Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/彩の国散策物語 第7回

2022-10-30 17:13:06 | 旅行

2022年の記録

天気の良い休日、ワラビスタンを徒歩で散策した時の記録。

 

 

日本の古い街では、どこでも見かける白壁の蔵が、ワラビスタンにもある。

 

 

ワラビスタンは、クルド人が多くすむことからついた埼玉県蕨市の俗称。隣接する川口市を含めJR蕨駅周辺は、クルド人集住エリア、中国人集住エリアに旧中仙道蕨宿に続く昭和的商店街がある。

 

 

三学院は、絵に描いたように美しく整備された寺院で、京都の新義真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん)の末寺で、金亀山極楽寺(こんきさんごくらくじ)三学院が正式名称である。

極楽殿というセレモニーホールや霊園・墓地を経営している。行き届いた境内整備の財源となっていると僕は推測している。

 

 

三学院から数分、西に歩くと、旧中仙道蕨宿。みやげ物屋が軒を連ねる観光地にはなっていないが、杉板外壁の木造家屋が軒を連ねる。

 

 

旧中仙道蕨宿にある蕨市立歴史民俗資料館分館は、明治時代に織物の買継商宅である。建物は、木造平屋寄棟造り。旧中山道に面した店舗の部分は、明治20年(1887)に建てられたものだ。

関東の典型的な間取りや敷地内の配置なのかもしれないが、千葉県白子町の祖父宅とそっくりなのだ。小学生の頃の思い出が自然と湧いてくる。

 

 

蕨駅西口商店街は、旧中仙道からJR蕨駅へと繋がる。銭湯、作業用衣料品店、和菓子屋、レコード屋・・・・すべてが昭和のまま止まっている。

 

 

クルド人御用達の理容室。クルド語の「マスク着用」の表記。

クルド人集住エリアと聞くと、治安を心配されるが、全くの誤解。多くのクルド人は、“仮放免”の身なので、何かのトラブルを起こせば、即収監、強制送還が待っているので、治安を悪くするようなことはしない。ただ、“仮放免”の非人権的な処遇は、早期に解消して欲しい。僕は、日本の恥部だと思っている。

 

 

中国人集住エリアには、“ガチ中華”も何軒か存在する。完全に在日中国人相手の店である。店頭の写真には、日本語は皆無、すべて簡体字の中国語。このエリアでは、日本語ができなくても日常生活に不自由しない。しかし、住人の多くは、日本企業に勤務するホワイトカラーとその家族。子弟も日本の学校に通い、教育熱心な両親も多く、中国人同士は、中国語で会話するが、日本語も流暢に話す。中国人特有の孫の世話をするために来日した祖父母には、日本語の苦手な人もいるようだが。

 

 

【メモ】

10月23日、中国の今後の5年間の政権体制が発表された。(結果は、皆さんのご存知の通り)

はちみつの好きなプーさんが、神格化したと言っても過言ではないだろう。

誤解を恐れずに書くと、今の中国にとって、共産党一党独裁は、悪い選択ではないと思う。仮に日本のように選挙権が与えられ、野党が生まれれば、国家分裂か、多くの途上国のように選挙で独裁者が生まれるだけだ。かつての共産党は、一党独裁といっても団派(共産主義青年団出身者)があり、上海閥があり、太子党(革命第一世代の子息)があり、相互の牽制で、バランスがとられていたので、極端な方向に突っ走ることはなかった。

 

話は、変わるようで、変わらないのだが、かつてイスラームの師に「イスラームは、なぜ、豚肉食を禁止しているのか?」と質問した。「日本人も江戸時代は、豚肉どころか、四つ足の生き物の肉食を禁止していたよね。でも、今は、牛、豚、羊、馬・・・・と、何でも食べる。なぜ? 四つ足の肉食を禁止したのは、将軍様、つまり人間だ。人間の決めたことは、人間が修正できる。しかし、「豚肉を食べてはいけない」と言ったのは、イスラームの神様だよ。神様の言葉を人間が修正することはできない。だから、今でも豚肉食は、禁止なのです。」

 

神格化した為政者は、誰にも止められなくなる。とても、危険なことなのだ。

朝令暮改で発言を翻した岸田首相は、野党も正しいと考える方に翻したのに朝令暮改だと批判されていた。同窓の先輩だからと、肩入れする訳ではないが、あそこまで、発言を翻す首相は、それは、それで、凄いと思うのだけど・・・・・。ゼロコロナ政策をやめられないプーさんも、少しは見習って欲しいものだ。

 

話は戻って全人代でのプーさんの「台湾への武力行使の権利を放棄しない」発言。「台湾は中国の一部」がプーさん思想の核心なので、合理的な判断の入る余地はないので危険だ。

 

蛇足ながら、中国の日本本土への武力侵攻はない、逆に沖縄、奄美はヤバイ。なぜなら、沖縄、奄美は、中国国恥地図にあるように中華民族“固有”の領土だからだ。日本本土は、武力侵攻のリスクを負ってまで、領土にしたい魅力のある土地ではない。武器を使わなくても、カネを使えば、合法的に買うことができるのである。

 

欧米と日本により喪失したとされる“固有”の領土を取り返すことは、「中華民族の偉大なる復興」そのものである。そこに経済合理性はなく、“べき論”で、どこまでも突き進んでしまう。だからプーさんの神格化は、危険なのだ。

 

「中華民族の偉大なる復興」を理解できない日本人は、少なくないだろう。しかし、北方領土返還を叫び続ける日本も水産資源が欲しいから返還を望むのではなく、北方四島が、まさに日本“固有”の領土だと考えるからだが、その発想を諸外国は理解できないのである。

 

プーさんもバカじゃないので、ウクライナ侵攻を注視している。世界が武力による現状変更を許すようならば、迷うことなくGOかもしれない。そのためにもロシアのウクライナ侵攻を許してはならないのである。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第22回

2022-10-23 17:48:37 | 旅行

2022年の記録

10月に入り、晴天の土曜日に都内を散策した時の記録

30年ほど前のオールドレンズを久しぶりに使いたくなり、一部を除きタムロンSP 28mmF3.5で撮影。

 

 

スクラッチタイルの外壁が美しい旧前田本邸洋館。

 

 

今回の訪問先は、いずれも2回以上訪問しているところ。あまり効率を考えず、気の向くままに散策した。

 

 

カトリック碑文谷教会の江戸のサンタ・マリア聖堂は、1954年にサレジオ会によって献堂、ロマネスク様式の白を基調とした美しい聖堂である。(歴史的建造物ではない)

カトリック教会であるが、積極的に結婚式プランを提案し、1985年、神田正輝と松田聖子が挙式をしている。(敬虔ではないが、カソリック教徒の僕は、カソリック教会の神様の前で、永遠の愛を誓い、「離婚って何よ?」 と、むかしの話だが、突っ込みたい気持ち。)

 

 

旧前田本邸洋館は、前田利為の本邸として1929年(昭和4年)に竣工。建築様式はイギリス・チューダー様式で、関東大震災後の設計であるため鉄筋コンクリート造とし、外壁を当時流行していたスクラッチタイルで仕上げている。和館も併設されているが、僕の興味の対象外でスルーした。なお、2013年に洋館、和館を含む建造物8棟と土地が「旧前田家本邸」の名称で国の重要文化財に指定された。

 

 

旧前田家本邸に隣接して前田財団の事務局建築物がある。本邸と同様のスクラッチタイルの外壁となっている。本邸より味のある外観、興味が湧くが、公開されていないため金網越しに“盗撮”することになった。正規に撮影許可を得て、内部も含めて、拝見したいものである。

 

 

すでにレギュラーになった日本にある“トルコ飛地”東京ジャーミイ。ミナレットを備えたモスクの背後に広がる紺碧の空は、本土・トルコの空に繋がる。

 

 

1919年(大正8年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。洋館は、スレート葺き屋根、煉瓦造の躯体を、黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っている。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。(訪問した10月1日は、無料公開日)

 

 

【メモ】

円安が止まらない、僕の予想だと、1ドル150円前後が天井か?(※個人的予想です。) アメリカは、金利を上げる。一方の日本は、ゼロ金利政策続行、これじゃァ、円安が進行する訳だと、納得していたが、大間違いかもしれない。「通貨安とは、その国に国力、魅力がない」ことが、本来だろう。そう、日本の国力、魅力が、低下しているのだ。日本にいると、それを忘れてしまう。

 

コロナ禍を通じて、世界は、日本の脆弱を再確認したのだと思う。Made in Japan といっても、外国から部品が入らず生産が止まる製造業、外国人労働者が帰国すると作付けできなくなる農業・・・・・・。

 

不景気になると、政府は、雇用調整金を支給する。雇用は守られるが、退場すべき企業も延命する。その結果、イノベーションが抑制され、安定の代償として、社会の緩やかな衰退が始まる。この繰り返しを見た世界は、日本社会を見限ったのかもしれない。

 

原価が上昇しても身銭を削って価格転嫁を抑制する、上質のサービスを低賃金で提供する労働力。円安で加速するインバウンドで、訪日旅行者の餌食になる日本。大航海時代の繁栄したスペイン、ポルトガルのように日本もアジアの田舎に還るのだろうか。

 

 

(10月23日、中国の今後5年間の体制が発表された。そのメモは次回に。)

 

 

旅は続く


人民中国の残像/瀋陽 第4回

2022-10-16 10:14:59 | 旅行

2005年の記録

瀋陽を離れる日が決まり、お気に入りの問屋街散策したときの記録。

 

 

キノコや豆類を乾燥したものが、ズタブクロに入れて売られていた。

 

 

地図をあらためて眺めると中国の広さを感じる。瀋陽から上海、福岡よりも遠いい。

 

 

瀋陽火車站近くの問屋街の赤レンガ建築が、いつの時代に建設されたものなのか僕は知らない。東京駅丸の内口をコピーした赤レンガの瀋陽火車站と同時期の満州国時代かもしれないし、中華人民共和国になってからかもしれない。

 

 

問屋街から少し離れると、古い住宅があり、その住民が買い物をする小売部(小規模のヨロズ屋)がある。 

 

 

耳カバー付きの帽子をかぶり、厚いコートを着込み、白い息を吐く人々と煤ぼけた赤レンガ建築物。僕にとっては、ロシアの香りの残る満州国時代にタイムスリップしたような気分は心地よいものだった。

 

 

【回想録】

2005年12月某日、大連港へ向けての最後のトレーラーが瀋陽の工場を出発した。プロジェクトは、日本で架設、試運転、引き渡しまでと、まだまだ続くが、一区切りである。トレーラーを僕とまっさん(仮名・製作管理担当駐在日本人)、ショー君(仮名・通訳担当中国人ローカルスタッフ)の3人で見送った。健さん(仮名・駐在日本人指導員)は、すでに据付工事準備のため一足先に帰国していた。まっさんとショー君は、大連港での引き渡し確認のため大連へと出発する。(大連港までの陸送も日本と違って、荒い積み下ろしで製品破損の可能性があるので、引き渡し直前の確認は必須であった) 僕は、上海での仕事が溜まっていたので、上海でひと仕事してから帰国する。

 

ここまで、やってこられたのは、プロジェクトに関与した日中両国の関係者の協力の賜物ではあるが、工芸楼(生産技術部門)のチンさん(仮名)の存在なしにはあり得ない。

中国で、何か困ったことが発生すると、人だかりができて、みながワァワァ言うが、結局のところは、口だけの評論家集団だ。しかし、どこからか救世主がひとり登場する、それが中国社会の素晴らしいことだ、といった話を聞いていた。実際に僕の経験でも、それは間違っていない。そして、瀋陽の日中合作プロジェクトにも救世主が出現した。まさにその救世主こそチンさんだった。

 

「チンさんが、実力を兼ね備えた人格者なのか?」 というと、実力者であるが、人格者ではないのだ。チンさんは、叩き上げの旋盤工だったが、その卓越した技能を買われ、異例の現場作業員から生産技術部門に昇進した人物で、製造現場でのリスペクトは、半端ない。2005年当時でも、瀋陽の会社の製造現場は、禁煙だった。ところが、チンさんだけは、喫煙が許されていた。チンさんが人格者であれば、製造現場で喫煙しないだろうが、特権を行使して、よくタバコを吸っていた。また、朝陽の仕事の最終日の朝、現場にチンさんがいないので、「チンさんは?」と中国側のマネージャーに聞くと、ポンポンと頭を叩いたものだから、てっきり昨晩の打ち上げの二日酔いかと思っていたら昼前に涼しい顔で登場した。何のことはない、散髪に行っていたのだ。といったような中国のどこにでもいるおっさんだ。

 

そのチンさんが、「俺、処分されるかもしれない」と呟いたことがあった。数トンもある非対称の重量物を反転させて機械加工するときは、自重の歪みを考慮しないと精度が出せないのだが、その加工は、まさに作業者の勘頼り。そんな訳で、「××の加工は、〇さんにやらせろ」 とチンさんが現場に指示した。しかし、配番を決める権限はチンさんにはない。巨大中国国有企業は、製造部のマネージャーと打合せのアポ取りでさえ、僕の所管の貿易部の部長から製造部の部長に打診しないとならないガチガチの縦割り組織なのである。

 

瀋陽の集団公司(グループ企業)の常務と僕は、写友(写真友達)になっていので、常務が在室している昼休みには、常務室にお茶を飲みに出入りしていた。最初の訪問時に、「お互いが、仕事のお願いをすることがないように双方の仕事に頑張りましょう」と話していた。実際に仕事に関するお願いをすることはなかったが、「工芸楼のチンさんの多大なる協力に感謝している」とだけ話したことがある。それが、効いたのか、否かは、わからないが、チンさんが処分されることはなかった。(処分があれば、「減給」「降格」・・・が、掲示板に書かれる。) 

 

常務に、それ以外の仕事の話は、一切しなかったが、中国側のスタッフは、僕が常務に告げ口するのではないかと、いつも気にしていたので、かなりの抑止効果になっていたのは間違いない。

 

チンさんには、日本の架設現場に来てもらいたかったが、中国国有企業の海外出張日当は、目がとび出るほど高く(当時の我々の日当よりも高額)、断念した。架設写真をチンさんに送ったときの話は、また別の回に記したい。

 

 

【Just Now】

10月8日、クリミア大橋が爆破された。爆破がウクライナ政府によるものか、否かは、解明されていない。クリミア大橋の爆破を歓喜するウクライナ国民の映像を見たとき、僕は絶望的に悲しくなった。僕は、それが憎悪連鎖の始まりだと感じたからだ。

 

一方、ロシア国内では、予備役の動員が発表された。官僚機構の脆弱な地方政府が、人数合わせのために誰かれ構わず召集令状を発行したものだからロシア国民にとってウクライナ侵攻は、自分事になった。それまでは、ウクライナと親交のある人を除けば、プーチン大統領と職業軍人、命知らずの傭兵が、やっている他人事だった。侵攻の大義にも興味は薄く、西側の経済制裁の影響を迷惑に感じていた。自分事になったことで、侵攻の大義を考えた、いや、考えるより前に、徴兵回避が優先かもしれない。国を守るための戦争ではない、侵略のための戦争に誰が命を捧げるのか?

 

人間のイヤらしい一面を目のあたりにしたロシアのウクライナ侵攻。唯一の真実は、聖戦(正義のための戦争)など存在しないことだ。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/瀋陽 第3回

2022-10-10 21:11:22 | 旅行

2005年の記録

11月になると瀋陽は、厳しい冬を迎え、朝晩は氷点下の日が続く。

 

 

兵士、労働者、農民たちの上に毛沢東像がある。中国共産党を人民(兵士、労働者、農民)が支えていることを示している。

 

 

瀋陽より南に位置し、海に面する蓋州や大連が冬でも暖かいが、朝陽よりも海から離れているため瀋陽が、最も寒い。

 

 

旧市街の中心にある中山広場脇にある遼寧賓館(3ッ星)は、旧奉天ヤマトホテル、歴史的建造物である。僕も1泊したが、内装は歴史観のある立派なものだが、新しもの好きの中国人の人気はいまひとつ。サービスは評価通りの3ッ星クラスだった。

 

 

中国語の「旅社」は、日本語の旅行会社ではなく、宿泊施設を示す。宿泊施設を示す中国語は、酒店、飯店、賓館、旅社、招待所、客栈・・・とあるが、一般的に旅社、招待所、客栈は、安宿であることが多いが、明確な区分がある訳ではない。外国人は、「外賓」登録された宿泊施設にしか宿泊できない。「外賓」は、登録しているか、否かの問題で、高級か否かとは一致しない。4ッ星ホテルでも登録されていなければ宿泊できないし、相部屋の安宿でも登録されていれば宿泊できる。もちろん、上に政策があれば、下に対策がある国なので、超法規、非合法での宿泊経験もある。

 

 

上海など沿海部の大発展には遅れるものの東北地方No.1都市の瀋陽も再開発は確実に進んでいた。戦前の建築物やバラックといった老朽建築物が取り壊され、近代的な高層ビルが、ニョキニョキと建築されている最中でもあった。

 

 

中国は、日本以上に西洋人に対する憧れとコンプレックスが強い。当時の中国では、服飾、コスメを筆頭に広告のモデルの多くは、金髪の欧米人だった。上海人の女性に「ボーイフレンドが日本人だと両親に伝えたら、反対される?」と質問すると、「う~ん、反対はされないと思うけど・・・・・」と答えた。「じゃぁ、金髪の欧米人だったら?」と意地悪な質問をすると、「喜ぶと思うよ。金髪の孫ができるかもしれないって、近所に吹聴するかな。」といった日本人には、ちょっと残念な反応だった。

意外に思われるかもしれないが、中国でビリヤードは、結構ポピュラーな遊技である。

 

 

【回想録】

部材の製作がほぼ終わり、製造は佳境を迎えた。11月16日は、走行装置の8時間無負荷運転に立ち合い、軸受の温度変化を確認する。朝から始め夕方には完了する予定だった。前日に完了している走行装置の組立が完了したのは、16日の夕方である。中国側は、「3時間も運転すれば大丈夫」と主張するが、僕は、「決められたことを決められた通りにやる。徹夜してでも、8時間運転してくれ。提案ではない、指示だ。」と突っぱねた。言いだしたら引かない面倒な日本人であることは知られていたので、中国側は、不承不承承知したが、「極寒の深夜は危険なので、立ち会いはダメだ。」と言ってきたので、(立ち会わなければ、ちゃんと運転する訳がない) 「断続的に工場に来て、確認させてもらうよ。」と返した。

 

件のやり取りを傍らで聞いていた僕の部下が、「今日、16日はZhenさんの誕生会の日ですよ。店も借りきっているのですが、キャンセルしますか?」と慌てて聞いてきた。僕は、「キャンセルすることはないよ、適当に抜けて工場に来て、また戻るよ。」 中国人はもちろん日本人までもが、「Zhenは狂っている!」と異口同音に呟いた。

 

結局、僕は店を抜け出して工場に行き、途中確認して、また店に戻り、その後、再び工場に行き、軸受温度の最終確認をした。確かに深夜の工場は、極寒だったが、徹夜で試運転を続けた検査員と熱いお茶をすすった。忘れられない誕生日になった。

 

 

【Just Now】

連日、介護職員の入所者への暴行事件が報道されている。僕自身が、介護施設にお世話になるのは、まだまだ先の話とは言え、いずれは、高い確率でお世話になるだろうから他人事ではない。

 

介護職員の過重労働や低待遇が問題として挙げられているが、介護施設の介護に対する誤った理解が根底にあるのではないかと思う。つまり、「高齢者の介護は、ほんらい家族がやるもの、施設介護は、あくまで代わり」といった誤解である。「家族がやること→誰にでもできること、スキルはいらない」となって、その報酬は低いものになる。志だけでは、継続できず、人材が流出し、慢性的な人手不足に陥る。その結果、「とりあえず就職できる介護業界」という、失業者の受け皿になってしまい、志や誇りなど、何処へ。完全に負のスパイラルだ。

 

「人生、終わりよければ、すべて良し」とは思わないが、亡くなる前の期間が、その人にとって、とても大切な期間であることは間違いない。その期間の良し悪しを決定づける介護職もまた崇高な仕事であるべきだ。

 

そもそも、家族の介護とプロの介護は、別ものだ。家族だからできることがある反面、プロフェッショナルだからできることもある。その根底の認識を変えずに行政のバラマキをすれば、カネの亡者が、守銭奴のような職員を使って介護施設を経営するだけで、何の問題も解決しないだろう。

 

我々が、介護職をリスペクトすることからすべてが始まるのではないだろうか。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/朝陽

2022-10-09 13:16:42 | 旅行

2005年の記録

瀋陽に戻り、しばらくは瀋陽の生活が続くと思っていたが、地方都市・朝陽へ。

 

 

ちょうど収穫最盛期だったのかもしれないが、街のあちこちには、長葱と白菜の山があった。

 

 

朝陽市は、瀋陽市の西方にある。当時、遼寧省で最も貧しい地域と言われていて、「気をつけてください」と通訳に注意された。今では、瀋陽・北京の高鉄(中国版新幹線)が、開通している。

※「朝陽」の地名は、「北京市朝陽区」の方が有名になっているが、本家本元は、「遼寧省朝陽市」である。

 

 

朝、瀋陽を出発し、高速道路の車窓からは、カラカラに乾燥した土地と屋上にトウモロコシを干す、どう見ても豊かとは思えない農家が見えた。

朝陽で電動の輪タクを見ることはなく、トラックも三輪トラックばかりか、馬車が目立つ。蓋州と比較しても明らかに貧しい。

 

 

2005年当時、中国の美容室店頭には、浜崎あゆみ風モデルの描かれた看板が掲げられていた。実際、街には、それ風に髪を金色に染めた女の子もいた。

 

 

早朝、ホテルから駅前までタクシーに乗ったのだが、50元札をドライバーに渡すと釣りがないと言う。財布の中の小銭を集めて支払いをした。駅に向かった理由は、駅近くの旧市街にマーケットがあるだろうと言う読みだ。結果的に読みはあたり、朝市の露店街があった。

蓋州の朝市にあった肉屋や魚屋がない。(中国では、淡水魚が一般的に流通しているので、内陸でも魚はある。) ほとんどの食料品は、野菜や穀類。やはり、貧しい、ということか。

 

 

二度と来ることはないだろうと思って、眺めた帰路・瀋陽北站行きの高速バスの車窓は暗黒、灯がまったく見えない。「今、バスがエンストしたら?」 あらためて、とんでもない辺境にいたことを思った。

約10年後の2014年、僕は朝陽市からさらに奥にある北票という町の国有企業に駐在することになる。その物語は、また別の機会に記したい。

 

 

【回想録】

中日合作契約では、再外注を原則禁止としていた。蓋州市の協力企業への外注は、協議の結果、特例として承認した経緯があった。朝陽の企業への再外注を「“外注”ではない、“製造委託”である。」と中国側のマネジャーは言う。あれっ、“戦争”と呼ばず、“特別軍事作戦”と呼んだプーチン大統領、「共産主義って、そういうもの?」 ともかく、中国側に押し切られて、朝陽の国有企業への外注が決まり、僕は朝陽へ行くことになった。

 

当時、地方の中国国営国有企業にも市場経済の嵐が吹きはじめていた。それまで、国営企業は、機能・品質の良否と関係なく“作れば売れる”を保証されていた。その保証が、取っ払われると、力のない国営国有企業は、雇用維持のための政府補助金で、経営を継続する。朝陽の企業も、そのような企業の1つだった。政府補助金は、日本の生活保護費と同様、収入 (売上)があれば減額される。僕たちの製造委託費は、売上に計上されず、幹部のポケットに入る、“闇受注”である。それを知った作業者のサボタジュ。“闇受注” の顧客である僕たちは、応接室どころか、事務棟への立入りも許されず、昼休みは、「どうなっちゃうんだろ?」と、事務棟前の階段に座り、雲一つない“黒いほどに青い空”を仰いだことが思い出された。

※“黒いほどに青い空”とは、チベットの紺碧の空を表現した旅人の言葉で、黒く見えるのは、宇宙の暗黒が見えるからで、それほど空気が澄んでいるのだと聞いた。

 

 

【Just Now】

東京都議会で、都立高校入試の英語スピーキングテスト導入に関して議論になっていると耳にした。日本人の英会話能力が向上すれば、日本が再浮上すると信じている人が少なからずいるが、僕は真逆だと思う。仮に大卒以上の日本人が、英語で不自由なくコミュニケーションできるようになったら若いホワイトカラーは、海外に職を求める人が急激に増える。高卒にまで、範囲が拡がれば、貴重なブルーカラーも海外に流出するだろう。アメリカの魅力は、給与の高さだけではない。日本のような同調圧力や閉塞感に苛まれることもなく、自らの可能性に挑戦することができるからだ。かつて、地方に生まれた人材が、進学や就職を機に東京、大阪といった都会に流出したのと同じ構図である。

 

フィリピンは、かつてアセアンの優等生だった。ところが、現在のフィリピンは、今一つのポジション。国民の大半、高卒以上ならば、英語のコミュニケーションに不自由しない。その結果、若い頃は、海外で働き、母国に仕送りする。老いると帰国し、息子娘の海外送金を頼るライフサイクルが固定化している。出稼ぎ者の送金がGDPの1割に達する。日本語教師の友人が彼らに「次世代は出稼ぎしなくて良い国造りを」といった話をしても、「ハッ?若い頃は、海外で働くものでしょ」といった反応が却ってきたきたと言う。国内に就業機会がないので、優秀な人材が海外に出る、国内に優秀な人材がいないので、国内に産業が育たない、まさに負のスパイラル。

 

日本の空洞化が、僕の杞憂に終わることを祈る。

 

 

旅は続く