Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

泰安の街角から 第2回 / 勝農貿市場

2021-03-31 23:12:43 | 旅行

2019年の記録

市場の肉屋といえば、このスタイル。

 

山東省から取引先を廻りつつ高鉄を乗り継ぎ、上海へ南下する。

 

泰山站の周辺をぶらぶらした後にホテルへ戻るために待てども暮らせどもタクシーが来ない。以前だったら駅前のタクシープールには、客待ちのタクシーが溢れていたのに。タクシーは高鉄の泰安站に移ったのだろう。三輪タクシーで、5ツ星に乗りつける訳にもいかず、2元のバスを待ち、勝農貿市場前で下車、市場を抜けてホテルに帰った。

 

夜は、総経理に出世したS君と10年ぶりに泰安に再赴任したH君と旧交を温めた。話題は、泰安にも“本物の日本料理屋”ができた話に始まり、泰安10年の変貌の話に尽きた。とても楽しい時間だった、でも、このような話が楽しくなるって、年とったってことか?

 

注意‼6枚目の写真、グロテスクです。弱い人は、スルーしてください。

翌朝、出勤前に勝農貿市場に散歩に行くものの、ちょっと遅かったためかガランとしていた。売り場と通路の間にガラスの仕切りが付いて、整備されていた。肉屋は、相変わらずのスタイルだが、鶏肉屋は、大きく様変わりしていた。以前は、生きた鶏が、籠に入れられていて、客が気に入ったのを指さすと、絞めて羽根を抜き大雑把に解体して渡してくれる。写真のように羽根を抜いた状態で陳列されている。

 

目の前で絞めるのは残酷で文明国家にあるまじき行為というのかもしれないが、目の前だろうが、知らないところでだろうが、鶏肉を食べるためには“絞める”という工程は避けて通れない。多くの動植物の命を頂くことで、人は生きていくことができるという現実から目を背けるべきではないと思う。だから食材は、美味しく調理し、食べ残しを回避すべきと思う。中国の地方では、依然として客が食べきれない量の料理を振る舞い、食べ残すことが、客の礼儀になっていることは、僕の中国の嫌いなところだ。(沿海都市部では、“もったいない文化”の浸透が始まっているし、宴会の残った料理をテイクアウトすることは、日本と違って、一般化している。) 話は飛躍するが、日本のテレビは、大食い選手権とか激辛選手権といった類の番組を放映しているが、僕は生理的に受け入れられないのチャンネルを即座に変えてしまう。とは言っても、ビジネスツールだとか、何とか言って、浴びるほど酒を飲むこともあるので、「けしからん、禁止だ!」と言える立場ではないことを承知している。

 

懐かしい泰安の工場に行くと、悪ガキっぽかった溶接工のW君は、立派な班長になっていたり、通訳として入社したM君に現場で会って、「少しも変わってないね」と言ったものの、ヘルメットを外すと、すっかり頭が涼しくなっていたりと。中国の会社は、人の出入りが激しいというが、それは沿海都市部の話で、地方には就職先も限定されるので、僕の会社は、そんなに高給好待遇ではないものの人は定着している。

 

昼前には、クルマで済寧の取引先へ、夜の宴会をして一泊。翌日早朝無錫へと南下し、取引先を訪問。さらに常州へ移動し、また宴会、宿泊。そんなことを繰り返し上海に戻り一泊。上海の事務所で午前中に打合せ、慌ただしく日本へ。

 

年末年始は、日本国内をウロチョロして、春節明けには、大連での仕事もあれば、元部下の結婚式が上海である。年明けには、早めにパスポートの更新もした。ところが、ところが、春節の頃から「中国に行くのは・・・・・・」などといった話が出始め、まさかの日本幽閉生活が始まることなど、あたりまえだが、夢にも思っていなかった。まっさらのパスポートは、1年以上使われることなく、引き出しに眠っている。

 

 

旅は続く


泰安の街角から 第1回 / 泰山火車站界隈

2021-03-29 00:48:17 | 旅行

2019年の記録

 

中国の宿泊施設は、〇〇大酒店、〇〇大飯店、〇〇賓館、〇〇旅館、〇〇旅社、〇〇招待所といった名前がつけられる。名称によって、高級ホテル、木賃宿といった区分けはないが、概して旅社、招待所といったら安宿である。(外国人を泊めるためには、登録が必要で、登録済の招待所は、まずない。)

 

泰安で一泊した後、隣町の済寧で一泊、南下して常州でさらに一泊して、上海に戻る弾丸出張が続く。

 

日曜日の早朝、上海から高鉄(中国版新幹線)で、泰安に向かう。新幹線で泰安に行くのは、はじめてのことだ。昼すぎに泰安に到着し、ホテルにチェックインしたあとの数時間が、束の間の休息である。

泰安には、北京オリンピック(2008年)の前後に住んでいた。中国の変化は、常に爆速だが、北京オリンピックの頃を境に地方都市が、急激な変貌を遂げた。

僕の住んでいた頃の泰安は、ほんとうに田舎町で、朝夕になると、馬が荷車を引いていたし、交差点には、職を求める人の人だかりがあった。部下を2、3人連れて、呑みに行っても、100元(約1,500円)もあれば十分だったので、駐在員にカネの苦労はなかった。

 

泰山(道教の聖地である五岳の1つで、中国人ならば、誰でも知っているほど有名) の麓にあるホテルに投宿。そこからタクシーで、在来線の駅に向かう。別に駅に用事がある訳ではないが、高鉄が開業する前は、駅周辺が泰安市の繁華街で、買い物に散歩にと通った街で思い出深い。中国では、往々にして鉄道の駅は郊外や街はずれにあることが多く、泰安は例外的な存在だった。中国の在来の鉄道は、貨物輸送、つまり軍需を中心に考えているので、街中に鉄道を引かないのかもしれない。ともかく、高鉄が開通し、高鉄の泰安站ができるまでは、人や車両、モノがごったがえす猥雑だが、活気のある一角だったのである。 (高鉄の駅が泰安站、在来線の駅は泰山站。泰山の麓に広がる街が泰安市)

 

在来線の現在の駅名は、“泰山站”であるが、僕が住んでいた2008年頃は、“泰安站”だった。その前は、“泰山站”。なぜだか古い駅舎には、いつも一世代むかしの駅名が書かれている。

 

鉄道のキップは、今(乗車日の30日前からネットでも窓口でも購入可能)と違って、乗車日3日前から乗車駅に行かないと買えなかった。それでも、鉄道運賃は、長距離バスより格安なため、慢性的に供給不足だった。そんな訳で、駅は、いつもキップを買い求める人が溢れていて、最短でも1時間ほど並ばないと、購入できない。「何とかならないの?」という需要があれば、必ず供給者が出現するのが中国である。いわゆるダフ屋だ。当時の中国の駅には、必ずダフ屋がいた。

ダフ屋と書くと、法外な価格、裏社会といったイメージを持つかもしれないが、日本ほどダークではない。(もちろん、正規の商売ではないし、元締めは、裏社会の人だと思う。) 今と違って、キップの購入に身分証のパスポートは、必要なかったので、欲しいキップ(日時、行き先、等級) をダフ屋に伝えれば、ものの5分も待っていれば、欲しいキップを持ってきてくれた。キップ1枚あたり一律10元(=約150円) ほどの手数料を払えばよい。1時間以上、買えるか否かハラハラしながら並ぶより安いといえば安い。1時間乗っても、冷房なし鈍行ならば、10元もしないので、時には高い手数料かもしれないが、上海まで冷房付き特別快速2等寝台下段215元でも、手数は10元なので格安だと思う。中国では、金持ちがカネの力でズルするとは思われない。金持ちが1時間並んでキップを買えば、ダフ屋の稼ぎはなくなる。何はともあれ、金持ちが、カネを使って経済を廻すことが、金持ちの義務みたいに考えられている。だから質素な生活をする金持ちは、軽蔑されるし、ドンチャン騒ぎをして、浪費する金持ちが軽蔑されることもない。

僕がいつも使うダフ屋Lさんは、「××ならバスの方が良い」とか、「カネがあるのだから飛行機使いなよ」とか、なかなか良心的だった。ある時、彼に電話したものの繋がらず、駅に行っても見つからないので、別のダフ屋に頼もうとしたら、「あなたはLのお客なので、俺からは売れない。すぐにLを探して連れてくるから待っていてくれ」と言われてしまった。そのダフ屋は、あちこちに電話して、Lさんと連絡を取り、ほどなくしてLさんが来たなんてこともあった。

 

駅や長距離バスターミナル(泰山站に隣接している)の近くには、安宿街があり、猥雑な空気が流れている。一般の外国人は近寄らないが、どうにも僕は、そのような怪しいところに吸い寄せられるようにぶらぶら行ってしてしまう。

 

微かに猥雑さが残るものの浄化が進んだ安宿街。“保健品”というのは、日本の“おと〇のおもちゃ”のことだが、かなりあっけらかんと販売している。その先には、男性のための“床屋さん”がならんでいた。

 

三輪の電動車は、地方のポピュラーな乗り物だ。乗用車のタクシーより安く人を乗せ、また荷物も運ぶ。

 

 

旅は続く


上海の街角から 第4回 / 教会巡礼

2021-03-22 22:17:31 | 旅行

2019年の記録

礼拝者でごったがえす教会は久しぶりだ。(沐恩堂)

 

前回の塩城から飛行機で一気に南下して浙江省の寧波へ行き一泊、4時間ほどのフライト遅延で寧波に着いたのは21時近く、慌ただしく取引先の副総経理(副社長)と会食、翌日寧波の工場に寄り、さらに南の台州の新工場を訪問、夕方に高鉄(中国版新幹線)で、一気に北上して、再び江蘇省徐州へ。翌日、徐州の取引先を訪問した後、高鉄で4日振りに上海へ戻ったところで、待望の週末を迎えた。(翌週は再び泰安まで北上、仕事じゃなかったらこんな移動の仕方はしないだろう)

 

今まで2度ほど紹介しているホテル前の徐家匯聖イグナチオ大聖堂。何度訪問しても飽きない美しい教会だ。しかし、僕が教会を巡礼するのは、単なる美しいもの見たさだけの好奇心ではない。ともかく教会に行くと、心が穏やかになるのである。この感覚は、とても言葉では説明できないし、こればっかりは、感性の領域なので、むやみやたらに人に勧められるものでもない。そもそも、バイヤーという守銭奴みたいな仕事をしている僕が口にすると、どうにも胡散臭くなってしまうのだが、僕の純粋な気持ちだ。蛇足ながら、心の平安は、イスラームの宗教施設でも同様に感じるが、神社仏閣には、無反応なので、口の悪い友人は、非国民と茶化す。

 

上海図書館徐家匯蔵書楼は、イエズス会宣教師の学習の場としてスタートしているので、宗教施設と言っても良いのかもしれない。高層ビルに囲まれた今も、静寂を保っている。

 

地下鉄で黄浦区の沐恩堂に行く。信者でなくてもミサ中も入場できる開かれた教会だった。誰でも、いつでも入ることができるのが、本来の教会だ。しかし、今は、日本でも中国でも、様々な理由で閉ざされている教会が多い。防犯の問題もあれば、神聖な祈りの場を観光名所と誤解する観光客、さらには中国政府の宗教規制と。

 

沐恩堂から洋涇浜聖ヨゼフ教会堂は、タクシーを使った。中国のタクシーは、日中の物価差を考慮しても安いと思う。上海で初乗り(3kmまで)14元(約230円) 上海市内では、アプリを使えば、とても便利だが、道路の混雑で時間がまったく読めないのと、繁忙時は、アプリを使っても、なかなかゲットできないことだ。クルマに乗ってしまえば、中国語を話せなくとも行き先のメモを渡せば、ほぼ問題なく連れて行ってくれるし、余ほど運が悪くない限り、ボられることはない。(地方だと、けっこうボられる。) 少々運転が荒いのと、日本のようにドアは自動じゃないので、自分でドアを開けて乗車、特に降車時は、ドアを閉めるのを忘れないよう注意することが肝要だ。

 

洋涇浜聖ヨゼフ教会堂は、小学校の奥にあり、門は施錠されいていることもある。今回も施錠されていたが、何度も訪問しているので、敢えてインターフォンで、見学のお願いはしなかった。

 

洋涇浜聖ヨゼフ教会堂の後は、天気も良くぶらぶらと歩いて、真っ昼間の外難に行った。夜景が有名な外難だが、近代建築を眺めていると、昼には昼の良さがあるとあらためて感じた。

 

明日、早朝には、北京オリンピックの前後に住んでいた山東省泰安に10年ぶりに“帰郷”する。中国の10年は、日本の30年ぐらいに相当すると思う。すっかり発展した“故郷”を見るのが楽しみだ。

 

 

旅は続く


塩城の街角から

2021-03-20 18:37:25 | 旅行

2019年の記録

本格的な韓国焼肉が食べられるかと期待したが、見事に裏切られた。中式焼肉と火鍋のセット、安かったけど・・・・・。

 

沿海から内陸まで広大な市域で、江蘇省No.1の面積。

 

塩城なんて名前の街を知っている日本人は、何人いるだろうか?上海人だって知っている人は稀だろう。しかし、ちゃんと国際空港がある人口約700万人の江蘇省の都市である。ひょっとすると、韓国での知名度の方が高いかもしれない。と言うのも、塩城市は、韓国・現代(ヒュンダイ)自動車傘下の起亜自動車中国工場の企業城下町だからである。塩城南陽空港は、国際線の韓国便の方が上海便より多く就航している。

 

道路標識は、中国語簡体字、英語、そしてハングル語で表記されている。

 

僕自身、取引先(イタリアの会社)が塩城に工場を建設しなかったら、塩城に行くどころか、その地名さえ認識しなかっただろう。しかし、塩城のことを調べると、どうして、どうして、これが魅力満載の観光地なのである。

 

角がシカ、頸部がラクダ、蹄がウシ、尾がロバに似ている四不像(=シフゾウ)というシカが繁殖する中華麋鹿園(=ビロクエン)やアジア大陸最大の沿岸湿地である東台条子泥景区、タンチョウをはじめとした多くの野鳥が飛来、繁殖する珍禽自然保護区といった自然風景の宝庫である一方、水路を中心とした「水街」と呼ばれるレトロな旧市街もある。しかし、夕方到着し、翌日朝から仕事、昼過ぎに帰る弾丸出張では、塩城を満喫する時間はない。それでも、1日1往復しかないエアラインのお陰で一泊できた。そもそも、遊びに来ている訳ではないので、それで良いのである。塩城という街に興味を持つ切っ掛けを与えられたことに感謝すべきなのである。今度、休暇を取って、友人とクルマで来れば、最低でも3泊は必要だ。知名度が低いうちに是非行きたい街である。

 

塩城の観光地紹介のサイト、もちろん日本語です。

https://rtrp.jp/articles/126512/

 

ちょっと前までは、湿地の中にある寒村と勝手な理解をしていたが、どうして、どうして、高層ビルが建ちならぶ立派な地方都市。公園の人造湖の対岸に欧風花街(テーマパークではないが、ヨーロッパの街をそのまま運んできたような造られた建築群がある。)が見える。

 

宿泊は、新市街のホテル、周囲は、絵に描いたような新市街、整備された公園があり、LRT(Light Rail Transit、いわゆる次世代型の路面電車)が走る。道路もよく整備されているが、交通指導員の厳しい指導でマナー(法規)が維持されている感が強く、指導員がいなくなると、赤信号を逆走する電動バイクも出現する。(信号無視と逆走電動バイクは、中国の田舎では、あたりまえの光景)

 

歴史的建造物と思いきや近年建設された宴会場である。僕は建築歴史家ではないので、建物の歴史的価値ではなく、僕の心に響いたかで、シャッターを切るか、否かを決める。

 

部下と2人で夕食。彼は、酒どころかコーヒーさえ飲まない修行僧のような中国人エンジニアなので、穏やかな夕食と食後のひとり散歩を楽しんだ。

 

 

旅は続く


上海の街角から 第3回 / 上海建国賓館

2021-03-08 22:12:34 | 旅行

2019年の記録

 

ホテルと大聖堂の間のビル建築が始まった、完成すれば、部屋から大聖堂を拝むことはできなくなる。

 

上海の常宿に戻り、徐家匯聖イグナチオ大聖堂を恐れ多くも見おろしていると心が安らぐ。しばらくの間、上海を拠点に日帰りか1泊の取引先訪問が続く。朝、ホテルを出発し、夜に飲んだくれて帰ってくるパターンだ。“飲んだくれて”と書いたが、冗談ではなく、中国では、飲むのも仕事の内なのだ。もちろん、下戸の有能なビジネスパーソンもいるし、経営者として成功している人もいるが、飲酒がビジネスツールの1つであることは間違いないので、僕が使えるツールとして、飲酒している。(呑兵衛の言い訳みたいだが・・・)

 

中国で仕事をしたことのない日本人は、中国酒というと紹興酒を連想する人が多いが、紹興酒は紹興市とその周辺の地方で飲まれている酒だ。中国の最もポピュラーな酒は、白酒という“キチガイ水”だ。最近は比較的アルコール度数の低い、といっても40度前後の白酒も増えてきたが、52度、53度が、最も美味しいと言われている。日本にも泡盛のようなアルコール度数が高い酒があるが、僕が白酒を“キチガイ水”と呼ぶ理由は、白酒には、水割りはもちろんロックもない、ストレートのみ。しかも、乾杯は、字面の通り一気に飲み干さなくてはならない。それでも、付き合い程度(ワイングラスに3杯ぐらい)に白酒が飲める身体に産んでくれた両親には感謝している。(ちなみに両親は、酒を飲まないし、母親は梅酒を飲んでも2日酔いする人だった。)

 

そんなに強い酒を毎晩飲む中国人は、滅法酒に強いのかと言うと、みんながみんな強い訳ではない。(飲んで強くなっていく傾向はある) 最近の若者は、日本と同様、酒を飲まない人も増えている。根本的に違うのは、飲み方で、日本のようにチビチビ、マイペースで飲むのは、マナーが悪い。酒は誰かと一緒に乾杯なり、グラスを合わせてグビッとやるだけ。それ以外、喉が渇いたらお茶を飲むのである。(日本では、お茶は“あがり”だが、中国では、そんなことはない。) 一緒に飲む人が酒好きで強いと、その人のペースで飲むことになり、アルコール摂取量は増えてしまう。

 

最後に絶対に知っていて欲しいことは、中国では、酔っても自分の言動に責任を持たなくてはならないことだ。日本では、酔った勢いで、大風呂敷を広げたり、異性を口説いたりしても、飲酒時の言動は、多めに見てもらえるが、中国では、真逆だ。酔ったことを言い訳にすると、とことん軽蔑されることになる。幸い僕は、とことん酔っぱらうと眠くなってしまうので、余計なことを言わずに済んでいる。(笑)

 

何だか、面白くもない中国飲酒講座になってしまった。

 

常宿の建国賓館は、交通の便も良いので、出張の後、同僚と1日のまとめの打合せをするのにも使える。

 

 

旅は続く