Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/教会巡礼・福岡県

2021-07-13 18:37:59 | 旅行

2020年の記録

 

やはり国重要文化財、歴史の重みと美しさがある。(今村天主堂)

 

 

朝、大牟田を出発し、久留米、太刀洗を廻って昼すぎに福岡空港に戻らなくてはならない。昨日までと違って、太刀洗以外は、都市部に立地している。八女市の明治の館(旧大同生命ビル)は、思い切ってパスした。渋滞にも考慮して、余裕のあるスケジュールで、安全第一で最終日を終えたい。

 

日本カトリック教団大牟田教会は、1952年(昭和27年)竣工。大牟田駅に近く、幼稚園を併設している。幼稚園の許可を得て、入門と聖堂内の撮影をさせていただく。

 

 

雪の聖母聖堂は、旧大名町天主堂(福岡教区カテドラル)を1984年(昭和59年)に解体し、1986年(昭和61年)に久留米市にある聖マリア病院構内の付属聖堂として復原移築したものである。大病院の中にあって、ひっそりと佇んでいる。

 

 

カトリック久留米教会は、1955年(昭和30年)竣工、1994年(平成6年)年に久留米空襲で焼失した前聖堂の意匠図に基いて復元改修されている。

久留米のカトリック信徒の歴史は古く1587年(天正15年)のキリシタン大名・毛利秀包の久留米入城に始まり、神父が常住し、2つの教会堂も建設された。しかし、関ヶ原の合戦で、毛利秀包が敗北すると信徒たちの一部は今村に逃れ、久留米のカソリックは一旦壊滅する。明治期に入り再宣教が開始され、日吉町に教会が、六ッ門町(現在の教会の場所)には医療施設「斯道院」が建設された。その後、時計塔付きの煉瓦造りの教会が建設されたが、1945年(昭和20年)8月11日に焼失した。

 

 

日本福音ルーテル久留米教会礼拝堂は、米国出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計による煉瓦造平屋一部2階建、銅板葺として、1918年(大正7年)に竣工している。太平洋戦争末の1945年8月11日の久留米空襲では、礼拝堂に迫る戦火を信徒たちの必死の消火活動で食い止めた逸話が残る。

 

 

今村天主堂(福岡県三井郡大刀洗町大字今)は、軟弱地盤の難工事であったが、信徒の労働奉仕を受け、1913年(大正2年)に竣工した。設計は鉄川与助で、建物外周部と正面の双塔、アプス(後陣)周囲は煉瓦造、内部は木造で、外観はロマネスクを基調としている。(国重要文化財)

旧筑後国の今地区(以下、今村)は、江戸時代に隠れキリシタンとして信仰を守った人々が多く暮したという歴史を持つ。隠れキリシタンが多く存在した九州でも、平野部のキリシタン発見は極めて稀なことで、1873年(明治6年)のキリシタン禁令解禁まで、今村の信徒は、大浦天主堂と密かな連絡を保ち、信仰を守ったといわれている。

 

 

福岡市内に入ると、クルマの流れが悪くなったものの安全運転で到着、レンタカーを返却した。弾丸のように4日間を走り抜いた感もあるが、事故も不愉快なこともなく、福岡に無事到着できたことを神と出会ったすべての人に感謝したい。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/教会巡礼・天草

2021-07-11 08:18:11 | 旅行

2020年の記録

 

青空の下、大江教会を巡礼することができた。

 

翌朝になると雨は止んでいたが曇天。天気予報では、時間とともに良い方向に向かうようだ。(昨日、雨だった平戸は、快晴とか・・・残念!) 今日も移動を続ける。明日のことを考えれば、少しでも前に進みたい気持ちもあって、一目散に口之津港を目指し、島原半島の西岸を南下する。

 

フェリーで熊本県に入り、天草下島を海岸沿いに一周したあと、天草上島、宇城から有明海に沿って北上、朝、出発した雲仙市の対岸となる福岡県大牟田市に到着した。

 

口之津港まで来ると、青空が眺められるようになった。海上には、小舟が浮かぶ。フェリーに乗るのは久しぶりだ。今回の巡礼、ほんとうは、長崎県の黒島や小値賀島の教会を巡る予定だったが、さすがに離島は自粛したといった経緯もあって、フェリー乗船は感慨深い。

 

熊本県鬼池港に上陸した後は、東シナ海の天草灘に沿って南下し大江教会を目指す。

 

大江教会は、キリスト教解禁後、天草で最も早く造られた教会で、現在の天主堂は、昭和8年(1933年)天草への伝道に生涯を捧げたフランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じ、鉄川与助設計・施工により竣工した。ロマネスク様式の鉄筋コンクリート造である。

 

﨑津教会は、フランス人司祭のハルブ神父の希望で、かつて絵踏が行われた庄屋宅(吉田家)跡に鉄川与助によって1934年(昭和9年)に竣工した。ゴシック様式の三廊式平屋で、リブ・ヴォールト天井構造に切妻屋根瓦葺き。正面の尖塔・拝廊と手前二間は鉄筋コンクリート製だが、予算の都合で祭壇を含めた奥三間は木造建築になっている。コンクリート部分の外壁は大正末期~昭和初期に流行したざらつき感のあるドイツ壁(モルタル掃き付け仕上げ)風に仕立てている。室内の壁は漆喰塗りで白く明るく、教会としては珍しい畳敷きである。

﨑津教会自体は文化財指定をうけていないため、世界遺産の構成資産としては教会単独ではなく、﨑津集落内の景観の一部として扱われている。

﨑津教会は、10年以上前に鹿児島の友人の実家に遊びに行ったときに日帰りドライブで、訪問している。現在、良くも悪くも観光化され綺麗に整備されたが、当時は、今ほど整備されておらず、畳も傷んでいた記憶がある。

 

天草五橋で結ばれている天草松島は、熊本県の大矢野島と天草上島の間に大小約20余の島々の総称で、宮城県の松島、長崎県の九十九島と並ぶ日本三大松島の一つである。

 

三角西港公園には、移築、再建された歴史的建造物がある。

旅館・浦島屋は、1893年(明治26年)7月22日、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が長崎からの帰途立ち寄り、「夏の日の夢」と題する紀行文の舞台とした和風旅館である。1905年(明治38年)に解体され大連に運ばれましたが、1992年(平成4年)に設計図をもとに復元された。

 

龍驤館は、明治天皇即位50周年記念事業として計画、明治天皇の崩御により計画を変更、天応頌徳記念館として宇土郡の公会堂、産物に陳列、教育勧業の振興として、1918年(大正7年)に旅館・浦島屋の跡地に建設された。

 

ムルドルハウスは、三角西港の設計者・オランダ人技師ムルドルの名にちなんでつけられた物産館である。(歴史的な建造物ではない)

 

 

﨑津教会訪問のあとの1時半過ぎにスマホを使って、大牟田までたどり着けることを確認してビジネスホテルを予約。開業1年未満の新しいホテル、バスなし訳アリの注釈があったが、シャワーがあれば十分と判断して予約したのだが、チェックインして仰天。部屋そのものは、清掃も行き届きナイスなのだが、カーテンで仕切られているもののトイレは室内にある。専用の換気扇が設置されているものの耐えられない客もいるのでは?と余計な心配。(僕自身は没問題!) 昨晩と同様近隣のコンビニで買った弁当を自室で食べる夕食で1日を終えた。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/教会巡礼・平戸第2回

2021-07-08 21:42:35 | 旅行

2020年の記録

 

カトリック宝亀教会を訪ねた時が、最も大粒の雨が降っていた。晴天の日にまた・・・。

 

 

昨晩は強い風と雨、朝になっても霧雨が降り続いている。気をとり直して平戸島の教会巡礼に出発する。

カトリック上神崎教会は、宿泊した「網元の宿 銀鱗荘」から市街地と逆の方向に進んだところにある。2014年(平成26年)に六角形の木造づくりの重厚な梁と柱が特徴的な3代目となる新聖堂に建て替えられている。

上神崎教会は、前回で紹介した田平天主堂、福崎教会、平戸口教会と同様、明治期に五島や黒島(佐世保市)、外海(長崎市)から移住してきた信徒によって献堂された聖堂である。

 

 

カトリック中野教会は、上神崎教会からUターンして来た道を戻り、市街地を抜けた先にある。

徳川幕府の酷しい迫害を逃れて移り住んだ潜伏キリシタン集落の教会である。1952年(昭和27年)、コロンバン会の神父の援助を得て、待望の聖堂を建立した。質素な教会で、建築物の歴史的な評価はないが、信徒の厚い信仰の場であることを感じられる聖堂である。

 

 

カトリック山野教会のある山野集落の先祖は、禁教時代、西彼杵や外海から五島へ迫害を逃れて行ったものの、五島に住めず文政年間に平戸島のこの地に住み着いた人々である。ラゲ神父と信徒によって1887年(明治20年)に最初の教会が建設され、1924年(大正13年)に現聖堂が建立された。棟梁が黒崎教会の建設にも携わっていたため、聖堂のなかは黒崎教会と似ているという。1979年(昭和54年)に前面が増築され、屋根の上に八角の尖塔が付け加えられた。さらに2000年(平成12年)にも改築され、外壁は板張りではなくなった。

 

 

春日の棚田は、山野教会から平戸市最高峰安満岳を挟み反対側にある。周辺の森から湧き出る豊かな水とともに標高150メートル地点から約450枚の棚田が海岸まで続く農漁村の風景は、2010年に国選定重要文化的景観に選定されている。(2018年には棚田を含む集落が構成資産として世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録)

 

春日案内所では、集落の方に笑顔で出迎えられ、お茶や自家製漬物をご馳走になった。話題は集落の高齢化と後継者問題で、息子夫婦の不妊治療に貯えをつぎ込んだ話にまで及び、すっかり長居してしまった。(敢えてコロナは、話題にしなかった)

 

 

カトリック山田教会は、春日の棚田から生月大橋を渡り生月島に入ったところにある。生月島は、隠れキリシタンの多い島で、1865年の「信徒発見」の後に黒島(佐世保市)から信徒が島を訪れてカトリックに戻るよう働きかけ、カトリックの洗礼を受けた人々が山田教会の信徒の祖先である。なお、生月島には、明治初期のカトリックの再宣教に応じず、潜伏時代の信仰組織・様式を守り続ける「カクレキリシタン」の信徒も多く、今も維持されている

1912年(大正元年)に長崎県内や周辺各地で数多くの教会建築を手がけた鉄川与助の設計・施工によるロマネスク様式の現教会堂が完成している。

 

 

カトリック壱部教会は、山田教会から生月島内を北上したところにある。壱部教会の信徒も山田教会同様、明治期に黒島の信徒の働きかけにより潜伏キリシタンからカトリックに復帰した人々の子孫である。現聖堂は1964(昭和39)年竣工された。

 

 

カトリック紐差教会(ひもさしきょうかい)は、平戸島中央部にあるので、生月大橋を再び渡って平戸島へ戻る。

紐差教会は、鉄川与助の設計施工により昭和4年(1929年)に竣工した鉄筋コンクリート造2階建てで、旧浦上天主堂が原爆で倒壊して新たに建てられるまでの間、日本で最も大きい教会堂であったとされる。なお、紐差地区の信徒は、潜伏キリシタンではなく、仏教徒が明治初期に洗礼を受けた人々の子孫である。

 

 

カトリック木ヶ津教会は、紐差教会から県道を南下した緑に囲まれたところにある。1962年(昭和37年) 猶興館高等学校の体育館だった建物を教会が購入・移築し、屋根の上に鐘楼を増築してできた珍しい教会である。信徒は明治中期に五島や黒島から移住してきた人々の子孫である。

 

カトリック宝亀教会は、黒島で洗礼を受けた宇久島の宮大工柄本庄一によって1898年(明治31年)に竣工している。建築学上多くの特徴を持ち、基礎は石造、外壁はレンガ造、屋根は単層切妻の瓦葺、窓形式は側面に尖頭アーチ四季の円型ハメ殺し窓、天井は身廊、側廊ともにコウモリ天井の板張りである。正面は一時白かったが、現在は印象的な赤い色となっている。

目を引く白と赤のコントラストの正面壁であるが、安っぽく見えて、正直なところ、僕は好きになれない。

 

 

カトリック大佐志教会は、1994(平成6)年に新聖堂が竣工している。平戸島南部の大佐志地区の信徒は、明治期に外海(長崎市)から迫害を逃れてやってきた人々で、17戸の信徒により1911年(明治44年)に教会堂を建設している。(それ以前は信徒自宅でミサに与っていた)

 

強風と雨、最悪のコンデションの中、平戸の教会巡礼は、フィナーレを迎えた。天気が良ければ、さらに西進し、本土と繋がった道の最西端・平戸市野子町まで行き、夕陽を見たかった。平戸は、やっぱり、もう1度訪れるべきところだ。

 

15時に最後のシャッターを押したあとは、平戸大橋まで北上し、本土に戻ってからは南下する。明朝は、口之津港からフェリーに乗りたいので、行けるところまで行きたい。Google先生と相談した結果、佐賀県伊万里市まで東進したあとは、佐賀県内を嬉野市、鹿島市へと南下し、再び長崎県諫早市に入り、雲仙市のビジネスホテルに投宿することにした。夕食は近隣のコンビニで買った弁当を自室で寂しく食べる完全ビジネスモード。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/教会巡礼・平戸第1回

2021-07-04 17:53:39 | 旅行

2020年の記録

 

真っ青な空に白壁のコントラストが美しい平戸口教会

 

【旅程】

福岡空港⇒松浦⇒平戸⇒雲仙⇒口之津港⇒鬼池港⇒天草⇔大牟田⇒久留米⇒大刀洗⇒福岡空港

 

 

仕事を終えた後、福岡空港前の激安レンタカー店を出発。貧乏性なのか、根っからのケチなのか、どうしても激安、最安値をチョイスしてしまう。しかし、安いには安いなりの理由がある。走行距離10万キロ超の疲れた軽自動車は、片側1車線の自動車専用道路を走っていると、ピタリと追尾されるので、やれやれである。福岡市内を抜けるまでは、土地勘がないのと渋滞でイライラ、有料道路に入ると既述の通りである。福岡市内は、バッチリ晴れていたものの西進するに従い、雲が厚くなる。

 

佐賀県に入り伊万里市でトイレ休憩のあとは、一目散に西へ。佐賀県を抜け、長崎県松浦市の「道の駅・松浦海のふるさと館」で、さすがに疲れて一服。(ともかく、安全第一!)

 

台風の接近もあって、波しぶきを浴びるほど海は荒れている。風も強く、雲の流れが速く、枝の揺れはとまることがない。

 

 

カトリック福崎教会の現聖堂は、1985年(昭和60年)に新築されたものだが、それ以前は、1954年(昭和29年)教会・保育園併用の施設として建設されたものを1973年(昭和48年)に改築したものだった。

 

 

カトリック平戸口教会は、この地区に住んでいたコロンバン会のグリニー神父によって1952年竣工された。

 

 

カトリック田平教会田平天主堂は、1918年(大正7年)に信徒が開梱した瀬戸山地区の丘陵地に棟梁・鉄川与助の設計・施工により竣工された。(レンガ造瓦葺き平屋建て) 戦時中には天主堂の半分が兵舎として使われたことから、米軍の機銃掃射を浴びている。2003年(平成15年)重要文化財指定。

なお、田平地区には、隠れキリシタンの歴史はないため、世界遺産(「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」)の構成資産から除外された。

 

田平天主堂は、重要文化財指定となっているだけに美しさと重厚さを兼ね備えている。見学者もチラホラと来堂している。丘の上に建ち、ローケーションも良く、予約をすれば堂内の案内も受けられるが、あくまでも宗教施設、神聖な祈りの場である。

 

平戸大橋を渡って平戸島に入る。この頃から天候が急速に悪化する。(平戸大橋の二輪車通行禁止となる) 平戸市街は、ゆっくり散策したいところだが、時間がない。雨が強くなる前に今日の最後の目的地・平戸ザビエル記念教会へ急ぐも道に迷い、なかなかたどり着けなかった。やっとの思いで到着した時には、空は厚い雲で覆われ、雨粒が落ちて来ていた。

 

 

平戸ザビエル記念教会は、1931年(昭和6年)竣工の鉄筋コンクリート造のゴシック様式の教会堂で、左側にのみ八角塔があるアシンメトリー(左右非対称)な景観を作っている。蛇足ながら教会の周辺は、光明寺、瑞雲寺などの寺院がならぶ。

 

 

唯一の旅館泊、(以降はビジネスホテル)夕食は大宴会場を1人貸し切り。「旬の地魚が食べられる漁師直営網元の宿」と期待していたが、テーブルにならんでいるのを見て、「エッ、これだけ?まぁ、海荒れてるし、GoToトラベルで格安だし・・・・」(黒のお盆の範囲)、ところが、着座すると出てくる、出てくる、写真右の刺身、たたき、いか刺し、トビウオの塩焼き、蟹の味噌汁,茶碗蒸し・・・・・。ここに2泊したら身体壊しそう、もちろん大満足でした。

 

 

旅は続く