神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

リジューのテレーズ。

2016年01月01日 | キリスト教

 あけましておめでとうございます♪

 時々わたし、キリスト教関係の書籍を扱っている本屋さんへ行くのですが……今回は以前読んで、自分にとってあまりにもドンピシャ☆だった本について御紹介したいと思いますm(_ _)m

 いえ、初めて読んだ時は本当に涙が出そうになりました

 今回の記事は内容の一部を抜粋させていただく形ですが、御興味のある方は是非、本のほうを直接手に取ってみてくださいね♪

 ちなみにリジューのテレーズについては、ウィキを御参照くださいませm(_ _)m


(弱さと神の慈しみ~テレーズとともに生きる~伊従信子さん訳・編/サンパウロ刊)


<うぶ毛のテレーズが「弱いままに留まる」というのは、何もしないということではない。弱い小鳥なりに羽ばたこうとする。どうせ飛べないからとうぶ毛の羽の中に顔を隠してしまうのではない。結果的に飛び立つことが出来なくても、くじけることなく、弱い小鳥は今日も、また羽ばたき、新たな努力を続ける。でも、具体的にはどのように努力したらよいのか。すべてが自分の努力にかかっているかのように、しかし同時に神の助けなしに何もできないという神の恵みへの絶対的な信頼のうちに……「自分の功徳はまったくなしに、すべてを神様から無償でいただくのを待ちながら」、「わたしは何も持たないので、神様からすべてを受けるでしょう」と。>

       1

 わたしは自分を、ただうぶ毛に包まれたか弱い小鳥とみなしています。

       2

(どんなに努力して徳を積もうとしてもその結果が思わしくない時)
 あなたが、もし、小さいテレーズがいつも熱心に徳の道を歩いていると思ったら大間違いです。テレーズは、本当にか弱い、か弱い者です。来る日も来る日も、自分の弱さを新たに身にしみて、体験しています。

       3

(人との関係において)
<止め針の刺し傷>(善良だが教養のない一修道女の不愉快な態度)で、わたしは精も根も尽き果ててしまいました。あっちもこっちも小さな穴だけらです。そして、この無数の小さな穴は、大きなひとつの穴以上に、わたしを苦しめます。

       4

 たとえささいな過ちでもおかした後には、しばらくの間ある不快感を体験するものです。するとわたしは自分に言い聞かせます、「これはおまえの過ちの代価ですよ」と。そして借りが支払われるのを根気よく忍耐します。

       5

(小鳥の羽ばたく努力)
 すべての徳の実行にあたって、聖性の階段をよじ登ろうといつもあなたの小さな足を上げてください。それでも最初の一段さえ上がることはできないでしょう。けれども神様はあなたの善意だけをごらんになり、そのうちに何にもならないあなたの努力を見かねて、神様ご自身み腕にあなたを抱え、み国に連れて行ってくださるでしょう。

       6

 たとい何ひとつ主に捧げることができないように感じられても、何もないというそのことをお捧げしましょう。

       7

 あなたは無にすぎないとしても、イエス様はすべてでいらっしゃることを忘れてはいけません。そして、あなたの小さな無を、イエス様の無限のすべての中に消し、もうこの唯一の愛すべきすべてのことしか考えてはいけません……あまりにもみじめな自分をながめると、もうこれ以上自分を顧みたくなくなり、最愛の方だけに目を注ぎます……

       8

 あなたは徳を実行するようにはなれないでしょう。あなたは山をよじ登ろうとするのですが、神様はあなたが自分自身をさげすむことを学ぶ肥沃な谷底へ下りることを望んでおられるのです。

       9

 徳を実行したいと望まない人がいるでしょうか。それは誰にも共通な道です。しかし倒れたり、弱かったりすることを承諾する人、自分がころび、他の者がその現場を押さえるのを喜ぶ人はなんと少ないことでしょう。

       10

 この世において、心の貧しい者になるには、すべてを失わなければなりません。

       11

 主はわたしたちが、自分が無に等しいことをよくよく認め、肝に銘じさえすれば、み手を差し伸べてくださいます。

       12

(「獲得しなければならない色々のことを考えると」と言う一修練女に対して)
 むしろ失わなければならないこととおっしゃい。あなたが欠点を取り除くに従って、すばらしいもので満たしてくれるのは、イエス様です。

       13

 いつも人の目につかず、誰にも見えないで、イエス様にだけ見ていただける小さい砂粒でいることができるよう、お祈りください。そして、この砂粒がますます自分を小さくし、ついには無に帰してしまうように……

       14

 小さい者になりましょう。あまり小さいので、誰からでも踏みつけられることができ、踏まれてもつらいとか、苦しいとかいう様子は少しも表さない者になりましょう……。

       15

 決して、人びとの目に偉大そうに見えるものを探し求めてはなりません。

       16

 ときとして、自分が思わず光るものを望んでいるのに、気がつきます。そんな時には、謙遜に不完全な人びとの間に身を置いて、自分は一瞬ごとに神様の助けを必要とする小さい者だと思いましょう。

       17

 決してねたまれる恐れがないのは、ただ末席だけです。むなしさと悩みのもとでないのも、この末席だけです。

       18

 苦さを味わいながら、つまり、弱々しく苦しみましょう……「イエス様は悲しみながら苦しまれました。人の魂は、悲しみをともなわない苦しみが味わえるでしょうか」。それなのに、わたしたちは、偉そうに苦しみたい……何という思い違いでしょう……わたしたちは、決して倒れたくないのです。

       19

<強い神>であるイエス様がわたしたちの弱さを体験され、かつてはあれほど切に飲み干したいと望んでいた苦しみの杯を目の前にして、震え戦ったことを思うと、ほんとうに慰められます。

       20

 もし、あなたが子供のように弱く無力な者であることを神様が望まれるなら、功徳が少ないと思いますか。一歩ごとにつまずき、転び、自分の十字架を弱々しく担うことを承諾し、自分の無力をお愛しなさい。神の恵みによって、自己満足を満喫させるような英雄的行為を果たすより、そのほうがずっとよいのです。

       21

 わたしは一瞬一瞬しか苦しみません。過ぎ去ったことや、まだやって来ないことについて考えるから、落胆したり、絶望したりするのです。

       22

 一瞬一瞬だと、多くを耐えることができます。

       23

 わたしは 心から望む

 わたしの神よ 試練も苦しみも

 ただ 今日のためにだけ

       24

 苦しむこと、もっと苦しむこと、いつも苦しむこと……でも、すべては過ぎ去ります。

       25

 あらゆる苦しみの泉で思う存分飲んでから、今度は、あらゆる喜悦とあらゆる歓喜の泉のもとで聖化されるでしょう。

       26

 与えられた唯一の苦しみの時を、よく利用しましょう。今というその時、その時だけを眺めましょう。一瞬一瞬は宝です。……たったひとつの愛の行為もイエス様をより深く悟り、永遠にわたって、イエス様のより近くにわたしたちを運んでくれることでしょう。

       27

 自分のうちには神様のまなざしを引くものは何もなく、自分のうちにあるよいものはみな、主の慈しみの業だけであるとよく知っています。

       28

 イエス様、口にも筆にも言い尽くせない主の慈しみ深さを、どれほどすべての小さい者たちに伝えたいか知れません。これはあり得ないことですが、あなたが万一わたしよりもっと弱い、もっと小さい人を見つけられるようなことがあれば、その方が完全な信頼を持って、主の限りない慈しみに身を委ねる限り、主よ、あなたは必ずもっと大きな恵みで満たされることでしょう。

       29

 主の慈しみはなんとわずかしか知られていないのでしょう!……この宝を自分のものとして楽しむには、へりくだって、自分が無であることを認めなければなりません。ところが、これが多くの人びとのしたくないことなのです。

       30

 慈しみ深い 神のみこころに
 わたしは わたしのすべてを与え
 身軽になって わたしは走る
 ただひとつの 富のほかは
 なにものも 持つことなく

       31

 わたしは、何もできない弱い子どもにすぎません。けれども、イエスさま、あなたの愛に、いけにえとして自分を捧げる大胆さをわたしに与えるのは、このわたしの弱さそのものなのです。


 個人的に、自分をまったく<無>と等しいものにし、何もない者をこそ、神は完全に満たしてくださる……というテレーズのメッセージが印象的でした。

 もちろん、マザー・テレサも同じことをおっしゃっていますし、聖書にもそれに通じる説話があると思うんですけど、仮にわたしたちが一つの花瓶(器)であるとして、そこには色々と神様の道を邪魔するもの(自分なりの考え・人間的な知恵)がたくさん詰まっていると思います(わたしもそうです^^;)

 でも本当に貧しく無である者は、何も持たないので、ただ神様からのものだけを受けることが出来る……神に仕える修道女はことにそうあるべきだと、テレーズはそう言っているわけですよね。

 と同時に、すべての人がこの<福音の原理>にも近いものを知ることが出来たらと彼女は望んでいたと思うのですが、なかなかこの部分を他の人に理解してもらうのは難しいことのような気がします。

 つまり、クリスチャンと呼ばれる人がすべて「本当の」クリスチャンではなく、ただ儀礼的に礼拝を守る人々もキリスト教国には多いですから、そういう方々もまた「本当の意味での神の愛を深く知る必要がある」というか、そういう側面があるんですよね。

 なんにしてもわたしの場合、常日頃から神さまに相当良くしていただいてるにも関わらず、なんにもお返しが出来てないなあ……と思うだけに、<無>であればこそ良い、神に真実捧げることが出来るのは人間の<無の心>だけだというテレーズのメッセージには、本当に心を慰められました

 でももちろん、今年の(も?)わたしの目標は、神さまの福音伝道のために何かしら少しは努力することだったりするので、ノミの努力を続ける予定でいます(実はノミには驚異的なジャンプ力があるのです・笑)

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 地獄の実在性。-Ⅲ- | トップ | 恐れからの解放。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事