神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

日本におけるリバイバル。

2017年09月16日 | キリスト教
【収穫者たち】アンナ・アンカー


 日本のクリスチャン人口は、毎週ちゃんと日曜礼拝に参加している方の数でいうと、大体0.2%くらい……と以前お聞きしたのですが、いわゆるリバイバル(聖霊復興運動)の時、その数は爆発的に増えると言われています。

 また、日本は「宣教師の墓場」とも言われており、海外の器の方がいくら伝道しようとも、霊的な縛りがきつく、なかなか宣教が進んでいかない――ともお聞きしました。

 けれども、この数の少ないクリスチャンはいずれ本当に日本におけるクリスチャン人口が増えると信じ、またそのように告白し、祈り続けています。また、日本で宣教が進まない理由として、神さまの計画がある、神さまの御心が大きいとも言われているんですよね(^^;)

 もちろん、日本の一般的、ごく平均的な葬式仏教徒の方がこの話を聞かれた場合、「そんなことは起きそうもない」と思われると思います。でも、わたし自身も日本に対する神さまの御心は大きいと、そんなふうに思うんですよね。

 何故かというと、神さまが業をなさる時っていうのは、人間の目には「神さまがようやく重い腰を上げてくださったー!!」となった瞬間、もうあっという間だから、なんです

 そして、日本のクリスチャンの型のようなものとして多いのが、心にとても強い信仰心を秘めているけれども、いざ(キリスト教徒でない)隣人・知人にイエスさまのことを語るとなると、妙に縮こまってしまう……ということなのではないでしょうか(いえ、これはわたし自身がそうだからよくわかる、という話^^;)

 ようするに、「信仰のガソリン」のところでも書きましたとおり、その方自身はとても敬虔で、その方の信仰心自体はたとえていうならまるでピカピカのフェラーリかポルシェかBMWか……といったところであり、しかも毎日熱心に祈ったり聖書を読んだり、礼拝へも欠かさず出席したり……といった具合に毎日車にワックスかけて磨いているかの如く、車自体はほんとに新車同様ピカピカなんです(笑)

 でも、そのピカピカのフェラーリを地下のガレージに隠して、ガソリンを入れて外を走らせることがない……というタイプの信仰者の方は、おそらくとても多いのではないでしょうか(これもまた、わたし自身がそうだからよくわかる、という話^^;)

 けれども、聖書に「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカの福音書、第1章37節)とあるように、これから本格的にリバイバルの働きがさらに顕著になっていった場合――こうしたクリスチャンの方々もとうとう地下からポルシェをだして、ガソリンを入れ、堂々と信仰を表明してどこでも縦横無尽に駆け走る、ということになるのではないでしょうか。

 聖書を読むと、神さまが勝利をお現しになる時というのは、むしろ人間的に見た場合、「え~っ!?そんなこと、起きっこないよ☆」というところからの逆転劇であることがとても多いです。ゆえに、日本でのリバイバルにおける収穫というのも、「こんなことが出来るのは神しかいない」といったような、そのような形になると思うんですよね。

 神は霊ですし、真のクリスチャンというのはその全員が、その霊の分け与えにより、聖霊が内住しているわけですが、<救い>というのはまさにそうしたものだと思います。(かつてのわたしがそうだったように)聖書を読んで、理屈でそれが神であると思えそうなら信じようとか、そうした形だとなかなか信じるには至らないと思うのですが、教会で神さまからの霊に触れられると、なんと言いますか、「そこの空気にある神さまがいる感じ」みたいなものを感じて、突然フワッと救われる……みたいな感じのことだと思います(^^;)

 神さまが心に触れる、精神に触れる、魂に触れる……ようするにこの魂というのが霊ですから、魂が神さまからの霊に触れて癒される、失われていたものが回復する……そのような感覚を得て、「理屈ではなく」イエスさまのことを信じた方というのは、きっととても多いと思うんですよね。

 さて、日本におけるリバイバルですが、主の十字架クリスチャンセンターは、「すでにもうリバイバルは起きている」という立場に立っています。けれども、わたしもそうですが、まだまだまるで準備が足りません。先にも書きましたとおり、神さまの指が動いた瞬間、あっという間に事はなりますから、もっと信仰の訓練をがんばらなくちゃ~と、そんなふうに思っています(切実☆


 >>あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。

 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです」

(ヨハネの福音書、第4章35~38節)


 それではまた~!!





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