この間位まで花粉症で頭がボーッとしてました。
そうすると頭がかってに思考をするという、思考癖とも分析癖ともいえるものが私にはあったりします。
まあ大体とりとめのないものかもですが・・・。
そういうのをたまには文字にのこしておこうと思いました。
まあくだらない話しですんで、聞き流していただければ幸いです
いきなり少しまわり道から入りますが、まず「イデオロギー」というものについて。
Wikipediaなどでイデオロギーを調べると、イデオロギー論やらいろいろなイデオロギーについて解説がしてあり、難しい事かなぁって印象です。
イデオロギー - Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE%E3%83%BC
イデオロギーから私がパッとイメージすると共産主義と資本主義のイデオロギー対決ですが。
何かの本で読んだ定義だと、イデオロギーというの善悪論だとありました。
一定の価値基準で善悪を論じるのがイデオロギーだと。
その考えにでいくと、善と悪が存在するところにイデオロギーがあるといえるのかも知れません。
確かにイデオロギーというと、「正しい」や「間違ってる」という事より、善悪を分けるものってイメージに感じます。
善悪が絡むと盲信的になり、おおそよにも正しいとかいう、判断力を失う事が多くみられる事があり、わたしは善や悪という言葉が入るもの事には、より冷静なな判断をするように、警戒して聞いたり考えたりするようにしています。
どういう事かというと、まぁ簡単にいうと私は「思考する」という事に凄くウェートをおいていますが、イデオロギーというのは「思考する」事からは反するものというか邪魔になるものと思っています。
ところが芸術や文学にはイデオロギーがないと成り立たないものだそうです。
そもそも、音楽や絵画の「美しい」というものに、根本的な「正しさ」など存在するわけではなく、何らかの価値基準(美意識)によって良し悪しが決められています。
そして芸術は普遍性が多く語られる場合が多くあります。本来的な普遍性なものというのは、動物行動学的に考えて人間のDNAに基づく好みというのがあるかもです。(俗にいう本能。まあこういうものはたいてい繁殖活動に結び付けられますが)
ですがゴッホの画が死後に評価されたり、浮世絵が海外でより評価されたりといった例があるように、評価が変わる事もままあったりしますから、すべての芸術的価値感が先天的なものに由来するわけではないと思います。
だからこそカウンターカルチャーと呼ばれるアンチテーゼといえる既成の概念に対する事にウェートをおくアートなどももあったりします。
昨年新聞の文化欄にコンテンポラリーダンスの記事がありました。
その記事によると「落第ダンス」とも呼ぶようなブーム(?)があるそうです。
鍛えられた肉体、簡単には真似の出来ない動き。
こういったもののアンチテーゼとして、鍛えられていない普通の肉体での表現や、肉体で“出来ない”ということを表現したり、手や頭に蟹をつけ蟹の足が動きを表現するといたパフォーマンス(ボクデス(小浜正寛)さんの代表的な演目「蟹(かに)ダンサー多喜二」)。
こういったのを「コドモ身体」、もしくは「ダメ身体」と呼ばれる新しい表現なんだそうです。
記事の中でダンスキュレーターの桜井圭介さんによると「磨きぬかれた身体の美、高度なテクニックを披露するのではなく、むしろふつうの身体、ダメな身体、コドモの体のようにコントロールのきかない、一見、不器用な動きの方が、グルービーなのではないかということに気づいた」
今までの表現に、閉塞感や今後の発展性の無さを感じたりした結果、そのリアクションとして生まれている表現だと思います。これは先ほどいったカウンターカルチャーになるんだと思います。
長々と話しましたが、何がいいたいかというと、ダンスをみて「かっこいい」とか更にいうと「上手い」といのも、「まぁそう感じたからそれでいいじゃん。頭より感性が大事だよ」ってのもいいですが、少し踏み込んで考えて、「かっこいい」と思う根っこが何に由来する(イデオロギー的なもの)のかが分かるっていうのもそれはそれで自分を知ることにもなるし、新しい表現につながる可能性もあると思います。
まぁ私なんかが芸術論かよっ!?て話しなんですが。
考えるのは自由ですし、趣味(遊び)でやってるダンスだからこそ、より自由に遊びたいので、いろいろ考えてみるのが面白かったりします。
「コドモ身体」「ダメ身体」…魅惑の「落第ダンス」 asahi.com
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そうすると頭がかってに思考をするという、思考癖とも分析癖ともいえるものが私にはあったりします。
まあ大体とりとめのないものかもですが・・・。
そういうのをたまには文字にのこしておこうと思いました。
まあくだらない話しですんで、聞き流していただければ幸いです
いきなり少しまわり道から入りますが、まず「イデオロギー」というものについて。
Wikipediaなどでイデオロギーを調べると、イデオロギー論やらいろいろなイデオロギーについて解説がしてあり、難しい事かなぁって印象です。
イデオロギー - Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE%E3%83%BC
イデオロギーから私がパッとイメージすると共産主義と資本主義のイデオロギー対決ですが。
何かの本で読んだ定義だと、イデオロギーというの善悪論だとありました。
一定の価値基準で善悪を論じるのがイデオロギーだと。
その考えにでいくと、善と悪が存在するところにイデオロギーがあるといえるのかも知れません。
確かにイデオロギーというと、「正しい」や「間違ってる」という事より、善悪を分けるものってイメージに感じます。
善悪が絡むと盲信的になり、おおそよにも正しいとかいう、判断力を失う事が多くみられる事があり、わたしは善や悪という言葉が入るもの事には、より冷静なな判断をするように、警戒して聞いたり考えたりするようにしています。
どういう事かというと、まぁ簡単にいうと私は「思考する」という事に凄くウェートをおいていますが、イデオロギーというのは「思考する」事からは反するものというか邪魔になるものと思っています。
ところが芸術や文学にはイデオロギーがないと成り立たないものだそうです。
そもそも、音楽や絵画の「美しい」というものに、根本的な「正しさ」など存在するわけではなく、何らかの価値基準(美意識)によって良し悪しが決められています。
そして芸術は普遍性が多く語られる場合が多くあります。本来的な普遍性なものというのは、動物行動学的に考えて人間のDNAに基づく好みというのがあるかもです。(俗にいう本能。まあこういうものはたいてい繁殖活動に結び付けられますが)
ですがゴッホの画が死後に評価されたり、浮世絵が海外でより評価されたりといった例があるように、評価が変わる事もままあったりしますから、すべての芸術的価値感が先天的なものに由来するわけではないと思います。
だからこそカウンターカルチャーと呼ばれるアンチテーゼといえる既成の概念に対する事にウェートをおくアートなどももあったりします。
昨年新聞の文化欄にコンテンポラリーダンスの記事がありました。
その記事によると「落第ダンス」とも呼ぶようなブーム(?)があるそうです。
鍛えられた肉体、簡単には真似の出来ない動き。
こういったもののアンチテーゼとして、鍛えられていない普通の肉体での表現や、肉体で“出来ない”ということを表現したり、手や頭に蟹をつけ蟹の足が動きを表現するといたパフォーマンス(ボクデス(小浜正寛)さんの代表的な演目「蟹(かに)ダンサー多喜二」)。
こういったのを「コドモ身体」、もしくは「ダメ身体」と呼ばれる新しい表現なんだそうです。
記事の中でダンスキュレーターの桜井圭介さんによると「磨きぬかれた身体の美、高度なテクニックを披露するのではなく、むしろふつうの身体、ダメな身体、コドモの体のようにコントロールのきかない、一見、不器用な動きの方が、グルービーなのではないかということに気づいた」
今までの表現に、閉塞感や今後の発展性の無さを感じたりした結果、そのリアクションとして生まれている表現だと思います。これは先ほどいったカウンターカルチャーになるんだと思います。
長々と話しましたが、何がいいたいかというと、ダンスをみて「かっこいい」とか更にいうと「上手い」といのも、「まぁそう感じたからそれでいいじゃん。頭より感性が大事だよ」ってのもいいですが、少し踏み込んで考えて、「かっこいい」と思う根っこが何に由来する(イデオロギー的なもの)のかが分かるっていうのもそれはそれで自分を知ることにもなるし、新しい表現につながる可能性もあると思います。
まぁ私なんかが芸術論かよっ!?て話しなんですが。
考えるのは自由ですし、趣味(遊び)でやってるダンスだからこそ、より自由に遊びたいので、いろいろ考えてみるのが面白かったりします。
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