Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/下野探訪

2021-06-28 19:18:14 | 旅行

2020年の記録

 

山の南斜面を覆い尽す彼岸花の群生

彼岸花の別名は、曼殊沙華(マンジュシャゲ)、「赤い花」、「葉に先立って赤花を咲かせる」という意味のサンスクリット語の音写。中国大陸原産で、秋の彼岸の頃に、花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花だけを咲かせ、秋の終わりに葉が伸びて翌年の初夏に枯れるという、多年草としては珍しい性質を持っている。地下の鱗茎(球根)に強い毒性を有する有毒植物であるが、かつて救荒作物として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた。

 

下野市の自宅発の日帰りドライブの記録。

茂木町は、茨城県に接する県南東部に位置する芳賀郡に属する町である。町内を流れる那珂川は鮭が遡上することから鮭が名産の1つである。(ほんとう?真水を飲んだ鮭は、不味くて食べられない、いわゆる猫マタギ。ただ、縁起物として珍重される。)

町内には、ツインリンクもてぎ(本田技研工業所有のサーキット)と蒸気機関車の走っている真岡鉄道終着の茂木駅があるが、それ以外に大きな産業はなく、過疎法の適用となる山間部の町である。

 

深谷と伊勢崎に行った翌日は、県内の茂木に行った。すでに秋が迫った10月、今、思い起こすと2020年で、最も穏やかな1ヶ月だった気がする。

 

茂木の城山公園は、鎌倉時代築城の茂木城跡。町の中心部を見渡せる小高い丘からは、逆川や煙をかげて走るSLを見ることができ、南斜面を真っ赤に染める約30万株の彼岸花は圧巻だ。

 

定点観測を続けている自宅近くの1本の樹。どうしても夕焼けと樹のシルエットといった構図になる。新しい構図の模索と挑戦が、新たなテーマですね。

 

 

【メモ】

「コロナなんて、ただの風邪」と豪語していたトランプ大統領(当時)が、新型コロナウィルスに感染。「“ただの風邪”で、大騒ぎするな!」と嫌味の1つも言いたかったが、財力がモノいったのか、早々に回復している。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/彩の国散策物語 第2回

2021-06-26 23:25:38 | 旅行

2020年の記録

 

 誠之堂の3色のレンガを組み合わせは、視覚的なアクセントになり僕好みだ。

 

 

下野市の自宅発の日帰りドライブの記録。

 

 

渋沢栄一ブームに乗って深谷に行った訳ではないが、渋沢栄一について、最初にちょっと触れる。(僕は超の付く天邪鬼で、「評判の」「人気の」・・・は、頑なに拒絶している。) 今、語られる渋沢栄一談の多くは、「偉人・渋沢栄一」である。そりゃ、新1万円札の肖像に決まったのだ、農民(といっても豪農)から政治家、実業家へと江戸末期から明治期を華々しく駆け抜けた偉人でなくては、国の面子が立たない。石川五右衛門が、紙幣を飾ることはないだろう。(笑)

 

一方、栄一の次男・渋沢篤二(長男・市太郎は夭逝)は、絵に描いたような“放蕩息子”で、「生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」と評され、実際に芸者・玉蝶のスキャンダルが表面化した翌々年廃嫡(相続権廃棄)となっている。栄一は、孫・敬三(篤二の長男)を後継者に指名し、敬三は期待通りの活躍をする。

 

「人格者の親からどうしてあんな子供が」といった話をしばしば聞く。(逆もある) 僕は「子供は親を映す鏡」だと思っている。人格者に見えている親も、他人の見えない“とんでも”な一面があるということだ。実際、偉人・栄一にも、光と影というものがあったのである。栄一は屋敷の女中にも手を出しており、関係を結んだ女性の数はわからないくらい多かったといわれる。いわゆる隠し子が、50~100人とも? まさにその名のとおり隠し子なので、実数はわからないとされている。

 

何でまた、栄一でなく、篤二なのかというと、僕自身が、“生活を楽しむことだけが商売”のように生きている。しかも、両親は人格者ということになっていて、息子も優秀であるので、篤二にシンパシーを感じるのである。

 

誠之堂(せいしどう)は、渋沢栄一の77歳の喜寿を記念して、1916年(大正5年)に現在の東京都世田谷区にあった第一銀行の保養施設・清和園内に建築された建物で、構造は補強煉瓦造りで、外観は焼き具合の異なる3色のレンガを組み合わせて積まれ、イギリスの田園農家風の外観をモチーフにデザインされた。(1999年=平成11年に現在地に保存のため移築され、2003年=平成15年重要文化財に指定された。)

 

 

誠之堂と並んで立つ清風亭は、第一銀行頭取・佐々木勇之助の古希記念として、1926年(大正15年)に清和園内に建築された建物で、鉄筋コンクリート造りの平屋建て、外壁は人造石掻落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦によってアクセントのあるスペイン風デザインになってとなっている。誠之堂同様、現在地に移築されている。(埼玉県指定の有形文化財)

 

誠之堂も清風亭も経営者の喜寿だ、古希だといって建設したのだから今の感覚では、公私混同も甚だしい話だが、当時は、あたりまえのことだったのかもしれない。とは言いながらも、あらためて、そのように解説されると、「ムッ」とくるのは、僕だけだろうか。清貧の国・日本は、何処へ。

 

誠之堂、清風亭を訪問した後の帰り道に県境をちょっと越え群馬県伊勢崎市の小泉稲荷神社に行った。群馬県で一番大きいと言われている大鳥居に加え、信者から奉納された鳥居が3列、これでもかというほど約100m並んでいる。パワースポットにもなっているようだが、その類の感性が限りなくゼロの異教徒(カソリック教徒)にとっては、造形的な興味しかなかったのが本心。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/栃木県

2021-06-22 07:59:42 | 旅行

2020年の記録

 

コスモス(秋桜)、まさに秋が来ている。

 

9月も下旬となり、秋がすぐそこまで来た晩夏、土曜日、日曜日の県内日帰りドライブの記録。

 

 

旧粟野町、粟野川の上流に公営の日帰り温泉施設がある。コロナ以前は、農作業が早めに終わった時など、「ちょっと一っ風呂」といった気軽な感覚で行けるところだった。旧粟野町は、現在鹿沼市に合併吸収されている。

 

旧粟野町の河川で、鮎などの釣りを楽しむ人も多い。(僕は釣りをしないので、詳しくは知らないが) また、初夏には、天然のホタルを見ることができた。(子供が小さい頃には、毎年見に行った) 自然が豊かなことは間違いないが、小規模の鉱業(珪石鉱山)と林業くらいしか産業がなく、高齢化と過疎化が進み、旧町内に高校がなくなり、小中学校の分校も廃校になっている。蛇足といったら何だが、ボクサー、俳優として一世を風靡したガッツ石松氏の出身地でもある。

 

夏の終わりを告げる彼岸花は、どことなく寂しく、行く夏の喧騒を思いださせる花だ。

 

翌日に訪問した那須フラワーワールドは、那須郡那須町にある民間有料花畑である。僕にとっては、それ以上でも、それ以下でもなく、花を美しいと思うが、見せるために植えられた花より自生する花や他の目的(食用ほか)のために植えられた花の方が、美しく思えてしまう。博物館や土産物屋になった聖堂やモスクより宗教施設としての聖堂、モスクが好きなのと同じ理屈だ。

 

 

【メモ】

8月31日から9月13日に掛けて開催した全米オープン (テニス)女子シングルスで大坂なおみ選手が、2年ぶり2回目の優勝を果たした。特質すべきことは、日本人(大坂なおみ選手は、テニスプレーヤーとしての国籍を日本としている。) が優勝したことではなく、2020年5月25日 ジョージ・フロイド氏の死をきっかけとして盛りあがったBLM運動 (Black Lives Matterの略称、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、国際的な積極行動主義の運動) への賛同の印として、勝ち進むことを前提として1試合1人の犠牲者の名前が記していたマスクを着用したことだ。その後、アメリカ合衆国の人種差別問題は、アジア系へのヘイトクライム(僕の知見では、加害者に多数の黒人を含む) へ、と違う方向に進んだ。

ジョージ・フロイド氏ほかの複数の黒人が、公権力の警察官に殺傷されたことは、経済格差など問題はあるけど、“人権は守られている国”とし思っていたアメリカ合州国は、虚構であったと考えざるを得なくなった。(この落胆は大きい!) だからといって、アメリカ合州国が、中国の人権問題を指摘できなくなったとは思わない。僕自身、新彊ウイグル自治区を何度も訪問し、友人もいるので、人権問題の存在を感じている。しかし、ウイグルの人権問題は、中国共産党政府固有の問題ではなく、もっと根の深い問題だ。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/福島

2021-06-20 11:36:25 | 旅行

2020年の記録

 

紺碧の空、ひまわりは、夏の象徴だと思う。

 

8月最後の土曜日、ちょっと遠出してと言っても、自宅のある栃木の隣県の福島への日帰りドライブの記録。

 

早朝、自宅を出発、東北自動車道の白河中央スマートICから国道294号線を北上して布引高原、喜多方へ。その後、国道121号線を南下し、大内宿に寄った後に帰宅。

 

布引高原は、郡山布引高原風力発電所の建設を機に「郡山布引風の高原」と命名され、観光地化された。僕は、それ以前の大根畑が広がる頃、つまり30年以上前から通っている。高原と呼ばれている一方で、会津布引山の山頂であり、視界を遮るものがなく猪苗代湖対岸の磐梯山が一望できる。そのため強風に晒されることも多く、農地の境界に植えられた樹々は、不気味な形に枝を伸ばしていた。そんな訳で、当時は住宅どころか倉庫もなく、耕作者は猪苗代湖畔の集落から通っていた。まさに不思議な形の樹々と野菜畑の“秘密の撮影地”だった。

 

僕にとって布引高原は、“秘密の撮影地”→発電所建設に伴うバリケート閉鎖→発電所敷地の開放と観光地化といった変遷をたどった。その実態は、農業者の高齢化(農作業中の人との交流があったものの、相手は僕よりずっと年長世代だった)→耕作放棄地の発生→自然エネルギーへの脚光といった時代の変化を色濃く投影している。風車の足元には、春には菜の花、夏にはひまわり、秋にはコスモスの花畑が広がる。

 

※郡山布引高原風力発電所:2007年2月営業運転開始、2,000kW×32基、1,980kW×1基 計33基、総発電出力65,980kW(国内最大級のウインドファーム)

 

喜多方は、蔵とラーメンの街である。ほんとうは、精力的に散策したいところだが、諸般の事情(炎天下のワンコ連れ)によりライトにまとめることにした。ひとまず喜多方駅の観光案内所おすすめのラーメン屋で昼食、その後レンガ蔵を見たあと、教会に寄ることにした。

 

喜多方、会津村松、・・・・・、熱塩の全長11.6kmの日中線というローカル線が、1984年(昭和59年)の廃線まであった。僕は子供の頃に乗車していた、まさにその発車ホーム。当時は、蒸気機関車(C11型)が2両の茶色の客車を牽引していたのを覚えている。

 

赤れんが食堂は、動物写真家岩合光昭氏紹介の看板猫がいる。(当時はコロナ感染防止のため猫は休業中) そんな訳で、ペットへの理解があり、下屋でワンコ同伴の食事ができたのは、ラッキーだった。

 

三津谷集落の煉瓦蔵群(若菜家)は、赤れんが食堂から徒歩数分のところにある。明治時代に三津谷で登り窯が創業され、その窯で使用する薪を供給したのが、代々農業を営む若菜家だった。謝礼としてレンガを譲り受け、煉瓦蔵が計画的に建造したとのこと。

ほんとうは、若菜家の人に直接話を聞いてみたかったが、誰もいない。呼び出し用と掲示のあった番号に電話をしても応答なし。(コロナ禍だからしょうがないか?) 何匹かのネコが、昼寝していた。蛇足ながら、同伴のワンコは、ネコ好きだが、ネコからは好かれていないようだ。

 

日本基督教団喜多方教会は、1932年(昭和6年)竣工、梨本耕一設計である。“重厚さ”といった感じはないが、親しみやすいポピュラーな雰囲気がある。

 

大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある江戸時代の会津西街道(下野街道)の「半農半宿」の宿場である。明治期の鉄道開通に伴って宿場町としての存在価値を失って以降は、茅葺屋根の民家が建ち並ぶ集落(1981年=昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区に選定)として、観光地化された。

 

僕は、10年以上前の真冬に来ている。その時は、深々と雪が降り積もり、家々は閉じられ、日本的な“わびさび”を感じた記憶がある。夏の観光地としての存在を否定するつもりは毛頭ないが、10年前に見た冬の情景をもう一度見たいと思う。(山間の集落が経済的に成立するためには、観光しかないのかな、というのが、正直な感想。)

 

大内宿を出た後、雲行きがおかしくなった、いわゆるゲリラ豪雨だ。クルマの運転にも難儀するほど。しかし、雨雲の下を抜け、道路脇のダム湖を見ると、水は干上がり、湖底が露出していた。そこを鹿の大群が、水を求めて走り去る光景を目にする。生涯忘れることのない光景にも関わらず、後続車が気になり、クルマを停めて撮影しなかったことが、今でも悔やまれる。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/彩の国散策物語

2021-06-13 18:14:24 | 旅行

2020年の記録

 

ほぼ予定通りの夕景、夕陽が一番美しいと思う。

 

遅い梅雨が明け、暑い毎日が続いた。僕は、暑さに滅法強いので、それほど苦にならないが、それでも、炎天下を数時間歩くのは辛い。午前中は、真東にママチャリを走らせ鳩ケ谷宿へ。(片道5.8Km) 午後は逆方向の彩湖 (片道7.6Km) にママチャリでサイクリングに行った時の記録。

 

蕨市~川口市(旧鳩ケ谷市)~蕨市~戸田市~さいたま市~蕨市と全工程27 Kmを走破したことになる。変速ギャレスのママチャリを走らせて感じたことは、坂が多いことだ。ほぼ真っ平だと思っていたが、そんなことはなかった。京浜東北線を越える陸橋、河川の堤防・・・・・・・。 

 

旧船津眼科医院は、1932年(昭和7年)建築の木造モルタル造りの洋館である。現在は、眼科医院としては、営業していないが、船津家の居宅として使用され、内部も当時に近い状態で保存されているとのことだ。

川口市に吸収されるまでは、三方を川口市に囲まれながらも鳩ケ谷市として、独立を保ち、蕨市に続き全国2位の小さい市町村であった。江戸時代は、日光御成街道の鳩ヶ谷宿として、宿場町、市場町として発展していたが、2001年(平成13年)の埼玉高速鉄道開業までは、「陸の孤島」と揶揄されるほど発展から取り残されていた。

 

彩湖は荒川東岸にある貯水池で、周囲は荒川彩湖公園として整備されている。蕨市周辺で、夕景の撮影ができそうなポイントと目をつけて初めて訪問した。

 

 

旅は続く