子を「つかまえる」
親はいつまで子どもをつかまえていられるだろう。心配はずっと続くが、「つかまえる」ということで考えると、短い時間のように思う。
息子が小一か小二のときのことだった。
近所の遊び友達の中にちょっと苦手な子がいた。家に来ては我が物顔でふるまう子だと、息子は言っていた。
その日、息子はたまたま家に居た私に「もし○○ちゃんたちが来たら、いないって言ってね」と頼んできた。私は承知した。とそのとき、その子を含んだ数人が、玄関の呼び鈴を鳴らしたのである。
私は玄関口で、息子に言われた通りに告げた。けれど、その子らは納得しない。さっき家に入るのを見かけたとか何とかいう。私は困った。
すると、後ろに隠れていた息子がいきなり顔を出して、「入んなよ」と、何事もなかったように家に招き入れたのだ。しょうがないなあ、という、妙におとなびた顔つきだった。
私は唖然(あぜん)とした。ついさっき結構真剣な顔で頼み込んできたではないか。
―何十年も前のことを覚えているのは、たぶんこのとき、息子のなかに親がもう分からない心が生まれているのだと、初めて受け止めた体験だったからだろう。
私自身、母に自分のことを全部話すということをしなくなったのは、小一のときのことだった。母べったりの子どもであったのに、である。
その後も母は大事な存在であり続け、亡くなった今も心に大きく座を占めている存在である。けれど、まるごと分かられることを良しとすることは、できなかった。
乳幼児の二十四時間を、母親はまるごとつかんでいるだろう。けれど、やがて、子どもは母の圏外に出ていく。つかまえて腕のなかに抱え込むことができなくなる時がくる。さみしいことだが。
そうであるなら、いや、そうであればこそ、今を精いっぱいいとおしむこと、それが、親にゆるされることかと思うのである。
●ご訪問ありがとうございます。
子どもは、いくつになっても気がかりな存在です。けれど、たぶん子どもは、その何分の一も親を気にかけていないでしょう。自立心が強い子どもほど、そうかもしれません。
不器用な親を続けていますが、祈りつつ、見守っていきたいと、強く思います。