Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/教会巡礼・平戸第2回

2021-07-08 21:42:35 | 旅行

2020年の記録

 

カトリック宝亀教会を訪ねた時が、最も大粒の雨が降っていた。晴天の日にまた・・・。

 

 

昨晩は強い風と雨、朝になっても霧雨が降り続いている。気をとり直して平戸島の教会巡礼に出発する。

カトリック上神崎教会は、宿泊した「網元の宿 銀鱗荘」から市街地と逆の方向に進んだところにある。2014年(平成26年)に六角形の木造づくりの重厚な梁と柱が特徴的な3代目となる新聖堂に建て替えられている。

上神崎教会は、前回で紹介した田平天主堂、福崎教会、平戸口教会と同様、明治期に五島や黒島(佐世保市)、外海(長崎市)から移住してきた信徒によって献堂された聖堂である。

 

 

カトリック中野教会は、上神崎教会からUターンして来た道を戻り、市街地を抜けた先にある。

徳川幕府の酷しい迫害を逃れて移り住んだ潜伏キリシタン集落の教会である。1952年(昭和27年)、コロンバン会の神父の援助を得て、待望の聖堂を建立した。質素な教会で、建築物の歴史的な評価はないが、信徒の厚い信仰の場であることを感じられる聖堂である。

 

 

カトリック山野教会のある山野集落の先祖は、禁教時代、西彼杵や外海から五島へ迫害を逃れて行ったものの、五島に住めず文政年間に平戸島のこの地に住み着いた人々である。ラゲ神父と信徒によって1887年(明治20年)に最初の教会が建設され、1924年(大正13年)に現聖堂が建立された。棟梁が黒崎教会の建設にも携わっていたため、聖堂のなかは黒崎教会と似ているという。1979年(昭和54年)に前面が増築され、屋根の上に八角の尖塔が付け加えられた。さらに2000年(平成12年)にも改築され、外壁は板張りではなくなった。

 

 

春日の棚田は、山野教会から平戸市最高峰安満岳を挟み反対側にある。周辺の森から湧き出る豊かな水とともに標高150メートル地点から約450枚の棚田が海岸まで続く農漁村の風景は、2010年に国選定重要文化的景観に選定されている。(2018年には棚田を含む集落が構成資産として世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録)

 

春日案内所では、集落の方に笑顔で出迎えられ、お茶や自家製漬物をご馳走になった。話題は集落の高齢化と後継者問題で、息子夫婦の不妊治療に貯えをつぎ込んだ話にまで及び、すっかり長居してしまった。(敢えてコロナは、話題にしなかった)

 

 

カトリック山田教会は、春日の棚田から生月大橋を渡り生月島に入ったところにある。生月島は、隠れキリシタンの多い島で、1865年の「信徒発見」の後に黒島(佐世保市)から信徒が島を訪れてカトリックに戻るよう働きかけ、カトリックの洗礼を受けた人々が山田教会の信徒の祖先である。なお、生月島には、明治初期のカトリックの再宣教に応じず、潜伏時代の信仰組織・様式を守り続ける「カクレキリシタン」の信徒も多く、今も維持されている

1912年(大正元年)に長崎県内や周辺各地で数多くの教会建築を手がけた鉄川与助の設計・施工によるロマネスク様式の現教会堂が完成している。

 

 

カトリック壱部教会は、山田教会から生月島内を北上したところにある。壱部教会の信徒も山田教会同様、明治期に黒島の信徒の働きかけにより潜伏キリシタンからカトリックに復帰した人々の子孫である。現聖堂は1964(昭和39)年竣工された。

 

 

カトリック紐差教会(ひもさしきょうかい)は、平戸島中央部にあるので、生月大橋を再び渡って平戸島へ戻る。

紐差教会は、鉄川与助の設計施工により昭和4年(1929年)に竣工した鉄筋コンクリート造2階建てで、旧浦上天主堂が原爆で倒壊して新たに建てられるまでの間、日本で最も大きい教会堂であったとされる。なお、紐差地区の信徒は、潜伏キリシタンではなく、仏教徒が明治初期に洗礼を受けた人々の子孫である。

 

 

カトリック木ヶ津教会は、紐差教会から県道を南下した緑に囲まれたところにある。1962年(昭和37年) 猶興館高等学校の体育館だった建物を教会が購入・移築し、屋根の上に鐘楼を増築してできた珍しい教会である。信徒は明治中期に五島や黒島から移住してきた人々の子孫である。

 

カトリック宝亀教会は、黒島で洗礼を受けた宇久島の宮大工柄本庄一によって1898年(明治31年)に竣工している。建築学上多くの特徴を持ち、基礎は石造、外壁はレンガ造、屋根は単層切妻の瓦葺、窓形式は側面に尖頭アーチ四季の円型ハメ殺し窓、天井は身廊、側廊ともにコウモリ天井の板張りである。正面は一時白かったが、現在は印象的な赤い色となっている。

目を引く白と赤のコントラストの正面壁であるが、安っぽく見えて、正直なところ、僕は好きになれない。

 

 

カトリック大佐志教会は、1994(平成6)年に新聖堂が竣工している。平戸島南部の大佐志地区の信徒は、明治期に外海(長崎市)から迫害を逃れてやってきた人々で、17戸の信徒により1911年(明治44年)に教会堂を建設している。(それ以前は信徒自宅でミサに与っていた)

 

強風と雨、最悪のコンデションの中、平戸の教会巡礼は、フィナーレを迎えた。天気が良ければ、さらに西進し、本土と繋がった道の最西端・平戸市野子町まで行き、夕陽を見たかった。平戸は、やっぱり、もう1度訪れるべきところだ。

 

15時に最後のシャッターを押したあとは、平戸大橋まで北上し、本土に戻ってからは南下する。明朝は、口之津港からフェリーに乗りたいので、行けるところまで行きたい。Google先生と相談した結果、佐賀県伊万里市まで東進したあとは、佐賀県内を嬉野市、鹿島市へと南下し、再び長崎県諫早市に入り、雲仙市のビジネスホテルに投宿することにした。夕食は近隣のコンビニで買った弁当を自室で寂しく食べる完全ビジネスモード。

 

 

旅は続く