神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

イエスの渇き。

2018年01月04日 | キリスト教


 実をいうと、昨年の2017年の一番最初――1月1日にした記事は、リジューのテレーズの記事でした♪

 そんでもってわたし、リジューのテレーズのことについて書かれた本については、いずれすべて読みたいと思ってるんですけど……この本は去年買って初めて読んだ本だったんですよね

 テレーズは、物心ついた時からすでに修道女になりたいという願いを持ち、16歳の時にカルメル会の修道院へ入り、その後、結核により24歳という若さで亡くなりました。そして、彼女が同じように修道院に入っていた姉に宛てて書いた手紙などが死後に<自叙伝>として出版され、テレーズは亡くなった28年後に聖人として教皇ピオ十一世により列聖されます。

 たぶん、一般的にいって、「マザー・テレサがその生前の偉業により列聖された」と聞いた時、誰もが「それは当然のことだ」と思ったのではないでしょうか。でも、テレーズは24歳という若さで夭折し、修道院にいたのも約八年ほどの期間であり、しかも、生前に書いた書簡が<自叙伝>として出版された功績により……と聞いた場合、正直「え?たったそれだけのことで?」と感じる方は、もしかしたら多いかもしれません(^^;)

 でも、「聖テレーズ自叙伝」を読んでみますと、何故彼女が列聖されるほどの聖人だったのかがよくわかります

 もしかしたらプロテスタントの方の中には(もちろんわたしもプロテスタントなのですが)、「カトリック系の本なんて、オラ読みたくねえだよ☆」という方もいらっしゃるかもしれませんが、とにかく「幼いイエスの聖テレーズ自叙伝」は読んでおいて損はない……という言い方をするのが憚られるくらい、とにかく信仰者の誰が読んでも信仰を鼓舞される、素晴らしい本だというのは間違いないです

 もしこう簡潔に言い表すことが許されるとしたなら、テレーズが列聖に至ることが出来たのはおそらく、その「驚くべき」あるいは「恐るべき」、「霊性の高さ」によってではなかったかと、個人的にはそのように思うんてすよね。

 彼女のようにこれほど神さまに対し忠実に歩み、完璧な信仰を持った人というのは他に誰かいるものだろうか……と、そのようにすら深い感銘とともに感じるわけですが、もちろん彼女はカルメル会の修道女となってのちは一般にいう俗世間といった場所とはほとんど関りを持ちませんでした。つまり、その信仰は非常に内面的なものだったように想像されるわけですが、その反対にマザー・テレサはこの俗世間といった場所へ出て、働きづめに働いた女性であり、同じ「信仰による行い」でも、ふたりは真逆の人生を生きたように見えるかもしれません。

 でも、わたしが思うに……このふたりの偉大な女性の<信仰の実>は同一のものではなかったかというように感じられます。

 また、マザー・テレサ自身、聖テレーズの自叙伝などの言葉、その文章を読んだことによって、彼女から受けた影響というのは多大なものだったでしょうし、テレーズが残した書簡類というのは彼女が列聖されるにまさに相応しい聖遺物であったように思います。

 ええとですね、実をいうと今回はこの『イエスの渇き~小さきテレーズとマザー・テレサ~』という本をわたしが去年最初に読んだ時……実は「あんましよく意味がわからなかった」ということを書こうと思ってたんですよね(^^;)

 なんというか、マザー・テレサや聖テレーズのことについて書かれた他の本を読んだ時にはすぐにスッと心や精神や魂に入ってきたように思うのですが、今二度目に読みはじめてみて――何か少しわかってきたような気がします。

 もし、わたしたちが「イエスさまの渇き」をはっきりと魂に覚えるなら、福音宣教のため、あるいは神さまの愛を拡大するために、とにかく今すぐにでも何かせずにはいられないことでしょう。

 けれども、わたしのようなぬるい信仰生活を送っているぼんくら者はですね(汗)、こういうことに気がついちゃうと何かとまずいもので、それですぐにはこの本に書かれたことが心に染み入るようには入ってこなかったものと思われます

 そして、今もう一度この本を再読する過程で……ちょっとある種の究極的真理に気づいたというのがありまして、そのことを最後に少し書いてみたいと思います。

 長くなるので、「サマリヤの女性」については、こちらの記事を参照していただくとして(「たとえこの世界が終わっても。」)――イエスさまが十字架上で「私は渇く」と言われた御言葉というのは、わたしたちが今生きるこの世界のすべての人がイエスさまのことを信じるに至るまでは……イエスさまの喉、ではなく霊は、ずっと渇いたままなのだということでした。

 ですから、この「イエスさまの渇き」を癒し、潤すために、マザー・テレサはあんなにも熱心になって貧しい人々のことを助けたのですし、テレーズの持っていた信仰というのもまた、「イエスさまの渇き」を癒すためのものだったということなのではないでしょうか。

 もちろん、わたしたちが今仮に1リットルの水を飲んだとしても、明日どころか数時間後には喉が渇いているように……「イエスさまの渇きを癒すために何か信仰的に良いことをしよう」とわたしが思い立ち、自分でそれを実行できたように感じたところで――また次の「水」が必要ということになりますよね?(^^;)

 でも、「イエスさまー、また水が必要なんですかあ?なんかわたし、もう疲れてきちゃったしィ、神さまは霊なんですから、水なんていくらでも自分でどうにかしてくださいよォ☆」というのか、こういう種類の「信仰疲れ」みたいなものは、誰もが一度は経験するものなのではないでしょうか。

 けれど、神さまはこんなわたしたちに聖霊さまを送ってくださり、それこそ御自身が満足するためでなく、むしろわたしたちにこそ聖霊さまを通して全身(肉)と霊の両方が満たされてあまりあるほどの「いのちの水」を日々送り続けてくださるのです。

 このように、わたしのほうでも神さまを愛し、神さまのほうでもわたしを愛してくださる……という永遠に続く愛の循環がある状態というのが、クリスチャン、キリスト教徒にとっては「当たり前」であり、もし現状そうなっていなかったとすれば、何がその神さまとの関係を阻害する原因になっているのかを、祈りの中で神さまと対話しつつ解決していく必要があるのかな……といったように思います(^^;)

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« わたしは本当に惨めな人間です。 | トップ | 脳の報酬系と依存症。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事