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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

五千人の給食。

2015年06月11日 | キリスト教
【パンと魚の奇跡】ティントレット


 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。

 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。

 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。

 ところが、多くの人々が彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々から徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。

 イエスは、舟から上がられると、多くの群集をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。

「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くのや村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください」

 すると、彼らに答えて言われた。

「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」

 そこで弟子たちは言った。

「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか」

 するとイエスは彼らに言われた。

「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」

 彼らは確かめて言った。

「五つです。それと魚が二匹です」

 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。

 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。

 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。

 人々はみな、食べて満腹した。

 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。

 パンを食べたのは、男が五千人であった。

(マルコの福音書、第6章30~44節)


 前にも一度、他のところで触れたと思うのですが、この五千人の給食のお話は、四福音書のすべてに出て来ます。

 クリスチャンの方でもそうでない方でも、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書を通して読んだ場合――同じイエス・キリストの生涯について書かれていながら、書かれていることに若干の矛盾のあることにすぐ気づかれることと思います(^^;)

 けれど、キリスト教信仰者として信仰を通して聖書を読んだ場合も、あるいは人間的に理性のみを通じて聖書を読んだ場合も、やっぱり四つの福音書を読んで一番記述が重なり合っている部分がもっとも事実として信憑性が高いであろう……そんなふうに判断するのではないでしょうか。

 もちろん、この箇所は<普通に考えた場合>、「流石にそれはねえべよ」としか思えない箇所ですよね。

 男だけでも五千人てwwそーいやドラえもんのひみつ道具にバイバインっていうのがあって、あれを食べ物にかけると、ひとつのまんじゅうがやがてふたつに、そしてふたつのまんじゅうがやがて四つにっていう形で増えていくんだっけ……みたいに感じられる出来事というか(笑)

 また、ユダヤ人の習慣では女性や子供の数は数えなかったと言いますから、>>人々はみな、食べて満腹した。の<人々>は五千人を軽く超えていたものと思われます。おそらくは女性や小さな子供も含めたとすれば、一万人とかあるいはそれ以上の人々がいたのではないかと推測されます。

 人々の病いを癒し、悪霊の追い出しをし、死者すらも甦らせた方なのだから、まあこんなことくらいお茶の子さいさい……とか、なんていうかそういう問題ではないですよねわたし自身はキリスト教信仰者として、聖書に書かれた言葉はすべて神の言葉であるという聖書観に立って読んでいるわけですが、そうでない方が読まれた場合は――物事をちょっと大袈裟に記述しているのではないかと疑いたくなるのが普通のような気がします(^^;)

 大体五千人って、どーやって数えたの?あの時代って計数カウンターもないだろうし……と思う方も多いのではないかと思うのですが、結局のところここまで来ると人数の大小は関係ないような気がしてきますよね。というのも、仮にお腹が満腹になったのが五百人でも三百人でも、「そんなこと、あるわけねえべよ」と人が疑いを持つことに変わりはないというか。

 イエスさまがなされたこの記事は、クリスチャンの方であれば当然、旧約聖書の天から降ってきたパン――マナを連想すると思うのですが、このマナというのは、ユダヤ人が出エジプトしてのち、神さまが奇跡的に天から降らせてくださった食物のことを指します。


 >>主はモーセに告げて仰せられた。
「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。
 六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする」
 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。
「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう」
 モーセはまた言った。
「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです」
【中略】
 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
 その一面の露が上がると、見よ。荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。
 モーセは彼らに言った。
「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ』」
 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。

(出エジプト記、第16章4~18節)


 旧約聖書を読むと、神さまが預言者を通して度々語られたのに、イスラエルの民がいかにその神さまの御言葉に聞き従えなかったかということの繰り返しであることがわかると思うのですが、この時もイスラエルの人々は「水がなーい!食べ物がなーい!!」と神さまにつぶやいています。

 そこで神さまは奇跡的な方法によって、自分がモーセを通して導き出した民たちの飢えを満たされたのでした。旧約聖書の記述から、民は男性だけで六十万人以上いたとのことですから、ここに女性や子供を加えたとすると、出エジプトした民は軽く百万――どころか、二百万人はいたのではないかと推測されます。

 ところが、神さまは荒れ野で、このような奇跡的な方法でこんなにも大勢の民の空腹を満たされたのでした。にも関わらず、やがてイスラエルの民たちはこのマナという食物に飽き飽きしたといったようにまたもつぶやくことになるのですが……その点については今回はさておくとしても、イエスさまは御父なる神が起こされた奇跡と同じ種類の奇跡を通して、御自分についてきた人々の空腹を満たされたのでした。

 また、イエスさまは御自身のことを「わたしは天からくだってきたパンです」とおっしゃっています。それと、教会では毎週日曜日(教会によっては月に一回だけだったりするかもしれませんが)に聖餐式を守ります。それはイエスさまが御自身のことを「天からくだってきた命のパン」であるとおっしゃっていることと、十字架上で全人類の血の贖いを完成されたこととに由来するわけですが――聖餐式についても書きはじめると長くなってしまうので、また別の機会があった時に場所を譲ることにしますね(^^;)


「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」

 そこで彼らはイエスに言った。

「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」

 イエスは言われた。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」

 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。

(ヨハネの福音書、第6章32~41節)


 これがキリスト教における重要な核心であり、神さまの福音というのは――イエスさまが十字架上で血の贖いを完成されたのは、我々罪深い人間すべての罪を身代わりの子羊として背負われたことを信じること、そしてこのことを信じる者はすべての罪を赦され、主イエスのとりなしにより天国へ行けるようになるということでした。

 つまり、この方を通すことなく天国へ行く道はどこにもなく、キリスト教信者は主イエスのことをただ信じるというそれだけで、天国にその名を書き記され、死後は永遠に天国で暮らすことの出来る特権が与えられているのです。

 もちろん、ここだけを読むとすれば、多くの方がやはり「キリスト教ってやっぱり変じゃん☆」とか「じゃあ、イスラムの人とか仏教徒とか、ヒンドゥー教の人はどうすんの?」といった疑問があるかと思います。わたしもやはり以前はそうしたことを思ったものでした(^^;)けれどやっぱり、宗教の世界っていうのはイスラム教や仏教などもそうだと思いますが、とても<深い>んですよね。

 聖書のほうもやはり、旧約聖書と新約聖書には当然深い繋がりがあり、新約聖書のこの箇所は旧約聖書のこの箇所と関連がある……といったことまでわかって初めて、「あー、なるほど!」と理解されてくるというか。

 わたし自身、この<聖書>という書物に関しても、自分がクリスチャンになる前までは「あんなに分厚いものを読まなきゃ信者になれないなんて、おかしいじゃん。第一、知的障害者の方などはどうしたらいいんだ?」などと思ったりしていたものでした。

 けれど結局――聖書を読むとそうした事柄についても大体全部答えに近いことが書いてあります。そしてわたしの場合、最初に感じた「キリスト教って絶対変☆」、「ああした宗教を信じてる人はみんな偽善者」といった考えや思いは、結局のところ部分的に何かを聞いて判断した偏見や思い込みによるところが大きい……といったことにやがて気づかされたのでした。

 ではでは、次回はマルコの福音書より、この続きからはじめたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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