欺瞞的善人の悲哀

欺瞞は汚いので消します。カレーはポークです。 この世の「最良の精神たち」よ さあ共に闘おう!

嵌められた大日本帝国 日中戦争の真実 南京大虐殺

2015-07-17 21:05:46 | 中国共産党
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史上最悪の内戦国家中国
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大東亜戦争の緒戦となった日中戦争(1937-1945)当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家であった。 各軍閥は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆だった。民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達しており、そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も何度も起きていた。そしてその度に、中国人同士による「共食い」が発生している。 「日が暮れる前に、街という街には通行人の姿は見られなくなった」-資治通鑑 当時、中国の市場では「人肉」が売られていた。人肉は獣肉よりも「手軽に」入手できたため安値であり、男性の肉は女性の肉よりも硬いために最も価値が低かったという。 彼らは、生きる術として人を狩りその肉を喰った。そうした、生きるだけが目的である「最大不幸社会」の中、人々の中に「他人が早く死ぬことを望む性格」や、「人の弱みを見ればとことんつけこむ民族性」などが形成されていった。

西欧列強は、当時次々とアジア諸国に手を伸ばし、「植民地化」を進めていた。「主人は白人で、黄色人種は召使いとなる」という「白人至上主義」がアジアを覆っていた。 1839年には、英国が大量のアヘン(麻薬)を清国に売りつけようとしたことが発端となり、それを清国が拒むと、圧倒的な軍事力をもって清国を叩いた(阿片戦争 1840-1842)。 一方、ソ連も、アジアに対し膨張主義をとっていた。共産主義革命を経たソ連は、さらに「世界革命」を目指し、全世界を「赤化」(共産主義化)しようと、「南下政策」すなわち侵略を続けていた。 この混乱する中国に「西欧列強またはソ連」の勢力が居座ってしまえば、それは日本の危機に繋がることから、日本は、中国が外国の勢力に侵されることのない近代化された強力な国家となり、やがて日本と共に西欧の植民地主義やソ連の侵略に対抗していく戦略をとった。

日本は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、清国(中国)からの留学生を毎年受け入れた。 その中国人留学生の数は、ピーク時の1906年には、2-3万人にものぼった。 後に中国に、親日また反共(反共産主義)の南京国民政府を樹立した汪兆銘(おう ちょうめい、1883-1944)も、法政大学で学んだ人物である。日本は彼らを進んで受け入れ、中国の未来のために官民をあげて支援していった。 日本は、それが「資源獲得と安全保障のため」というだけでなく、中国と東アジア全体の繁栄のために不可欠と考えた。 それが中国社会に与えた文明開化の衝撃は、かつて日本が遣隋使や遣唐使を通して文明開化を経験したときに匹敵するものだった。 「人民」「共和国」「社会」「主義」「改革」「開放」「革命」「進歩」「民主」「思想」など、現代中国語にある外来語のうち約36%は、元々日本語のものである。



中国人の子供や大人と共に正月の万歳をする日本兵たち(1938) すでに日中戦争は始まっていた



中国人の子供と日本兵(1938)

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清朝の滅亡と中華民国の誕生 大東亜共栄圍構想の頓挫
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清朝の終わりに中国で革命が起こり、南京に「中華民国」臨時政府が樹立した(1911)。臨時大総統に革命家の孫文(そんぶん)が就任する。 しかし、それが全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していた。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」と罵り合い、内戦を繰り返していた。 孫文は「日本と連携して近代的な独立国家の中国をつくろうとした」が、清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)の陰謀により、新政府は乗っ取られる。 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「騙す者と、騙される者」の歴史である。中国『六韜』(ろくとう)と呼ばれる歴史書が有名で、これは一言でいえば、「いかにして人を騙すか」ということが趣旨になっている。

袁世凱は、崩壊寸前の清朝から孫文を討つために遣わされて来たが、こともなげに清朝を裏切り、新政府の乗っ取りを謀った。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位を譲ってしまった(1912)。 かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを思っていた。しかし中国では「利害次第でどうにでも動く人々」が大勢を占めていた。 あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生し心から喜んだ一人だったが、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ」と語った。この時、中国での維新を目指し「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の「大東亜共栄圍構想」は、実質的に「頓挫」した。こうして、近代中国の独裁政権による歴史が開始された。

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反日運動の発生と継続
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袁世凱は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」(敵勢力同士を対立させ戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかること)を実践し、西欧列強と日本を対立させ、さらに嘘とデマゴギーにより反日運動を展開する。 さらにそこには「中華思想」(中国は世界の中心であり最高であるという根拠無き独善的思想)があり、西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起こされた。 しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも「とくに日本人に対して」向けられるようになる。西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからである。 台湾の歴史家 黄文雄氏は「自分の敵わない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である」と語っている。 1926年の「万県事件」では、反英運動が広まるなかイギリスの商船が中国側に拿捕されたが、その時イギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊した。 これにより反英運動は消滅した。

日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べるとあまりに誠実だった。 西欧列強の軍隊が占領した地域では「白人至上主義」により、住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていたが、日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていた。日本には、「弱きを助け、強きをくじく」という伝統的美徳があるが、中国人にはこれが理解できず「単にそこに弱味があるから」と解釈する。 中国の文豪・魯迅(1881-1936)も、「中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だ」と嘆いている。 中国にとって米国は昔も今も大きな敵であるが、米国は日本のように「理由も無く謝り引き下がらない」ので、中国で反米運動は燃え上がらない。 そして反日運動を利用して「国内の不満を外に向け」中国政府への不満のガス抜きをする。

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中国共産党の台頭
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さて、孫文の作った「中国国民党」は、孫文亡き後、蒋介石(しょうかいせき)が継いだが、国民党もひどい内戦を繰り返し、分裂していく。しかしそこから分かれた汪兆銘(おうちょうめい)が、中国の未来を考え、1940年親日政権(南京政府)を樹立した。 汪兆銘は、当初は反日家だったが、国民党内では蒋介石より人望があり、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていた。 日中戦争は、大東亜戦争(太平洋戦争)終結までの8年間と言われているが、実際には日中の戦闘は1年半あまりで終結し、日本軍はそれ以上進攻せず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中した。 その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、鉄道も作られ、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差があった。  蒋介石は当初、日本と戦う気は無かったが、毛沢東率いる「中国共産党」の策略に嵌った。 蒋介石は、「張学良」の裏切りにより、西安にて潜んでいた際 中共兵に捕らえられ捕虜となってしまう(西安事件・1936)。そこに、ソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、「蒋介石を殺さず日本軍と戦わせよ」との指令が下された。 毛沢東は蒋介石に「命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え」と告げ、いわゆる「国共合作」が実現した。 また、ソ連政府からも、直接、蒋介石へ要請があった。この当時、蒋介石の息子の蒋経国がモスクワに留学中だったので、蒋介石としては息子がソ連の人質に取られているようなものだった。昭和12(1937)、国民政府とソ連との間で「中ソ不可侵条約」が締結され、国民党政府はソ連から大量の武器援助を受けることになった。

蒋介石が、敵を共産軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといっていいだろう。 なぜならば、そのために彼は後に共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら台湾に渡らねばならないはめになったからである。 また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとって極めて不幸なことだった。「国共合作」といっても実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは(米国に手引きされた)蒋介石だけだった。 国民党軍が日本と戦っている間に、中共軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去った後に国民党軍を打ち負かすことになる。 その結果、中国は近代的国家になるどころか、結局、独裁的な共産国家となってしまった。



道端に打ち倒されていた孫文の銅像に中華民国旗をかける日本兵。日本の文化には破壊的行為はそぐわない。


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盧溝橋事件/通州事件から日中戦争へ
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当時、日本軍は中国の北京近郊や満州に駐留していた。こうした駐兵は、平時においてはすべて国際条約に基づいた合法的なものであって「北京議定書」という法的根拠に基づいていた。当時の中国は、外国の平和維持軍の存在なしには治安を守れなかった。 ここで毛沢東の共産軍は、盧溝橋(ろこうきょう・北京市南西郊外)の北で夜間演習の休憩時間中の日本軍に、国民党軍第29軍(宋哲元軍長)の駐屯地の方角から数発の銃弾を撃ち込んだ(事件の首謀者・劉少奇自身が自分の手柄話として語っている)。 しかし当時、日本は中国との紛争を避ける方針だった故、それに応戦しなかったが、翌朝、再三にわたる銃撃を受けたため、ようやく付近にいる「国民党軍」を攻撃した。 これが、「盧溝橋事件」(1937)と呼ばれる「日中戦争」すなわち蒋介石の軍と日本軍の最初の交戦である。しかし、この事件は現地の日本軍も国民党軍にも腑に落ちない事件であって、「共産党軍が仕掛けたワナ」だということが分かり、数日後には「現地停戦」が成立。これで収まってしまえば共産党軍が意図している国民党軍と日本軍の戦争拡大には繋がらないので、中共軍は、現地の停戦協定が成立しそうになると、各地で日本人に対するテロ虐殺を繰り返し、挑発した。米国の新聞記者、ウォルター・リップマンも、「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」と記述している。当時のイギリス陸軍の元師も、「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる」と述べた。 そして日中全面戦争突入の決定的な原因となった事件は「通州事件」である。 中共軍に対して日本は忍耐の限りを尽くし、1938年から1941年の間に、中国側に有利な条件で12回もの和平提案を行なっている。 しかしやがて日本は中共軍の罠に嵌り、蒋介石の国民党軍と全面的戦争状態に入っていく。

北京の東にある通州というところで起きたこの「通州事件」は、今ではほとんど語られない。学校の教科書には全く出て来ず、多くの歴史書や年表からも消されているため、事件の名前すら知らない人が殆どかもしれない。 この事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、「中国人の保安隊」による大規模な日本人虐殺事件である。通州の日本軍守備隊は全滅、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で惨殺された。 戦後の「東京裁判」で、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、しかしウェッブ裁判長によって、その申し出は「却下」された。何故なら、この事件にふれてしまうと日中戦争は日本だけが悪いと言えなくなってしまうという判断があったからだと思われる。ただし、通州事件の目撃者による口述書だけは受理された。あまりに残虐な内容だが、その一部を引用しよう。 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全員強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7,8名の女が全員裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。 東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、叫び、各戸ごとに捜索すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」 中国の保安隊は、日本人居留民を通州城内に集め、城門を閉じ、逃げられないようにして一斉に殺戮行為を開始したとされる。決して偶発的な出来事というわけではなく、明らかに事前準備と計画をともなった組織的な行為だった。この虐殺は、当然ながら現地の日本軍兵士を激昂させ、東京日日新聞は1937年7月31日付号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」と事件を報道し、国民の中国に対する怒りは頂点に達した。 「盧溝橋事件」は純粋に軍どうしの衝突であり、それは現地で解決がはかられたが、この「通州事件」は明らかな「国際法違反」であり、その殺し方はまさに鬼畜の仕業と言える。この事件を他に置いて日中戦争を語ることはできない。

やがて、国民党軍はどんどん弱体化し、首都南京が陥落。首都を重慶に移し、そこに日本軍が爆撃を行うと、それが「中国に権益を持つ欧米」の反感を買い、日本への「経済制裁」へと繋がった。一方、中共軍はどんどん力を回復し、日本軍の後方に広がることに成功した。 やがて1945年、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏すると、日本は中国大陸から引き上げていく。しかしその直後、共産軍と国民党軍の内戦が再び勃発し、共産軍はまたたく間に国民党軍を破り、全土を制覇する。こうして共産主義の「中華欺瞞共和国」が誕生した(1949)。

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中国民衆を虫けらのように大虐殺した中国軍
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中国軍と日本軍の間には、大きな質的差異があった。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大虐殺したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとした。 中国では伝統的に、「民衆とは戦乱で虫けらのように殺される存在」であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていなかった。梁啓超(りょう けいちょう)は、中国の民衆を「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいる。 共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊(盗賊)と呼ばれていた。 彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからであり、中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせた。また、そうしないと司令官が殺されてしまう状況があった。 また、中国兵は、負傷すると置き去りにされた。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していた。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したと言われる。彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからだ。 しかしこれらも至当な政策だということができるだろう。 中国では人民は不足しないからである。そしてこれらの記録にはその証拠は少ない。であれば、中国の嘘プロパガンダは有効なはずである。 「南京大虐殺」もまた、そのようにして、戦後創作されたものだ。



「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭を行なう日本兵(1938)。
日本軍は戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。 このような文化は中国には無い。

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南京大虐殺
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南京大虐殺とは、日中戦争において「日本人が中国人を30万人虐殺した」という捏造事件である。 日本軍は、都市に近付く時には必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をした。これは、「降伏するなら都市を破壊することもせず住民の安全を保証する」というもの。「歴史ある都市を戦場にし破壊してはならない」との発想である。 これに対して中国の場合は、退却のたびに道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊する「焦土作戦」を採った。それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなった。 とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちだった。 一方、その後にやって来た日本軍は、中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎した。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見た。 これこそは、「人民解放軍」と呼ぶことができるだろう。



日本兵と遊ぶ中国人児童ら(1937)

日本政府は1938年に中国での「農業復興計画」を発表し、実行している。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものだった。 絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の投資によるものである。 1945年までの日本の対中国投資の累計は、約47億円にも達していたとされる(当時の日本の国家予算は約20億円)。 当時を知る中国人には当然親日家は多く、いわゆる中国残留孤児は彼らによって保護されたと思われる。

「南京学会」の調査によれば、日本が南京を占領したあと避難していた市民たちが戻り、1ヶ月後には人口が25万人になっている。仮に大虐殺が行なわれたとすれば、その都市に住民が戻ってくるわけはないと考えることが出来る。 東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』では、3万余枚の写真を3年あまりかけて、撮影者、撮影場所と時期、キャプション、出所・提供者など写真の特性を洗い出し分析し、「証拠写真」とされる143枚の写真に通用するものは1枚もないことを明らかにした。 南京で、日本軍兵士による犯罪がまったくなかったわけではないだろう。その中国人の中には劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将のように、南京戦で日本軍の捕虜になりながら、のちに汪兆銘の親日政府において和平救国軍軍長になった人物もいた。 南京攻略の司令官だった松井石根大将は、南京攻略戦の最中、焼け跡から赤子の泣き声を聞き、秘書の岡田尚に捜して来るよう命じた。彼は松井の一字をとって「松子」と命名し、南京の入城時には、岡田秘書がこの赤子を背負って入城した。


南京城内には、無数の軍服が脱ぎ捨てられていた。上海・南京戦で日本が最も悩まされたのは、支那の「便衣兵」(ベンイヘイ)である。便衣とは、民間人の平服(普段着)のこと。 彼らは戦況不利と見るや、軍服を平服に着替えて一般市民を装い、武器を持って市中に潜伏し、隙を見て、奇襲・破壊工作をする。 このゲリラ部隊が、「便衣兵」と呼ばれ、日本軍は便衣兵を攻撃したが、軍人を何人殺しても「虐殺」とはならない。 指揮官が相手の指揮官に正式に降伏を申し入れれば、捕虜として扱われる場合はあるが、軍司令官は既に逃亡していた。これが、南京事件の本質である。

日本軍は、大東亜戦争時アジア諸国に迷惑も掛けたが、日本の戦いが、「欧米による支配からの解放」のきっかけとなった見方があり、感謝されている。 元南海支隊の西村幸吉さんによれば、「対オーストラリア戦」にて、日本側の小隊長が狙撃され亡くなり、その遺骸を西村さんが引っ張りに出たとき、彼らオーストラリア兵は、一切、西村さんに対して、撃ってこなかったという。そして西村さんが自陣に戻ったそのあと、猛然と撃ち掛けてきた。これが、「オーストラリアの武士道精神」である。 中国、朝鮮人には、武士道精神は無い。福沢諭吉は、今から100年以上も前に『脱亜論』にて、「中国、朝鮮の狡猾さ」を看破し、「彼らとの絶交」を宣言している。

※参考1:【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】:月刊「WiLL」2011年4月号 アナウンサー鈴木史朗さん:歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るに至ったのです。
※参考2:【南京大虐殺というデタラメ】:当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではなく。断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。これで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。
※参考3:【国際委員会の日本軍犯罪統計】:当時外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏談:「役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。

1997年、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、『ザ・レイプ・オブ・南京』を出版した。 米国では「ワシントン・ポスト」が大きく本書を取り上げ、チャンの主張を詳細に紹介し、「ニューヨーク・タイムズ」でも絶賛され、同紙のベストセラーリストに10週間掲載された。 しかしその後その内容やデータの誤りが多くの批判書によって明らかになり、岩波書店は全面謝罪文を掲載するまでに至った。 米国は、日本国民30万人を無差別殺戮したが、これは当時の国際法にも違反する残虐行為であり、彼らはそれを正当化するために日本軍の蛮行を探したが、不法裁判として悪名高い「東京裁判」でも、南京大虐殺は根拠無く主張されたに過ぎず、著者・アイリス・チャンは、その死の前に「日本人に謝罪しなければならない。私の本は絶版にしてほしい」と語り、2004年の暮れにピストル自殺している。中国共産党のプロパガンダの手口を知る意味では価値がある書と言えるだろう。 南京が日本軍によって陥落した時、日本軍兵士日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど欧米の多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入った。その総勢は100人以上。しかし、その中の「誰一人として」大虐殺を報じていない。

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ローマ法王も日本の行動を支持していた
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そもそも、中共の策略に嵌められたかたちで中国内部に足を踏み入れた日本軍だったが、介入した以上、多大な尽力をなした。 日本は中国の「領土保全」を掲げ、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生し、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指した。 日中戦争が始まった年である1937.10に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ11世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけた。 法王は、「日本の行動は侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしている。日本は共産主義を排除するために戦っている。独裁共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」との声明を出している。 この声明は当時の日本でも報道された(「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16-17日)。 しかし、そのピオ11世も1939年には世を去ってしまい、欧米の反日主義や日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかった。



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南京大虐殺の源流
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中国では、歴代王朝が交替するたびに京師(都)での「屠城」(兵士による城民の大虐殺)と「市民による共食い」が繰り返されてきた。これは、「正史」や「資治通鑑」などの記録に多く残っている。南京城では虐殺のたびに共食いが発生した。 西安、南京、北京、揚州など、政治、文化、経済の中心地であった都では、人口が増えすぎたことにより共食いが起こった。戦乱時になれば、多くの民衆は軍隊に捕らえられ、敗残兵も数千単位で喰われた。軍は人肉を加工し、最前線に輸送していた。 「耕作をする人が居なくなり、加えて飢饉の酷い年であったので、ほとんどの人間は人肉を喰らい年を越した。その混乱は空前のものであった」-「唐書」昭宋本記 中国では大量の人骨が出土した場合「万人坑」(まんにんこう)として騒がれる。そしてそれがそのまま「日本軍虐殺の根拠」とされ「便利な反日のプロパガンダ」となる。 このような中華の欺瞞に、いかに対処するのか、それが、我々、大日本帝国人の末裔に問われている。

初出:2011-01-20 16:20:37

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東トルキスタンから誘拐され、中国人にスリをさせられる子供達

2011-10-16 01:52:20 | 中国共産党





https://www.nicovideo.jp/watch/sm22403580


ようやるわ  この子が何をした?逆に何が出来る。せいぜい「スリ」くらいだろう。 そしてこの扱いか。どれほどの恐怖だ。だいたいこんな小さな子が窃盗するとして、そりゃ生活苦か、やらされてるかどっちかだろう。それくらい分からないのだろうか。 指折られてますね。この映像は中国で撮影されたことは確かなようである。まあ、中国人の得意とするところは、「嘘吐きやパクリや誤魔化しや虐殺や人食い」なので、こんな映像は取るに足らないものかもしれない。 中国では、政府が「貧乏人の腕や足を斬り落とし、身障者を作り、物乞い組織を運営している」そうだ。 この場合は、「子供をさらい、『新疆泥棒』を作成して、同時に、ウイグル人を悪者に仕立て上げよう」という作戦か。さすが中国。 体格的にも圧倒的に劣る子供をみんなで囲んでリンチする。いつまでも。 やれやれ、本当に素晴らしい民族だよ中華人どもは。自分たちは嘘を吐きまくって泥棒し続けているくせに。 そして、こいつらの千年子分が朝鮮民族である。 そして、まさかあなた方日本人さんたち。 この映像を見て何も対処しない、動かない、お笑い番組を見ていたほうが良い、なんて方はいらっしゃらないですよね。まさかね。 笑ってもいいとも!

現在、「新疆(しんきょう)ウイグル自治区」とされているところは、「東トルキスタンという国家だった」ところである。 「新疆」というのも地名ではなく、「新しく支配した辺境」という意味である。 さて、1949年、中華人民共和国建国と同時にチベットとともに東トルキスタンも侵略された。その後、主に中国の犯罪者や入植部隊がその地に投入され、いまではその侵略によって、人口比率は逆転している。 そして部隊は、ロシアとの国境付近に集中的に配置され、そこにある天山山脈は、豊かな水源地帯でもある。 つまり、中共は、ロシアへの防備を固めると同時に、東トルキスタンの水源を制圧することを目的としている。 『漢人を大量に送り込み、都市と水源を確保する』 これこそが、中国がわずか60年で、東トルキスタンを掌握した作戦の要諦である。(WiLL 2011/10号 P90)



・「計画生育」という名目で数百万の赤ちゃんの強制中絶を行い(麻酔無し)
・ 45回の核実験と核廃棄物の投棄により、多くの人々が放射能中毒で犠牲になり
・「政治犯」として数万人単位の人々の拷問と処刑が執行されている

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中国内地におけるウイグル族ストリートチルドレンの生存状況調査
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1.アニワルの帰宅  もし姉が彼に祖母の家の電話番号を無理に覚えさせていなかったら、アニワルはたぶん永遠に母に会えなかっただろう。 アニワル、ウイグル族、新疆カシュガル地区カルギリク県出身。2歳のときに両親が離婚し、ずっと祖母に育てられた。 小学生のアニワルはとても聞きわけが良く、成績はいつもクラスの3番以内で、級長にも選ばれた。 2005年4月27日午後、悪夢がおきた。1台のタクシーが下校中のアニワルの前に止まり、1人の中年男がおりてきて、アニワルにチョコレートを渡して、温かい声をかけた。チョコレートを食べたアニワルは知らず知らずにタクシーに乗り、その後さらに白いワンボックスカーに乗り換えさせられた。アニワルが目覚めたとき、すでに蘭州に連れてこられていた。 その後、アニワルは故郷から5000キロ以上離れた広州に連れて行かれた。粗末な部屋でアニワルともう2人の最近連れてこられた男の子は厳しい監視下に置かれた。彼らを連れだした男は、彼を「親分」と呼ぶよう子供たちに命じた。 次の日、「親分」は3人の男の子を「実習」のためにマーケットに連れて行った。アニワルははじめて自分の仕事が「泥棒」だということを知った。アニワルはそれが違法であり、アッラーも泥棒を罰していることを知っていた。「親分」は盗みをしたがらないアニワルを情け容赦なく殴りつけた。 アニワルの最初の「実習」は全然うまくいかなかった。マーケットの中で、一人の男の子が盗んだ携帯電話をアニワルに渡し、早く逃げろと言った。携帯を受け取ったアニワルは数10メートル走ると足がもつれた。 持ち主はアニワルを捕まえ、彼を派出所に連れて行こうとした。その時、ずっと脇にいた「親分」が姿を現し、アニワルを「奪い」かえした。 住処に戻ると、「親分」はアニワルが逃げ切れなかったことを責めて、手ひどく往復ビンタを食らわした。「実習」1週間後、「親分」はアニワルに正式に仕事を始めるよう命じた。彼が応じないと、「親分」はベルトで思い切り彼の太ももを鞭打ち、「実習期間」を1週間延ばした。 2週間の実習が終わって、アニワルは仕事を始めた。彼はもう盗みは怖くなかった。怖いのは盗みに失敗して殴られることだった。 あるスーパーの出入り口で、1人の女性が食べながら歩いていた。アニワルは彼女の後をつけ、女性のショルダーバッグのファスナーを開けて財布をすり取った。しきたりに従い、アニワルは財布の中の650元と銀行カードを「親分」に渡すために13歳の男の子に差し出した。これはアニワルが広州に来て15日目で、最初の単独窃盗の成功だった。 アニワルはすぐに新しい生活に適応した。彼は彼を捕まえた警官に家に戻りたいという願いを伝えたこともあったが、彼を引き取りに来たのはやはり「親分」だった。

アニワルは「親分」に連れられて多くの南方の都市を「転戦」した。もう何回盗んだのか覚えていなかった。 一番多いときは、6人の財布、2400元を盗んだ。その時は、「親分」は機嫌よく彼に200元の小遣いをくれた。彼は喜んで100元で服を一式買い、残りの100元で遊園地で遊んだ。 アニワルは警察に捕まることは怖くなかった。彼はすでに何回派出所に捕まったのかよく覚えていない。彼はほとんどいつも派出所の入り口近くに彼の「親分」が待っているのが見えた。「親分」は最初から、彼らは未成年だから、漢語が分からないふりをしていれば、警察はいつまでも拘留しておくわけにもいかないし、もし警察が本気だったら、自傷行為で警察を脅せばおとなしく釈放すると教えていた。 アニワルが怖いのは持ち主に殴られることだ。警察はウイグル族ストリートチルドレンの泥棒には気兼ねするので、盗まれた持ち主はしばしばこの子たちに当たり散らす。アニワルは持ち主にも殴られ、「親分」にも殴られた。 流血は全身傷だらけのアニワルにとってはもうありふれたことだ。何日か前の、最後の失敗の時にも、「親分」に高々と持ち上げられたあと、地面に叩き付けられた。

2006年7月22日昼、アニワルは再び捕まった。今回は若いウイグル人の警官ウラムジャンに会った。ウラムジャンは優しく尋問し、食べ物や飲み物も買い与えてくれた。そして弟に接するように彼を自分の宿舎に連れ帰った。 アニワルに「生きたい」という願いが燃え上がり、突然ウラムジャンの前にひざまずき、家に帰らせてくれと頼み込んだ。 「アニワル、まだ生きていたのかい?」。祖母は電話口で泣きだした。 夜中の1時半、アニワルの母は飛行機に乗って派出所に駆けつけ、失踪して1年以上になる息子と対面した。 

2.子供一人5000元  新疆社会科学院のレポートによると、中国内地を放浪するウイグル族児童のうち9割が誘拐された子供だった。しかもほとんどの子が、近接する南疆(なんきょう)の出身だった。 03年1月から05年12月までに、保護され自治区に戻った3660人のストリートチルドレンのうち、9割以上が南疆のウイグル族だった。これは何を意味するか。 「私の住んでいるところに一棟の豪邸があるが、それは人さらいの家だ。一部の親は生活に行き詰まって、やくざ者に子供をケバブ売りとして渡してしまう」。アクスの何人かの子供を救助したことのある人はそう語っていた。 「3歳から16歳までいる。多いのは10歳から13歳だ。小さな子が抱きついて人の注意をそらし、大きな子が盗む」。

「僕の窃盗団は16人の大人と4人の子供がいて、見つけられにくいところに住んでいた。2人の大人と2人の子供が一部屋にいた。4人の大人が一人の子供が盗むのを監視していた。大人はナイフを持っていて、僕たちが盗むときに声を上げようとする人を脅した。 大人たちは僕に沸騰するお湯の中からコインを取らせ、もし取れなかったらベルトで殴った。僕と一緒に住んでいた男の子は11歳で、僕より1カ月早く誘拐されてここに連れてこられた。彼は1度逃げたが、捕まって連れ戻されたとき、ひどく殴られて死にかけた」。救助されたダルハンは、誘拐されて泥棒をさせられる子供たちにはみなつらい「実習期間」があると語っていた。 「親分」は子供たちに毎日の上納ノルマ(500~2000元)を課し、ノルマを達成できなかったり逃げようとしたりする子供は袋叩きにされる。もっと徹底して彼らを統制するために、一部の「親分」は子供たちに薬物やとばくに手を染めさせ、女の子は通例性的虐待を受ける。そして逃げた子供は「親分」から逃げ切っても、しばしば別の「親分」の手中に落ちる。 ウイグル族ストリートチルドレン救助組織が一番頭が痛いのは、救出された子どもたちの多くが年齢が低すぎて自分の家がどこだか分からないことだ。「3人の子を保護したが、小さい子は3歳、大きい子でも8歳だった。こういう小さい子は自分の家の前に駄菓子屋があったことは覚えていても、住所は覚えていない」。アクスのこの熱心なボランティアも仕方なしに子供を救助所に送り返した。 このボランティアの話によると、漢族のストリートチルドレンは養子にもらわれることもあるが、家を探し出せないウイグル族のストリートチルドレンは顔立ちが漢族と異なるので、漢族が養子として引き取ることはない。収容救助は過渡的な行為に過ぎない。つまり、もし政府がウイグル族ストリートチルドレンに適切な処遇をしなければ、彼らを待っているのは放浪――窃盗を続けることだけだ。

「その後、3人の子供たちはみな養子にもらわれた。来た連中は養うと主張し、値付けまでしてきたから、私たちも人買いと分かったが、他に誰が養うんだ? あの子たちにはみんな値が付いていた。人買いの間には横の連絡があって、名の知れた、盗みのうまい子は5000元で売れる。普通の子でも1000元の値がつくんだ」。

3.お願いだから子供たちをあまりひどく殴らないでくれ  新疆のストリートチルドレンを収容すると、ハラル(イスラム教の教えに則った食品)の飲食を提供しなければならず、子供たちとの意思疎通もできないので、管理は非常な難題となる。送還費用も高い。言葉が通じないので、内地の警察は犯罪だと分かっていても証言を得られず、黒幕を特定できない。 結局、いろいろな部門は手を引き、新疆の児童は収容されず、もしくはだれかが引き取りに来たら、すぐに釈放される。こうして、新疆のストリートチルドレンは派出所に捕まっても、すぐに出て盗みを続ける。 「私がアニワルを連れ帰った次の日、彼らの「親分」は私の携帯番号を調べ出して、電話で私を脅しながら、金銭交渉を持ちかけてきた」。ウラムジャンは腹立たしそうにため息をついた。「やつらはそこまで大胆になっている!」。

当局のウイグル族ストリートチルドレン問題での無能によって、住民は怒りをウイグル族ストリートチルドレンに向けている。インターネット上では、「ウイグル泥棒」を非難する感情が噴き出し、民間の反スリ運動家は市民にむけて暴力による反スリ戦闘開始の檄文を発表し、捕まったウイグル族ストリートチルドレンが市民の暴力で血まみれになっている。 佳泉は、2歳の娘がいる河南省安陽市の教員だ。2005年末、泥棒が街中で堂々とスリをしていることに我慢ならず、安陽反スリ連盟を結成した。  同じ子供が1週間のうちに反スリ隊に何度も捕まり、「捕まえるのが恥ずかしくなるほどだ」。 最初は見ず知らずだったが、今ではこの子供たちと知り合いになった。 彼らに、「ご飯食べたか?」と聞くと、盗んだものを渡さないと食べさせてもらえないとか、殴られるという。ある新米の子供は、盗みがすごく下手で、しょっちゅう我々に捕まり、そして、しょっちゅう「親分」に殴られている。彼の父親は死んで、母親は交通事故にあった。人さらいに「遊びに行こう」と連れ出されたそうだ。 最初に捕まえた時は、彼は本当のことを話した。だがその後は、本当のことは言わなくなった。あるとき小さな子4人と大きな子1人を捕まえた。多分その中に「親分」の親戚と子供がいて、監視されていたんだろう。だから何も話さなかった。 5回目に捕まえた時も、いつものジャージで、それがすっかり破れてひどく汚れていた。 佳泉は、反スリ連盟結成当初はスリに暴力をふるったと話した。だが、今この子たちの話をするときは、彼の口調は父親のような愛に満ちていた。

佳泉と同じく、一部の民間人は、両親の手元から引き離されたウイグル族の「泥棒」たちに心を痛めている。 「一人のウイグル族の子供が売られて上海で泥棒をしていた。3年間やったあと、警察に送り返された。捕まったとき、誰かが手を上げると、彼は泣きだして隅に隠れた。いつもナンを持っていて、お腹の減った時に少しずつかじっていた。警察が送り返すために、買った服に着替えさせた時、警官までが泣きだしてしまった。10歳にもならないこの子の全身には200か所もの傷跡があったんだ。 このウイグル人の子の家は大金持ちで、その家の老人はそんなふうになってしまった子供を見て、涙を流して一言も言葉が出ず、噛みしめた唇から血を流していた。この老人は最後に、「君たちに100万元やるから、私に直接この子を誘拐した人さらいを殺させてくれ」と頼んだ。 ある新疆の漢族のネットユーザーは内地の反スリグループに暴力を乱用しないように絶え間なく呼びかけている。彼は、多くの人に「新疆泥棒」の悲惨な運命について知ってほしいと願っている。

4.どの子もみな国の宝だ  「彼らは最大の被害者だ」と、サイト管理者の1人タイハンは語る。多くのウイグル人大学生が内地で勉強を始めるとき、泥棒の問題でしばしば差別を受けている。 「家でおとなしくしていないで、のこのこ出てきて民族の名を汚している」。当時タイハンは彼らウイグル泥棒をひどく恨んだ。だが、何人かの子供を救ってから1人ひとりの子供がみな悲惨な物語を背負っていることを知り、全力で彼らを救おうと決めた。「助けられるだけ助けよう」。 現在、桂林、重慶の反スリ組織も子供たちの帰郷を助け始めた。一部の漢族のウイグル族に対する誤解も徐々に解けつつある。 「どの子もみな国の宝なのだから、みんなが明るい未来を持つべきだ。彼らは子供のうちに家庭を失い、生活のための技能もない。もし盗みを続けていたら、いつまでも泥棒のままで、大きくなったら自分のときのように他の子供を誘拐して泥棒をさせるだろう。そうなったら、被害者が完全に加害者になってしまう」とイリハムは語った。 佳泉が最初にウイグルオンラインと連絡を取ったのは、ウイグル族が一体ストリートチルドレンの盗みをどう見ているのかを知ろうとしてだった。彼は、ある新疆のBBSに「我々は新疆泥棒にどう対処すればいいのだろう」と題した投稿をした。「本当にウイグル族ストリートチルドレンの運命に関心を寄せているサイトがあったんだ!」。 「私は漢族で、河南省安陽に住んでいます。私は反スリ隊員です。私は教育労働者です。私は新疆を愛しています。私たちはみな中国人です。民族の団結のため、新疆ストリートチルドレンのため、私は命を含め、自分の一切を奉げるつもりです。この子たちの明日のために、手を携えて努力しましょう! 連絡をください」。 佳泉のウイグルオンラインへの投稿は多くの人の気持ちを動かした。だが、1年前には彼もウイグル泥棒を激しく憎む市民の1人だった。

5.ヌルグルを救う  少女ヌルグルは12歳。誘拐され売られて1年、彼女にとっては365個の悪夢だけでなく、心の底に一生埋め込まれた恥辱もあるだろう。2007年の初め、運命は彼女に悲劇からの脱出の機会を与えた――佳泉が最近行った反スリ行動で、彼女は捕まったのだ。 警察で制限時間が来たら放免され、ふたたび窃盗集団の親分の手に落ちるのを防ぐため、ヌルグルはただちに救助所に送られた。反スリチームは一方で救助所にすぐにヌルグルを家に送ると約束し、もう一方ですぐにイリハム・トフティと連絡を取った。 反スリチームの監護の下で、ヌルグルはイリハムと電話で話した。ヌルグルは、自分の家はアクスで、ママは自動車事故で死に、継父がアクスに住んでいると語った。イリハムは少女に、本当のことを言えば、すぐに継父が迎えに来ると告げた。 少女が親分の脅しでウソをついていることははっきり分かったが、イリハムは救助所に留まらせるために彼女が誘拐された証拠を示すことができない。彼は必死になって自分の新疆の関係を通じてヌルグルの親戚関係を探し、もう一方で佳泉に救助所に働き掛け、決して彼女を出さないように頼んだ。 あちこち訪ね回って、イリハムはヌルグルの最初の話しの通り、彼女の継父がアクスに住んでいることをつかんだ。北京に戻ったイリハムは佳泉が送ってきたヌルグルの写真を見て、「この子は本当に苦労してきたんだ。私はこれまでにこんなに老けて、まなざしに恨みがこもっている12歳の子供を見たことがない」と語った。 「彼ら(人さらい)は君に触らなかったかい?」イリハムは怒りを抑えつつ聞いた。彼は多くのストリートチルドレンの少女が性的虐待を受けていることを知っている。

3日目、新疆の一人の警察職員がヌルグルの継父を電話の前に連れてきた。彼は電話でイリハムと言い争いを始めた。ヌルグルの継父は「他人が余計な口出しをするな、おれには交通費もないし、その子を養うこともできない」。イリハムは怒って言った「私たちが金を出すんだったら子供を迎えに来るだろう?」。ヌルグルの継父は「今忙しいから、後で電話してくれ」と言って電話を切った。その後いくら電話してもこの男は出てこなかった。


   

この重篤な悲劇に、我々日本人はどう対処するのか。 まずは知ることから。そして
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日本ウイグル協会 東トルキスタンに平和と自由を ウイグルホットライン



しかし皆さん、ご安心下さい。このような中国共産党の力は、今後、益々日本にも及びます。 中共は、チベットやウイグルから奪った資源を「軍事費や開発費」に廻して、経済的にも世界覇権を得る。 債務危機に苦しむギリシャでも、古くから地中海交易の中心・アテネの外港として栄えてきたビレウス港は、既に2年前から中国資本となっている。しかも、その技術は、日本の技術者が支えている。 奴らは、空と海の拠点確保に向け、着実に布石を打っており、日本はあらゆる面で勝てない。たとえば、今後話題の 太陽光発電は、日本はコスト面での太刀打ちができずに太陽電池の生産を縮小しており、それとは対照的に、中国は貪欲なエネルギーソースの開発を行っていて、国家的政策により太陽光システムの生産量を拡大している。 日本がこの先、急激に太陽光発電に向けて舵を切った場合も、システムの供給を中国に依存することになる。もし、政治レベルでこのような舵が切られることになれば、中国が受ける経済的利益は、これはとんでもなく大きい。そして日本は飲み込まれる。冒頭の映像の子供の姿が、将来の日本の姿そのものとなる。 それを手助けするのが、与党・民主党や、孫正義さんらである。  昨日のチベット、今日のウイグル、明日の台湾、そして明後日の日本。



東日本大震災 都市伝説 sengoku38 GHQ 在日 蓮舫 中国共産党 侵略 チベット ウイグル 民主党 口蹄疫 虐殺 尖閣諸島 テロ AKB48 福島原発 ぺ・ヨンジュン
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中国3000年極醜の歴史・世界の中心で何をやっとる

2011-09-27 22:34:02 | 中国共産党
中国は 3000年以上に亘り、血で血を洗う戦乱を繰り返して来た。その度に、敗残兵は相手の「食料」にされ、敗者の歴史を根絶やしにして勝者の歴史が新たに始まるので、そこに成熟はなく、「接木の歴史」であると言える。ゆえに中国の歴史は、4000年どころかせいぜい100年程度である。 漢族の王朝・明が滅亡後、満州人(ツングース系民族)の王朝・清 が最後の王朝になった。 そもそも中国大陸には近代まで「国」という概念はなく、皇帝は中華思想のもと自らを地上で唯一の王だと考えた。 しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。



偉人・毛沢東さん

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中国近代史年表
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1368-1644 明朝 万里の長城以南の中国は明に統一される 江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である
1644-1912 清国 満州族がつくった中国を支配した最後の統一王朝
1840-1842 アヘン戦争
1850-1864 太平天国 このころ、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった
1872    日本の琉球処分により冊封国「琉球」を失う
1894    日清戦争 朝鮮半島領有権をめぐる戦争
1895    下関条約締結 日清戦争に勝利し下関条約で朝鮮の独立を認めさせた
1900    義和団の乱
1904    日露戦争 朝鮮半島領有権をめぐる戦争
1910-1945 日韓併合時代
1911    辛亥革命 翌12年、中華民国(現在の台湾)が樹立、清朝が打倒される
1921    中国共産党結成 
1931    満州事変 翌年、満洲国建国
1936    西安事件
1937    盧溝橋事件(中共軍が国民党軍と日本軍を戦わせるために日本軍を攻撃した)
1937-1945 大東亜戦争(太平洋戦争)
1941-1945 日中戦争
1948    韓国/北朝鮮建国(朝鮮分裂)
1949    中華人民共和国建国
1950-1953 朝鮮戦争 朝鮮半島の主権を巡って共産圏側が軍事境界線を越えて韓国に侵攻
1958-1960 大躍進政策
1965-1975 文化大革命
1972    田中角栄が、日中国交正常化に調印
1976    毛沢東が死去 同年、その妻・江青が逮捕される

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アヘン戦争
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当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対しイギリスは、アメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。 清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。 アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスはこの機会に武力でアヘン密貿易の維持と開国をさせる決意を固め、翌1840年、清国沿岸に侵入しアヘン戦争を起こした。

1850 太平天国の乱
 キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天国」によって起こされ、内乱終結時には史上最も犠牲者の多い内乱として記録された。 アヘン戦争の余波により、多くの匪賊が横行し、これらを太平天国が吸収した。 太平天国とは、中国の歴史の上で初めて理想的な共産主義社会を実現した国家である。 共産主義国家であるため、太平天国の国民は私有財産を持たず、婚姻などという封建的な制度も存在しなかった。 軍は流賊的ではあったが、匪賊を吸収しても軍内の規律は厳正で高いモラルを有していた。勝手に民家に侵入することすら禁止され、「右足を民家に入れた者は右足を切る」といった厳罰主義でもって規律維持に当たったといわれる。一方で清朝軍の方が賊軍らしく不正略奪行為を行なっていたという。 太平天国は中国のほぼ半分を占領、ついには南京を天京と改称して首都としたが、1864、湘軍(清朝の武装集団)の猛烈な攻撃の下で天京城は攻め落とされ、太平天国は滅亡した。僅か13年間の栄華だった。

その後植民地化が始まり、日清戦争(1894-1895)で日本に敗れたことにより列強による植民地化が進行する。これを契機に、満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり、その結果、1911年の辛亥革命を契機として翌1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)した。

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清国の滅亡
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まず1854年、冊封国暹羅が朝貢を廃止し勝手に開国した。1872年、日本の琉球処分により冊封国「琉球」を失った。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し対「越南」(ベトナム)宗主権を維持しようとして起こした清仏戦争(- 1885)によって冊封国「越南」を失い、「緬甸」(ミャンマー)はイギリスにより英緬戦争で併合された。朝鮮に対しては宗主国として内政に干渉していたが、日清戦争(1894-1895)で敗北し、下関条約によって、朝鮮が「自主国」であることを承認させられ、建国以来もっていた冊封国「朝鮮」に対する影響力も失った。まさに「惨め」である。

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる「義和団」が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃しつつ北京に進撃した。翌1900年、西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進んだ。

その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、1908年、憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いたが、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判され清朝は求心力を失い、漢民族の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げていた。10月、辛亥革命が起こり、モンゴルにおいても、12月に独立運動がおこった。 翌1912年、中国の南京で「中華民国」が樹立され、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。

※ 冊封国(さくほうこく)とは、前近代の東アジアで中国王朝を中心とした冊封体制の下で、中国王朝を宗主国とした従属国のこと。朝貢国、藩属国、服属国、附庸国などとも言う。

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中華民国の誕生 
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1911年、清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国(現在の台湾)が樹立された。 臨時大総統に革命家の孫文(そんぶん)が就任する。 しかし、それが中国全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していた。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」と罵り合い、内戦を繰り返していた。 孫文は「日本と連携して近代的な独立国家の中国をつくろうとした」が、清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)の陰謀により、新政府は乗っ取られる。 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「騙す者と、騙される者」の歴史である。中国『六韜』(りくとう)と呼ばれる歴史書が有名で、これは一言でいえば、「いかにして人を騙すか」ということが趣旨になっている。

袁世凱は、崩壊寸前の清朝から孫文を討つために遣わされて来たが、こともなげに清朝を裏切り、新政府の乗っ取りを謀った。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位を譲ってしまった(1912)。 かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを想っていた。しかし中国では「利害次第でどうにでも動く人々」が大勢を占めていた。 あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生し心から喜んだ一人だったが、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ」と語った。この時、中国での維新を目指し「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の「大東亜共栄圍構想」は、実質的に「頓挫」した。こうして、近代中国の独裁政権による歴史が開始された。



孫文

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中国の手口
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袁世凱は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」(敵勢力同士を対立させ戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかること)を実践し、西欧列強と日本を対立させ、さらに嘘とデマゴーグにより反日運動を展開する。 さらにそこには「中華思想」(中国は世界の中心であり最高であるという根拠無き独善的思想)があり、西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起こされた。  しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも、「とくに日本人に対して」向けられるようになる。なぜなら、西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからである。 台湾の歴史家 黄文雄氏は「自分の敵わない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である」と語っている。 1926年には、反英運動が広まるなかイギリスの商船が中国側に拿捕されたが、その時イギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊した。 これにより反英運動は消滅した。

日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べると、あまりに誠実だった。 西欧列強の軍隊が占領した地域では「白人至上主義」により、住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていたが、日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていた。日本には、「弱きを助け強きをくじく」という伝統的美徳があるが、中国人にはこれが理解できず「単に弱者は弱味があるから弱者である」と解釈する。 中国の文豪・魯迅(1881-1936)も、「中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だ」と嘆いている。 中国にとって米国は昔も今も大きな敵であるが、米国は日本のように「理由も無く謝り引き下がらない」ので、中国で反米運動は燃え上がらない。
 そして反日運動を利用して「国内の不満を外に向け」中国政府への不満のガス抜きをする。

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中国共産党の歴史
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1921 中国共産党結成 コミンテルン(ソ連の共産主義革命組織)の主導により、毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で結成された。 中華民国の統治期には、中国国民党と時に協力し(1924年の第一次国共合作)、時に敵対した(1927年の蒋介石による上海クーデターにより国共分裂)。

孫文の作った「中国国民党」は、孫文亡き後、蒋介石(しょうかいせき)が継いだが、国民党もひどい内戦を繰り返し、分裂していく。しかしそこから分かれた汪兆銘(おうちょうめい)が、中国の未来を考え、1940年親日政権(南京政府)を樹立した。 汪兆銘は、当初は反日家だったが、国民党内では蒋介石より人望があり、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていた。 日中戦争(1937-1945)は、大東亜戦争終結までの8年間と言われているが、実際には日中の戦闘は1年半あまりで終結し、日本軍はそれ以上進攻せず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中した。 その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、鉄道も作られ、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差があった。  

毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。これは、当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえなかったためである。また、都市部が国民党に押さえられていたため、共産党の活動拠点は山奥の華中や華南の農山村地域にならざるをえなかった。1931年、毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。 しかし共産党軍は、中国国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年には中央根拠地を放棄して逃避行を始めた。

日中戦争・大東亜戦争 における日本の敗戦は、毛沢東率いる「中国共産党」の謀略によるところが大きい。日中戦争は、当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても、広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに 各地でゲリラ戦を行い日本軍を疲弊させた。 国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受けることとなった(援蒋ルート)。そのため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国大陸に貼り付けて置かねばならなかった。 中共軍の実態と言えば、全く、匪賊、山賊のような存在であり、蒋介石の国民党軍によって山奥に追いやられていたが、しかしいつもスルリと逃げられていた。それは、蒋介石の軍事顧問となっていたドイツ軍人の中に、実は共産党コミンテルンのソ連スパイが紛れ込んでおり、上海に居るリヒャルト・ゾルゲに情報を流していたためだと言われている。その手足になっていたのが、日本人・尾崎秀積や中西功らの「中共諜報団」だった。(WiLL 2011/3号 P31)

1927 南京事件 蒋介石の国民革命軍が南京を占領した際に起きた日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。 反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本領事館も襲撃され、暴行や掠奪、領事夫人が陵辱されるという事態となった。この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀といわれている。

1945年に日本が第二次世界大戦で敗北すると、それまでの中国国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。 満州を占領したソ連の後押しで東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的には国民政府を倒して中華人民共和国を建国した。国民党政府は台湾へ遷都した。

蒋介石は当初、日本と戦う気は無かったが、西安にて潜んでいた際 中共兵に捕らえられ捕虜となってしまう(西安事件・1936)。 そこに、ソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、「蒋介石を殺さず日本軍と戦わせよ」との指令が下された。 中共軍は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」を実践し、生き残りを謀った。 毛沢東は蒋介石に、「命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え」と告げると、蒋介石は「ならば共産軍も国民党軍と一緒に日本と戦え」と告げる。こうして、いわゆる「国共合作」が実現した。

蒋介石が、敵を中共軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといっていいだろう。 なぜならば、そのために彼は後に共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら「台湾」に渡らねばならないはめになったからである。 また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとって極めて不幸なことだった。「国共合作」といっても実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは(米国に手引きされた)蒋介石だけだった。一方で日本軍は、中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。 国民党軍が日本と戦っている間に、中共軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去った後に国民党軍を打ち負かすことになる。 その結果、中国は近代的国家になるどころか、ついに独裁的な共産国家となってしまった。



蒋介石

1949 中華人民共和国建国 が北京で宣言されたが、党内部では路線闘争、権力闘争は絶えず、安定的に発展することはできなかった。 当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年のスターリン批判以降はソ連共産党との関係が悪化、武力衝突までに至った。 建国直後にはチベットを侵略、その後そこで核実験を繰り返し、チベットの純朴な民と美しい郷里を破壊した。その民族壊滅作戦は現在も継続されており、強制連行、強制労働、過労死、拷問死させることにより、数十年後にはチベットとその文化と民族は完全に消滅する。

1958-1960 大躍進政策 数年間で経済的に米英を追い越すことを目的に、毛沢東が施行した農工業の大増産政策。農村の現状を無視した強引なノルマを課し、推計2000万人から2億人ともいわれる餓死者を出し大失敗に終わり、その結果、毛沢東は自己批判を行って国家主席を辞任した。 その内容はこれ失笑以外の何物にも換え難い。 鉄鋼の増産が要とされ、農民までもが駆り出され、労力は鉄作りに費やされる。原始的な溶鉱炉で、薪や藁が燃やされ、「鍋や鋏」まで溶かされた。 これではご飯も作れないし髪も何も切れない。生活用品まで溶かせば生活できなくなるのは当たり前だ。 農地は共有され、労働意欲も失われた。しかし共産党からの絶対命令だからやらないわけには行かない。その結果、田畑は荒廃し、鉄製品をみんな駄目にして、さらに良い結果を報告しなければならないから、多くの畑で取れた収穫物を一箇所に集め、収穫高を多く見せかけた。 これでは皆さんが餓死してしまうのも当然だ。 それを「党の命令は失敗だった」などと言えば反乱分子と見做されて粛正される。 これが、毛沢東さんの大躍進政策の実態である。 失笑。



労力は鉄作りに費やされ、田畑は荒廃し、多くの餓死者を出した。

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文化大革命という笑劇
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1965-1975 文化大革命 党内から冷遇されながらもそれに耐えていた毛沢東はついに紅衛兵※を味方に党に牙を剥いた。「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動。 しかしその実態は、大躍進政策の大失敗から失脚した毛沢東が、「劉少奇(りゅうしょうき)からの政権奪還を目的として自らの実権を回復するために発動した」反政府運動。 毛の指示に基づいて林彪(りんぴょう)が主導して開始されたとされている。これが大衆を巻き込んだ大粛清へと発展、「国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらす」国家的大惨劇となった。 これまで政治的な発言が制限されてきた民衆の欝憤が一気に爆発した。当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。多くの人材や文化財などが破壊された。





文化大革命による行方不明者を含めた犠牲者数は、推計で1000万以上と言われ、これらの政策によって中華人民共和国の経済発展は、30年遅れたと言われている。 その後、林彪と毛沢東の間に対立が生まれ、1971年、毛沢東後継者と憲法にまで規定された林彪らは毛沢東暗殺を画策するも失敗し(林彪事件)、林彪は飛行機でソ連へ逃亡途中、モンゴルで暗殺される。この事件を切欠として考え始める者もあらわれたが、その後も「四人組」を中心として、毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指し、文革は進められた。 犠牲者数については、大躍進政策等と合わせて3000万人程度となった(餓死者除く)とされている。 毛沢東批判さえしなければ、共産党ですら批判してもよいということになり、大躍進の失敗後、国家主席として経済の調整に取り組んできた劉少奇(リュウショウキ・しかも彼の政策により、国家は確実に快方へと向かっていた)がこの混乱期に紅衛兵に捕えられ、毛沢東による長い拷問の末、獄死。 劉を手助けした鄧小平(とうしょうへい)も失脚させられ、地方で労役に従事させられた(1973年に復帰)。


※ 紅衛兵(こうえいへい)は、中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。 1950年代の人民公社政策や大躍進運動の失敗によって実権を失っていた毛沢東は 1965年から実権派に対する奪権を目指し、文化大革命を計画。1966年には各中学の学生が秘密学生組織を相次いで設立した。

紅衛兵の告白: 毛主席を見た紅衛兵たちは興奮して天安門に殺到した 怖かったよ もし転んでいたら、大勢に踏まれて死んでいただろう 文革は崇高な世界をつくるためだと思った 我々は文革に積極的に参加して、命がけで悪者を退治すると誓った 偉大な事業に身を捧げることはずっと憧れだった やっとその時が来たんだともう夢中になった 毛主席に従うことこそ、正しい道であり、生甲斐だった 最初に手を出したのは王さんだ あの頑丈な軍用ベルトで、殴るたびにもの凄い音を立てていた 打たれた背中は血まみれになっていた 市のトップたちが腕をねじ上げられていた コートを逆に着せられて看板を首に吊るされた トラックで市内を引き回されていた 最初は棒や石で戦っていたが、そのうち銃や機関銃などの武器を使うようになった 遺体展示会が開かれた 壁新聞は国家主席を妖怪だ、と書いた 何を信じていいか分からなくなった 劉少奇は最大の走資派で、鄧小平は2番目だ、と書いてあった 「人民日報」は党の新聞だから、それが正しいことだと信じていた 捕虜が殴られるのを見た 固く縛り上げられて鉄の棒で殴られていた そして銃殺された 殴り殺された人が道に転がっていた でもみんな怖くてどうにもできない 手を出せば敵と見做されて銃撃される 建物の中に入ってみると身の毛が弥立つようだった 最上階は監獄だった 人1人がやっと横になれるくらいの場所に監禁されていた 茶碗には食事が残されていたがただのゴミにしか見えなかった



望みをかけて育てた子に密告される親 も多数あった 江青は劉少奇打倒を呼び掛け、破壊的路線は加速した

「紅五類」(労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士、およびその子女)であり紅衛兵団体の加入認証を得た者が紅衛兵となる。対して地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女は「黒五類」とされ、出身のみの理由で吊るし上げの対象となった。親が黒五類であることを告発・糾弾して、出身にも関わらず紅衛兵となった例もあった。

北京の紅衛兵は「破四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、毛沢東語録を手に劉少奇や鄧小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃した。 ジーンズをはいた若者を取り囲んで服を切り刻んだり、老舗の商店や、仏像など、貴重な文化財を片っぱしから破壊し、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。主席毛沢東は「造反有理(造反にこそ道理あり)」として支持を表明した。のちにこの言葉に「革命無罪(革命に罪なし)」が付随した。

毛沢東は、全国から上京してきた紅衛兵延べ1,000万人と北京の天安門広場で会見し、紅衛兵運動は全国に拡大する。しかし、紅衛兵運動は派閥に分裂し、大規模な武闘を繰り返すようになり、毛沢東にも統制できなくなった。 最終的には毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞まで出現し、もはや毛沢東すら紅衛兵をコントロールできない事が明らかになってしまった。 1968-1969年、「知識青年上山下郷運動」(下放)が展開され、その後、1968年からおよそ10年間に渡り農村支援の名目のもとに約1600万の中学卒業生が農村や辺境に追放された。

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新たな謀略・下放
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劉少奇の自由化政策によって経済は持ち直したが、毛沢東と江青は紅衛兵を利用して劉を獄死させ、権力を奪還した。 しかしその結果、都市の混乱は極限に達し、もはや誰にも紅衛兵をコントロールすることはできなかった。 そこで毛沢東は、「下放」という新たな策略を打ち出す。 「若者よ農村へ行け、そこで貧しい農民に学べ」そして再び惨劇は起った。 1600万人ともいわれる青年の多くは、「毛主席に奉仕するため」として熱狂的に「下放」に応じた。それは、戸籍も都市から農村へと移される、片道切符の旅立ちだった。 「都市と農村の格差撤廃という共産主義のスローガンの影響と、都市部の就職難を改善させる目的」から、半強制的な性格かつ永住を強制する措置として行われ、「頭上にはバナナ、足元にはパイナップルが実っている、牛乳は飲み切れず入浴に使う」と聞かされた。 やがて若者たちは、想像とはかけ離れた現実に直面する。「こんなところに一生暮らすのか」みんな黙りこんでしまった。 農業の専門家でもないのに農法や政治思想について農民たちにあれこれ指示しようとした学生たちは、識字率も低く古くからの意識や因習を残す農村の人々の反発を受け、現地になじむことはできなかった。農村には都市のような娯楽も高等教育もなく、家族や都市を懐かしみ脱走しても、強制送還された。



下放される青年たち 汽笛が鳴ると、あちこちで泣き声が上がった もちろん泣いたよ、永遠の別れだと思ったから
しかし記録映画では喜んでいるようにしか見えない

この政策によって、中華人民共和国では大学が1972年ごろまで閉鎖され、多くの青年層が教育の機会を失った。また、大学再開後も入学試験は行われず、青年層は農村に下放されたため専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。このために、中国の教育システムならびに学術研究分野は後継者を育てることができず崩壊し、下放を受けた世代は無学歴・低学歴という状況が顕在化した。また、この政策によって中国の経済発展がいちじるしく停滞したと言われている。 この政策により都市における失業や就業圧力は一時的に緩和したが、紅衛兵とそれに続く「貧困農村での再教育」は多くの若者の精神を荒廃させ、無数の家庭を離散させた。

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離陸した中国は世界制覇へ
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「内部問題とソ連との敵対関係」で危機感を強めた政権は、1972年アメリカ合衆国大統領ニクソンの訪中を受け入れた。 しかし、ニクソン訪中の真の目的は単に中ソ戦略にあり、そんなことは外から見ていれば20代の若者でもすぐに分かることだった。しかしそこで日本は「日本抜きの米中接近が図られるのではないか」と勝手に勘違いし、慌てて中国へと向かった。 同年、田中角栄が、日中国交正常化 に調印。同時に台湾との国交を断絶。戦後台湾と築いてきたものを一瞬にしてどぶに捨て、一方的に中国共産党の延命に協力することになった。(WiLL 2011/3号 P33)

1976年 最高権力者・毛沢東が死去すると、文化大革命推進派は力を失い、毛沢東の妻・江青など文革派の「四人組」は逮捕され、華国鋒体制が成立し、1977年には文革の終結が宣言された。



1981 4人組裁判 江青らは晴れて死刑に 民衆はパレードをもって歴史的瓦解を祝った

中華人民共和国は、毛沢東時代(1949-1978)と鄧小平時代(1978年-)に分類される。 1978年第11期三中全会で鄧小平が政権を握った。 鄧小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの「改革開放政策」を取り、近代化を進めた。この結果、香港ほか日米欧などの外資の流入が開始され、中国経済は離陸を始めた。 1989年には北京で、1980年代の改革開放政策を進めながら、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていたために失脚していた胡耀邦(こようほう)の死を悼み、民主化を求める学生や市民の百万人規模のデモ(天安門事件)が起きたが、これは政府により武力鎮圧された。その犠牲者数は、数百人から数万人に上るといわれている。 引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった。 

2002年の第16回党大会では、公式に胡錦濤(こきんとう)体制への転換が完了した。 胡錦濤は、鄧小平(とうしょうへい)によって49歳の若さで党中央政治局常務委員に抜擢され、チベット民族虐殺・侵略の首謀者として知られる。鄧小平は、天安門事件で民主化を望む民衆を戦車で轢き殺した。 中国共産党次期総書記は、ウイグル・ウルムチ虐殺事件の責任者とされている、習近平(しゅうきんぺい)である。 彼は、2009年に外遊先のメキシコで、「腹がいっぱいになって暇になった外国人がわれわれの欠点をあれこれあげつらっている」、「中国は革命も輸出せず、飢餓や貧困も輸出せず、外国に悪さもしない。これ以上いいことがあるか」と述べた。 つまり、「欧米に飴を与えてサービスしているのだからとやかく言うな」 と言うわけである。 しかし、その飴は、ウイグルチベット民族の血と涙から出来ているので、良いわけは無い。

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昨日のチベット、今日のウイグル、明日の台湾、明後日の日本
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今世紀、まもなく中国は、確実に世界の覇権を握るだろう。 そして既に、あらゆる面で日本は搾取されている。たとえば、中国は、国益のため廃液を垂れ流し、国土を汚し、大気を汚し、河川を汚している。 そして今後懸念される世界的な「水不足」対策の為に 北海道や紀伊山地の原生林をバンバン買い漁っている。 さらには、中国大使館が南麻布の一等地を落札し、自衛隊基地を一望できる高台などを狙っている。 こうした事態の予兆とも言うべき動きが、東北唯一の政令指定都市、仙台で繰り広げられた。 市内の国鉄跡地15000平米の再開発事業に、中国直系のファンドが買収の名乗りを挙げた。 仙台市は当初、この構想に乗り気だった。しかし当時の市長、梅原克彦氏がこれを却下するという英断を下したため事無きを得たが、これを仙台は理解できず、梅原氏はついに再選に打って出ることができなかった。

現在、「新疆(しんきょう)ウイグル自治区」とされているところは、「東トルキスタンという国家だった」ところである。 「新疆」というのも地名ではなく、「新しく支配した辺境」という意味である。 「東トルキスタン」は、ごく短期間、清朝の末期(明治15年)に支配されたことがあるが、清朝滅亡後の1933年には、独立を回復した。しかも、清朝は漢人の王朝ではない満州人の王朝であるので、「東トルキスタン」は、中国の一部ではない。 さて、1949年、中華人民共和国建国と同時にチベットとともに東トルキスタンも侵略された。その後、主に中国の犯罪者や入植部隊がその地に投入され、いまではその侵略によって、人口比率は逆転している。 入植者には、良好な土地が優先的に配分され!独占的な地位を保証されている。 そして部隊は、ロシアとの国境付近に集中的に配置され、そこにある天山山脈は、豊かな水源地帯でもある。 つまり、中共は、ロシアへの防備を固めると同時に、東トルキスタンの水源を制圧することを目的としている。 『漢人を大量に送り込み、都市と水源を確保する』 これこそが、中国がわずか60年で、東トルキスタンを掌握した作戦の要諦である。(WiLL 2011/10号 P90)

菅直人は、辞任直前の8/10、中国向け観光ビザの発給に関しさらなる緩和措置を発表した。 従来はそこに所得制限があったが、それを撤廃するうえに、滞在可能期間も延長させた。辞職を目前に控えたドサクサを狙った政治手法はほとほと姑息かつ悪辣で、中国の子分、朝鮮人の人間性が滲み出ている。 そもそも民主党というのは「日本を切り売りして中韓朝が権益を得ることを目的とする売国政権」である。 中国が、というよりも、「与党・民主党の陰謀に我々日本国民が気付かず騙されてしまうこと」が問題なのだ。 ある者は「日本は既に米国に支配されている、中国に支配されても大家が変更されるだけだ」と笑うが、中華食人欺瞞国とその人民の実態をぜんぜん知らないで言っているので、ゲンナリする。 すべてが万事この調子で、今後、我々大和民族は、更に落ちぶれ チベット、ウイグル、モンゴル、台湾に続いて、こいつら中国の下僕となる予定である。


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チベットで今でも続く拷問の数々:概略

2011-02-25 17:39:44 | 中国共産党
- チベットで今でも続く拷問の数々 -

1949.10.01 中華人民共和国建国の日、北京放送は、突然「人民解放軍は、中国全土を解放しなければならない。 チベット、新疆(東トルキスタン)、海南島、台湾も例外ではない」と発表した。 北京放送を聞いたチベット人は、その真意をはかりかねていた。 そして1950年、毛沢東の指示により、人民解放軍がチベットに侵攻した。 当時、チベットにいた外国人は、10人未満だった。その数人の外国人を「帝国主義者」と断じ、その数人を取り締まる、という名目で 約8万4千人の軍隊が送り込まれ、チベット人虐殺が開始された。




チベットに笑顔を取り戻すために より 2002年のチベット

その翌年、軍事的威嚇の下に、両国の間に「十七ヵ条協定」が結ばれた。 毛沢東は、「チベットの文化を尊重する」「チベットには一切手を加えない」と確約したが、すべて言葉だけ、完全に裏切られる。これが中国流の「約束」なのである。 そのポイントは、「外交権と防衛権をチベットから取り上げる」ことにあった。 中国は、「チベットは元々国家として独立していなかった、中国の一部だった」などと主張しているが、「外交権と防衛権をチベットから取り上げる」と規定していることは、中国がチベットを「国」として認めていたことを意味する。 このように、詐欺師の矛盾した言説により「自ら化けの皮が剥がれる」ことを、日本では「語るに堕ちる」という。

毛沢東が、何故、国際法を無視し、120万人もの大虐殺を行ってまで、当時、資源も発見されていなかったチベットを侵略したのか。 それは長らく チベット人だけではなく国際社会でも最大の謎であった。 毛は第3次世界大戦を予測していた。1964年の核実験成功後、チベットに、インドとロシアを狙う核ミサイル基地を建設。さらに大陸間弾道弾、軍事レーダー基地、飛行場を 次々と建設。チベットを一大核軍事要塞としたのである。 そのためには、チベット人120万人程度の犠牲など、些細な問題でしかなかった。

中国政府が国連の拷問禁止条約に調印した1986年以来、拘留・監禁中に拷問死したチベット政治囚は確認されただけでも60人にものぼる。 拘留中における拷問は圧倒的に身体に対する虐待だが、虐待後、生き延びた者にとっても、拷問は心の傷となって後々まで残ることになる。これから下に綴られる証言は、拘留・監禁中の拷問を生き延びた人たちによるものである。 

拘留中における拷問は通常、尋問とともに行われ、冷凍室に無理やり押し込められたあげく、鞭打ちや電圧を帯びた牛追い棒の電気ショックをあびせられる。拘留者の多くは、様々な種類の拷問具を耐え忍ばねばならない。 監禁中における拷問は、拘留中とは違った様相を帯びてくる。 強制労働、訓練がそれだ。チベット政治囚は日ごとに決められたノルマを課せられ、病気や殴打による傷害で苦しんでいても関係なく従わなければならない。

強制労働の方が拷問そのものより苛酷だ、と報告する証言者たちもいる。 そしてまた、精神の深いレベルまで傷を負わせるやり方、血液や体液の抽出、食事を与えない、などが挙げられる。 チベット僧たちはその宗教的信念のため、より一層心理的苦痛を味わされることもしばしばだ。 例えば、排泄物をタンカ(仏画) を使って強制的に運ばされることもあるのだ…

- ルンデュップ・ガンデンの場合 -

ルンデュップは1988年3月5日のデモに参加し、チベットにおける人権擁護及び政治囚ユロ・ダワ・ツェリンの釈放を要求。 警官が催涙ガスをデモ参加者たちに発射した後、ルンデュップは逮捕され、7人の他の僧たちとともに、独房に入れられる。 警官、兵士たちは、彼らを丸裸にし、木棒、銃の床尾、ゴムのこん棒、電気棒などを使って暴行し、その間ショックを増すために、彼らに水を浴びせかけた。

- 「釈放されてすぐに死亡」という謎 -

囚人が過酷な拷問で死にかけていると、通常、入院か釈放である。たいてい刑務所内で死亡することはない。当局の過失をできるだけ最小限に見せかけるためである。 プルブ・ツェリンは1989年3月5日、ラサの非暴力抗議デモに参加した。 その日のうちに公安当局に逮捕され、ジョカンのすぐそばの警察署内の拘留所で暴行を受けた。鉄棒で頭を強く殴打され、回復不能の重傷を負った。 その後ラサの人民病院に運ばれ、同日、親類たちは手術を受けねば助からないと知らされた。18日間もの間、昏睡状態に陥いり、半身麻痺状態のまま帰宅。それから痙攣をおこすようになり、1996年2月7日に死亡した。36歳だった。

- 巧妙な手口 -

ラクパ・ツェリンは3度以上にもわたって治療を拒否され、1990年12月15日、逮捕後13ヶ月で死亡した。 この件は国際的な関心を集め、中国政府からの反応を要求するまでになった。ドラプチ刑務所に外国の使節が派遣される前、ラクパは「チベットは中国の1部で、昔も今もそれは変わらない」と派遣団に告白するよう中国当局から命令を受けたが、勇敢にもそれを拒否した。そのあとすぐさま彼は集中尋問を受け、暴行された。彼の独房に隣接した部屋に入れられていた彼の囚人仲間は、彼が泣き叫ぶのを聞いたという。「お母さん、助けて… やつら僕を殺そうとしている…」 20歳の若さだった。

- 血液、体液の強制抽出 -

医療目的ということで、体液が抽出されることもある。 ピュンツォク・ヤルギはラサのミチュンギ尼僧院の尼僧であったが、92年2月3日逮捕された。 94年の中頃、警察病院に転送された際、彼女は中国人の医者に2度にわたって背中に注射を打たれた。 チベットでは生気を増すと信じられている体液を医者は抽出したのだった。 ピュンツォクはその後昏睡状態になり、毒のまわっている証拠に、爪、舌、そして唇は青みを帯びた黒色に変色した。 病院に収容されてから6日後、94年6月4日に20歳の若さで亡くなった。 中国当局が彼女の両親に遺体の面会を許可したが、それは面会について一切公表しないとの条件で、警察の同伴のもと許されたものだった。 遺体がトプデンに引き渡された際、彼は埋葬の儀式を行うことを拒否した。 それは彼女の遺体がかなり酷く損傷していたためだった。 チベットの風習では鳥葬は自然死の場合に限って行われる。 このことは彼女の両親、刑務所関係者たちの前で告げられた。 報告によれば、酷い暴行のため、遺体は全身にわたって黒色、青色に変色していた。 右足は真っ黒に、そして眼と口は血で染まっていた。

- 拷問のビデオ -

囚人たちは、集団死刑執行のようなチベット人に対する残虐行為を映した拷問のビデオを見せられることもある。 最も一般に見せられるものは、ある僧が残酷な拷問を受けている映像である。僧がまず手と足を釘で打たれて磔にされ、2度銃で打たれ、山積みになった小枝の上に吊るされ、最後に生きながら火で焼かれるというものだ。

- 冷気・熱気への身体のさらし -

冬の間、囚人たちは、厳寒や雪の降る中、裸あるいは薄い衣服だけで丸1日たたされることもある。 ラサでの冬の気温は平均0~マイナス13℃になる。西方や北方では、気温は氷点下数十℃までさがることもある。苦痛を増加させるために、拷問者は囚人たちを裸でたたせて冷水を浴びせることもある。独房のなかには、極端に寒くなるように「工夫」を凝らしているものもある。

熱にさらすことも頻繁に行われる。 親指に手錠をかけられるか、両手を背中で縛られて天井から吊らされる。これには尋問をともなうこともある。そのままの状態で、拷問者は火にあぶられ、赤唐辛子をくべられ、熱湯をかけられることもある。 赤唐辛子を火で焼くと、すさまじく弾け散り、その煙で眼が痛み呼吸が出来なくなる。 両手に手錠をかけられたまま熱い煙突に固定され、まる1日中、水も食べ物も与えられず放置される。焼けつくような煙突の熱で全身は水ぶくれ状態になる。 体にできた水泡から水が流れ落ち、全身の傷が極度の発汗のために痛む。

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植民地時代、原住民の虐殺と侵略は普通のことであり、我々大和民族も「アイヌ民族」を卑怯な手段で陥れ、また「インディアン」や「アボリジニ」に対しても同様の対処が為された。 マヤ民族に対しても、当時の「キリスト教会」が同様の手段を採った。 そして現在、ウイグル・チベット民族が、筆舌に尽くし難い艱難に遭い、思い出の郷里は切り刻まれ、「その民族そのもののアイデンティティー」が抹殺されようとしている。 そして、我々はこの現状を放置できるのか。 毛沢東は、「大家族の一員としてチベットを抱擁する」と言い、1950年、大虐殺を開始した。 初めは友好的に振る舞い、そのうち暴力的になる 既成事実を周到に積み重ね、不条理を条理とする これが彼らの常套手段だ。





「中国はいかにチベットを侵略したか」 マイケル・ダナム より

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。 特に尊敬されている僧たちは狙い打ちされ、尼僧と性交を強いられたりもした。 ある僧院は馬小舎にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した僧のある者は腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。

大勢のチベット人は、熱湯を浴びせられ、手足を切断され、焼かれ、首を切り落とされ、馬や車で引きずり殺されていった。 アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。 おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて 中共の学校や孤児院に強制収容されていった。 貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。 僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。 何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。 僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた。 1956年終わり頃までに、ほとんどの男は断種され、女性は中共兵に犯され妊娠させられていった。 ある村では25人の村人が人々の前で生きながら焼き殺され、また別の村では24人の親が子供を中共の学校へ行かせるのを拒んだ罪で目に釘を打ち込まれ虐殺された。

現在、強い国力を持った国の中で、仏教が主な宗教になっている国は日本だけである。 チベットの仏教寺院が砲撃され仏経典が焼かれ、仏僧が「仏経典なんぞ糞だ」と書かれた看板を首に吊るされ大衆の前で跪く光景を見て、悲しみと怒りを共有できる民族は、世界の中で我々大和民族しかいない。 日本人は チベットを救うために立ち上がる。東日本大震災 都市伝説 sengoku38 GHQ 在日 蓮舫 中国共産党 侵略 チベット ウイグル 民主党 口蹄疫 虐殺 尖閣諸島 テロ AKB48 福島原発 ぺ・ヨンジュン



『雪の下の炎』

33年間の拷問と投獄、チベット僧パルデン・ギャツォの不屈の精神を描いたドキュメンタリー


第1回チベタン・フリーダム・コンサート、ビースティ・ボーイズ、ビョーク、オノ・ヨーコら豪華ミュージシャンとともに一人のチベット僧が平和を訴えた。 中国軍の侵攻に対しチベット民族が蜂起した1959年に、平和的なデモを行ったという「罪」で投獄されたチベット僧パルデン・ギャツォである。 想像を絶するむごい拷問を受けながら33年間を生き抜き、非業の死を遂げた同胞のため、現在も闘い続ける。

この映画は、パルデン・ギャツォの苦悩の人生を通してチベット問題を浮かび上がらせると同時に、
人間が持つ精神の計り知れない可能性を私たちに見せつける。

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★ チベットの今

毛沢東は、「チベットを支配するには仏教と仏教の指導者を徹底的に滅ぼせ」と言った。  植民地における同化政策とは、被支配地で 古来よりの伝統文化を断絶させ、支配国の社会文化制度を持ち込むことである。また、支配国から大量の移住を推し進め、被支配国の民族アイデンティティーを喪失させることである。 被支配民族の抵抗に対して武力を行使するだけではなく、巨額の国家財政を投入し、融和政策を採ることで、抵抗する力を失わせる。 最近、中共は、チベット支配の正当性として、「チベット人の生活が格段に向上した」ことを強調するが、その実態は、漢族の資本を強制投入し、安定していたチベット経済を根こそぎ壊し すべてを中国に依存させる改造計画である。

★ 掌以上の大きさの火傷の痕

2008年以降のチベットは、この20年あまりで最も恐ろしい状況にあるという。
 あるチベット人は、漢人と同じ教育を受けた。一応共産党員でもある彼は政府関連の職を得ているが、しかし最近は毎朝出勤の際に「今晩、無事に家に帰って来られるだろうか」と不安がよぎるという。  チャイナモバイルに勤務していた1人の青年は、朝の通勤途上、武装警官が無抵抗の僧侶を幾度も烈しく殴打する光景に出くわした。 彼はこれを看過できず、「ひどいことはやめてください」と止めに入ったために逮捕されてしまった。 約2ヵ月後、彼は瀕死の状態で家族のもとに帰された。皮膚が真っ黒に焦がされた掌(手の平)以上の大きさの火傷の痕が、体中に幾つも残っている。 拷問を受けたチベット人の体験談では「タバコの火を押し当てられた」という話がよく出てくるが、まさか、手がスッポリ入るほどの真っ黒の穴が出来るまで皮膚を焼く、などという行為は、我々の想像の外である。 うつ伏せに寝かされた青年の臀部は、繰り返し殴られ焼かれたために、それが人の臀部だと分からないほど 皮膚のすべてが抉り取られ肉が剥き出しになっていた。 この仕業に憤(いきどお)りを覚えるのは当然だが、それ以上に、「これほどまでの残虐行為をやり抜ける者の神経とは一体どんな代物」なのか。それはもはや人間の有様では無い。 チャイナモバイルの青年と同じ目には遭わないまでも、こんなことがいつ自分の身に起きても不思議ではない、と30代エリートのチベット人は言う。彼らがチベット人である限り、中国、チベットのどこに居ても安全は無いのだ。

★ 現在のチベットは、国全体が「刑務所」と化している

現在では、チベット本土の情報提供者とのコンタクトは非常に取りづらくなっている。集落の至るところに監視員が居り、自分の家に出入りするにも尋問をされる。 通信はすべてモニターされている。 中国政府は、北京五輪のあと、2008年中に5万人以上のチベット牧畜民に対し「家を与える」との名目で強制移住を計画した。 美しく平和な郷里から強制移住させられた牧畜民たちは、中国政府が用意した「定住キャンプ」に暮らしている。 しかし、それは住宅というよりも、「刑務所」と呼ぶに相応しい、あまりにも殺風景な建物群だ。 もちろん、その中に暮らしているのは、素朴で善良無辜(むこ)な元牧畜民だちである。 そこには 学校はおろかバスさえ通っていない。 そして、移住に伴って土地も家畜も取り上げられた彼らには、「飢え」が現実として迫っている。 当然、病院も無いが、「酒だけは十二分に配給され」アルコール中毒者が増加している。  これは、米国政府がインディアンから土地を取り上げ、移住させ根絶やしにしようとしたやり方そのものであり、今でも、アメリカ・インディアンの中には、先天性アルコール中毒を患う人が少なくない。 米国がかつて犯した卑劣な手口を、中国が現代になって採用しているのだ。 

★ 闘い続けるチベットのサムライ

国際社会は、中国の主張の真実を突き止め、いかなる虐殺もやめさせなければならない。そのために、日本政府は国連に、第三国による調査団の設置と派遣を提案すべきであるが、それに民主党はどう対処したのか。 2009.9 の胡錦濤との会談で 鳩山由紀夫は チベット問題について「内政の問題と理解している」と述べ、岡田克也は 2009.8「中国への内政干渉は控える」と述べた。日本は中国から「日本の英霊が眠る靖国神社への参拝」への内政干渉を散々やられておきながらのこの発言。しかも、この侵略がほんとうに内政の問題、で済む話ならあらためて「内政の問題だ」などという必要さえ無い。 ・・・これが、現在の大和民族の姿である。

2009.3 今は青海省と呼ばれているチベットのアムドで、若い僧侶が当局への抗議の目的で焼身自殺を図った。このとき、炎に包まれる僧侶を中国当局は銃撃した。 膝の辺りを打ち抜かれ、全身に火傷を負いながらも彼は一命を取り留め、病院に収容された。 数日後、医師に足の切断を勧められるが、彼はそれを頑なに拒んでいる。 焼身自殺を図ろうとしている人間を、「止めるどころか銃で撃つ中国当局の非道ぶりとチベット人弾圧の実態」を、「自身の体に残る痕をもって訴えるため」の治療拒否である。  チベットでは現在も、丸腰の同胞が 命を賭けた壮絶な闘いを展開している。




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利用された天皇

2010-12-22 17:20:41 | 中国共産党
参考: 民主党政権では日本が持たない  櫻井 よしこ (著)

北京五輪が行われた2008年5月初旬、中国の国家主席としては10年ぶりに胡錦濤(コ キントウ)主席が来日した。 そこに「暖春の春」と、自ら名付け、日中友好を強調したが、この日本訪問は、胡 主席にとって、3月に発生した「チベット騒乱」以後初の外遊だった。 日本との関係緊密化を印象付けることで、国際社会で高まった、「人権弾圧国家」という、対中批判を和らげ、中国外交の孤立を回避して 夏の五輪成功を期する目的を持つ来日だった。

この訪日で中国が企図したのは、1989年に起きた、民主化のための蜂起を戦車で轢き殺した「天安門事件」の後、国際社会から強い非難を浴びた中国が、「日中友好」の名の元に日本に 天皇ご訪中を要請し、それが実現したことで国際社会への「復帰」が可能になった手法の再現だった、と言える。 今回もまた、彼らは同じ手を使ったのである。

これは、2003年に引退した、中共の 銭 其琛(せん きしん)元副首相が、回顧録にて、1992年の天皇ご訪中について、『天安門事件によって西側から受けた制裁を打破する目的があった』ことを明らかにしている。 彼が言うには、「日本は、西側の連合戦線の中で最も斬り込み易いポイントだった」 天皇ご訪中が実現すれば、「西側各国が、中国との密接な関係を中止した状況を打破できる、のみならず」「日本の国民に、日中友好政策をもっと支持させることができた」とのこと。  天皇ご訪中は、そうした中国側の「狙い」に、日本政府が「友好を信じて」応じたものだったが、翌1993年、中国は、全土で「愛国教育」を開始した。 その実態は、「反日教育」である。

江 沢民(コウ タクミン)主席が、強力にこの反日教育を推進した結果、やがて中国で「反日暴動」の嵐が吹き荒れた。  天皇ご訪中への感謝や、日本への感謝など、「存在しない」のである。 そのような中国共産党に対し、自民党政権は、ひたすらただ頭を下げて、譲歩、受容することで、日本の名誉と国益を 切り売りして来たわけである。 そして民主党政権となった。 これは、中華・朝鮮人による、中華・朝鮮人のための、日本を中華・朝鮮化し、日本を中華・朝鮮 に「明け渡そう」と試みる政権であるが故に、日本国としては 当然、却下すべきものである。  2005年の「反日暴動」以降、日本国内では中国が根強い反日感情がある事が知られ、中国に対し警戒するようになり、1992年に訪中した今上天皇は、後の温家宝首相の 北京オリンピック開会式の招待を断った。

中国という隣国は、天が日本に与えた 永遠の艱難(かんなん)である。 その脅威をどう扱うのかは、日本国家が如何に賢く、勁(つよ)くなっていくかに掛かっている。 中国の正体とは??? それを、2007年の「毒入り餃子事件」の展開から探ってみる。


毒               毒               毒

毒               毒               毒


中国製冷凍餃子中毒事件 Wikipedia

2007/12/28 千葉県で母子が食中毒症状。 翌年01/22 まで、千葉と兵庫で被害者が続出し、ある女児は生死の境を彷徨った。 県警の調査により、保障基準の100-400倍にも達する高濃度の「メタミドホス」を検出、それは、残留農薬のレベルとは桁違いであり、「食品テロの可能性が高い」とされた。 輸出元の「国営企業」である 天洋食品 は、中国の最優秀企業の1つだ。 中国側は事件発覚直後から、中国側での毒物混入はありえないとの全面否定を打ち出し、「自分たちこそ最大の被害者」と、涙ながらに訴えた。 揃って身の潔白を主張し、事実上、毒物は日本で混入されたと 日本を非難した。

さて、千葉と兵庫で別々に販売され、被害を起こした餃子であるが、両製品は、中国の冷凍庫で一緒に保管されたあと、別々の日に出荷され、横浜港と大阪港に入港した。 「冷凍庫を出た後に、2つの商品の接点は、全く無い!」 「両製品に毒を入れるとすれば、犯人は、別個に作業しなければならない!」 加えて、警視庁の科学捜査によれば、餃子のメタミドホスは、「その不純物の多さから日本製ではない!」ことが確認された。 また、大阪府では、「密封袋の内側から!」同毒物が検出された。 ここで、毒物は、製造プロセスにて混入されたと ほぼ断定できる物証が揃った。

ここまで来れば、日本側にはまさか中国側が「シラを切る」ことはない、との見方があった。。。。。 だが、翌、2008/02/28 の中国公安省の記者会見は、見事にその期待を裏切った。  余新民副局長は、「毒物が中国国内で混入された可能性は極めて小さい」と言ってのけたのだ。 さらには、日本の現場への立ち入りや物証提供を断られたことに対して、「深い遺憾」さえ表明した。   これが、中国である。





実は、中国政府内には、物証や状況から、無理に日本犯行説を押し通すのは無理だ、とする向きがあった。 しかし、上記記者会見の放送は、中国政府が、「シラを切り通す」決意を固めたことを示している。  北京オリンピックを前にして、国内での食品テロの発生は、中国当局にとってあまりにも大きな脅威だった。 それにしても、中国が己の失態についてはシラを切り、被害者である日本側を犯人に仕立て上げる!という狡猾な手法で乗り切れる と判断した理由は、一体何か。 「産経新聞」の伊藤正氏は、そこには日本人の『飽きっぽさ』があると分析する。 餃子事件の後に、イージス艦「あたご」と、民間漁船の衝突事故が起こった。 また、ロス疑惑の三浦和義氏も、サイパンで身柄を拘束された。

ワイドショーの関心は、もはやそちらに移っていたのである。  ようするに、日本人はもはや「呆けている」ので、「誤魔化せる」と中国政府は判断し、開き直ったわけだ。 にもかかわらず、日本国・福田康夫首相は述べた。。。。。。

東日本大震災 都市伝説 sengoku38 GHQ 在日 蓮舫 中国共産党 侵略 チベット ウイグル 民主党 口蹄疫 虐殺 尖閣諸島 テロ AKB48 福島原発 ぺ・ヨンジュン

「中国捜査当局の発表は、日本と共同して、しっかり調査したいということを言っていたんじゃあないですかね。 非常に前向きですね!!!」


・・・・・・・・ このような馬鹿首相を擁する日本国家の有様をみて 中国側はさぞかし歩糞笑んだだろう。 首相発言から1週間後の 03/06 中国側は記者会見を開き、「中国国内で発生した可能性は既に無い」と 抜け抜けと述べた。 更には、日本側にこそ問題があると断定し、「客観的調査に協力せよ」と言い放った。 これが、中国外交である。  そして、2009年 01/17 中国当局が、容疑者とみられる元従業員を数ヶ月に渡って拘束していたことが分かった。 しかし、事件の全容が明らかになりつつある現在も、当局の謝罪は全く無い。

結論は明らかだ。  中国人の涙も、微笑も、中国当局のしかめつらしい言葉も、信じてはならないのである。

人民網日本語版>>社会・生活>> 毒入りギョーザ事件、解決  「ギョーザ中毒事件」解決で日本政府が中国に感謝
ここでも中国からの謝罪はまったく見られない。 しかも、民主党の岡田外相は、中国側に、感謝の意を表している。 「馬鹿日本」は全開のようである。





この、抜け目無い『異形の大国』に 日本は勝てるのか。 このままでは到底無理だろう。笑     さて、先頃の鳩山首相の場合はどうか。。。 
こちらをどうぞ。 ルーピー 鳩山由紀夫 参上!


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A級馬鹿首相 福田康夫


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