【黄道十二宮】アルフォンス・ミュシャ
>>私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
(『使徒の働き』第16章16~19節)
自分的に、こうしたことを書くのはなんとなく気が進まないのですが……クリスチャンになって以来、神社のお守りですとか、そうした種類のものを一切信じなくなりました。あと、昔から占いとか結構好きだったのですが、そうしたことも一切信じなくなったというか(^^;)
ええと、わたしが教会という場所に初めて通いはじめて何回目かの日曜礼拝で、牧師さんが神社のお守りですとか、そうした偶像礼拝に関わるものは捨てたほうがいい……といったお話をされました。
あのですね、わたし的に思うに、このことってすごく話すのに勇気がいると思うんですよね(^^;)
やっぱり受験の合格祈願とか、自分ですでに三つくらい持ってても、人からまた「がんばってね!」って言われてもらったとしたらとても嬉しいでしょうし、わたしもクリスチャンになってから、母から車の<安全祈願>と書かれたお守りをもらった時――やっぱり一旦は「ありがとう」と言って受け取りました。
でもそのお守りにはなんの力もないということはわかっていましたし、母の気持ちをありがたく思いながらも捨てるしかない……といったような感じだったと思います。。。
神社は神道系で、仏教とはまた別……ということを特に意識せず、このふたつを混同している方はわたし同様おそらくとても多いと思うのですが、わたし個人はもともと、神社へ行ったりですとか、あるいは仏教的行事を守るといったことがとても好きでした。ですから、その頃のわたしにもし「お守りを八つ裂きにして捨てなさい」なんて言おうものなら、「なんだとお、こんにゃろう!!」というくらい、たぶん激怒したと思います。
もしわたしにそう言った人が、「キリスト教以外の神は神ではないから」という理由でそんなことをしたら、「あいつらは絶対頭がおかしい」とか「あんな連中となんか今後絶対つきあうものか」とか、「今後、他の宗教は別として、キリスト教だけは絶対信じないぞ!」とおそらく心をパロのように頑なにしたことでしょう(^^;)
けれど、自分がクリスチャンになってひとつわかったことがあります。
というのもわたし、小学生くらいの頃、あの神社のお守りの中身がどうなってるのか、そのことが知りたくて知りたくて堪らなくなったことが一度ありまして……なんていうか、そのくらいの小さい子ってそういうところがありますよね??
中身を隠されていると知りたくなる……というのか、そんな多感(?)な年頃だったもので、「中を見ると御利益なくなる☆」とわかっていながらも、どうしても我慢できなくなって中を見てしまったことがあります。
そして、他のお守りも全部そうなのかどうかわからないんですけど、赤とオレンジ色っぽいお守りの中身を開いてみると、そこには巡礼と赤い文字で書いてありました。。。
その、この時にわたしが感じた罪悪感、わかっていただけますでしょうか。
もともと、神さまとかそうしたことにまつわることに対して信じる力が強かった分、そちらから「~~してはいけない」ということを破った時に感じる強い罪悪感。途端、中がどうなってるのか知れて満足できたと同時、恐ろしいばかりの罪悪感に縛られました。
もしその時イエスさまのことを知っていたら、イエスさまに祈って赦しを乞うことも出来たと思うんですけど、わたしがクリスチャンになるのはその十年以上もあとのことですから……その時、子供ながらも「ものすごく悪いことをした」と感じるのと同時、その気持ちに少しの間つきまとわれたような記憶があります。
この時に感じた物凄く強い縛り……かといって、その神さま自身はわたしのことを救わないっていうのがありました。
何故といって、神社に行ってお賽銭を投げて「お守りの中身を見てしまいました。ごめんなさい」とあやまっても、罪悪感が減るとか、それで「赦された」といったような確信って得られないんですよね。
わたし自身がそうした一切から解放されたのは、イエスさまのことを自分の救い主であることを教会で告白し、聖霊さまを受けて以降のことでした。こうした種類の<確信>がどこから来るのか、ただの思い込みや妄想ではないのか――と思う方もいらっしゃると思います。
でも、わたしの場合は間違いなくはっきり違いました。罪の赦しや罪悪感からの解放といったものはイエスさまのことを信じることを通してしかやって来ないし、「死後に天国へ行けるなんてほんとかな~、ホニャラララ~♪」くらいにそれまで思っていたことに対しても「イエスさまのことさえ信じていたら必ず天国へ行ける」と今ははっきり信じることが出来ます。
>>ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。
(コリント人への手紙第一、第12章2節)
また、これもわたしがまだ未信者だった頃、某デパートで銀色の十字架のネックレスを買って(1,500円くらいのものです☆)身に着けていたことがありました。
もちろん、その頃はイエスさまのことなんて(本当の意味では)知らないわけですから、その十字架が何かの形でわたしを守るとか、そうした力はまったくなかったでしょう。けれども、日本人の宗教観というのは、このような形で非常に混合的だというのは、おそらく多くの方が同意されるのではないでしょうか。
神社や仏教の寺院などをパワースポットと呼び、またキリスト教の観光名所となっている教会なども同列に考えて、そこで購入したお守りや十字架などを神聖なものと感じ、その両方を身に着けることで運気が二倍になったように考える……この他に、自然の景観の美しい場所などもパワースポットと呼ばれ、こちらはいわゆるアニミズムの神からの力を受けることが出来ると感じ、神社・仏教・キリスト教、アニミズムの神から力を受けている自分は、なんと多様かつ自由な存在なんだろう、ああ生きてるって素晴らしいな……という、これが一般的に一番日本人受けする宗教観かなと自分的には思います(さらにここに、哲学的思想や近代科学の宇宙観なども加えられる方の言葉というのは、実に説得力があるように耳に響きます^^;)
でも同時に、多くの方が神道と仏教をごっちゃにしていたり、キリスト教については知識が浅かったり(わたしもイエスさまのことを本当に信じる前はそうでした)……そしてこう考えていくと、実際には「空の神」と呼ばれる偶像を信じているに過ぎないのではないかという側面があると思うんですよね。
つまり、その実態についてはよくわかっていないものを「なんとなく良い感じのするものだから」、「運気が上がりそうだから」という理由で信じたりするものの、実際には「運気が上がるといいな」といった、自己中心の欲望の神がわたしたちの心の中心には据えられていることが多く、でもそんなふうに言ってしまうとあからさまだし、わたしは自己中心の欲望の神でも、銀行口座のゼロの数が神だというのでもなく、「それなりにまあ、信仰心ってものがわたしにもあるんですよ」と見せかけているに過ぎない……ということが、厳しい言い方をするとすれば、あるのではないでしょうか。
いえ、わたしほんと、なるべくブログに書くことはソフトにして、あんましこういうことって書きたくないんですよね
でもちょっと最近、古本屋さんで偶然キリスト教に関するある本と出会いまして……こうしたことについても、少し書いておいたほうがいいのかなと思い、以前書いて放っておいたものに書き加えてしてみることにしました。。。
では、次回はこの「空(から)の神」ということについて、書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
>>私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
(『使徒の働き』第16章16~19節)
自分的に、こうしたことを書くのはなんとなく気が進まないのですが……クリスチャンになって以来、神社のお守りですとか、そうした種類のものを一切信じなくなりました。あと、昔から占いとか結構好きだったのですが、そうしたことも一切信じなくなったというか(^^;)
ええと、わたしが教会という場所に初めて通いはじめて何回目かの日曜礼拝で、牧師さんが神社のお守りですとか、そうした偶像礼拝に関わるものは捨てたほうがいい……といったお話をされました。
あのですね、わたし的に思うに、このことってすごく話すのに勇気がいると思うんですよね(^^;)
やっぱり受験の合格祈願とか、自分ですでに三つくらい持ってても、人からまた「がんばってね!」って言われてもらったとしたらとても嬉しいでしょうし、わたしもクリスチャンになってから、母から車の<安全祈願>と書かれたお守りをもらった時――やっぱり一旦は「ありがとう」と言って受け取りました。
でもそのお守りにはなんの力もないということはわかっていましたし、母の気持ちをありがたく思いながらも捨てるしかない……といったような感じだったと思います。。。
神社は神道系で、仏教とはまた別……ということを特に意識せず、このふたつを混同している方はわたし同様おそらくとても多いと思うのですが、わたし個人はもともと、神社へ行ったりですとか、あるいは仏教的行事を守るといったことがとても好きでした。ですから、その頃のわたしにもし「お守りを八つ裂きにして捨てなさい」なんて言おうものなら、「なんだとお、こんにゃろう!!」というくらい、たぶん激怒したと思います。
もしわたしにそう言った人が、「キリスト教以外の神は神ではないから」という理由でそんなことをしたら、「あいつらは絶対頭がおかしい」とか「あんな連中となんか今後絶対つきあうものか」とか、「今後、他の宗教は別として、キリスト教だけは絶対信じないぞ!」とおそらく心をパロのように頑なにしたことでしょう(^^;)
けれど、自分がクリスチャンになってひとつわかったことがあります。
というのもわたし、小学生くらいの頃、あの神社のお守りの中身がどうなってるのか、そのことが知りたくて知りたくて堪らなくなったことが一度ありまして……なんていうか、そのくらいの小さい子ってそういうところがありますよね??
中身を隠されていると知りたくなる……というのか、そんな多感(?)な年頃だったもので、「中を見ると御利益なくなる☆」とわかっていながらも、どうしても我慢できなくなって中を見てしまったことがあります。
そして、他のお守りも全部そうなのかどうかわからないんですけど、赤とオレンジ色っぽいお守りの中身を開いてみると、そこには巡礼と赤い文字で書いてありました。。。
その、この時にわたしが感じた罪悪感、わかっていただけますでしょうか。
もともと、神さまとかそうしたことにまつわることに対して信じる力が強かった分、そちらから「~~してはいけない」ということを破った時に感じる強い罪悪感。途端、中がどうなってるのか知れて満足できたと同時、恐ろしいばかりの罪悪感に縛られました。
もしその時イエスさまのことを知っていたら、イエスさまに祈って赦しを乞うことも出来たと思うんですけど、わたしがクリスチャンになるのはその十年以上もあとのことですから……その時、子供ながらも「ものすごく悪いことをした」と感じるのと同時、その気持ちに少しの間つきまとわれたような記憶があります。
この時に感じた物凄く強い縛り……かといって、その神さま自身はわたしのことを救わないっていうのがありました。
何故といって、神社に行ってお賽銭を投げて「お守りの中身を見てしまいました。ごめんなさい」とあやまっても、罪悪感が減るとか、それで「赦された」といったような確信って得られないんですよね。
わたし自身がそうした一切から解放されたのは、イエスさまのことを自分の救い主であることを教会で告白し、聖霊さまを受けて以降のことでした。こうした種類の<確信>がどこから来るのか、ただの思い込みや妄想ではないのか――と思う方もいらっしゃると思います。
でも、わたしの場合は間違いなくはっきり違いました。罪の赦しや罪悪感からの解放といったものはイエスさまのことを信じることを通してしかやって来ないし、「死後に天国へ行けるなんてほんとかな~、ホニャラララ~♪」くらいにそれまで思っていたことに対しても「イエスさまのことさえ信じていたら必ず天国へ行ける」と今ははっきり信じることが出来ます。
>>ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。
(コリント人への手紙第一、第12章2節)
また、これもわたしがまだ未信者だった頃、某デパートで銀色の十字架のネックレスを買って(1,500円くらいのものです☆)身に着けていたことがありました。
もちろん、その頃はイエスさまのことなんて(本当の意味では)知らないわけですから、その十字架が何かの形でわたしを守るとか、そうした力はまったくなかったでしょう。けれども、日本人の宗教観というのは、このような形で非常に混合的だというのは、おそらく多くの方が同意されるのではないでしょうか。
神社や仏教の寺院などをパワースポットと呼び、またキリスト教の観光名所となっている教会なども同列に考えて、そこで購入したお守りや十字架などを神聖なものと感じ、その両方を身に着けることで運気が二倍になったように考える……この他に、自然の景観の美しい場所などもパワースポットと呼ばれ、こちらはいわゆるアニミズムの神からの力を受けることが出来ると感じ、神社・仏教・キリスト教、アニミズムの神から力を受けている自分は、なんと多様かつ自由な存在なんだろう、ああ生きてるって素晴らしいな……という、これが一般的に一番日本人受けする宗教観かなと自分的には思います(さらにここに、哲学的思想や近代科学の宇宙観なども加えられる方の言葉というのは、実に説得力があるように耳に響きます^^;)
でも同時に、多くの方が神道と仏教をごっちゃにしていたり、キリスト教については知識が浅かったり(わたしもイエスさまのことを本当に信じる前はそうでした)……そしてこう考えていくと、実際には「空の神」と呼ばれる偶像を信じているに過ぎないのではないかという側面があると思うんですよね。
つまり、その実態についてはよくわかっていないものを「なんとなく良い感じのするものだから」、「運気が上がりそうだから」という理由で信じたりするものの、実際には「運気が上がるといいな」といった、自己中心の欲望の神がわたしたちの心の中心には据えられていることが多く、でもそんなふうに言ってしまうとあからさまだし、わたしは自己中心の欲望の神でも、銀行口座のゼロの数が神だというのでもなく、「それなりにまあ、信仰心ってものがわたしにもあるんですよ」と見せかけているに過ぎない……ということが、厳しい言い方をするとすれば、あるのではないでしょうか。
いえ、わたしほんと、なるべくブログに書くことはソフトにして、あんましこういうことって書きたくないんですよね
でもちょっと最近、古本屋さんで偶然キリスト教に関するある本と出会いまして……こうしたことについても、少し書いておいたほうがいいのかなと思い、以前書いて放っておいたものに書き加えてしてみることにしました。。。
では、次回はこの「空(から)の神」ということについて、書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
ええとですね、あの……なんていうか、わたしの頭が悪いせいか、微光さまのおっしゃってることがよくわからなかったりして。。。
一応、わたしの持ってる聖書を確認してみたところ、引用箇所に間違いはなかった気はするんですけど……なんというかまあ、これはキリスト教側から見た場合の記事ですので、仏教の信徒の方にはかなり微妙な記事とは思っています(^^;)
また何か間違っている点などありましたら、気軽に御指摘いただければと思います♪
コメント、ありがとうございましたm(_ _)m