サンマリノ共和国の歴史 Wikipedia
サンマリノ共和国(さんまりのきょうわこく)、通称サンマリノは、イタリア半島の中部に位置する共和制国家。共和国とは、君主(王族)が存在しない国家であり、君主が存在する国家(王国、帝国など)を君主国という。 周囲は全てイタリアで、イタリアから入国審査なしで入れる、世界で5番目に小さな国であり、アメリカ大陸が発見される前に、初代大統領が就任していた現存する世界最古の共和国である。 海とは接していないが23kmしか離れておらず、国土自体が高台にあるためアドリア海を眺望することはできる。大きさは東京都世田谷区とほぼ同じ、人口は約3万人。 サンマリノはとても小さいが、1つの国として認められており、いわゆる「国家の中の国家」である。 60名の議員、大議会と総会、任期6ヶ月の2名の大統領、司政長官からなる。EUには加盟していないが、1992年、ニューヨークにて、国連に全員一致で加盟。 ティタノ山がその国の大部分を占めている。山頂には古い街と政府官邸を持つ首都、その周りの粘土質の土壌から、かつては貧困の地方だったということが分かる。 こんな小さくて貧しい州が、どのようにして国になれたのだろうか?
「NEMINI TENERI」とは「誰にも頼らず」の意味を持ち、「自由」の概念を表わす中世の言葉である。 聖人の名前はマリノである。石工で、ローマ皇帝ディオクレティアヌス時代、ダルマチアから、アドリア海を越えて信仰仲間と一緒に渡って来た。おそらく迫害から逃れるためだったと思われる。石ですべて自分の手で礼拝所を建設し、土台から屋根の瓦まで、自分の信頼同様に強くて永遠に残る作品を造ろうとした。山の片隅を掘ってベッドも造ったと云われている。伝説によると、301年9月3日に亡くなった。共同体への遺産として、その山と、後に「自由」と呼ばれる概念を残した。
礼拝堂周辺には、平民、貧民、信者からなる集団を形成した。山の南下に菜園を作るため、灰色がかった岩石台地を開拓し、種がまける状態にまで土をやわらかく耕し、苦労の末それに適した土壌を開拓した。この世のものとは隔離された状態で、住民達は自給自足を行なった。 他人に無視され、非常識と思われるであろう彼らの信条「他人へのいかなる義務も負わない」という「NEMINI TENERI」を貫き通した。
周辺では君主統治が繁栄するなか、サンマリノだけは自治都市のままであった。リミニのシジスモンド、ウルビーノのフェデリコは主権者として彼らの領地を小国家として再編成し、居城を豪華絢爛に飾り立てるなどまるで国王気取りであった。 サンマリノはその両者に抵抗した。敵の追従と策略を回避しながら、自国とそれらとの違いを訴え、自国を「共和国」と定義し「共和国は民主国家である」と唱えながら、自治体としての位置を確固たるものにしていった。 サンマリノを外敵から守る、高くそびえる城壁にさらに防壁を建設し、そこの兵士は常に目を光らせ、武器をピカピカに研磨し、戦の始まりを意味するグアイタの鐘が鳴る日に備えていた。 サンマリノには武器が豊富にあり、任期6ヶ月の2名の司政長官は強力な新型石弓を所持していた。また、渇水や飢餓の脅威に苛まれながら、市民は傭兵をすることで武器の使い方も習得していった。善行苦行を積み重ね、自らの信条を手にサンマリノは時代の鍵を握るまでになった。そして悪行にはすばやく目をつけ威嚇した。 サンマリノ彼らにとって戦攻略は、あらゆる規則やモラルを取り去った芸術であり知的なゲームであった。
1463年、マラテスタ家が教皇とモンテフェルトロに挟まれ困難な状況になり、サンマリノは攻撃を開始した結果、この一つの勝利だけでサンマリノの面積は二倍に拡大した。やがて戦いは終わり、マラテスタ家を筆頭に、全ての領主が落胆し武器を捨て降伏した。
ナポレオンもまた1797年、イタリア半島遠征の際、サンマリノを前に震え立ち尽くし、自由主義共和国の模範であると指摘し、直に海までの領土拡大を申し出た。しかし思慮深いサンマリノはその申し出を断った。 ナポレオンの攻撃により次々に降服していき、彼の領土が拡大するにつれ全ヨーロッパに衝撃は広がり、もはや世界は彼の思いのままであった。領土拡大により、外交的地理も変化し続け、古代共和国ルッカ、ジェノバ、ヴェネツィアなども圧縮されたが、サンマリノは例外であり、ナポレオンが自らの頭に冠を掲げ、革命の理想を欺いたときでさえ「共和国」として存続し続けた。サンマリノにとってナポレオンは巨匠であり賢人で、彼はサンマリノを保護庇護し、サンマリノに寄付贈与を申し出るなど、そしてついには、国家間の大使間貿易や条約締結を行なう実在国家としてサンマリノを表明するまでとなり、独立国家「NEMINI TENERI」がこれにより初めて民衆と国家間で承認されることとなる。
20世紀:国際的な承認と国連への加盟
現在サンマリノは政治的な実体を持つひとつの国であると承認されている。この公認により、アルプス以北のどこの協定にもサンマリノの主権がその中に含まれている。40年間の努力の結果、まずイギリス、次にオランダ、ベルギー、米国と「逃亡犯人引き渡し協定」を締結した。1908年、さらに前進。サンマリノは国際農業機関に加盟。それはサンマリノにとり最初の国際団体への加入となる。1971年より大使を任命し、欧州連合閣議と欧州安全保障協力会議に加盟。次に世界間で最も重要な会議が行われる国連に加盟。国連の盟約には、「加盟諸国間では、それぞれの国の大小や地理的な位置に関係なく法律的に同権であり平等である」と記されている。それは、キリスト教の中世初めにティタノ山・聖人の礼拝堂の近くで生まれた「自由の概念」の実現ではないだろうか? 閉ざされた山地に住んでいた何人かの人々の力から生まれ守られ続けてきたその「自由の概念」が、今では広く承認された概念となったと言っても過言ではない。
「自由」とは、「平和」とは、勝ち取るものである。 智慧と武力が無ければ侵略されて当然。
それを、サンマリノ共和国の歴史は示している。
世界遺産にも認定されている。サンマリノのGDPの50%以上は観光客(281万人、2004年)によるものであり、1997年には330万人以上が訪問している。その他の基幹産業は、銀行業、電子産業、窯業であり主な農産品はワインとチーズである。最近、海外との経済ネットワーク作りを国家をあげて力を入れている。特に、日本との経済交流、情報交換、サンマリノ企業が日本への進出および提携に力を入れている。サンマリノの法人税は17%と定額であり、それ以外の税金はない。特に消費税は一切ないため、イタリア国内または、海外からの買い物観光客が多い。税率が低いため、海外からの企業進出も増加の傾向にある。
ペ・ヨンジュン 배용준 Bae YongJoon 勇俊 イ・ジュンギ 이준기 Lee JunKi 李準基 チャン・グンソク 장근석 Jang GeunSuk 張根碩 イ・ビョンホン이병헌 Lee ByungHun 李炳憲 ハン・ヒョジュ 25049 한효주 Han HyoJoo 韓孝珠
※尖閣諸島領有権に関して。 → 尖閣事変
※従軍慰安婦の嘘に関して。 → 宮崎駿の【従軍慰安婦講座】
※竹島領有権に関して。 → 宮崎駿の【竹島講座】
※北方領土領有権に関して。 → 北方領土への道
※靖国参拝に関して。 → ☆きゃりーぱみゅぱみゅパフュームらが靖国で演舞。2014年「平和の誓い」は最高潮へ。
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初出:2010-06-20 17:19:33
サンマリノ共和国(さんまりのきょうわこく)、通称サンマリノは、イタリア半島の中部に位置する共和制国家。共和国とは、君主(王族)が存在しない国家であり、君主が存在する国家(王国、帝国など)を君主国という。 周囲は全てイタリアで、イタリアから入国審査なしで入れる、世界で5番目に小さな国であり、アメリカ大陸が発見される前に、初代大統領が就任していた現存する世界最古の共和国である。 海とは接していないが23kmしか離れておらず、国土自体が高台にあるためアドリア海を眺望することはできる。大きさは東京都世田谷区とほぼ同じ、人口は約3万人。 サンマリノはとても小さいが、1つの国として認められており、いわゆる「国家の中の国家」である。 60名の議員、大議会と総会、任期6ヶ月の2名の大統領、司政長官からなる。EUには加盟していないが、1992年、ニューヨークにて、国連に全員一致で加盟。 ティタノ山がその国の大部分を占めている。山頂には古い街と政府官邸を持つ首都、その周りの粘土質の土壌から、かつては貧困の地方だったということが分かる。 こんな小さくて貧しい州が、どのようにして国になれたのだろうか?
「NEMINI TENERI」とは「誰にも頼らず」の意味を持ち、「自由」の概念を表わす中世の言葉である。 聖人の名前はマリノである。石工で、ローマ皇帝ディオクレティアヌス時代、ダルマチアから、アドリア海を越えて信仰仲間と一緒に渡って来た。おそらく迫害から逃れるためだったと思われる。石ですべて自分の手で礼拝所を建設し、土台から屋根の瓦まで、自分の信頼同様に強くて永遠に残る作品を造ろうとした。山の片隅を掘ってベッドも造ったと云われている。伝説によると、301年9月3日に亡くなった。共同体への遺産として、その山と、後に「自由」と呼ばれる概念を残した。
礼拝堂周辺には、平民、貧民、信者からなる集団を形成した。山の南下に菜園を作るため、灰色がかった岩石台地を開拓し、種がまける状態にまで土をやわらかく耕し、苦労の末それに適した土壌を開拓した。この世のものとは隔離された状態で、住民達は自給自足を行なった。 他人に無視され、非常識と思われるであろう彼らの信条「他人へのいかなる義務も負わない」という「NEMINI TENERI」を貫き通した。
周辺では君主統治が繁栄するなか、サンマリノだけは自治都市のままであった。リミニのシジスモンド、ウルビーノのフェデリコは主権者として彼らの領地を小国家として再編成し、居城を豪華絢爛に飾り立てるなどまるで国王気取りであった。 サンマリノはその両者に抵抗した。敵の追従と策略を回避しながら、自国とそれらとの違いを訴え、自国を「共和国」と定義し「共和国は民主国家である」と唱えながら、自治体としての位置を確固たるものにしていった。 サンマリノを外敵から守る、高くそびえる城壁にさらに防壁を建設し、そこの兵士は常に目を光らせ、武器をピカピカに研磨し、戦の始まりを意味するグアイタの鐘が鳴る日に備えていた。 サンマリノには武器が豊富にあり、任期6ヶ月の2名の司政長官は強力な新型石弓を所持していた。また、渇水や飢餓の脅威に苛まれながら、市民は傭兵をすることで武器の使い方も習得していった。善行苦行を積み重ね、自らの信条を手にサンマリノは時代の鍵を握るまでになった。そして悪行にはすばやく目をつけ威嚇した。 サンマリノ彼らにとって戦攻略は、あらゆる規則やモラルを取り去った芸術であり知的なゲームであった。
1463年、マラテスタ家が教皇とモンテフェルトロに挟まれ困難な状況になり、サンマリノは攻撃を開始した結果、この一つの勝利だけでサンマリノの面積は二倍に拡大した。やがて戦いは終わり、マラテスタ家を筆頭に、全ての領主が落胆し武器を捨て降伏した。
ナポレオンもまた1797年、イタリア半島遠征の際、サンマリノを前に震え立ち尽くし、自由主義共和国の模範であると指摘し、直に海までの領土拡大を申し出た。しかし思慮深いサンマリノはその申し出を断った。 ナポレオンの攻撃により次々に降服していき、彼の領土が拡大するにつれ全ヨーロッパに衝撃は広がり、もはや世界は彼の思いのままであった。領土拡大により、外交的地理も変化し続け、古代共和国ルッカ、ジェノバ、ヴェネツィアなども圧縮されたが、サンマリノは例外であり、ナポレオンが自らの頭に冠を掲げ、革命の理想を欺いたときでさえ「共和国」として存続し続けた。サンマリノにとってナポレオンは巨匠であり賢人で、彼はサンマリノを保護庇護し、サンマリノに寄付贈与を申し出るなど、そしてついには、国家間の大使間貿易や条約締結を行なう実在国家としてサンマリノを表明するまでとなり、独立国家「NEMINI TENERI」がこれにより初めて民衆と国家間で承認されることとなる。
20世紀:国際的な承認と国連への加盟
現在サンマリノは政治的な実体を持つひとつの国であると承認されている。この公認により、アルプス以北のどこの協定にもサンマリノの主権がその中に含まれている。40年間の努力の結果、まずイギリス、次にオランダ、ベルギー、米国と「逃亡犯人引き渡し協定」を締結した。1908年、さらに前進。サンマリノは国際農業機関に加盟。それはサンマリノにとり最初の国際団体への加入となる。1971年より大使を任命し、欧州連合閣議と欧州安全保障協力会議に加盟。次に世界間で最も重要な会議が行われる国連に加盟。国連の盟約には、「加盟諸国間では、それぞれの国の大小や地理的な位置に関係なく法律的に同権であり平等である」と記されている。それは、キリスト教の中世初めにティタノ山・聖人の礼拝堂の近くで生まれた「自由の概念」の実現ではないだろうか? 閉ざされた山地に住んでいた何人かの人々の力から生まれ守られ続けてきたその「自由の概念」が、今では広く承認された概念となったと言っても過言ではない。
それを、サンマリノ共和国の歴史は示している。
世界遺産にも認定されている。サンマリノのGDPの50%以上は観光客(281万人、2004年)によるものであり、1997年には330万人以上が訪問している。その他の基幹産業は、銀行業、電子産業、窯業であり主な農産品はワインとチーズである。最近、海外との経済ネットワーク作りを国家をあげて力を入れている。特に、日本との経済交流、情報交換、サンマリノ企業が日本への進出および提携に力を入れている。サンマリノの法人税は17%と定額であり、それ以外の税金はない。特に消費税は一切ないため、イタリア国内または、海外からの買い物観光客が多い。税率が低いため、海外からの企業進出も増加の傾向にある。
ペ・ヨンジュン 배용준 Bae YongJoon 勇俊 イ・ジュンギ 이준기 Lee JunKi 李準基 チャン・グンソク 장근석 Jang GeunSuk 張根碩 イ・ビョンホン이병헌 Lee ByungHun 李炳憲 ハン・ヒョジュ 25049 한효주 Han HyoJoo 韓孝珠
※尖閣諸島領有権に関して。 → 尖閣事変
※従軍慰安婦の嘘に関して。 → 宮崎駿の【従軍慰安婦講座】
※竹島領有権に関して。 → 宮崎駿の【竹島講座】
※北方領土領有権に関して。 → 北方領土への道
※靖国参拝に関して。 → ☆きゃりーぱみゅぱみゅパフュームらが靖国で演舞。2014年「平和の誓い」は最高潮へ。
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初出:2010-06-20 17:19:33
ORICON NEWS 2019/03/04 04:00
https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E6%B2%A2%E4%BF%8A%E5%BD%A6%E3%80%8C%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%81%8B%E3%82%89%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E3%81%B8%E3%80%8D-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%8E%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%8C%E7%A7%B0%E5%8F%B7%E6%8E%88%E4%B8%8E/ar-BBUkgMy#page=2
THE ALFEEのリーダー・高見沢俊彦(64)がイタリア半島の中部に位置する『サンマリノ共和国』より「騎士の称号」を授与され、3日、都内で行われた式典に出席。記念品を受け取った高見沢は「緊張しています。こういう場に慣れてるはずですが、心拍数がMAXです」とあいさつした。
バンドとしてもデビュー45周年の節目を迎え「長くやってきてよかったなと思ってます」と笑みをこぼすと、「王子(キャラ)から騎士へ。これを励みに音楽と小説の二刀流で頑張っていきたい」と言葉に力を込めた。
世界で“5番目”に小さな独立国として知られるサンマリノ共和国。日本とは1961年に領事関係、96年に外交関係が開設。高見沢は、駐日サンマリノ共和国特命全権大使・マンリオ・カデロ氏との交流が深く、昨年に同国へ初訪問した。今回は、芸術文化などの分野で広く貢献した人物に贈られる『聖アガタ勲章』より「Cavaliere ufficiale(Knight Officer)」を授与された。
式典に出席したマルコ・ポデスキ大臣は「高見沢氏は、サンマリノを訪れ、我らがサンマリノ共和国に対して心からの親睦の意を述べてくださっただけでなく、積極的にサンマリノの魅力を日本に紹介し、我が国においても、日本の文化や知識を広めるための惜しまぬ努力を示してくださいました」と感謝。
さらに「来年2020年には、ぜひともサンマリノ共和国にいらっしゃって、中世を思わせる町並みと天空の絶景をバックに、コンサートを開催してくださることを強く願っております」とラブコールも。実現すれば、同国でパフォーマンスした初の日本人アーティストとなる。
終了後、報道陣の取材に対応した高見沢は、コンサートの実現について「ぜひとのことなので、やってみたいですね」と前向き発言。長年“王子キャラ”として親しまれているが「常々言っていますが、王子は若い人のことなんです。これからは『騎士』で。ウィキペディアもそのようにお願いします」と呼びかけ、笑わせていた。