Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第12回

2021-10-31 21:03:21 | 旅行

2021年の記録

 

谷中銀座という商店街の名前は知っていたものの行ったことはなかった。気になっていた中東レストランがあるといった理由から「谷中銀座×中東レストラン」といった不思議な組み合わせで訪問することになった。

 

 

正直なところ、谷中銀座がJR日暮里駅近くにあるとは知らなかった。そもそも日暮里駅は、成田空港に行くときの京成電鉄への乗り換えに使ったことはあるものの下車することはなかった。

 

 

中東レストラン・ザクロは、谷中銀座の入口にある。イラン、トルコ、ウズベキスタン料理を提供するレストランで、料理のボリュームとイラン訛りで、これでもかってほど絡んでくるマスターが名物のレストラン。

綺麗な絨毯に胡坐で食べるエスニック料理と在日イラン人が大勢を占める客層からも現地感満載、都内のお洒落で高級なエスニックレストランとは一線を画す。

料理そのものは、強烈な辛さや脂っこいものではなく、やさしい味付け。クミンが中東感を醸す。

 

 

1950年代から続く谷中銀座は、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界が拡がる。僕が子供の頃には、どこの商店街にもあった光景だけど、今は目にすることは少ない光景。

 

 

谷中銀座は、猫の街のようで、ネコ関連の店が多いのだが、なぜかニャンコを目にすることはなかった。逆にワンコを連れで散歩する人が目につく。

 

 

谷中銀座は、こじんまりまとまった美しい商店街、通勤途中の日暮里駅近く。気が向いたらふっと買い物に行きたい。

 

 

【メモ】

正直に告白する、投票に行けなかった。急な用事が入り、棄権を余儀なくされたと言え、国民の義務と権利を放棄した訳だ。次の選挙まで、政権批判はできない? そもそも、民主主義の大前提として、国民は選挙で選ばれた政権に最大限協力しなくてはならないのである。それは、自分が支持した政党でなくても。まぁ、投票を棄権した僕が偉そうに書くことではないな。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/山西省長治郊外

2021-10-27 22:46:14 | 旅行

2001年の記録

 

山西省長治市のミサイル工場で仕事をしていた時、「長治に来たならば、どうしても連れて行きたいところがある。」と言われ、平日に長治市郊外に行ったときの記録。

 

 

長治市は、太行山脈と黄土高原に囲まれた盆地に市街地がある。山西省そのものが、太行山脈と黄土高原の省である。

 

 

仕事は気楽なもので、会議以外は、現場をウロウロして、助言を求められた時に技術的なアドバイスをする。製造に対し、「あ~しろ、こ~しろ!」といった指示をすることはできないが、アドバイスの結果責任もない。とは言っても“日本を代表して”訪中しているので、責任をひしひしと感じていたが・・・・。(笑) 

もちろん、技術供与の代償として供給される製造委託品の製造を任せられる生産技術、管理技術の有無を評価、判断するミッションがある。

 

 

僕は出勤前と昼休みにカメラをぶら下げて工場の周囲を散策していた。(前回の写真) そのことが原因だと思うが、公安にパスポートを預ける(没収される)羽目になった。「怪しい男が写真を撮っている。」と通報されたのだと思う。何しろ、長治市は、数年前まで外国人立入禁止区域だったのである。観光地でもない街角で写真を撮る酔狂な人種が存在するなど、住民には想像できなかったのだろう。

そのような経緯があってか冒頭に記したように郊外へ“下放”されることになったのである。ふつうのビジネスマンであれば、「やれ、やれ」なのだろうが、僕にとっては、願ったり叶ったりの郊外ツアーになった。

 

中国の軍需工場は、機密や防衛の観点で内陸の山間部に立地するとともに産業振興も兼ねて、貧困地域であることが多い。長治市は、まさにそのような立地である。

 

 

 

山間部に行くと、崖に横穴を掘った住居が目立つようになり、土地は、乾燥し、急傾斜で、岩石がゴロゴロしてといった有り様である。

斜面から崩した岩石をハンマーで砕く原始的な採石業者、天秤棒を担ぐ農夫といった前世紀の光景が広がる。

 

 

おじいさんと孫の姉弟、1人っ子政策下でも農村部には、ふつうに兄弟姉妹がいる。子供の両親は、出稼ぎに行き、留守宅では孫の面倒を見る祖父祖母がいるのも農村部のあたりまえだ。

※政府や国営国有企業、外資企業では、1人っ子政策は厳格に運用され、違反は降格、解雇になったが、農民や自営業者は、罰金を払うだけだ。もちろん、両親に罰金を工面する経済力がなければ、“黒子”(無国籍児)となり教育を受けることもできなければ、就職することも、移動することもできない。アンダーグラウンドの世界で生涯を送ることになる。生まれて3年後に罰金の工面がつき、晴れて出生届を出してもらったので、ほんとうの年齢より3歳若い部下がいた。

 

 

山羊の群れを連れた牧夫、彼は帰宅するとPCを立ち上げてネットゲームに興じる? そんな訳ないだろう。

 

 

【メモ】

緊急事態宣言が解除され、出張1日、在宅勤務1日、3日はフルタイム出勤となる。コロナ禍で、すっかり鈍った身体は、帰宅するとクタクタな日々。

国内移動の制約がなくなったものの僕のフィールドの海外渡航の制約が解除されるのはいつの日のことか。それでも、水面下では、来年度の海外フル稼働に向けた準備を進めている人もいる。

 

 

旅は続く

 


人民中国の残像/山西省長治市街

2021-10-21 21:46:40 | 旅行

2001年の記録

 

ベルリンの壁崩壊(1989年)、ソ連崩壊(1991年)で、東西冷戦時代が終結すると世界的な軍縮が始まり、兵器の需要は激減した。中国の兵器製造企業は、民生品製造に転換することを迫られた。機械式立体駐車場の技術供与と製造委託の仕事で、国営ミサイル製造企業のある山西省長治市を訪問したときの記録。

 

 

関西空港から北京空港に飛び、北京で1泊したあと、翌日15時北京南站発の夜行列車に乗り、明け方に山西省長治站に到着した。復路も長治站から夕方発の夜行列車に乗り、北京南站に翌日昼前到着。往路と同様、北京で1泊、翌朝北京空港から大連経由で関西空港に帰国した。

 

 

2001年当時は、旅行日数に関わらず中国入国にはビザが必要だった。急遽決まった出張だったので、大阪の旅行代理店に書留でパスポートを送り、ビザを関西空港で受け取った記憶がある。

栃木出発日は、「試作機1号機は完成しているが、2号機はメッキ前になる。」と聞かされた。それが関西空港搭乗時になると「1号機がメッキ前、2号機は溶接前。」、北京に着くと「1号機が溶接前、2号機は鋼板の切断工程」、長治の工場に着くと、「1号機が鋼板の切断工程、2号機の材料は入荷していない。」といった中国工場あるあるの洗礼を浴びた。

その後、僕の仕事の多くは、中国国営国有企業との合作や合資である。まさに長~いおつきあいの始まりとなった。

 

 

訪問先の企業は、民生品製造へ転換、と言っても、依然ミサイルも製造していた。あたりまえのことだが、ミサイル製造ラインの見学などできない。僅か50メートル先の工場棟に移動するのもクルマ移動、国家機密が横たわっているということか。

第1回の工程会議で、「世界のどこかで戦争、内戦が始まれば、ミサイル製造を優先するので、契約期日は守れない」とくぎを刺された。「試作機の契約期日は、絶対に守る」とも言われたが、「ほんとかよ」と心のどこかで思った。しかし、彼らは契約期日をきっちり守った、連日徹夜の突貫作業に大増員で、やり遂げてしまったのである。中国ミサイル工場、恐るべし!

「絶対に守る」と言ったのは、副総経理(副社長)だったので、守れなかったら副総経理の面子が潰れる。「きっと大丈夫だよ」と中国取引の先人が、教えてくれた。

彼らと何度か会議をしたが、必ず出席するが、何も発言しない人がいた。「あの人は?」と不思議に思って聞くと、件の先人が、「共産党の書記じゃないかな!」と。機密や国家、党に不利益になる発言をしていないかをチェックしているらしい。

 

 

山西省は、日本では知名度が低い省の1つだ。

小麦粉を水で練った生地の塊を頭の上に乗せ、くの字型に曲がった特殊な包丁で、生地を細長く削ぎ落として茹でる刀削麺(Dāoxiāomiàn)発祥地である。

 

それ以外では、中国有数の石炭の産地である。なぜだか、鉱物資源の産地は、貧しいところが多く、鉱業の性格のためか、持てる者と持たざる者の格差が大きい。中国の大富豪の1人の女性は、山西省で荷台から道路に落ちた石炭の拾って売る商売から身を起こしたとか。

 

 

 

 

中国の辺境に行くと、今でもロバは動力源であると同時に大切な食材でもある。中国のロバ肉は、 「上有龍肉 下有驢肉」(天上には龍の肉が有り、下界にはロバの肉が有る)と言われるほどのご馳走である。部位によっても違うのだろうが、今までにあちこちでご馳走になったが、脂っ気がなくパサパサしていて、そんなに美味しいとは思わない、というのが、正直な感想。

日本では、馬肉は食べてもロバ肉は食べない。ところが、中国では、馬肉は食べない。(よほど貧しい人は別だろうが) 4本足のものは、机と椅子以外食べると揶揄される中国の人が、馬肉を食べないのは不思議だ。「なぜ、食べないのか?」と聞くと、「硬くて不味い」と。いやいや、馬刺は絶品だと思うのは僕だけか。

 

 

【メモ】

2年近く中国に行っていない身で、偉そうなことを書くことに後ろめたさがあるが、日本での報道から見聞きする中国政府の挙動、どうにも不穏な予感だ。富裕の象徴の不動産業やIT業を締め上げ、報道や芸能に統制をかけるさまを文化大革命の再来と評する人もいる。僕はリアルな文化大革命を知らないが、あの頃の中国は、国土がデカイだけの貧しい共産主義国だった。しかし、今の中国は違う、あまりにも世界への影響が大きい。僕の予感が杞憂に終わることを祈る。

 

 

旅は続く

 


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/千葉県 第2回

2021-10-11 22:00:00 | 旅行

2021年の記録

 

緊急事態宣言が解除になり、自身の“散策欲求”に従い千葉県を散策した時の記録。

 

 

大原~上総中野(いすみ鉄道)~五井(小湊鉄道)と、房総半島を横断する予定で出発したものの、昨年の台風の影響で、小湊鉄道の一部区間はバス代行のため、列車本数が極端に少なく横断を断念し、いすみ鉄道の終着駅・上総中野から引き返してきた。

 

 

いちかわ西洋館倶楽部は、1926年(大正15年)竣工の木造3階建築の渡辺家個人宅である。

明治、大正の名大工「大亀」が図面無しで建てた和洋折衷の西洋館。2階は書院造りの和室が中心となっている。

現在は、3代目オーナーの渡辺俊司氏の古い建物をただ保存するだけでは意味がないとの意向からギャラリー&コンサートホールとして使われている。

 

 

大原港にある夷隅東部漁業協同組合直営の「いさばや」で、昼食に「たこ飯御前」を頂く、何ヶ月ぶりの外食だろうか? たこ飯には、これでもか、というほどたくさんのタコが入っている。地魚の刺身も身に弾力があって美味しい。デザートは、なぜだか抹茶わらび餅。(税込1,700円)

 

寒流(親潮)と暖流(黒潮)の交じり合ういすみ沖の豊かな漁場「器械根」で獲れる大原港の「伊勢海美」(伊勢海老)は、水揚げ量日本一と言われる。

一方、「マダコ」は、その「伊勢海美」を餌に育っていると言われ、伝統的なタコつぼ漁により1匹ずつ捕獲するため、傷つかず活きの良いタコが水揚げされ、明石のタコと並ぶ日本の二大タコと称される。

 

 

日本基督教団上総大原教会は、外壁を南京下見板張りとし,玄関上部に塔を戴く軽やかな外観の教会礼拝堂として1931年(昭和6年)竣工。しかし、昭和30年代の火災で焼失し,現在の形となった。

 

 

いすみ鉄道は、1988年(昭和63年)にJR東日本旅客鉄道木原線の廃止に伴い第三セクターとして開業している。僕は木原線時代に何度か乗車している。現在のJR外房線が、まだJNR(日本国有鉄道)房総東線と呼ばれていた頃の気動車(ディゼルカー)を彷彿させる塗装色の車両が走る。大原から上総中野まで片道約1時間、房総半島の山間部を走る気動車に乗っていると、汽車(鉄道)に乗ることが一大イベントだった頃を思い出した。欲を言うと、冷房の利いた綺麗な車内は、あの時代の排ガスと汗臭い車内とは異質だった。

 

 

日本福音ルーテル市川教会は、1955年(昭和30年)竣工のウィリアム・メレル・ヴォーリズ晩年の作品の木造教会堂である。切妻の瓦型鉄板葺屋根をもつ単廊式の南北棟の礼拝堂と、東面南に建つ4階建鐘楼からなり、白い外壁、正面と鐘楼上部に丸窓、身廊側面に半円アーチ窓を開ける。2008年登録有形文化財(建造物)に登録された。

 

 

【メモ】

10月7日の夕刻、ワラビスタンでは、震度5強の地震があった。目の回るほどの横揺れを感じたものの停電もなかった。(軽量鉄骨造ライオン宮殿の2階にて)

翌日のJR京浜東北線は徐行運転、運よく入場規制前の駅構内に入れたので、比較的空いている下りに1駅乗ってターミナル駅から上り電車に乗った。(ターミナル駅以外では、ほとんど上り電車から下車する乗客はなく、満員で到着した電車には、誰一人乗れない。よって乗車待ちの列は、進むことなく駅の外まで延びる。) コロナを忘れざるを得ない3密の1時間だった。

 

地震の防災訓練として東京から栃木の自宅までの徒歩行軍を計画していた矢先の10月10日、蕨市内のJR変電所火災で、京浜東北線、宇都宮線、高崎線が、約7時間運休した。宇都宮線に乗車中の僕は茨城県古河市であし止めにあった。しばらく待って復旧の見込みがないと思い、JR古河駅から約2キロ離れた東武鉄道新古河駅まで歩き、東武鉄道を2度乗り継ぎ大宮まで行く。大宮に着いた頃、埼京線が運転再開となり、8日に続き3密の満員電車に乗って戸田まで行き、約2キロ歩きワラビスタンのライオン宮殿に無事到着となった。

JR古河駅(茨城県古河市本町)から東武鉄道新古河駅(埼玉県加須市古河)へは、渡良瀬川三国橋を渡る。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第11回

2021-10-04 21:32:14 | 旅行

2021年の記録

 

どうしても見たい映画の終演が迫り、緊急事態宣言中だが、渋谷まで映画を見に行った。僕なりに注意して、表参道から青山、渋谷と散策し、映画館(シアター・イメージフォーラム)に行ったときの記録。

 

 

渋谷も表参道、青山も東京では、最も馴染みのない街だ。実業団時代は、織田フィールド(代々木公園陸上競技場)で、毎日練習していたが、会社~競技場~自宅の直行、寄り道なしだった。

 

 

表参道ヒルズは、1926年(大正15年)に第一期、翌1927年(昭和2年)に第二期が竣工した鉄筋コンクリート造りで3階建ての同潤会青山アパートの再開発プロジェクトとして、2006年(平成18年)に開業した。

 

 

セントグレース大聖堂は、教会ではなくお洒落な結婚式場である。それでも、パッと見美しい。

 

 

ポルトフィーノは、お洒落な店舗が入居する扇型の建築物だ。僕は上海の夜を思い出してしまう。

 

 

メゾン・ド・ミュゼは、昭和9年築の実業家の洋館(旧千葉邸)を転用したフレンチレストランである。正直なところ、フランス料理は、ガサツな僕に似合わない。ここで、食事をすることもないだろう。

 

 

映画「東京クルド」は、遠いい国の物語ではない。僕の住む街・ワラビスタンを舞台にしたドキュメンタリーだ。

 

ワラビスタンに住むクルド人は、クルド独立運動に関与したとみなされ、トルコ政府の迫害から逃れるために訪日した人たちである。(トルコ人は、ノービザで日本に入国できる) 政治難民の申請をしているが、日本政府は一切認めていない。なぜなら政治難民として申請を受理すれば、親日国・トルコ政府の迫害を認めることになるからだ。しかし、クルド人がトルコ国内で受けている迫害は、グローバル基準だと政治難民に認定されるべき状況にあるので、日本政府が強制送還を選べば、国際的な非難を受ける。トルコ政府にも国際社会にも非難されたくない日本政府は、“仮放免”という健康保険も、就労許可も、県境を越える移動の自由もない “生殺し”をクルド人に対して約20年も続けている。

 

映画「東京クルド」の主人公のオザンとラマザンは、小学生の時に来日し、日本で義務教育を受けた。オザンは、タレントを志望するものの就労許可のないことを理由に事務所登録を拒否され、不法就労の解体の仕事を続けている。ラマザンは、通訳として働くことを夢見て勉強を続けたが、その夢を断たれる。

 

僕が街で見る年配のクルド人は、生活のために真っ黒になって働いているが、若者は、何となくプラプラしている。家庭を持てば、生きていくために不法就労であっても働かざるを得なくなるが、そうなるまでは、働く意味も、学ぶ目的もなく、プラプラしていることが、仮放免者の正しい生き方なのだろうか。

 

「働くことが許されたとき、後悔しないために学び続ける」といったラマザンの健気な言葉に僕は目頭を熱くせずにはいられなかった。

 

日本人は、議論を極端に忌避するが、世界的には異端だ。徹底的に議論をすることで、双方の理解が進み、信頼を構築すれるのが、グローバルスタンダードだと僕は思う。親日国・トルコを大切に思うならば、腹を割って話をすることができるはずだ。本音として、トルコ政府は、在日クルド人に帰国して欲しいとは思っていないはずだし、日本政府にとっても、日本語を話し、真面目に働く在日クルド人は、貴重労働力になるはずだ。外務省には、僕以上にグローバルスタンダードを理解している人材がいるはずなのだけど・・・・・・・。

 

 

【メモ】

9月30日で、緊急事態宣言が解除された。東京の感染者数も週ごとに減少している。正直なところ、緊急事態宣言が解除になろうが、なるまいが、すべて自己責任であることに変わりはない。

緊急事態宣言解除で、人目を気にすることなく街を散策できるようになることが、唯一の嬉しいことだ。

 

 

旅は続く