのですか?」とか「神棚と仏壇はどう違うのですか?」と聞かれても、ほとんどの日本人には説明が不能だというのは有名な話です)に隠れてひそみ、普段はそう活発に動かず、石のように静かにしているように見えながら、唯一「イエス・キリストの御名を聞いた時だけ」激しく活動し、自分の影響を受けている者に強い反発の力を持たせたり、その耳を塞いだりするということだと思います。
日本でキリスト教というとどうしても、エ○バやモ○モン教のことがあるもので、他のキリスト教も全部おかしいのだろう……といった形でとらえられてしまい、「キリスト教」、「イエス・キリスト」といったことを口にしただけでも「あー、そういうのいい!」、「ほんとに結構!」という態度になる方はとても多いと思うんですよね(^^;)
でも、「日本におけるリバイバル」のところでも書いたとおり、こんな日本にも宣教の夜明けが必ずきます!そして、こうした絶対に信じなさそうな方がイエスさまのことを信じ受け容れるという奇跡が次々と起こされていくことでしょう……そのためにも今、悪霊の追い出しについての学びもしっかりしておかなくちゃ!とそう強く思わされています。
それではまた~!!
>>偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。
(イザヤ書、第44章9~20節)
ええと、今回は前回の記事の続きなのですが、「空(から)の神」というか、日本の多くの方が信じているのはこうした種類の空中楼閣の神である場合がとても多いと思います(^^;)
あの~、わたし前にも何度か触れているとおり、仏教の教え自体はとても好きですし、クリスチャンになる前までは「いつか日本中の神社仏閣を見て歩きたい!」、「四国八十八箇所行脚したい!」とか思っていましたし、今もはっきり覚えていますが、小学一年生の時、通学路から遠く仏舎利塔を見て、「あそこに神さまがいるんだ!いつかあの仏舎利塔まで行って、本当の神さまに心からのお祈りがしたい!」とか思っていたという人です。。。
でも信仰の実質っていうのは、そういうことではない……ということを知ったのは、キリスト教徒になってからでした。
どういうことかというと、前回、「お守りと十字架」のところで書きましたとおり、神社のお守りって、一体自分の何を守ってくれるというのか……という部分があるんですよ(^^;)あと、大抵のおうちにある神棚などもそうです。わたしも自分がクリスチャンになる前までは母が入院した時などにそこに向かって手を合わせて祈っていましたし、大晦日から新年になる時にも「今年一年いい年でありますように」とか祈っていました。
あと、仏壇にお香を焚いて手を合わせたりとか、そうしたことが大好きな子供だったのです、本当に。
そして、前回書いたまだノンクリスチャンだった頃に持っていた十字架のネックレス……捨てた記憶はまったくないのですが、これ、その後何故かまったく見つからなくて……でも、おそらくそれで良かったのだと思います。その、わたしがこの十字架のネックレスをつけていて、これがもしなくなったとしますよね?でも、信仰の実質というのはそういうことではないのに、この<形あるもの>に縋って、「あれを失くしたからには神さまもお怒りだろう」とか、「わたしの信仰に落ち度があったから失くなったのでは?」とか、わたしがオロオロ考えるとしたら――それは本当に、本末転倒の信仰ということですよね
けれども、教会へ行って救いの招きを受け、そのことに同意してのち、聖霊さまが与えられてから……神社のお守りも家の神棚にも、本当の神は住んでいないということが、突然はっきりわかったのです。
ところで今わたし、某古本屋さんで「サタンのわな」という本を50円で買ってきて今読んでいるのですが、正直、キリスト教徒の方で(あるいはキリスト教徒の方であっても)、信仰にかなり進んだ方が読まないと、「気違いが書いた本か」と感じるような本です(^^;)
でも、ちょうどわたしが今知りたい、知識として、またこれからの信仰の実践のためにも、こうしたことが知りたいということが書かれていて、とてもためになっています。カトリック信者の方や、新約聖書におけるイエスさまの悪霊追い出しのことを繰り返し読んでいながらも、それはイエスさまの生きた時代にだけあったこと……といった形で教えるタイプの教会に通っている方にとっては、この本に書いてあることは受け入れられない部分のほうが大きいかもしれません。
でも本当に、聖書的に信仰熱心であろうとすればするほど、向こう(敵・悪魔(サタン)、悪霊)側の力や妨害ってだんだん強くなってくるんですよね(^^;)
まあ、わたしのことも「気違いだな、こいつ」と思われることを承知で書くのですが、わたし、随分長いこと「この攻撃はなんだろう」と思っていました。わたしが救われた教会は主の十字架クリスチャンセンターで、病いのあるものは悪霊から来ていることもあるから、悪霊の追い出しをしたり、あるいは日本の神社仏閣(あるいは世界の偶像崇拝の場所)などで霊の戦いをしている……ということは知っていて、そのことでは心から主を誉め称えていました。
もちろん、インターネットで「主の十字架クリスチャンセンター」と検索すると「異端」と出てきたりもしますし、「そんなことやってるから<異端>とか言われるんじゃねーの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、信仰熱心になって、本当に純粋な心から祈ったり賛美したりとかしてると、もう「あいつら(悪魔・悪霊)」としか言いようのない力や勢力とぶつかるというのは本当のことです。これはキリスト教だけでなく、仏教の教えを心から信じ、身を清めて祈ったりする僧の方でも同じ経験をすると聞いたことがあります。
正直、わたしそうした事柄とは関わりあいになりたくないなとずっと思っていました。教会の長老の方など、偉い方が悪霊の追い出しなどをするのは相手の方(悪霊を追い出して欲しいと願っている方)にとって良いことだし、他の多くの教会のように「悪魔(サタン)とか悪霊のことを言ったりして、信徒の方にどん引きされたくない」というので、そのあたりはソフトに対応する……といった形に教会がなってしまうなら、間違いなくそうした教会では聖霊さまの臨在の力、あるいは癒しなどの神さまが恵みによって与えてくださる賜物の力が弱まってしまいます。
そしてその結果、本来なら起きるはずの神さまの奇跡の力などが留められることによって、「神など信じても癒しなど起こらない」とか、あるいはほんのちょっとしたことで葦が折れるように信仰の力がなくなって信徒の数が自然と少なくなっていく……といったようになっていってしまうと思います(信徒の高齢化が進んでいる教会や、少なくなる一方といった場合は、こうした種類の信仰のボタンのかけ違いといったことが原因である場合があると思います)。
キリスト教徒、クリスチャンにとって悪魔(サタン)、悪霊の問題は現実の問題であり、こうした存在がいるのは間違いがなく(聖書にもそうはっきり書いてあります)、そのことで悩み苦しんでいる方がたくさんいるのに、その領域を人間的・理性的判断で締めだす、なくすということは絶対に主の御心ではありません。
それで、この本を読んでいて、ふと昔見た夢のことを思いだしたんですよね。畳みの上の床の間のようなところに、古い石のようなものが置いてあって――何か悪霊的な強い力のあることだけはわかっていたので、イエスさまの御名によって悪霊が去るようにと夢の中で祈るのですが、まったく効果がないという夢です。むしろ、見た目はそんなに大きくないのに、わたしひとりの祈りでは絶対にその石を一ミリたりともずらすことは出来ない……という物凄い霊的重圧というか、重みを感じて目を覚ましたという、そんな夢です。
この<重み>が何かというと、日本の神社仏閣などの、偶像礼拝の場となっている悪霊の住んでいる場所の重みなんだと思います。わたしの住んでいる街でも、あちこちサイクリングして出かけますと、本当にこうした場所に遭遇することが多いんですよね。
わたし、もともとはこうした場所が大好きだったわけですけれども、今はただ通りすぎる時にイエスさまの御名によって解放を祈るというだけで、中へは一歩も入ってみたいとは思わなくなりました。。。
そして、「サタンのわな」という本の著者レベッカ・ブラウンさんはアメリカの方ですので、本を読むと「向こうはまた、日本とは悪魔(サタン)・悪霊の力の強さや霊の流れのようなものが違うんだな」といったように感じるのですが、日本で一番多い「サタンのわな」は何かというと、お守りや神棚など、そうした本当は実体のない、それがどのような神なのか聞かれてもその当人が答えようのない神(外国の方から「この神棚の神はどのような神なのですか?」とか「神棚と仏壇はどう違うのですか?」と聞かれても、ほとんどの日本人には説明が不能だというのは有名な話です)に隠れてひそみ、普段はそう活発に動かず、石のように静かにしているように見えながら、唯一「イエス・キリストの御名を聞いた時だけ」激しく活動し、自分の影響を受けている者に強い反発の力を持たせたり、その耳を塞いだりするということだと思います。
日本でキリスト教というとどうしても、エ○バやモ○モン教のことがあるもので、他のキリスト教も全部おかしいのだろう……といった形でとらえられてしまい、「キリスト教」、「イエス・キリスト」といったことを口にしただけでも「あー、そういうのいい!」、「ほんとに結構!」という態度になる方はとても多いと思うんですよね(^^;)
でも、「日本におけるリバイバル」のところでも書いたとおり、こんな日本にも宣教の夜明けが必ずきます!そして、こうした絶対に信じなさそうな方がイエスさまのことを信じ受け容れるという奇跡が次々と起こされていくことでしょう……そのためにも今、悪霊の追い出しについての学びもしっかりしておかなくちゃ!とそう強く思わされています。
それではまた~!!
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