神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

たとえこの世界が終わっても。

2017年05月24日 | キリスト教
【井戸端のキリストとサマリヤの女】グエルチーノ


 世界の終わり、というと、某日本の人気バンドのことを連想される方が多いかもしれません(^^;)

 ええと、でもセカオワとは関係なくて……ここのブログはキリスト教について何か書くといった主旨のブログなもので、聖書には世界の終わりについて書かれているという、そのことに関連した記事ということになります。。。

 ただ、信仰者としてはもちろん、聖書の黙示録に書かれていることを意識しつつ時代を過ごす必要があるのと同時に、「世界の終わり」と聞いた場合、ふたつのイメージがパッと思い浮かぶような気がします。

 つまり、天変地異を伴う、文字通り、本当の意味での「世界の終わり」と、もうひとつは、自己の内面世界における「世界の終わり」ということです。

 この場合、「自己世界の終わり」とか、「自分自身の終わり」といったほうがより正確かもしれないんですけど、人がその人生を生きていく過程において、「俺の世界はもう終わったな」とか「わたしの世界はもう終わりだ」と感じることは、最低一度か二度はあるものなのではないでしょうか。

 たとえば、それは失恋が原因かもしれませんし、離婚が原因かもしれませんし、あるいは会社をクビになるとか失業するとか、そうした種類のことかもしれません。他に、学校や職場などでいじめかそれに近い状況が許されており、「耐え難いのでもう死のう」とか「自分の世界を終わらせよう」と思うこともあるかもしれません。

 わたしたちが「この世界」と言ったりする時、それは自分の外の世界全般を指していることもあるし、あるいは自分の内面世界を指して「この世界」と言うこともあると思います。心身ともに健全な人というのはおそらく、「外の世界」で受けた刺激をうまく内面の自己世界に取り入れ、適応していける人だと思うのですが、この刺激があんまり強いものだと内面世界に取り込むのが困難となり、ある一定以上のところでシャットアウトすることになるかもしれません。

 わたし自身こうしたことは経験のあることですし、他の誰しもが似た悩み、同じ思いというのは日々経験されていることだろうと思うのですが、先日ラジオで「感情マヒ」という言葉を聞きました。ちょっと不注意で、その会話全体を聞きたかったにも関わらず、聞き逃してしまったのですけど(汗)、この「感情マヒ」というのは、人間相手の仕事をされてる方には結構起きうることだそうです。

 たとえば、看護師さん。患者さんに無理を言われても、とりあえず相手の話をうんうんと聞き、場合によってはかなり腹が立っていながらもニコニコしていなくてはならない……こうした時に「感情マヒ」というのが実は起きているそうです。ようするに、心の表情と顔の表情が一致していないわけですが、これはある意味とても不気味というか、こうしたことが積み重なっていくと、本人も気づかないうちに燃え尽き症候群になったりするということなんですね。

 看護師さんほどストレスのかかる職種じゃなかったとしても、これは接客業をしたことのある方、あるいは現在なさっている方には大体思いあたるところがあるのではないでしょうか(^^;)

 つまり、強い人ほど意外にアブナイというか、自分では外部から来るものに適切に対処しているつもりでも、内面のほうではもうストレスの蓄積に悲鳴を上げており、顔はニコニコしていても心の中は感情がマヒしていればこそニコニコしていられるのだという、ちょっと……いや、かなり怖いことになっているということです。

 次の日にもう死ぬと決めた人が、その前日にはとてもニコニコとしているというのは実はよくあるのではないでしょうか。わたしもそうでしたが、一度心の中でそう「決まる」と、心の重荷がドッと下りて、むしろニコニコできるという領域があります。むしろ、その前段階で「生きるか死ぬか」で物凄く葛藤してますので、その葛藤というストレスがなくなった途端、ほっと安堵するあまり、ニコニコできるというか、そういう種類の微笑みです。

 こういう種類の「世界の終わり」というのは、外から人が見てもかなりわかりにくいと思います。娘さんや息子さんが自殺されたあと、その親戚などが「親のくせに何故気づかなかった」と言ったりされることがあるかもしれませんが、このことに気づくのは親でも非常に難しいです。何故かというと、子供というのはそれが致命的な悩みであればあるほど、親に心配をかけまいとして隠そうとするものですし、学校や職場でも何かの「演技」をし(ようするに、こんなことはなんでもないのだという演技ですね)、家に帰ってきても実はその悩みのことで頭がいっぱいなのに、両親に心配をかけまいとして、ここでも「なんでもない」、「何もない」という演技をする……こうしてその子の中で自分の内面世界が静かに終わった結果――「自殺死」ということが実際に訪れることがあると思います。

 わたしの場合、こうした内面世界の静かな終わりがあったあとにクリスチャンになったので、自分がすでにクリスチャンであって、さらにその後こうした悩みが発生していたらどうだったのか、かなり想像が難しいのですが、聖書には「いのちの水の泉」のことが書かれています。


 >>そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。

 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 そこで、そのサマリヤの女は言った。

「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」

 ――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである――

 イエスは答えて言われた。

「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」

 彼女は言った。

「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです」

 イエスは答えて言われた。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」

 女はイエスに言った。

「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」

(ヨハネの福音書、第4章6~15節)


 この<いのちへの水>というのは、聖霊さまのことでもあると思うのですが、実際本当にイエスさまのことを信じて、聖霊さまを受け、心の、あるいは魂の中からいのちの水の泉があふれでるという経験をすると、「死ぬ」とか「自殺する」といった想念は遠くどこかへ行ってしまうようになります。

 そしてそのかわりに何故か、聖書に書かれている黙示録の時代を「怖い」とか「恐ろしい」と感じながらも、イエスさまが来られることを思うと、「主よ、来てください」との思いがむしろ強くなるような気がします。何故なら、かつてのあの惨めでつらい他の誰にもわからない内面世界の「世界の終わり」と比較すると、実際の世界が終わることのほうが、もしや耐えやすいのではないかと錯覚してしまうからなんですよね(^^;)

 もちろん、核戦争であるとか、今は豊富にあるように思える食物が、終末には旱魃や飢饉によってなくなってしまい……その食糧の奪い合いによってこの地球は滅ぶのではないかと予測される方もおられますし、そんなつらい時代に身を置くというのは恐ろしいことなのですが、「イエスさまが来られる」、「携挙の望みがある」と思うと、恐怖よりも平安な思いのほうが強くなるのですから不思議な気がします。

 今という時代はそうではなく、先進国においては特に「物資は豊富にあるが、心の中に旱魃があり、飢饉がある」という状態かもしれません。けれど、こうした心の旱魃や飢饉をも、イエスさまが癒してくださいます。救われる方法は簡単です。ただ、神さまの御元に出ていって、サマリヤのあの女性のように、「わたしにもその水をください」と言えばいいのです。

 この<いのちの泉>の水が手に入らないがゆえに、絶望して自ら命を断ってしまう方がたくさんいます。外の世界は終わらなくても、自分の内側の世界が終わってしまい、どこからも修復するための力が入って来ないからです。今日、世界は終わりません。おそらく明日も続いていくだろう……という、漠然とした望みの上に希望を見るよりも、イエスさまに目を留め、主の永遠の憩いの中で安らうことのうちに救いを見て、日々生かされていきたいと願います。

 それではまた~!!





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