最期の祭り!

 もう、未来無いんでヤケクソ。 最期の祭り的なノリで行きます!

意識科学

2011-12-23 15:32:49 |  過去執筆物・翻訳物  



 現在は21世紀の為の学問、意識科学に興味を持っています。
 少しご紹介しましょう。

意識科学においては主として二つの分野がある。
ひとつはメディテーションなどによる万物の根元の追求。
もう一つはそれらを実生活・実社会に応用していく為の意識科学である。
これによって世界のあらゆる問題を解きほぐしていこうとする科学である。


● 21世紀に人類が直面している主要な問題は、われわれの世界観を修正して新しい世界観を構築していくプロジェクトである。
● 人類の意識は一切の創造の源泉である。
● 21世紀は意識科学の時代となるであろう。
● だが、意識科学の乱用は反作用により報復を受けるだろう。
● 道徳と科学は意識科学の中において統一される。意識科学は道徳の科学化。科学の道徳化を主張する。

● 意識はすべての人々の一切の活動に置ける原動力である。
● 意識をコントロールする事は身体をコントロールする事である。意識の制御が意識科学の原則と目標である。
● かつての革命とは一つの階級がもう一つの階級を覆す革命であった。だが意識科学における革命とは自分が自分を覆す革命である。
● 人類の歴史を推進する原動力は人類の理想である。
● 意識・心境とは人類の真実の生活空間・活動領域である。
● 意識科学とは又世界を研究する科学でもある。

● “公”こそ最大の自由であり、最大の科学技術なのである。
● 神はこの宇宙の全ての人と物質の中に内在している。全ての物と存在の総計が神を構成している。創造者を崇拝する為には人は神の性質と人類と神との関係を理解しなければならない。
● 創造の根源は哲学である。
● 全ての道徳的行為と合理的な考えは神への正しい崇拝である。
● 意識科学の目的はどのように用い、どのように規律を把握し、どのように理想を実現するかにある。

● 意識科学は鋭い武器となる。すぐさま手に取るべきである KBUXE5B
● 現在、数学や物理学などの応用は物質的な分野のみにそそがれている。
● もし人類が意識科学を知らなければ、科学技術をいくら発展させようとも人類は幸福にはなれない。
そして外的な事物により幸福を得ようという無駄な努力がいつまでも繰り返されるだろう・・・
● 意識科学は人類の現在抱えている全ての困難は、我々の主観の過ちと不足の為す所とみなす。
● 誤った主観を変え、包括的な世界観を樹立する事こそ意識科学が堅持する主旨である。
 



コンシャスネス・エクスプロア 

 ここで物理数学のベクトル解析という理論がある。 これは演算とベクトルの融合である。 カント哲学においては時間と空間を認識の2大源泉とみなす。
 演算は時間をコントロール、ベクトルは空間をコントロールするという。
 ベクトル解析は演算とベクトルの融合である。これを融合させるとどうなるのか?
 そうすると人間の精神の時間と空間がベクトル解析により理論的に解析する事が可能になるのだ!
 すると人類のあらゆる精神領域をカヴァーできる。
 すると意識の中を自由自在に探険できる。 これをコンシャスネス・エクスプロアと呼ぶ。
 これとインターネットエクスプロアを結びつけると人類は果てしなく自由になれるのだ!

 ヒストリカル・フィクション  この言葉はコンシャスネス・エクスプロアによって近未来をシミュレーションする方法の事である。

新しい瞑想理論

 瞑想に科学的手法を用いるとこうなる。
 (X,Y,Z、T)=(縦、横、前後、時間)
 宇=果てしなく広い空間   宙=果てしなく長い時間
 そして瞑想の目的は (X,Y,Z、T)=(0,0,0,0) にすること。
 だが、この境地にいける人は極わずか。
 それなのでセンタリングという言葉を代用する。意識が濁った状態とは分割・分析作業である。
 そして意識をクリアーにするという事は精神統一する事という事である。
 そしてその状態をニュートラルと呼ぶ。 この状態ではあらゆる偏見や先入観から解放されているから物事の本質をよく理解できる。
 そして分析と統合という一連の作業により人類の文明は果てしなく発展していく・・・
 仏教聖典  仏教伝道協会から引用

 ● 人々はこの世の楽しみにのみ関わり、その災いを見通す知恵を持たない。
 ● 仏はある時は悪魔の姿をして現れる事もある。
 ● 網の目が互いにつながりあって網を作っているように全てのものはつながり
  あってできている。
 ● 迷いも悟りも心から現れる。ちょうど手品師がいろいろなものを自由に創り
  だすように・・・
 ● 正しい事さえ執着するべきではなく、捨てさらねばならない。まして
  正しくない事は尚更すてなければならない。
 ● 悟りのある事は尚妨げとなる。悟りのある事は尚迷いだからである。
 ● 人は欲を決して満足させる事はできない。満足出来ない時には気も狂わん
  ばかりとなる。




   



これから《 二十四孝 》を翻訳して皆さんに御紹介します。

 この本は、昔日本でも紹介され御伽草子に収められていて、日本各地の神社仏閣でその彫刻を見る事ができるそうです。

 ですが、漢文を読み下した為、原文の意味は余りよく伝えられていません。

 この書物は中国人の思惟方式を解読する為に絶対に必要な書物です。

 簡単に紹介すると、親孝行はあらゆる善行の根本であるという東洋的な思想であり、 24話の親孝行のストーリーと莫逆不孝報応図という親不孝のストーリーの因果応報のストーリーです。

 中国人に尋ねてみますと、《 地獄遊記 》も《 二十四孝 》も余り知られていないようです。

 中文系の大学院生さえ、初めて読んだと言っていた位です。

 中国人の先生は《 二十四孝 》の中に出てくる話は本当にあった話なのかは分かりませんが、ある種の信仰・思想を表現していると思いますとおっしゃっていました。

 又ある中国人は教科書で習ったような覚えがあるといい、この書物は中国文化の美徳であると言っていました。
 
 ○ 善行も悪行も、心が造りだすものである。福報も禍報も、人が自分で招くものである。

 ○ 孟子は言いました。 不孝には3つあるが、無後が最悪である。  

 自分を曲げて、親の過ちをとがめず、親を不正に陥れる事が第一である。

 家が貧しく、親が年老いても、仕事をしない事が第二である。

 結婚せず、子孫を残さないで、家系を途絶えさせる事が第三である。

 この3つの中で子孫を残さない事が最悪の親不孝である。


 プロローグ

 孝順父母は、中華民族の伝統的な美徳であるばかりではなく、社会精神文明と道徳規範を成す重要な部分でもあります。

 年長者を尊敬し、老人の面倒を見る事は、我々を育ててくれた深い恩に報いるだけではなく、転嫁をする事の許されない社会的責任でもあります。


因果の規律は、客観世界の一つの発展原則であります。  伝説によると以前このような人がいたそうです。

 労働ができなくなった年老いた父親を嫌って、子供に籠の中に父親を乗せて、山の上まで担いでいって突き落とさせた人が居たそうです。

 子供は下山して来たとき、籠を持って帰ってきたので、「 籠はもう使い終えたから、何も持って帰って来る必要はないよ。 」と言った。

 すると子供は「 いや、まだ必要だよ。 お父さんが年老いたら、お父さんを担いでいくんだ。 」

 この事が因果の規律なのです。 本当に慎重に考え直す必要があります。

 中華民族の優れた伝統である孝道文化と美徳を学び、精神文明を促進させる為に、「 心霊を浄化し、知恵を啓発する。 」一つの功績を提供します。

 この中のストーリーには、情理に反する幾つかの物語もありますが、どうぞこの話の中にある、世の中の人を戒める為の深遠な寓意を御理解下さるよう御願いします。


 1、 ユー・シュン聖君の偉大な孝は天をも感動させた。

 ユー・シュン( ヤオ・重華 )は生まれつき善良で親孝行でした。 父親は実直でしたが、義理の母親は狡猾で、弟は傲慢な性格でした。

 いつも義理の母から陥れられていましたが、彼は恨みもせず、むしろ以前にも増して義理の母に親孝行をするようになりました。  弟に対しても益々友好的に接し、彼らに感化を与えました。

 シュンは歴山で農業をして居た時、象が田んぼを耕してくれ、鳥が雑草を取ってくれました。

 尭帝が彼の賢い才能に気が付いて、彼を大臣にして、最後には皇帝の地位を彼に譲りました。

 そして、歴史上の著名な聖君になりました。

 2、 曾参はとても親孝行で、母と心が通じました。
 
 曾参は、孔子の弟子で母親にとても孝行しました。 少年時代ではいつも山に登り柴刈りに行きました。 ある日、家にお客さんが来ました。 母親はどうすることもできず、曾参が早く戻ってくる事を望み、自分で自分の指をかみました。

 すると、彼は山の上で突然心が痛み、母親が呼び戻している事に気が付きました。 そして、急いで柴を担いで、家に戻りました。 

 母と子が心が繋がり、すぐに反応したという事が分かります。

 曾参は孔子の学説を継承して《 大学 》を著し、儒家の代表的人物となりました。


3、ミンズは葦の衣を着て、義理の母を感化しました。

  ミン・スン、字はズー・チエは孔子の弟子でした。生まれつき親孝行で、若くして母を失いました。  義理の母は自分の子供達には棉でできた衣服を着せ、ミンズには葦でできた衣服を与えていました。 

 ある日、ミンズは父親の為に馬車を動かしていました。  体が寒くて震えていたので、もう少しで事故を起こしそうになりました。  父親は義理の母が、ミンズだけを虐待している事に気が付き、離婚の準備を始めました。

 だが、ミンズは泣きながら父親に訴えました。
 「 前のお母さんは一人の子供にさえ、寒い思いをさせていたのに、今のお母さんは3人の子供に衣服を与えているのですよ! 」

 義理の母はこれを知った後、深く感動して、自分の子供達と同じ扱いをするようになりました。

 4、 子路は両親の為に、お米を背負って百里の道を歩いてきました。

 仲由、字は子路は孔子の弟子で、生まれつき大変な親孝行でした。 ですが、家庭は貧困でした。  いつも自分は野菜で餓えをしのぎ、両親を養う為に米を背負って百里の道を歩きました。

 後に、両親とも亡くなり、魯の国と楚の国で幹部を務めました。  生活は豊かになりましたが、いつも父母が生きていた時の事を思い出し、野菜で飢えをしのぎ、両親の為にお米を背負って百里を歩いていた日々の事を懐かしく思い出していたそうです。

 孔子の弟子の中では、ミン損と曾参と仲由は皆、1000年も語り継がれる程の偉大な親孝行者だったそうです。


 5、老莱は70歳にして、子供の真似をして両親を喜ばせました。

 老莱子は周朝時代の人で、生まれつき大変な親孝行でした。 両親をとても敬愛していました。

 自分は既に70であるのに、年老いたとは言わず、いつも五彩衣を着て子供の遊びを真似て、両肩に水を担いで部屋に入ったり、ワザと転んでみせたり、泣くのを真似したりしていました。

 あらゆる方法を用いて両親を喜ばせるようにして、いつも口を開けて微笑んでいました。

 6、タン子は鹿の皮を着て、鹿の乳を得て親に孝行しようとしました。

 タン子は春秋時代の人で、とても親孝行でした。 父母は歳をとると二人とも、眼病を患いました。 鹿の乳が眼病に効くと聞いて、鹿の皮を羽織って、山奥の鹿の群れの中にいって、鹿の乳を得て、両親に与えようとしていました。

 ある時、狩人が彼を本当の鹿と間違えて射ようとした時、彼はとても驚きました。

 そして狩人に事情を説明しました。 狩人はその話を聞いて感心し、鹿の乳を贈呈し、山を降りるまで見送ったそうです。


 7、 文帝は母に仕える事を、自分で湯薬を味わう事をもってなしました。

 漢の文帝は名は劉恒といいました。 漢朝で最も賢明な皇帝でした。 彼は自分を産んでくださった母薄太后に最も親孝行をしていました。 太后は病に倒れて3年間病に伏しました。彼は公務を処理した後、いつもベッドの前で母を見守り、夜にも服も着替えず、うたた寝をする事も殆どしませんでした。

 湯薬を母に飲ませる時も、母が飲む前に必ず、自分で味わってみて、大丈夫かどうか確かめました。

 その親孝行の精神は天地をも感動させましたそうな。

 遂にはすっかり治ってしまったそうです。 彼の仁義と親孝行は国全体を感化し、遂には「文景の治」の偉業を成し遂げました。

 8、董永は自分が召使になり、天は良縁を授けました。

 董永は漢代の人で貧しい家でした。  父は亡くなっても埋葬するお金もありませんでした。

 そこで借金をした家の召使となり、その家に仕事に行く途中にエンジュの木陰に行き当たりました。

 そこで、仙女が夫婦になる事を求めてきました。 そして一緒に借金をした家に行きました。そして仙女は絹の布を織り、一ヶ月で300匹を完成しました。

 夫婦が家に帰る時、エンジュの木陰を通りかかった時、仙女は別れを告げて、去って行きました。

 その時から、このエンジュの木陰は孝感という名で呼ばれるようになったそうです。

 9、江革は母を背負って、何を逃れ、孝を尽くしました。

 江革は漢代の人で、母に対してとても親孝行でした。 乱世の時代に生まれ、母を背負って何を逃れている時、道で強盗に出会い、殺そうとしました。

 彼は強盗に「 私には母親が居て、私が死んだら面倒を見る人がいないのです! 」と言いました。

 強盗は感動して、江革は殺されずにすみました。

 彼は裸体で赤脚のまま、必死に働いて母親を供養しました。  そして母親の必要とするものを、必死になって揃えました。

 10、黄香は9歳で、枕を扇ぎ、シーツを暖めました。 

 黄香は漢代の人で、9歳で母親が亡くなり、とても悲しみました。 そして父親にはとても親孝行でした。

 夏は熱いので、父親の為に枕を扇いで涼しくし、冬には寒いので自分の体でシーツを暖めたそうです。

 官府は彼を“孝童”として表彰しました。 後に彼は道徳高尚な学問の人となり、尚書の官職にまで登りつめたそうです。


11、 姜詞は親孝行で、泉が湧き出て来て、鯉が跳ねて出てきました。

 姜詞は漢代の人で母親にとても親孝行でした。
 妻の庖氏は夫の気持ちをよく理解し、一緒に親孝行したそうな。  母親は河の水を飲む事を好んだので、家から6~7キロあるところまで庖氏はいつも水汲みに行っていました。

 又、魚のあんかけを食べる事を好んでいたので、夫婦はいつも食卓に出していました。

 ある日、家の脇で突然、泉が湧き出てきました。 味は河の水とそっくりで、毎日2匹の鯉が跳ね出てきました。  これは天が彼らにもっと家の近くから、河の水と鯉を取って親に供えるという親孝行心を感じ取ったという原因でした。

12、丁蘭は、彫刻を彫り、まるで両親がまだ生きているかのように、仕えました。

 丁蘭は漢代の人で、幼い頃に父母をなくし、まだ両親に仕える事をしていませんでした。
 長い間常に、養育してくださった恩を忘れる事ができなかったので、木に親の像を彫刻し、まるで両親がまだ生きているかのように、仕えたそうです。

 彼の妻はこれを喜ばず、丁蘭の指を針で刺したら、思いもかけない事に出血しました。 木像は丁蘭を見て、目のあたりに涙がしみている風になりました。

 丁蘭はこの状況を知って、妻と離婚したそうです。

 13、 法師はとても親孝行で、白骨をも感動させました。

 道ピ法師は唐代の人で、父親は戦場で戦死しました。  彼は自ら戦場に赴き、父親の遺骨を探しました。  白骨は沢山ったので、彼は日夜お経を読み、父に替わって懺悔しました。

 父の遺骨であると分かるように、白骨が何度か揺れ動いてくれますようにと黙祷を捧げていました。

 このように一心に黙祷を丸二日捧げていました。すると、ある白骨は何度か揺れ動きましたので、それを家に持ち帰りました。

 彼の母は自分の夫が帰ってくる夢を見、次の日には白骨が家に運ばれてきました。

 地方の官吏は朝廷にこの事を話し、父と子の忠孝をたたえたそうです。

 法師は母親が亡くなるまで仕え、その後山に入って修行をし、遂には、道を得て仙人になったそうです。


14、 楊香は14にして、虎を討ち父を救いました。

 楊香は漢代の人で、14歳の時に、父親について田んぼに行く途中、獰猛な虎に出くわしました。

 虎は父親を引きずっていこうとしました。 楊香はその時、寸鉄も帯びていませんでした。

 心中には、父親の事だけで、自分の事など全く忘れていました。 勇んで奮闘して、虎の頭を掴み、呼吸を止めました。

 楊香の他人を超える勇気と、捨て身で父を救った事の名声は、千年の後まで語り継がれ、子孫まで豊かに続いていきました。

15、蔡順は桑の実を拾い、母親を養いました。

 蔡順は漢代の人で、少年の時に父親を亡くし、母親にはとても親孝行でした。 時代は王莽の乱の時代で、飢饉の年で食料が不足していました。

 蔡順は桑の実を拾い、いつも違った食器にもって食べていました。 彼が桑の実を拾っているとき、赤眉軍は彼に問いました。

 彼が言うには 「 黒い良い実は母親に食べさせ、赤い良くない実は自分で食べます。 」

 赤眉軍は彼の親孝行を賞賛し、白米二斗と牛一頭を贈呈し、彼を親孝行させる為に家までわざわざ送り返したそうです。

  16、 陸績は6歳にして、みかんを懐に隠し、親孝行しようとしました。

 陸績は漢代の人で、6歳の時に父に連れられて九江まで袁術に会いに行きました。   袁術はみかんでもって彼らをもてなしました。

 陸績は他の人が気が付かない内に、みかんを二つ懐にしまいこみました。

 別れの時に、みかんがポロリと落ちました。

 袁術はそれを見て、彼は貪欲なのかなと疑い、言いました。 「 陸チャンは友人を訪問する時は、みかんをワザワザ持って帰るのですか? 」

 彼はひざまづいて、答えました。

 「 私の母はとても赤いみかんが好きで、母に持ち帰ってあげようとしたのです。 」

 袁術はこれを聴くと陸績の孝行心を非常にたたえたそうな。


17、 純真な孝行者の王ポウは、雷が鳴ると、墓の前で泣いたそうな。

 王ポウは晋代の人でした。  両親に対してとても親孝行でした。 母親は生前、雷鳴を聞くことを恐れていました。

 死後は山林に埋葬されました。 雷が落ちる時にはいつも、彼は墓地に跪き、土下座をして泣きながら 「 息子がここに居りますよ。 だから怖がらないで下さい。 」と言っていました。

 彼は一生この様にしていました。 その孝行心がどれ程のものであったか、読者の方々には分かりますか?

 後に王ポウが教科書を教えるとき、学生が《 詩経・蓼ガ篇 》を読み始め「 哀哀父母、生我qu労 」の一節に至ると、王ポウがいつも泣き始め、泣き止まないので、学生はいつもこの詩を読む事を諦めてしまいましたそうな。

 18、孟宗は竹を求めて泣き、冬にタケノコが生えてきました。

 孟宗は三国の時代の人で、母親は病弱でいつも病んでいました。 医療も薬も効果はありませんでした。  医者は孟宗にタケノコを煮てスープを作り飲ませれば効果があると言いました。

 しかし、冬なのでタケノコは手に入りませんでした。  彼は焦ってもなす術がありません。 そして竹林の前に行き、竹を抱いて泣きました。

 一念の誠意が通じ、突然地面からタケノコが幾つか生えてきました。  彼は喜んで家に持ち帰り、これを煮て、母に食べさせました。  すると母の病気は薬もなしに良くなったそうです。

 彼の孝行は四方に伝わり、後に官吏になり司空の位にまで登ったそうです。

 19、 王祥は結氷に伏して、母の為に鯉を求めました。

 王祥は晋代の人で、子供の頃に母を失いました。 義理の母である、朱氏は彼に対してよくしませんでした。  厳冬の凍えた時期に、義理の母親が魚を欲しがりました。

 彼は義理の母の自分に対しての印象を良くしようと思い、衣服を脱いで凍結した水面に伏し、魚が手に入るのを待っていました。

 すると、突然凍った水面が融け、鯉が二匹飛び出て来ました。  それを持ち帰って母親にあげました。

 義理の母は大層感動し、すぐに以前の非を改めました。   その後は、誠意を持って対応し、一家仲良く暮らしたそうな。

 その後、晋の武帝が即位した頃、彼は太保の官職に就いたそうです。


20、  呉猛は親を愛し、自分の身を蚊に刺させました。

 呉猛は晋代の人で、8歳にして親によく仕えていました。 家は貧しく、蚊帳もありませんでした。

 父親は安眠ができなかったので、彼は先にベッドの上に裸で寝て、蚊に刺させ、自分の血を十分に吸わせ、父が蚊に刺されないようにしました。

 呉猛の親孝行は千年の長きに語り継がれたそうな。

 23、寿昌は母を尋ねる為に、役職を捨てしまいました。

 朱寿昌は宋代の人で、7歳の時に、産みの親、劉氏が、正式な妻からの嫉妬を受けた為、家出をしてしまいました。

 その後、母と子は50年余りも別れたままでした。 宋の神宗皇帝の時、寿昌は官吏を勤めていましたが、母を尋ねる為に職を捨て陝西省に向かい、もし、母親に逢えなければ、永遠に戻らない事を誓いました。

 遂には、陝州で母親と弟に巡り逢えました。時はすでに、母が70歳の頃でした。 これは寿昌の親孝行が通じたという事で、当時の王安石や蘇ジなどは詩を書き、彼の親孝行を讃えたそうな。

 21、22、24は内容が不適切の為、敢えて省略させて頂きました。




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