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 貧乏文士の生活    1

2011-06-30 14:12:35 | Story 2 貧乏文士の生活

http://www.youtube.com/watch?v=3Nt_eg46seE

 ストーリー全体のイメージ・ソング    裘海正   愛処ン十分淚七分




     貧乏文士の生活    

            (この小説はフィクションです。)


 ● 日中文明の狭間で時代の激流にもまれながらも生き抜く男女の物語。
 













 戦前、高田馬場、早稲田大学の近くの学生向けの安居酒屋で、早稲田の文芸志望の学生達が集まって、文芸談義に花を咲かせている。

 その中に学生帽を被って議論をしている貧乏文士が居る。

 その人はなべさんと呼ばれている。

 焼酎をねぎ間、枝豆などをつまみにしながら飲んでいる。
 
 巣鴨に住む道教を信奉する貧乏文士である。

 
 なべさんは道教を信仰していたが、何分俗世間に生きる身。戒律を守る事ができない。

 世間の良識からははみ出してしまうが、道教の教義からもはみ出してしまう。 

 なべさんの文学はその自分の道教信仰と、世間の要求する枠、良識とのギャップを吐露していく文学であった。


 なべさんは文壇からはデカダン生活演技型文士と評される事が多かったが決してデカダンな性格ではなく、むしろ几帳面な性格で貧乏アパートの家賃は一度も滞納した事が無かった。独身で禁欲的な生活を送っていた。




 なべさんが旧制中学、早稲田、文士生活を始めた頃の世相は革命を思わせる物騒な御時世だった。 


 血盟団事件 【1932年(昭和7年)2月から3月にかけて】、
 5・15事件【1932年(昭和7年)】 、
 2・26事件【1936(昭和11)】
 日中戦争  【1937年7月7日から1945年9月9日】  


 当時は法華経信仰の理想に導かれた思潮が多かった。


 血盟団の井上日召、皇道派の北一輝、統制派の石原莞爾、宮沢賢治などは皆法華経信者だった。


 なべさんは心情的には北一輝の思想に最も近かった。

 が、なべさんは所詮国家主義や政治・イデオロギーなどより大衆文芸・娯楽の世界の人であったし道教信者だったので法華経の信者ではなかった。


 別に政治だとか社会運動にまで手を広げようという気は無かったのだ。


 なべさんは旧制中学の頃、当時の金子光晴や太宰治や竹久夢二などの文芸人に憧れ、文化人になる事を夢見た。  

 自分の好きな事を書き散らしてそれで生活していけるなんて夢みたいな生活だなと夢想していた。


 竹久夢二が昭和9年(1934年)9月1日に亡くなった時は、 ああ! 俺の幻想が一つ消えていった・・・ と感慨に浸った。


 芥川龍之介が自殺したのは 1927年(昭和2年)7月24日)であった。
 太宰治は相当ショックを受けたというが、なべさんはまだ若かったのでよく分からなかった。

 なべさんは太宰治は好きだったが、芥川龍之介の文学はよく理解できなかった。  


宮沢賢治が1933年9 月21日に亡くなったのを聞いた時は、多少驚いたが、なべさんは宮沢賢治に関しては余り興味が無かった。



 親が満州に渡って仕事をしていた関係で中国文化に興味を持ち、中国文学科を目指す。

 早稲田大学高等予科文科に入学した後に、中国文学の中でもとりわけ道教思想にのめりこむようになっていく。  


 何故、様々な中国文学の中の道教思想なのか?

 「老荘思想に強く惹かれる。

 何故かよく分からないが、他の思想と違って空想的で神秘性に富んでいて魅力がある。

 儒教や佛教はまともすぎる。

 自分のようなハミダシ者には似合わない。 

 俺は世間一般の風潮に嵌れないが、逆に宗教教義や僧院生活にも嵌れない。
 俺は生身の人間だ。 
 結局は自分自身の問題なのさ。 」



 大学のミニコミ系サークルで、金子光晴や太宰治や竹久夢二を真似した詩や短編小説を載せて、同人誌を発行するようになる。


 早稲田の古本屋で中国の古典に関する本をあさり、その思想や道士の思想・人生を追うような文章を書くようになる。
 時には神田神保町の本屋まで行った。


 巣鴨の襤褸アパートから早稲田までは自転車でも通えたし、路面電車ですぐだ。

 自転車では、巣鴨→大塚→護国寺→早稲田で、30分かからない。

 神田神保町へは、 巣鴨→大塚→茗荷谷→飯田橋→神田神保町で、同じ位である。


 風呂はいつも銭湯で入っていて、襤褸マンションの大家さんは江戸時代からの巣鴨の住人で、江戸っ子である。  

 巣鴨は旧中仙道の宿場町だった。 板橋あたりから川越街道と分岐する。


 なべさんの襤褸アパートから早稲田までの間は、講談社、新潮社などの大手老舗出版社や印刷会社があり、文士達ゆかりの地が集中している。

 「夏目漱石生誕之地」と刻まれた黒みかげ石の記念碑が建つ夏目坂。

 周恩来が日本留学時に暮らしていたという山吹町、矢来町。

 金子光晴が暮らしていた神楽坂赤城神社周辺。


 歩いていると石碑や看板にここは昔の文士ゆかりの地だとか書かれているのに出くわす。

 非常に文学的色彩の濃い一帯である。


 周恩来はこの頃、吉野作造の民本主義に触れ

 「 政治とは民衆の為にあるものだ。 」

 という文を読み、大いに共鳴し、生涯の座右の銘にしたという。




 時は満州国【1932年から1945年】を巡って日中対立の最中であったが、なべさんは政治には無関心を装っていた。

 だが、戦争には道教的な観点から反対している。

 
 日本はおかしな方向へと突き進んでいる。 

 欧米諸国の亜細亜侵略に対抗すべきではあるが、亜細亜諸国へ植民地主義を推し進める事には反対だ。

 中国には孔子や老子や荘子などの道徳が残されている。


 むやみやらに欧米の猿真似をしていると後で取り返しのつかない事態に陥るぞ!

 
なべさんは早稲田では、文芸志向の仲間達と交流を持つようになる。

 つねにミニコミ系サークルの部室に集まったり、学食の一角で誰かがたむろしていた。



 夢を喰って生きるような、自称芸術家の卵達である。

 殆どはハッタリだけの屑みたいな連中である。 

 だが、なべさんはそんな連中が嫌いではなく、つるんでいた。

 カメラマン・画家・ミュージシャン・映画人・・・

 成功するあてや見込みがありそうな人は一人も居なかった。

 だが、そういう人達との交流はインスピレーションの源・文章のテーマとなる。
 
 中高年の先輩がなべさんに言ってくれた事があった。



 「 人間関係ってのは、短期的に見ると損している様に見えるけど、長期的に見れば得を取っているのよ。 」



 皆が巣鴨・大塚界隈の学生向け貧乏アパートに住んでいて、困った時はお互い助け合って生活している。  

 そいつらとたむろするのは巣鴨地蔵通りの大衆食堂、居酒屋、喫茶である。


 なべさんは文芸仲間と談義している時に自分でも無意識の内にフト次のような事を言った。



 「 僕の場合はね・・・ 
 理想的な社会なんて幻想、アナキストに近い・・・
 」



 何故なべさんがそんな事を言ったのかは自分でもわからなかった。
 おそらくなべさんの直感で人生と世界の真実を見抜いていたのかもしれなかった。

 他の学生達からは、なんか変な学生が居る。
 こいつは普通とは違う事を考えて企んでいるな・・・ 
 と噂されていた。


 なべさんは大学に入って中国語を基礎から勉強し始める。

 その他、唐宋時代の詩などを読むようになる。

 
 なべさんは芸術家の卵達と安酒を飲みながら文芸評論に明け暮れていた。

 なべさんの文芸活動の目的とは何か? と尋ねられた。


 「 うん、基本は自分の道教信仰の吐露、真理の追究、道教精神を広める事・・・  
 そんなご大層な事などは考えていない。
 本当の事を言えば、自分の趣味の延長、ただ楽しければいいだけさ・・・ 」


 ところが、なべさんにはとんでもない程美しい美少女のファンがつくようになる。

 これは仲間達にとっても予想外な事であった。 

 なべさんはどう見ても女性にもてるようななりではない。

 あのなべさんの辛気臭い道教文学に、あんな不釣合いな美少女のファンがつくとは・・・


 まるで寅さんとマドンナみたいな不釣合いである。

 ある芸術家仲間が「 女性にもてる事は創作の活動力となりますか? 」と尋ねてみた事があった。

 なべさん「 俺は元々、信仰が基礎だから女性にもてるなんて考えた事もないよ。

 だけど、そういうファンが居れば当然、がんばろうという気にもなるわな・・・ 
 ハッ、ハッ、ハッ・・・ 」


 
 なべさんは道教信仰を生活の中で実践し、世間の軍国主義的な風潮には無頓着だった。
 世間のルールや良識から外れていった。 
 当然、世間からは非国民扱いを受け破綻者と見られていた。


 だが、なべさんは

 「 世間の風潮が怖くて道教文士なんてやっていられるかい?!
 そんなものが怖い位なら最初からこんな生活なんてしてないわ!
 俺は不良の破綻者で結構さ! 」

 と一向に気にせずに文士生活を続けていた。



 だが、何故その美少女はなべさんの道教文学のどの点に魅力を感じているのだろうか?

 「 なべさんの短編小説や詩ってのは、今の日本の他の作家とは全然違う。
 そこが面白い。 とても空想的でロマンティックだわ。 」



 なべさんは若い頃から、独特の奇妙な特徴があった。
 それは自分が読んだり聞いたりした話に異様な位影響を受けてしまうという事であった。

 それは言動や生活様式全てに亘った。

 しかもそれらは全て日本の社会風潮とは全く関係の無い中国の古典だったり、道教思想だったり仏教だったり、当時の軍国主義的風潮から見れば異端とみなされるようなものばかりであった。 

 というよりそもそも普通の日本人が聞いた事もないような思想ばかりであった。



 周りの人達は、なべさんがどこに情報源があるのか首をかしげていた。

 どうやら古本屋や中国人留学生から手に入れているらしかった。

 なべさんはとある経路から中国仏教・道教・儒教の箴言集を手に入れた。

 中国語で書かれたもので、なべさんは辞書をひきながらなんとか読みこなしていた。


 なべさんは人生の節目・節目、又困った時、挫折・失敗・人々の裏切り、人生の岐路などにぶち当たった時には必ず、その書物を手にとって、そこに書いてある通りに選択をしてきた。


 それどころか、自分自身が書いた文章、小説にそのまま影響を受けてしまうのであった。  

 文章や小説を書く事によって、自分自身の思想や方向性を見出し、それに影響を受けて生活していくという点で、創作活動と生活がごちゃまぜになってしまうという、典型的な生活演技型文士であった。


 それとなべさんには天使と悪魔のささやきに導かれていた。
 ひらめきと言ってもいい天使と悪魔のささやきに導かれていた。


 もう一つなべさんの人格・文学には特異な点があった。 
 それはなべさん個人的人生体験から来るものであった。

 それは、一般世間から役立たずとして軽蔑・無視されるような人々の意見を、偉い人、有名な人の意見より尊重するという点だった。


 なべさんは若い頃に、学校教育、学校の成績では落ちこぼれとみなされるような生徒程、大人社会の偽善・茶番あるいは人生の本質を見抜いたような事をボソッと言うという事を何度も経験してきた。   

 そして学校教育の優等生なんて唯主体性も無く、周囲に流されているだけだという場面も嫌という程見てきた。


 なべさんは今までの人生経験で

「 世間で軽蔑されているような人の方が余程、人生と世の中の正体・本質を見抜いているものなのだ。

 学校教育の落ちコボレは、世の中は本当は学校で教えられるようなものではないという事を直感的に見抜いているのだ。


  エリートみたいなのは、学問や理論の言葉尻だけで、人生や世の中ってのはそんな屁理屈で成り立っている訳ではないという事に気がつかず、乗せられ易い騙され易い人達なのだ。 」

 という独特のものの見方をしていた。


 「 世間で偉いとみなされている政治家・大学教授・財界経営者や有名な文化人達は、自分達の地位・利益・名誉の為に嘘をつかなければならない立場にある。 

 だからそういった人の言う事なんて信じられない。 
 
 逆に世間から軽蔑されているようなただのおじさんの言う事の方が余程信じるに値するものだ・・・  

 なぜなら、無名の人は嘘をつく必要がないからなんだ。


 俺は大学や学者連中なんて信用しない。
 あいつ等、自分自身よく分かっていない事を偉そうに学生に教えていやがる。
 しかも高い学費をとりながら。

 学生は大学で教わった事なんて社会に出たらどこにも存在しないという事に後で気が付くだけさ。   」




 そしてなべさんの文学のテーマは、一般世間とは正反対な視点からのものばかりで、描く題材も世間の誰もが下らないとして相手にもしないような子供染みた馬鹿げた題材を選んでばかりいた。


 「 俺には世間の人々が必死になって追求しているものなんて、唯のごみくずにしか見えないのさ。 

 人々を動かしているもの、なんだかんだ言って結局は金じゃないか!

 俺はそれ以上のものを求めているのさ。  
 世間の人々が利益にならないといって見向きもしないようなもの。

 安居酒屋に飾られているひょっとこやおかめのお面みたいなものにしか生甲斐を感じられないような男なのさ・・・ 

 それこそ、老荘思想の説く所の無用の用さ。  」



 なべさんある仲間から社会に対する無責任・不誠実・矛盾などを指摘された。

 なべさんは答えた。

「 俺はあらゆる矛盾を恐れない。
 それどころか敢えて矛盾に突き進んでいく。
 そうしてあらゆる矛盾を乗り越え、超越していく・・・ 
 
 俺の社会に対する無責任・不誠実・矛盾なんて政治家や財界や世の大人達に比べたら微々たるものさ。

 何故俺だけがそんな事を気にしなきゃならない訳? 」


 なべさんは世の中の大人社会全般を毛嫌いしていた。
 あんな連中は全ていかさま連中だという事を見抜いていたのだ・・・


 仲間と文芸評論をしている時に、なべさんは語る。

 「 中国人留学生が、『日本の作家は何でこんなに自殺が多いの?
 中国では自殺とは逃げだと考えられています。』と言っていた。
 俺は日本の作家や芸術家の生涯を沢山追跡調査して一つの事に気が付いた。 

 それは純情・誠実な人程自殺してしまうという事だ。
 年とって生き延びている奴ってのは、皆化け物・やくざみたいな連中じゃないか。 

 そういう奴等は平気でイカサマをする事ができる。
 自分もファンも欺ける。
 自分の創作活動を金儲けと割り切ることができる奴等は長生きしている。 

  自殺してしまう文芸人は皆、誠実過ぎて純粋な奴ばかりじゃないか・・・  」
 

 ある時は、文芸仲間で酒を飲みながら文芸評論をしている内に些細な事から分裂し、半年にも及ぶ内ゲバみたいな事が起こる。

 なべさんは非暴力主義に徹したが、内ゲバみたいな揉め事に巻き込まれ相当な精神的被害にあった。


 だが、その時にも例の箴言集を引き出し


「 世の中の辛酸を嘗めた事がない男は真の男とはいえまい。 」

「 世の辛苦を経験した事がない作家は、人の心を打つような文章は書けまい。 」 


という言葉を見つけ、自分自身を慰めた。




 なべさんは文芸仲間と道教の薀蓄を語っていた。

 「 俺の友人で中国拳法をやっている人が居るんだけど、その人がこんな事を言っていたんだ。
 

 『 老子の事を悪く言う人は居ない。 だがある人は老子ってのは嘘吐きだという。 』


 魯迅は道教についてこう書いている。

 『 中国文化の根底は道教が源となっている事がわかれば、中国文化をハッキリ理解する事ができる。 』

 『 中国人で道士の悪口を言う人は居ない。 』 



  俺の他の友人で関西のお寺の息子が居たんだけど、ヒンドゥー教の事を話していたら、『 俺はヒンドゥー教ってのは信じない・・・ 』と言ったんだ。 

 俺はその時はそういった人達の言葉をそれ程気に留めていなかったけど、後々になってそういう人達の言った事をよく思い出すんだ。  

 ああ、あいつ等の言っていた事にも一理はあるんだなって・・・  」

 「 つまり宗教なんて信じられないと? 」

 「 信心も程ほどにしておいた方がいいんじゃないかなって。

 つまり、皆一理はあってその人の視点から見たら正しいんじゃないかなってね。
 俗人は俗人なりの見識がある。 

 でも、宗教が信じられないとなると一体何を信じられる?

 何も無いんだよ!   信じられるものなんて何もない。



 以前、たまたま話した男の人が居たんだ。
 その人はもうすぐ結婚するといっていた。
 そして子供もつくるつもりだと言っていた。

 俺はこんな軍国主義的な世の中で子供なんてつくって戦場へ送るつもりかい?
 といさめたんだ。 
 どうせ聞く耳なんて持たないとは思っていたがね。


 その人は愛だとかなんだとか戯言を言っていたから俺は

『 愛なんてどこにもないよ。憎しみだけだよ。』

 と言ってやったんだ。

 これも聞く耳なんて持ってないとは思っていたがね。」



 早稲田では、四年で卒業してしまうような学生は大した人物にはなれないというジンクスめいたものがあった。  
 留年を繰り返してやっと卒業するのはまだまし。 
 中退が一番大成するという。


 実際、早稲田出身の文芸人を見ていると、中退者の方が四年で卒業するよりも大物が多いという風に思われていた。


 実際、なべさんが憧れている文芸人達は皆、学校は途中で辞めて独学で身に付けた人達ばかりであった。 
 金子光晴、太宰治、竹久夢二、魯迅・・・  
 

 「 だから、不良は不良で独学で身に付けるべきなのさ。
 学校で身に付くものじゃないのよ・・・ 」


 なべさんは体制の特高(特別高等警察)という日本ファシズムの傀儡・手先に 左翼系アナキスト という嫌疑を受けていた。

 事件を起こした訳ではないが、目をつけられていた。


 なべさんは例の箴言集を引き出す。 
 そこで

「 いつもビクビクオドオドしながら生活していれば、悪い事は起こらないものだ。 」という箴言を見出す。 

 「 そうか、放埓は油断を生み出し、そこから災いが生ずる。  常に周囲を警戒し、無難に暮らしていこう。 」と思う。



 「 しっかし、権力側の犬ってのは魂を売り渡しているせいか酷い顔つき・表情をしているね。

 俺、鏡見て自分があんな顔つきしていたら自己嫌悪に陥って自殺しかねないよ。 」


 「 夢や理想、信念を追いかけて生きる事はもともと命がけなのさ。
 遊び半分でやろうとするのなら、最初からやめた方がいい。

 もし自分の信念を貫こうとするのなら、世間の風潮や世間体なんて一々相手にしていられるかい?  

 善良な一般市民の良識的な生活様式なんてできるかい?   
 そんなもの一々気にして合わせていたら、結局は体制のカモになるしかないんだ!


 博打で本当に儲けた人は居ない。
 儲かるのは胴元だけだという。
 博打ってのは、最初に小さく儲けさせていく。
 そして調子に乗せていく。  
 そして調子に乗った所でどかんと損をさせる。   
 これが胴元が博徒をカモにする王道さ。


 国家だってこれと同じさ。


 世間で悪いと思われている道を敢えて突き進んでいく。
 それは当然死ぬ覚悟が必要になってくる。 」 



 なべさんの処女作は早稲田の同人誌に書いた詩や短編小説や新たに書き足したもの、今まで書き溜めておいたものなどをまとめてパンフレットにしたものだった。 
 自費出版だった。 

 バイト代と親のお金でまかなった。 
 パンフレットの表紙は、文芸仲間の画家に頼み大正ロマン風の情緒に富む絵だった。


 知人や文芸仲間に配布し、書店に置いてもらった。



 例の美少女のファンは喜んだ。

 「 美少女ってのは表面は美しいけど、頭の中身は空っぽなものさ。
 彼女は自分には肝心なモノが欠けている事に薄々気が付いている。

 自分に欠けているものを無意識の内に俺の文学の中に見出して自分に欠けている点を補おうとしているのさ。 」


 なべさんにはかつて文学に導いてくれた人が居た。
 その人はたまたま知り合った中年男性で、なべさんと少し話したら

「 君には文学の素質があるかも知れない。 何か文章を書いてみたらどうだい? 」と言ってくれたのだ。


 なべさんはそれまで文学の世界というものをとても胡散臭い世界だと思っていた。  

 どうと言うことない事をもったいぶって書いて、読者をたぶらかしている。 

 あんなものに騙されて喜んでいる奴等の気が知れないと思っていた。
  
 それに例え自分が文章を書いたってそんなもの読んでくれる人なんているのかな? と思った。


 ところが、なべさんの文章を読んでくれる人達が居たのだ!



 パンフレット発行後は、早稲田のミニコミ系サークル、文芸仲間で弟子ができた。

 だが、なべさんは書き方をひとつひとつ教えるという事はしなかった。

 弟子が書いてきた詩や短編小説にいくつかコメントし、指摘を加えるという事位しかしなかった。

 「 文章ってのは究極的に言えば、本人の人格の問題になる。

 文は人なりというが、自分で独自の視点と書き方を見つけなければならない。
 俺が教えてしまうと、俺の真似にしかならない。 

それに俺を表面的に真似したって内面の精神を真似する事はできないのだ。
 俺には弟子本来の持ち味を引き出してあげる事位しかできない。

 だから俺はよく人格を高める事を勧めているのだ。 
 文学ってのは高尚な精神の発露なんだ。 

 まあ、基本的な知識や手法ってのは絶対に必要だ。
 何もない所から産まれるという事は無いからな・・・  」



 日本は昔から漢学が盛んで、江戸時代には朱子学や陽明学などがほぼ国教的な地位にまで登りつめた。  

 御茶ノ水には湯島聖堂もある。


 だが、老荘思想や道教は実用性に欠け、支配者層にとっては役に立たない世捨て人の思想であり、日本人には余り理解されず受け入れられなかった。


 漢文の折り返し点やレ点などは中国語の文法を知らない人々の為の茶番で、解釈も原文の真意から外れて伝えられている事の方が多かった。



 なべさんは江戸の元禄文化や末期の西洋文明が到来する以前の日本の大衆文芸に親しみ、それらが根っこにあった。

 それに大正ロマンの情緒と道教思想が入り混じったのが、なべさんの文学であった。



 日本は明治維新以来、富国強兵、脱亜入欧、欧米に追いつけ追い越せでやってきたけど、欧米文明の影響で日本古来の情緒がどんどん失われていって、今ではその名残しか見られなくなってしまった。  

 文芸ではどんどんつまらなくなっていってしまっている。 


 一方フランス人達は日本古来の美意識を高く評価しているのだが、日本人はその事に気が付かない。



 「 日本の体制派はよく『 日本人である事を誇りに思え。 』なんて言うけど、俺はむしろ日本人として生まれた事を恥と思っている。

 日本人なんて体制多数派に迎合するだけの犬だ! 

 強い方、金のある方ばかりに媚び擦り寄り、逆に弱い立場の人達には威権高になる奴隷民族だ! 

 欧米の猿真似ばかりする物まね猿じゃないか!    


 私は自分が日本人である事に自己嫌悪を感じる。

 生んだ両親に対してはむしろ腹が立つ。


 ある人と最近の日本の風潮を話していたんだ。

 俺は『 最近の日本人は野獣みたいだ。 』と言ったら彼は何と答えたと思う?

 『 人間ってのはもともと野獣なんですよ。 』と平然と答えたんだ。

 野獣は征服できるが、人間の野獣性はどうしたら征服する事ができる? 」
 

ある時、なべさんの作風を一変させてしまうような事が起こる。

 神田神保町の洋書店で欧米の空疎なペーパーバックの本を暇つぶしにめくっていたら次の文章を見つけたのだ。




 戦争なんかしているより、女の子と遊んでいる方が遥かにいい。




 なべさんはこの文章を読んでまさに我が意を得たり! と思わず飛び跳ねた程であった。


 これからはこの至高の教えを文学によって伝えていく事が俺の天命だ。


 この後は、なべさんは軍国的な風潮に反抗するために敢えて不道徳な詩を書き連ねるようになっていく。

 それが当時の状況に対するなべさんのせめてもの抵抗であった。



 たとえば次のような和歌・・・






 


●  君の事  忘れないよと  ささやくと  感動したと  紅梅(ホン・メイ)が言う


●  紅梅(ホン・メイ)が  憂鬱そうな  僕を見て  「 私と会うのに  そんな顔して・・・ 」


●  「 僕たちの  間の愛は  永遠さ 」「 あなたドンドン  口うまくなる・・・ 」


●  「わたくしが  一番信用  置けぬのは  男の口よ」と  彼女は言った


●  王英(ワン・イン)が  口紅ついた  僕を見て  「女性だったら  きっと綺麗ヨ」


●  今までも  色々苦悩  したけれど  君の笑顔で  全てふきとぶ


●  「 王琳(ワン・リン)が  僕の好みと  言うけれど  それじゃ私は  どうなっちゃうの?! 」


●  今日はヒゲ  きちんと剃って  来てるけど  ヒゲある時も  なかなかいいわ


●  半年も  会わなかったら  わたしなど  嫌いになったと  うたがってたわ


●  そんなこと  ありえないよと  あのときに  折った折り鶴  再び見せる


●  そのときに  彼女の瞳  輝いて  ずっとわたしを  おもってたのね  





●  拾七じゃ  まだ子供ねと  尋ねると  拾八とみてと  彼女は言った


●  王琳(ワンリン)の  林檎のほっぺ(苹果脸)  キスしたら  甘く酸っぱい  香りしたんだ


●  夢霞(モンシア)の  あわくせつない  ときめきは  青春時代の  一ページなり
 

●  可馨(クーシン)の  マシュマロみたいな  くちびるは  とろけるような  味がしました。。。


●  可馨(クーシン)が  ティッシュで拭いた  キスマーク  持って帰って  一生取っとく


●  可馨(クーシン)の  テーブル落ちた  髪の毛を  ノートに貼って  記念にしとく


●  呉雪(ウーシュエ)と  ともに誓った  約束は  今になっても  果たせないまま・・・


●  亭亭(ティンティン)と  あの日交わした  約束は  バラ色染まる  まぼろしのにじ


●  あのころは  やさしい女性(ひと)と  想いきや  実はつめたい  女性(ひと)だったのね


●  ごめんねと  あやまらなければ  いけないな  いままで会った  たくさんの女性(ひと)


●  ありがとう  感謝しなくちゃ  ならないな  いままで会った  たくさんの友


●  許影(シュー・イン)の  AQUAの様な  瞳から  シルクロードへ  つながって行く・・・





●  劉艶(リウ・イェン)と  僕は太陽  君は月  照らしてく仲  誓いあう春 


●  孫麗(スン・リー)と  僕は玄宗  君は貴妃  浮世は忘れ  国は傾く


●  金丹(ジン・ダン)は  なんでこんなに  綺麗なの  電影明星  見てる様だね・・・


●  李娜(リー・ナー)も  今はどこかで  過ごしてる  平凡だけど  幸せな日々


●  雲海(ユン・ハイ)に  君とぷかぷか  浮かんでる  峨眉山(オーメイ・シャン)の  山頂付近


●  わたくしは  うまれたときから  おとこみたい  なんでなのかは  わからないけど


●  あなたって  カッコいいのに  ワザワザと  帽子かぶって  隠してるのね




 なべさんは文学賞や中央の文壇を全く気にしていなかった。

 「 文学には絶対なんて存在しない。

 どちらかが好きかという個人的相対的な問題だ。 

 文学の価値ってのは結局の所、自分自身が決めるしかないんだ。

 俺の場合は、自分自身が最高と思えるかどうかだ。

 極論すれば自分自身が最高と思えれば、全世界が無視しようと最悪だと言おうと構わないんだ。 

 まあもちろん他に共鳴してくれる人が出てくればうれしいけど。 」


 とは言っているものの、なべさんはファンや世間がどう見ているか、どう評価するかという事を常に意識していた。

 他の人達は諌めた。

 「 もし文芸を職業とするのなら、そんな悠長な事は言ってられませんよ。
 出版の編集者、書店、読者からそっぽをむかれたらもう御仕舞の世界ですからね。 」


 夢を追ったり、自分の信念を追求する人々に対して、日本社会は非常に冷たい。

 なべさんもどれだけ周りの人から無理解・軽蔑・嘲笑・嫉妬などを受けてきたか分からない。


 「 俺が憧れている先輩文芸人にしたって、どれ程周囲の人々から迫害されてきたか分からない。

 だが、先輩達もそういう迫害に耐え抜いて創作活動を続けてきたんだ・・・  

 だからこの程度でへこたれちゃ駄目だ。
 ちょこっと位、何か言われて妥協する信念なんて、そんなもの本物じゃない。
 そんなんだったらどこへ行っても通用しない。 」



 早稲田は二年程在籍していたが、結局は中退してしまった。 

 在籍していても、文芸の仲間と文芸談義をしたりして授業には余り出席せず、片言の中国語と文学史程度しか学んでいなかった。



 なべさんは処女作から、マイナーミニコミ同人誌、中小出版社などに雑文を寄稿したり出版したりしたが、何しろ題材が題材だけに売れ行きはサッパリだった。

 収入の為に信念を曲げるという事が大嫌いなのだ。 

 だが、一部の文学青年、文学志望の若い女性などには口コミで根強い人気が広まっていく。


 「 なべさんの作風は今の日本の文壇や中央の権威とは全く違う。
 馬鹿馬鹿し過ぎて面白い。 」


 なべさんは言う。

「 文芸仲間の連中は、もっと売れ筋を狙ったり、日本社会に受けるような題材を考えて選んだ方がいいよだとか、文壇や中央に寄り添った方がいいとか言う人も居る。

 だが、俺はメジャーになろうとは思わない。 作風も生活様式も自分本来のままでいい。 」



 なべさんは収入は衣食住が揃って、好きな文芸作品が買える程度でいい、道教信仰を生活で実践していくという信念を貫くこそが大事だという主義だった。

 独身主義だったので、自分一人暮らしていける程度の収入があればいい。 

 文士では生活できずに、屈辱的な雑役をする事も多かったが、なべさんは黙々とこなした。 

 もし本当に生活に行き詰ったら飢え死にする覚悟もあった。



 文芸仲間となべさんの襤褸アパートで談義をしている。

 「 日本の文学ってのは、欧米の文学に比べてはっきりした物言いを嫌う。○か×かと言い切らない。

 欧米の哲学は白黒をハッキリさせる。」

 「 何でですかね? 」

 「 それは歴史的伝統的な起源があるからだと思う。

 日本文学も古事記、日本書紀から始まり源氏物語や枕草子みたいのがあって、先輩のを真似しているんだ。

 逆に日本人は欧米人の事を見ると、余りに白黒をハッキリさせたがるんで、物事をそんなに簡単に割り切っていいものだろうか?と不安になる。

 良い悪いってのはそんなに単純なものではない。

 良いと思われるものにも弊害もある。

 悪いといって切り捨てるものの中にも善の可能性があるのではないかと・・・ 」

 

 仲間に中国の事をどう思うか?と尋ねられる。

 「 うん、中国っていう国はある意味、可哀想な国だね。
 一方には中国4000年にも及ぶ伝統文化がある。
 文字文化、封建制度によって押し潰されてきた人々。 

 一方、欧米の侵略に対しては、現実に起きている事より科挙の文字文化秩序を尊び、伝統文化を保護していて対応できない。 


 俺は中国文明の良さも悪さも知っているし日本文明の良い点も悪い点も知っているが、それでも結局は日本の方がまだいい。 
 何故なら、日本には天皇、侍という文化があるからだ。


 中国人なら自由を語る事はできない、自由を語るのなら中国人である事をやめよ。とも言うが、日本人はどんな低い生まれでも自分の信念によって文化を創り上げる事ができる。

 そして失敗したら腹切という文化もある・・・ 

 これは世界中のどこにも無い素晴らしい文明文化だと思うよ。

 ただ、中国文明にも他の世界にはない優れた点もある。
 それは破綻しにくい文明であるという事だ。
 欧米や日本は破綻しやすい文明だ。 


 日本に来ている中国人留学生はよくこんな事を言う。

 中国に居た頃は、日本文化とは全て中国から来たものであると教わっていたが、日本に来たら、日本文化と中国文化は全く違ったものだと分かる。
 
 こんな物は中国には絶対に無い物が沢山あると。


 同じ中国人にも色々な人が居る。

 日本の華僑はどちらかというと中華民国つまり国民党側を支持している人が多い。
 大陸の人でもよく我々の地方という。

 地方によって言葉も文化も相当に異なる。 」


 「 その中華民国と中国ってのはどう違うんですか? 」


 「 うん、これが相当に複雑で俺も詳しい事はよく分からないが、簡単に言うと西太后が17カ国に宣戦布告して故宮に連合軍が進行し、西太后は裏門から逃げてその後の消息は不明。

 清朝最後の皇帝溥儀は満州国に連行される。  

 その後、中華民国というのができるが、しばらくすると毛沢東の共産党の方が優勢となる。  

 その後中華民国側は国民党として残り、共産党とずっと抗争を続ける。

 アメリカは国民党にテコ入れする。 

 その後武力に勝る共産党が優勢となるが、国民党側はいまだに大陸と台湾は中華民国の領土だと主張している。 」


 「 そうとう訳が分かりませんね・・・ 」


 「 うん、訳が分からないんだ。 」




 そう話している内に、文芸仲間が部屋の隅に盗聴器が付けられている事を発見する。

 どうやらなべさんの異端思想は特高からもマークされているらしい。

 
 そう考えて思い起こせば、普段も巣鴨界隈で文芸談義している喫茶などで私服警官などスパイに盗聴されていた可能性も高い。

 これからは身辺を十分に注意しながら談義しなければ。




 
 日本は遂に真珠湾攻撃【1941/12/07】から英米との全面戦争に突入していった。


 「 日中戦争、英米との戦争・・・  
 日本は一体どうなるんでしょうね? 
 戦争の結末はどうなるんでしょうね?   」

 「 人生、時には時代風潮に流される事も必要だ。 
 歴史には必然的な因果関係がある。  

 周りにまかせていれば、目的地には辿り着けるし、必要なものも自然とそろっているものさ・・・ 」


 「 詩人ってのは、世界とか物事を何でもロマンティックに見ようとする。
 時には現実的側面を無視してまでも。

 詩人ってのは例えば、ある魅力的な女性を讃えようとすると、実際にその女性と結婚しようとは思わなくても、賛美する。 

 現実の女性や結婚生活なんてそんなに理想的でも綺麗なものでもない。   

 俺は以前、物流の経営者みたいな人と交流していた頃があったんだけど、その人は見るもの聞くものなんでも、経済効率的なものの見方をするんだ。

 あの装飾だって実際には塗料だとか色んなお金がかかっているんだみたいな事ばかり言っている。  

 遊んでいても、こんな事してていいんかいみたいな。   

 だから俺ともう一人の奴は、あの人の話は面白くないと言い合ったものさ。 

 もう一人の奴は俺の事をあの人面白いとよく言っていた。


 逆に俺は、何でも情緒的なモノの見方をする。

 現実的計算なんて一切無視して、漁村を見れば、海だとか船だとか漁民の呑気な生活に空想を馳せる。 

 襤褸小屋を見れば、そこに込められた歳月や人々の喜怒哀楽に思いを馳せる。

 実際にそこで生活をしている人は色々問題を抱えているかもしれない。
 が、そんな事俺の知った事じゃない。 

 俺を文学に導いてくれた中年男性も俺のそんな所を見て、文学的な素質があるんじゃないかと言ってくれたんだと思う。  

 だけど、そんな俺を子供じみた無責任な奴だと言う人もいる。 」



 こんななべさんにも恋愛めいた女性が現れたが、なべさんが独身主義で道教信仰と創作活動だけに一生捧げるという決心を知ると自然に離れていってしまった。


 ところが、なべさんの作風は女性の出現によって作風が変化していった。
 その相手は文学少女だったり、女性ファンだったりした。


 文芸仲間は「 何だよ。なべさんは道教信仰の実践とかいいながら、女で作風が変わっていっているじゃないか?! 」と驚いていた。

 その相手の女性の魅力を賛美したり、逆にワザワザその女性を怒らせるような事を書いて、気を惹こうとする作風になった。

 
 それはなべさんの育った境遇から来た歪んだ精神の顕れだったようだ。


 なべさんは子供の頃から、気に入った女性が現れると、素直に愛情表現ができないのか、相手に意地悪をしてしまうという奇妙な傾向があった。

 そしてその女性は泣いてしまう事もあった。

 成人後も意中の女性に対して、敢えて他の女性を賛美したり親切にしたりという歪んだ愛情表現をするようになっていた。 

 そういう風にすれば、相手の女性の気を惹けると勘違いしているらしかった。


 なべさんがそんな事をしている間、日本は大本営発表で

 連戦連勝、アメリカ巡洋艦2隻撃沈!   駆逐艦大破!

 などの号外が街中で配られていた。

 なべさんの周りでも近くの若者や大人が赤紙で徴兵され、「 御国の為に死んで来い。 」と武運長久を祈られながら出征していった。


 なべさんはそういった風潮に嫌気がさすと、巣鴨からお岩通りを通って、駒込から東京帝大、その後谷根千まで散歩に行った。

 谷中の屋台で焼酎をあおり、西日暮里の駄菓子屋横丁まで行って、巣鴨へ戻った。

 江戸情緒に親しむ事が、当時の状況に対しての現実逃避だった。




 文芸仲間の中には、ノイローゼになってしまう人も出てくる。

 「 精神の病ってのは、本人じゃなきゃその苦しさは分からない。
 本人にしか分からない理由ってものがある。 」

 多くの文芸仲間がアイデンティティーと作風と時代風潮の変化の間でバランスを取ることが難しくなってパニックになりそうだった。

 多くの人は、次第に文芸生活、文芸活動から離れていった・・・

 訳が分からなくなって廃人みたいになってしまった人、普通の仕事する生活をするようになっていった人。

 死んでしまった人も居る。


 文芸理論や時代の風潮の激流の中で自分自身を見失いアイデンティティー・クライシスに陥ってしまう人も多かった。 

 欧米志向、戦争、アカデミズム・・・  

 東京は元々の江戸情緒、日本情緒から欧米の影響・流入などで殆どカオスに近かった。


 その頃の日本の多くの文士達がヒロポンなどの薬を使っているのは公然の事実であった。

 戦前戦中の日本文学はドラッグの産物であったのだ。

 実際、そんな世相の中で文学を書くことなんてドラッグでも使わなきゃ気が狂いそうであった。


 そんな中でも、なべさんは全くドラッグの類は使っていなかった。

 それはなべさんの体質が依存性が少ない点、道教信仰で自分をしっかり持っていたからである。

 作風も生活様式も世相に関係無く、自分本来を貫いていたからであった。


 「 世間ってのは身勝手なもんさ。

 女性関係が全く無ければ無かったで、童貞だなんて非難してくる。 
 そして女性関係ができればできたで女が出来たなんて非難してくる。

  
 だから、そんなもん一切気にしないで自分の信じるように生きればいいのさ。 」


 文芸作家には自己肯定感の強い人と弱い人が居る。

 だが、ある程度の自己肯定感がなければ文芸作家などやっていられない。

 自殺してしまう人は自己否定感が強すぎる人だ。


 なべさんは自分の文学自体が自己肯定の為であった。

 自分の生活・立場を文学作品として表明する。
 そして自己を肯定していく。

 貧乏文士の生活    2

2011-06-30 14:10:55 | Story 2 貧乏文士の生活


 なべさんは巣鴨からすぐ近くの十条の篠原劇場で歌舞伎を見る事も趣味で創作のインスピレーションの源であった。


http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=Ad0V2aG7baQ&fmt=18
 
 そこで江戸っ子の知り合いができる。

 下町の江戸時代からの老舗、伝統工芸の職人、和菓子作り。

 下町にはまだ江戸からの徒弟制度・家内制産業の名残のようなものが息づいている・・・


 なべさんもそういった職人世界への憧れみたいなものがあって、自分にあった工房があったら弟子入りしたいなとも思っていた。


 浮世絵職人と知り合いになってその事を話してみたら、残念ながらなべさんはもう歳を取りすぎている。  

 若い頃から体ごと飛び込まないとプロの領域には到達しないと言われた。


 そうか・・・  なら、自分は道教文士の分野でプロの職人になろう! と決意した。


 その知り合いの中には、江戸初期からの漬物、什器を売る老舗の店員。
 人形屋、紙芝居屋さんなどが居た。   

 そういう人達は江戸時代の街道沿いに住んでいる事が殆どだった。

 江戸初期からの老舗は、元は大阪商人だそうで上方からやってきたそうだ。


 人形は埼玉産のものが多いそうで、岩槻、鴻巣から運ばれてくる。

 せんべいは草加・越谷辺りが多い。
 旧日光街道沿いである。


 人形屋は様々な部分を沢山の職人が分担していた。
 岩槻、鴻巣周辺の職人が多く、元締めが統括していた。

 みな10代後半にこの世界に入り10年位見習いの丁稚奉公をしてやっと一本立ちであった。

 一流の職人達はもうこの道一筋20年から30年のベテラン揃いであった。


 和菓子では浅草、巣鴨、大宮、川越が有名であった。




 なべさんは下町の落語みたいなのは余り好きじゃなかった。

 「関西人と東と西のお笑いの違いについて語りあった事がある。

 俺は東は権威、秩序を破壊する笑いで、西は商人の笑いだと思うと言ったんだ。

 これは江戸時代に江戸城を中心とした武家社会の秩序を下町の人が、お上に対する不満を、権威や秩序の矛盾をからかって笑いをとり精神的開放感を得ようとしたんじゃないか。 


 大阪は商人の街だったから、商人がお客に媚びたり、愛想を振りまいたり、客の気を惹いたり、不平不満をそらす誤魔化しだったりが元になっていると思う。

 まあ、どちらも庶民がコンプレックスを解消する為の手段だったと思う。


 よく東の人は吉本漫才が面白いと思わないとか、西の人が東のお笑いは分からないという。

 関西の人は、西と東のお笑いの違いを分析するなんて初めて聞いたよ。
 と驚いていたよ。  」



 「 何故俺はこんな風になってしまったのだろう? 
 一体いつ頃から・・・  

 元々、こんな風になるなんて夢にも思っていなかった。

 ただ道教の信仰を守ろうとしていただけだったのに。


 周りの人達からは  何でこんな風変わりな生活をしてるんだ?
 まともな生活をしてみたらどうだ! 

 なんて言われてしまうけれど、俺だって別にこんな生活をしたくてしている訳じゃない。 

 俺にはこんなアホな生き方しかできないんだ。 


 俺には普通の人の一生ってのに全く意味を感じられない。 

 皆、普通に大学出て、就職して結婚して家を建てて、子供を作って・・・ 老人になっても働き続けて・・・ 

 こんなの人間一人が生きた事にはならないだろ?! 

 こんな奴等がいくら居たって居なくたって別に誰も困りはしない。
 何も変わりはしないんだ。 

 世の人々はよく言う。 普通に暮らす事ができないと。
 日本って国は昔っから普通に生きる事が許されていない国なんだ。 

 人間的に自由に生きようとすれば、社会から排斥されてしまう・・・ 」

 

 ある欧米人の作家が言ったという言葉がある。
 作家の病理学的進行を示した言葉だ。

 作家ってのは初めは自分の為に書く、その後は他人の為に書く、最後はお金の為に書く。


 なべさんも徐々に周囲の人や読者の意見などに左右されるようになっていったし、生活費の為に原稿を書いた事もあった。


 読者の反応は自分が全く意図していない事を言われる事も多かった。

 そういった意見を一々聞いていると、自分本来の意図とずれてくる事もあるが、逆にその方が面白い事もある。


 だが、出版社の編集者は

「 余りファンだとか他の人の意見や感情を気にし過ぎない方がいいですよ。
 ファンの心理なんていい加減なものです。

 ちょこっとでも気に食わないとそっぽをむいてしまいます。

 一々気にしていたら自分自身を見失ってしまいますよ。 」

 と忠告してくれる。


 なべさんは4作目にあたる詩と短編小説をまとめた本を小出版社から出版した後、しばらくスランプに陥る。


 それまで暖めていたアイディアも使い果たしてしまった。

 しばらく、創作活動を止めて旅にでも出てアイデアを練って来るか。

 襤褸アパートを整理して、群馬から長野にかけて旅行して来た。

 伊香保温泉、榛名富士、榛名湖、、草津、小諸城址 懐古園。

 小諸城址 懐古園は近親相姦狂の文士、島崎藤村ゆかりの地である。

 1899年(明治32年)から6年間過ごして、小諸を描写した「千曲川のスケッチ」を書き残した。


 詩と短編小説のテーマ、アイデアを得てきた。

 
 日本にも色々な地方がある。 
 これなら書こうと思う題材にも事欠かないな・・・   
 見聞を広めておくと、後々役に立ってくる・・・

 


 その成果は作品として出来上がった。  ところが・・・


 何と、特高警察からなべさんの本が発禁処分になったという。

 理由は、なべさんの文は青少年を堕落させ、国家を弱体化させ、国益を損ねるという!



 国家権力の正体、そいつは自分たちの権益の為ならどんな悪辣・卑劣な手段も合法化・正当化されてしまうという事さ。

 これは世界中どこの国も同じだ。


 日本の戦争だって結局はこれさ。 

 その証拠に、国家の上層部の連中が戦場の最前線に行ったなんて話は聞いた事がないだろう?!


 奇麗事で駆り出されるのは、何も知らない純情で無邪気な若者達さ。


 よく愚かな若者が危険な所に態々行ってストリート・ファイトやったりして生命のスリルや躍動感を味わったりする。

 俺も若い頃、毎日平凡で退屈だから、吉原だとか闇市だとか怪しげな所をうろついたもんだった。  

 かと言って、喧嘩とかはしなかったけどな。 
 唯非日常的なスリルが欲しかっただけだ。


 だが俺は愚かだった。   一番恐ろしいのは国家権力さ。

 奴等は、とんでもなく卑劣で悪辣なことを合法的な正義として公然と行う。

 多数派として少数派を排除していく。
 監獄にぶち込んで行く。  

 これほど悪辣な連中は居ない。   
 こんな連中に比べたら街中のやくざやチンピラなんて可愛いもんさ。



 森鴎外も1911年(明治44年)4月の「文芸の主義」の中で
 
 「無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。

 学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」

 と書いている。


 この発禁処分は結局、終戦まで3年間続く事となる。

 その間は、なべさんは肉体労働、雑役などでしのぎ、屈辱の中で密かに文章を書き溜めていく。



 当時、金子光晴は一貫して反戦を唱え、息子には徴兵制を逃れさせていて、なべさんを感心させていた。

 
 太宰治は逆に、軍国主義的な風潮を全く完全に無視し、自ら女性に扮した私小説を書いたりしていてこれもなべさんは内心、凄いと思っていた。


 こうした先輩文芸人達の反骨精神や処世術に対して、なべさんはたいしたもんだと感心していた。

 自分は発禁処分になってしまっているというのに・・・


 知り合いの文芸人の中には成功している人達も居た。

 そういう人達は皆、世間で偉いと思われている方向ばかりに行きたがっていた。

 だが、なべさんは常に大衆の視点、庶民志向の姿勢を崩さなかった。

 中央、権威、文壇などとは全く係わり合いを持っていなかった。


 成功し有名になり金持ちになった文芸仲間とは自然と疎遠になっていった。

 なべさんはいわゆる上流世界や上流志向が嫌いで、下町の庶民文化レヴェルでの交流を好んだ。  

 川端康成や三島由紀夫みたいな上流世界・上流志向は鼻持ちならないと感じていた。

 なべさんの大好きな日本のことわざがある。「 馬鹿と煙は高い所に登りたがる。 」


 なべさんの愛好している金子光晴にしても太宰治にしても魯迅にしても、その時代の異端であった。   

 当時の主流の思潮から外れ、世相を批判あるいは無視し、自分の思想に従って生き、文学を書いてきた。 

 何故、なべさんはこうした異端文士達を好んでいるのか?

 それはなべさん自身がそうした異端文士であったからだ。

 なべさんは世の中、大人の世界なんてはなから信用していなかったのだ。

 本当の事、あるいは本当に価値のある事物とは常に世の中に知られていない。  
 常に主流からはぐれたような所に隠されている。

 世間の人はそうした事物は金にならない、役に立たないとして振り向こうともしない。

 そうした所にこそ本物は隠されている。 

 これがなべさんの直感であった。

 なべさんが芥川龍之介はあまり興味が無いのも、芥川文学はいわゆるまとも過ぎるという理由からだった。




 「 福沢諭吉がどっかにこんな事を書いていたんだ。

 日本人ってのは普段は威権高だけど、こちらが反撃に転じようとすると途端に腰が低くなるってね。
 これは侍文化の悪しき名残だろうね。

  日本人って日本の旧世代の悪い点を言っている癖して自分も同じになっていっちゃうんだよ・・・  

 俺はあんな老人にはなりたかないね。。。 

 老子の教えで曲則全という教えがある。

 つまり凹んだ状態、屈辱的な状態のままで居ればそれ程酷い事は起こらないという事だ。

 皆いわゆる見栄のいい所へ行きたがるんだ。

 そして余計な言動をして消えてゆく。
 目立とうとして余計な事を言ったりやったりして災難にあう。

 逆に皆から馬鹿にされるような立場に居れば災いは起こらずに自分自身でいる事ができるものさ。 


 世の中で華やかに成功している風に見える人々も舞台裏は悲哀や苦痛に満ちている。

 こんなんだったら、最初からならなきゃ良かった。
 子供にはこんな思いはさせたくないなんて思っているものさ。  」




 戦争の最中、なべさんは日本の将来にも、自分の将来にも全く当ても見込みも無い様に思えた。  

 大本営発表では連日、連戦連勝の報道がされ、

「 日本は神の国だ。 いざとなったら神風が吹く。 絶対に負ける訳無い。 」

 と言われていた。

 実際、明治維新以降、日清戦争、日露戦争から日本は敗戦を喫した事が無かった。


 だが、そんな世の中にも、日本のアジア侵略に反対したり徴兵を拒否したりする人々が居た。 
 世の人々はそういう人々を非国民扱いした。

 なべさんは、そうした現実世界や人々に徐々に興味を失っていく。

 そして益々、江戸情緒や創作活動に現実逃避するようになっていく。

 ある時、ふとインド系の経典を読んでいたら

 「 自分の運命に従って行くしかない。 」という文章を見つけ、

 「 世の中も人生もどうせなるようにしかならないものさ。 」
 と自分に言い聞かせる。





 「 なべさんは日本より中国の文物の方が詳しいくらいですね。 」

 「 多分、俺には華僑の血が流れているんだと思う。
 先祖のどこかにね。 俺の華僑のDNAや血の記憶を辿っているんだと思う。」


 なべさんは慢性的に貧乏であったが、なべさんはいわゆる贅沢には興味が無く、たまに大衆食堂でおかずを増やしたり、篠原劇場で歌舞伎を見ること位であった。

 非常に簡素な生活に耐えられた。


 普段は襤褸アパートに書斎があり、袴を着て文士暮らしをしていた。


 そんな中で唯一趣味らしい趣味がある。

 それは江戸の文物のコレクションである。

 浅草や下町で江戸風情に富む小物を買ってきて書斎に飾っていた。

 部屋には本や小物が散らかっていた。 

 だが、なべさんは部屋の中を完全に把握していた。


 道教系の迷信的な呪術の本。

 中国語で綴られたお経。

 江戸末期の洒落本・黄表紙・・・



 「 旧制中学の頃、友人がこんな事を言っていたんだ。

『 人生、金だ。 』ってね。 

 他の人もよくそんな事を言っていた。

 だが、俺はそんな言葉を聞いても何か腑に落ちないモノを感じた。

 金はいいけど、金を持ったらどうするのか? 
 人間、金だけで本当に満たされるものなのか? 

 俺はこんな世の中、生まれたくて生まれた訳じゃない。
 生きようという意志が弱い。

 何も無くなったら唯飢え死にするのを待つような人間だ。
 

 俺は若い頃から、社会から外れてしまうような人に興味を持っていた。 

 殺人犯の張り紙を見ると、その精神性に共鳴してしまうような所があった。 

 大人になったら、人間は皆殺人犯だと思うようになったんだ。
 皆、陰湿で狡猾な殺人犯なんだ。 

 殺人犯や狂人や自殺者ってのは馬鹿正直な人達なんだ。

 人間誰もが、殺人犯、狂人、自殺者を内に秘めている。
 だが、皆それを表に出さないだけだ。

 皆、滅茶苦茶な世の中で生きていく為に、心をズタズタにしながら生きているのさ。



 浅草や上野で浮浪者を見かけるとまるで自分の将来の姿を見るような気がする。

 俺は人間として、いや少なくとも社会人としての素養が決定的に欠落している。  

 俺はよく思うんだけど、社会で役者程生き生きしている人達は居ないと思うんだ。 
 だが、役者達ほど軽視されている人達も居ない。

 何故なら、体制側にとって金や国防の役に立たないどころか、妨げ撹乱する存在だからだ。

 面白い事、楽しい事、本当に意義のある事柄は皆世間では悪とみなされてしまう。 」



 
 ある中年男性が、なべさんが人間としての素養が欠落しているというのは、30にもなって女性とまともに付き合ったことが無いからじゃないかと言った。


 なべさんはこの言葉にとても感銘を受けた。

 成る程、そうなのかもしれない、イヤ、そうだったのか!



 なべさんは早速、文芸志向の中国女性と付き合い始める。

 魯迅研究サークル関連で知り合った女性である。

 相手は貧乏臭い、なべさんにぴったりお似合いの女性だった。

 古風で簡素な生活に耐えられるような女性だった。

 名前を郭麗華( グオ・リーホア )いった。


 なべさんの部屋は大分整理整頓されるようになる。



 なべさんはたまに折角書いた原稿用紙50枚程を破り捨てたり、もう駄目だ!と自暴自棄になったりして、麗華( リーホア )を心配させた。


 「いやいや、心配せんでいい。
 たまにこういう時がある。

 それは俺が天才であるという証だ。
 凡人ならこんな事はしないだろ。」




 「 中国の留学生と話していたんだ。
 日本の四字熟語は殆ど中国から来たものだと言っていた。 
 日本独自のものは俺が知る限り、我田引水と青息吐息と針小棒大と千載一遇だけだ。」

 なべさんの書斎には掛け軸が掛けてあり、そこには 細水長流 という四字熟語が書かれてある。 
 これはなべさんの座右の銘であった。

 その意味は「 細々とした水は末永く流れ続ける。 」という意味である。 
 つまり一遍で流れてしまう水は長続きしないという意味も含まれている。

 なべさんも才能やアイディアを一遍で流してしまうと、長続きしないという考えであった。 

 生活様式も又、同じである。

 贅沢をせず、簡素に生きれば末永く続いていくというとても道教的な熟語である。


 なべさんは早稲田の必修科目の体育の授業で教員が

 「 太く短くか、細く長く生きるか? 」という話をしていて、すぐに「自分は細く長くでいいや。」と思った。


 
 麗華( リーホア )はなべさんの家計簿をつけ、収入と支出を記録して管理していた。

 
 たまに几帳面ななべさんがうるさる程、几帳面な女性であった。



 なべさんは麗華( リーホア )と巣鴨の大衆食堂で、周囲に私服警官のスパイが居ないかどうか警戒しながら文芸作品の功罪について話している。


 「 例えばドストエフスキー現象というものがある。 
 ドストエフスキーの文学作品を読むととりつかれたようになってしまうという現象だ。

 俺を文学の世界に導いてくれた人もとりつかれた人で、自分がこんな風になってしまったのも半分はドストエフスキーの責任だと言っていた。 

 だが、その人はそれは作品の責任であって書いた人の責任じゃないなんて事も言っていた。

 俺は自分の文芸作品に影響を受けた人、真似した人に何か問題が起こったとしても何も責任は持てない。

 読者にも判断する能力や責任がある。     

 小説に書いてある事をそのまま真似したり、影響を受ける方がどうかしている。   
 所詮、虚構の世界だろ?!  

 読んでる方だってその位分かる筈だ。

 書いている人がどういう人なのかも調べないし、どういう意図を持っているのかも知らずに平気で乗せられてしまう日本人の民族性にはホトホトあきれるよ。

 善悪の判断も無しに周囲に流されてしまうのは、島国の農村の習性なのだろう。

 世間で有名な文化人のイカサマ性には本当にあきれる。

 いい加減な風潮や情報に乗せられて丸で自分のアイディアみたいな振りしている。   
 あいつ等は公然のペテン師だ! 」




 「 天皇についてはどう思うの? 」

 「 正直言って余り興味が無いよ。  
 俺はそういったものより庶民の文化に興味がある。
 浮世絵・文楽・歌舞伎とかさ・・・ 

 生きる事とはすなわち破壊する事である。
 何を破壊するか?  

 過去の破壊。ルールの破壊だ!  
 破壊無しには真の生命を生きる事はできない。」


 「  文芸創作に一生を賭ける人は沢山居るが、生活が成り立たず、世に知られる事も無く人生を終えてしまう人も多い。  

 いやむしろ、そういう人が大部分だろう。  
 だが、本人達はそれでも本望なのかもしれない。  

 自分の世界を創り出したのだから・・・ 
 芸術とは一種の犠牲行為なんだ。 」




 そんな事をしている間に特高からガサ入れがあった。

 天皇制や軍国主義を妨げ攪乱する思想を広めているという嫌疑からである。

 なべさんの襤褸アパートの書斎や本や江戸情緒の小物などを徹底的に調べたが、決定的な証拠は見つからなかった。  


 当時は治安維持法、国家総動員法などの制定が相次ぎ、軍国主義路線が以前にも増して露骨になってきた世相であった。

 「 贅沢は敵だ。

 「欲しがりません。勝つまでは。

 「兵隊さんは命がけ。私達はたすきがけ。

 「パーマネントはやめましょう。

 などのスローガンが至る所で見聞きされるような風潮であった。 
 英単語の外来語を使う事も禁止であった。



 そんな中で道教信仰を守りぬく事はそれこそ命がけであった。



 鉄物はやかんから釘から徴収されて軍艦になっていった。

 戦争の目的に貢献する事ばかり持てはやされ、役に立たない事は徹底的に排除されて行った。


 芸術家や道教文士みたいな人々は退廃的な放蕩者で、戦争の役に立たないどころか、むしろ妨げる邪魔で消えうせるべき存在でしかなかった。


 男で音楽をやるなどと言っただけで国賊扱いされる様な御時勢だった。



 麗華( リーホア )は、家庭は余り豊かではなかったので、貧乏暮らしには子供の頃から慣れていた。

 なべさんと同じく早稲田で国費留学で来たという。

 国文科で 樋口一葉 を研究した。


 麗華( リーホア )は、元々は中国湖南省長沙の生まれで、子供の頃両親と共に上海に行き、育ったという。

 17歳の頃、魯迅の文学を読み、文学革命を志した。
 
 そして、魯迅と同じく日本留学の道を辿って行った・・・



 
 当時の同級生が尋ねて来てなべさんの襤褸アパートを見ると呆れ返っていた。

 だが、麗華( リーホア )はなべさんとのそんな純文学・純愛的な生活に甘んじていた。

 世間の目から見れば、そんな下らない生活に青春時代を賭けてしまうのは馬鹿げたように見えるかも知れないが、麗華( リーホア )にとってはそんな事は問題にはならなかった。
 
 何故なら麗華( リーホア )は、宇野千代の恋愛至上主義や27歳で自殺してしまった悲劇の詩人北村透谷の近代的な恋愛観

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という言葉に共鳴し、

『厭世詩家と女性』を地で生きるような生活に憧れていたからであった。



 なべさんと麗華( リーホア )は、同じ文学志向でよく文学談義をした。
 中国文学と日本文学の違いはあったが。   

 麗華( リーホア )は詩を手探りで模索していた。 
 詩を創っては、なべさんに評論してもらっていた。


 そうこうしている内に、お互いの文学的嗜好が混ざり合い始め作風にも反映されるようになっていった・・・








 江戸時代の漢学はやはり儒教・佛教重視で道教は軽視というより殆ど研究されていなかった。   
 そしてその頃は漢学の研究は京都帝大に集中しているそうである。


 そうか・・・ 
 学校の国語で習う古文・漢文も江戸時代の国学・漢学から来ていたのか・・・   



 日本社会は人や物事を全て一方的な価値観で見下し、自分の方が偉いんだとか上なんだという事を強調したがる。


 だが、なべさんは皆自分の世界を持っているからそれなりに一理があるんだという見方をしていた。

 むしろ日本社会から外れた人の方に興味を持った。

 作家の目から見れば、日本社会の真面目な人・一般市民よりむしろ外れた人の方が余程面白い。


 殺人犯ならそのまま一篇の小説となる。


 
 なべさんは一般市民、社会人としての素質が全く欠落している代わりに、特殊能力が備わっていた。 

  普通の仕事や勉強は丸で駄目であったが、逆に普通の人には無い様な、情報源・イマジネーション・インスピレーションが備わっていた。 

 普通の人が思いつかないような、絶対に真似する事ができないような才能があった。

 なべさんがそういう事をしている時は、周りの人達は驚いた表情をしていた。 

 なべさんが風変わりな生活をしていても、家族や周りの人々が文句を言えないのはなべさんが稀に見せるこうしたカリスマ的能力があったからなのだ・・・

 なべさんは日本社会では屑みたいな存在ではあったが、そうした特殊能力によって何とか今まで、生き延びてきたのだ。


 恐らく、道教の神様が御慈悲として屑みたいななべさんでも残酷冷徹な日本社会の中で生きのびていけるように、そうした特殊能力を恵んで下さったのだろう・・・







 麗華( リーホア )の方も麗華( リーホア )だ。  

 詩や小説などを読んで、それをそのまま生活していって、生活を文学にするというトンでもない女性だった。

 二度と来ない青春時代をたかが恋愛や文学なぞに賭けてしまう。  

 そんなアホなしかし風流なハイカラな女性がまだ残されていたのか?!


 当時は現在の日本からは想像もつかない位、自由恋愛というのは大変不道徳ではしたない行為とみなされていたのである。 

 親達は自分の娘達が男と仲良くならないように常に目を見張っていた。 
 娘達が他の男と話していたりするだけで恋愛ではないかと疑った。



 なべさんは言う。
 「 人生でもし何か価値のあることを成し遂げたいなら、それは即ち、他の事柄は諦めなければならないという事である。

 世の中の人々は何でもかんでも求めて、何でもかんでもやりたがる人が多い。

 そんな事をしているから、結局は何も成し遂げる事ができないのだ。 」


 なべさんは発行禁止処分を喰らっていたが、麗華( リーホア )と共作した、当時の日本ファシズムを批判し、世相を皮肉るような詩を地下出版する。


 なべさんが当時の軍国主義的な風潮や、日本人達の劣根性・習性などの偽善・茶番を皮肉り、和歌・詩・短編小説にしていった。

 二人で推敲・吟味を重ね、練り上げられた。

 二人の文学的嗜好と美術的嗜好と東洋的情緒が随所にちりばめられた珠玉の傑作となった。


 それらは次のような和歌である。





 ●  威張ってりゃ  尊敬されると  勘違い  日本固有の  哀れなジジイ

 ●  何十年  働き詰めで  得たものは  ウサギ小屋での  ブスな奥さん

 ●  大阪は  いいトコだよと  言うけれど  そこにあるのは  詐欺と泥棒

 ●  大阪人  友人ならば  オモロイが  金がからむと  碌な事無し

 ●  大阪や  京都叙情を  求めても  見つかるものは  ヤクザだけなり





 名前は仮名にしてアングラ出版社から出版した。 
 費用は家の遺産をつぎ込んだ。


 闇市や学生向け古本屋、などに置いた。


 これは当時の軍国主義に反対する人々や学生に口コミで評判になり予想外のベストセラーとなり、なべさん達はかなりの印税を得た。


 体制側は気が付くとすぐに取り締まったが、その時はすでに手遅れであった。


 どうやらこんな世相の中にもなべさんと同じように軍国主義に反感を抱いている人達が沢山居るようだった。




 なべさんとは、ばれない内にかねてから憧れていた下町、浅草合羽橋の安アパートへ移り、戦争の真っ最中にしばらくの間下町の江戸情緒の中で悠々自適の純文学・純愛生活を楽しむ事ができた。


 しかし、巣鴨界隈の文芸仲間とは次第に疎遠になっていっていく。


 なべさんは金遣いはとても鷹揚な人で、与えたものは自分にいつか返されるという宗教的な金銭感覚であった。


 上野や浅草で浮浪者を見かけるとお金を渡してあげた。

 普段は簡素であったが、金の価値と使い方を心得ていた。

 無駄遣いはしないが、ここぞという時にはお金をケチらなかった。




 一方、例のなべさんファンの美少女はそんな時代の中でもなべさんの動向を気にしていた。  

 次の本はいつでるんだろう?



 なべさんは言う。

 「 俺は世の中の美男美女を見ると可哀想になる。
 何故なら世の中には美貌を見ると嫉妬心に駆られてなんとかして傷つけてやろうとする輩が出てくるからだ。 

 特に美女同士の嫉妬心程恐ろしいものは無い。

 稀な美貌をひけらかす人が出てくると世の中は傷つけようとする。
 俺は彼女の将来が心配でならない。
 だが、俺には彼女を守る能力は無い・・・ 

 この世で美男美女に生まれるというのは、本当は幸福な事だろうか?  
 それらは往々にして不幸・悲劇をもたらす事となってしまう。 

 本当に世の中は矛盾だらけだ。  」




 以前、地下出版した詩集が新たな交流をもたらす事となる。

 その詩集を読んだ左翼系反日帝団体から声がかかる。

 その日本ファシズムを皮肉るような詩は我々も大いに共感したという。

 杉並区方南町にある、左翼系団体の集会に参加してみませんかと言う。

 余り興味は無かったが、詩に共感してくれたというので合羽橋からワザワザ行って見る。

 そこではマルクスの共産主義の視点から見た日帝の資本家の搾取・日本ファシズムによる亜細亜侵略の横暴性などを批判するという主張である。


 社会主義・共産主義という思想は元々、産業革命を果たして勃興したイギリスの資本主義に対抗する理念として産まれたものだという。

 資本家が資本を投資し資本を産み出し、農村の農民を囲い込み、工場へと追い込んで働き、永遠に搾取され続ける事に対抗する理念だったという。


 だが、なべさんは日帝に反対するのは賛同できるが、その共産主義の説く理念や理想はとても信じる事ができなかった。

 その理由は、なべさんはそもそも労働者ではなかったからである。


 なべさんは資本主義も共産主義も信じられなかった。

 なべさんは世捨て人だったのである。

 資本主義も共産主義も共に人間が考え創り出したものである。

 人間が創ったものはいつかは壊れてしまうものだ。


 力のあるものは力によって滅ぶ。

 金を持つものは金によって滅ぶ。

 徳によって立つもののみが永遠であるという言葉を信じていたのだ。


 大正デモクラシーの頃から、日本でも社会主義・共産主義などを理想とする人々が増加していった。


 だが、なべさんはそっちの方には殆ど興味が無く、周りにもそういった人々は居なかった。






 麗華( リーホア )は尋ねてみる。「 あなた、道教信仰とか言っているけど、出家したりお坊さんになる事は考えた事無いの? 」


 「 鋭い質問だね。 実は若い頃、仏教のお坊さんになろうかなとも思った頃が一寸だけあった。  

 ところが、そんな事を考えている頃、丁度おじいさんが亡くなったんだ。
 そして葬式に来たお坊さんに、日本の仏教の座禅の事を質問してみようと思ったんだ。

 ところが、その時に来たお坊さんが本当にテンションが低い人で、こんな人に座禅の質問をしても仕方ないと思った程だった。

 その人はお経を形式的に唱えて、お酒を飲んですぐに帰ってしまった。

 その余りのテンションの低さに驚いて、俺はお坊さんになったり出家なんかしないで、自分の考えでこの世の中で生き抜いて行こうと密かに決意したんだ。 


 それ以外にも、完全に俗での生活を断とうと思って試してみた事があったが、様々な事情から俗の生活を断つことができないでここまで来たんだ。

 俺はこれらの事は、多分神様が俺は完全に聖なる世界・生活に行ってしまわないで俗の中で普通の暮らしをしながら、俗との関係を断たないで生きていけという天命があるんだと思っている・・・ 」



 麗華( リーホア )とはよく下町の散歩をした。
 幸田露伴が生まれたという江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)やその後移ったという浅草諏訪町。


 儒教を祭る湯島天神、商売の神様、神田明神、御徒町のアメ横、湯島天神、上野公園。

 戦時中でも下町の商店街は庶民の活気に満ち溢れていた。
 多彩な江戸情緒の名残になべさんは日本人として生まれた事を喜ぶ。 


 麗華( リーホア )はアメ横で食材を買ってきては中華料理を作ってなべさんと食べていた。


 戦前戦時中の日本人達は神社の前を通りかかると必ずお辞儀をするような信心深い民族であった。






 「 日本社会では政治イデオロギーというとすぐに右翼か左翼かに分類されてしまうが、俺は右でも左でもない。

 強いて言えばスピリチュアリズムだろう。

  皆すぐに右だとか左だとかなびいたり、レッテルを付けたり、分裂をしたりするけど、人間の思想なんてそんなに簡単に分類して割り切れるものなのだろうか?  

 右も左も元々は誰かが考えてそれに乗せられた人々の伝統から成り立っている。 

 右だとか左だとか同士で分裂して内ゲバに明け暮れている姿を見るとこの世の地獄かと思うよ。

 右だって左だってようするに理想的な社会を目指しているんだろう? 

 日本社会を暮らしやすくしたいと思っているんだろう?

 共通の目的を持っているのならお互い協力し合ったほうがいいに決まっているじゃないか?!

 だが、俺は政治には興味がない。 俺は政治的にはアナキストに近い。

 俺は若い頃から、自分の人生のイメージは少年か仙人しかなかった。

 純情無垢な少年か、枯れた老人の仙人か?!   

 途中の青春時代や中高年の脂ぎった働き盛りの自分っていうイメージがどうしても湧いて来なかったんだ。

 その後、アナキスト系の芸術系の人と知り合ったんだけど彼は批判分析能力にとても優れていたんだ。

 様々な文芸作品や作家などに関して独特の視点から鋭い奥深い批評を下していた。   

 だけどその人はアナキスト系芸術家ばかり『 頭いい。 』と評価していたんだ。



 俺はその頃はまだ日本的な古い感性が残っていたんでアナキストという言葉には悪い印象しかなかった。

 だがあれ程鋭い批評分析力がある人が『 頭いい。』と言うのならそれも又、一理があるんじゃないかって思ったんだ。

 その後、別の人にアナキストの話をしていたら『 ああ、俺元々アナキストよ。』と平然と答えたんで驚いた。

 その頃の俺にとって自分をアナキストと呼ぶ事は自分が犯罪者であると言っている事と同じような事だったんだ。 

 だがその後から、自分は別にアナキストでもいいんだと開き直るようになっていった・・・ 」






 なべさんは若い頃からお金に余裕があって気が向くと、しばしば横浜中華街へと出かけていった。

 そこで中華民国系グッズを手に入れていた。 
 書物もここから手に入れていたのだ。

 その他、華僑系の知人、大陸系の知人なども居た。

 中華街のある横浜・神戸・長崎は昔からの国際港であった。



 華僑系の知人が教えてくれた事がある。

 「 海外で華僑が沢山居るかどうかを知るには、中華系廟があるかを見ればすぐに分かる。

 廟には初等教育の中文学校がセットになってある事が多い。

 華僑は廟でよく結誼・契兄弟と呼ばれている儀式を執り行う。


 正式には  

納投名状,結兄弟誼,死生相托,吉凶相救,福禍相依,患難相依。
外人乱我兄弟者,恃投名状,必殺之!  

 という誓いがなされる。


 三国志の三結義という玄徳・関羽・張飛の義兄弟の契りがこれだ。

 多くは三人で道教系の神に線香を3本斜めに立てて、不求同生 求同死 と義兄弟の契りがなされる。

 この意味は我々は生まれた日付は違っても、同じ日に死ぬ事を願いますという意味だ。

 そして困った時はお互いに助け合いますと誓い合う。 
 海外では華僑はお互いに助け合わなければ生きていけないからだ。

 華僑の団結力はこの契りによっているのだ。  

 つまり華僑の団結と繁栄には宗教の求心力が非常に重大な役割を担っているのだ。 
 義兄弟の契りは韓国人達もするそうだ。  」





 なべさんが初めて横浜中華街を訪れたのは19位の頃であった。
 拳法衣の上衣だけ買って帰ってきた。

 話によると、同じ中国でも大陸と香港・台湾・東南亜細亜の華僑では文化が全くと言ってもいい位に相違がある。

 香港や中華民国グッズの方が、信仰・言論の自由がある為か、中国の伝統的な道教迷信や占いが残されておりとても魅力がある。

 大陸では封建制の為に、こうした迷信的な信仰は殆ど残されていない。


 なべさんは中華民国系グッズの亜細亜的迷信世界が大好きだ。




 「 華僑と大陸系と日本人との違いはありますか? 」

 「 そりゃ大有りだよ。
 華僑系の知人が居たんだけど一言で言えばとてもシタタカな連中だね。

 自分達の伝統文化に誇りを持っているし、人格的な面も見せる。
    
 人間的には普通の日本人より遥かに上手だね。

 華僑でも中国語を殆ど喋れない人も多いよ。

 もう一人の華僑の人は、家では中国語だけで日本語を話す事を禁止されていた。 
 だけどそいつは人間的には日本人に同化していて殆ど変わりが無かった。

 大陸系の女性はそいつの写真を見ると一目で

 『 この人は日本人じゃない。中国人でしょ? 』

 『 何でわかったの? 』

 『 直感。 』って言ってたよ。

 でもそいつは大陸系の学生と話していると冷笑的な態度を取るのでとてもむかついていた。

 そいつは日本人には中国人と見られるが、中国人にもやはりよそ者と見なされてしまうと嘆いていたよ。

 
 見た目では、中国人は男でも女性的な柔和な表情をしていてなで肩の人が多いのが特徴やね。  

 日本人はやくざみたいな顔つきをしている。

 台湾系はおかまみたいな女性的な男が多いね。



 俺、中国人と話していていつも思うんだけど、中国人ってのは常に客観的事実より、自分達の利権に都合のいい風に話を作り変えるんだよね・・・

 日本人はまだ客観的合理科学的なモノの見方をするんだけど、中国人の話は明らかな事実誤認・曲解が見られる。

 そして認識の過ちを指摘されても認めようとしない。  


 そして歴史的事実も自分の独特の中華思想・中華民族の利権に都合のいい風に並び替えて自分達に都合のいい未来像を作り上げる。
 
 しかも、そんな訳の分からない代物を他の民族にまで押し付けようとしてくる。

 中国人といっても、中国共産党、国民党、大陸、世界の華僑・華人・客家等色々居て分裂している。

 だが中華民族の権益という点で他の国家・民族と対峙した時には同じ中華民族としてまとまるんだ。


 世界の何処に行っても、中国五千年の伝統というアイデンティティーは無くなる事は無い。 


 中国人はどんな人でも骨の髄まで中華思想に毒されている。

 中国人の中華思想は世界中の何処へ行っても、何千年後にまでも永遠に無くなる事は無い。

 表面ではそんな事は無いよと否定していてもだ。


 そしていつか必ず世界中を中国の朝貢国とする事を夢見ているのだ。
 中国人達の生きる意味というのはこの点だけにあるといっても過言ではない。

 逆に言えば、そうやって過去の栄光にしがみついて、アイデンティティーとしてまとまって、虚ろな夢でも見ていなければ生きていけない可哀想な人々なんだ・・・   」




 「 以前、宗教が信じられないとなると信じられるものなんて何もないという話をしたけど、こんな世の中にもただ一つだけ信じられるものがある。

 それは大衆文芸作品などの、自分の夢想を表現・実現したいという純粋な欲求と、その為に払う自己犠牲の精神・行為だ。

 地獄のような世の中でも、こういったものだけは信じることができる。」



 「 日本は江戸時代から士農工商という厳しい身分制度が成立していた。
 だが、世の中にはどうしても世間のルールからはみ出していってしまう奴が出てくる。  

 社会の掟を守れない奴は容赦なく村八分にされたり首チョンパにされてきた。 
 『ベロ出しチョンマ』という民間説話も残されているほどだ。

   その中でも悪知恵の発達した奴、才能を伸ばしていった人は退廃文芸・芸能の方向へ行った。

 日本のデカタニズムもここいら辺に発祥しているのだろう。
 
 そういった知恵や才能が無くても、体力や勇気のある奴はやくざになって食いつなごうとした。

 だが、そういった世界も生存競争は過酷かつ熾烈だ。

 そういった世界からもあぶれてしまう奴は、日雇い労働者となる。

 だが、それらさえやる能力・気力も無い奴もいる。

 そうした奴は犯罪でもやるしかない。

 だが犯罪もする勇気も無ければ、もう自殺するしかない。

 だが、自殺するのさえ勇気がいる。  

 その勇気も無い奴は、成り行きに流されるままどこかで野垂れ死にするしかない。

 このように社会のアブレものでも様々な階層があり、行く末もまた様々である。    


 だが最後まで取り残された奴等に一つだけ突破口がある。  

 それは一揆・反乱だ!  」





 なべさんは華僑系の知人から教えてもらった、太歳星君という道教系の神様を奉じ始める。

 太歳星君には道符というおまじないの御札があり、書斎の壁に貼り付ける。   
 書斎の一角に小さな祭壇を設けて神像を置く。

 太歳星君とは毎年を設けて管轄し、人間の事務を観察する神将だという。

 太歳は全部で60位もの神祇がおられるという。

 これだけの神祇がひきついでこの一つの神職を統括しているので、毎年の太歳は違う。







 なべさんと麗華( リーホア )は、下町の和食の食堂で鰻を食べながら文芸談義をしている最中だ。

 「 以前俺はある人に、君は社会に対して何か発言する資格も無いんじゃないかと非難されたんだ。 

 つまり一人前の社会生活もできない癖して偉そうに世間や人々を批判なんかするなという事さ。

 俺もたまに筆を折るべきじゃないか?
 俺みたいな社会の屑は世間に対して偉そうな事を言える立場じゃないと思う事がある。

 ところが、太宰治も丁度それと同じ事を考えたというんだ。

 太宰が世間からデカダンだとか非難されるのも、太宰がいわゆる社会的にきちんとした生活をしていないからじゃないか? とね。   

 そして太宰は井伏鱒二の紹介によって結婚をしいわゆる社会的にきちんとした生活をし、作家としての地位と名声を確立すべきだと考えた。

 そうすれば、自分の書きたい事を書き散らしても、社会は非難しなくなるだろうと考えたんだ。



 ところが、家庭を持っても結局は世間の非難は収まらなかった。

 それどころか、家庭の幸福は諸悪の根源だとすら考えるようになった。

 そして逆に井伏鱒二を逆恨みするようになったんだ。

 つまり、社会に気に入られようとしても、嫌われようとしても結局何しても何を言っても、世間は相変わらず非難してくるものなのさ。

 だから、そんな社会なんて一々気にしないで、逆に嫌われるような言動だとか、全く無視して自分のやりたいようにやりゃいいって事なのさ! 」
 



 なべさんには3歳上の兄が居る。
 いわゆるまともな仕事をしていて結婚もして子供も居る。


 その子供達には「 大人になってあんな生活をして、あんな文章を書いている。」と馬鹿にされていた。 


 たまに会ったりするとドウシヨウモネエといった表情をしていた。
 もちろん言葉には出さないが・・・


 なべさんはとても強い信仰心と信念を持っていたが、兄の子供達にまでこんな態度を取られるとは少しショックを受けた。


 日本では、すでに子供の頃から社会から外れた少数派を排斥していくという偏見が植え付けられるようである・・・


 日本の風土とは恐ろしいものである。 

 社会の良識に嵌らない人間は問答無用で排除していく・・・   

 たとえ社会の風潮がどれほど間違っていようともどれほど狂っていたとしても・・・   
 しかも何も教えられていない子供にもこの公式は既に植え付けられているのだ !


 青年の頃は信念と確信と理想に満ち溢れていても、どうせ厳然たる現実にぶち当たり失望していく・・・

 青年の理想主義より老人の経験である。




 
 現実を無視した理想主義者達程、有害で恐ろしい存在は無い。
 



 
 日本ファシズムの信仰・言論の自由に対する迫害は凄まじかった。

 信仰の自由に対する迫害の最悪なものは大本事件であろう。

 1920年前後から始まる第一次大本事件。 
 1935年から始まる第二次大本事件。


 治安維持法とはもともと共産主義運動を壊滅させる目的で施行されたものであった。 
 第二次大本事件は、この治安維持法を宗教団体に適用したものであったという。

 これらによって日本ファシズムの天皇崇拝・軍国主義を強化させる事が目的であったと見られている。

 これらの事件の理由は、実質上の信教の自由を許さず、天皇崇拝による国家の統合・統制を志向していた当時の日本ファシズムにとって、大本の存在や信仰が皇室の尊崇とは相容れないものであったことがである。


 逮捕の後に大本の建造物は破壊された。

 取り調べの際には厳しい拷問が行われて、獄死者や発狂者も沢山出て、王仁三郎も度々病院に入院したという。



 山本有三は内務省の検閲を批判したが、1934 年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』の連載中止に追い込まれるなど軍部の圧迫を受ける。

 山本有三の代表的な小説である『路傍の石』(ろぼうのいし)は、1937 年に『朝日新聞』に連載を開始。

 翌1938年には『主婦の友』に「新篇」として連載していったが検閲もあり、1940 年には断筆。結局は未完のまま終わる。



 戦時中には織田作之助の長編小説「青春の逆説」が発禁処分を受ける。


 文芸銃後運動と言う、文芸作家の軍国主義礼賛を目的とした創作活動が菊池寛の提案で行われている。   

 横光利一等多くの文芸作家がこれに参画する。

 貧乏文士の生活    3

2011-06-30 14:08:39 | Story 2 貧乏文士の生活






 なべさんと麗華( リーホア )はそんな風潮から逃れるように、江戸の元禄時代・化政時代の人形浄瑠璃と歌舞伎のの研究に励んでいた。


 だが、なべさんは上方の近松門左衛門の「曽根崎心中」みたいのは好きではなかった。 

 上方の商人の腹黒い雰囲気・二枚舌的な所がなべさんの嗜好とは食い違っていた。 


 なべさんの最高のお気に入りは鶴屋南北作の「四谷怪談」である。

 この話は実話だとか、真実に基づいた作り話だという説もある。

 だが、その内容と教訓は余りにもリアルだ。


 なべさんが以前暮らしていた巣鴨はまさに四谷怪談のゆかりの地で、お岩さんの墓や事件の舞台となった場所をよく訪れていた。


 なべさんはこの話はかなりの程度真実であったと信じていた。

 劇作する際に多少の誇張や脚色はあったかもしれないが、おおむねは事実に基づいていると感じていた。


 お岩さんを裏切ったり、いびり殺したというのは日本の社会風潮そのものではないか!


 京都のブブ漬けの話がある。

 お客が来て最後にブブ漬けを勧められる。

 そして実際にブブ漬けを食べてしまうと、陰から聞こえるように

「 ほんまにブブ漬けを食べおったわ!

 とヒソヒソ話をするという話だ。


 現在でも他の地方出身者は京都ではゾッとするような事をしばしば経験させられるという。

 なべさんの京都出身の友人は「 京都の人は腹黒いですよ。
 お客が来るとその人の前では愛想いいけど、その人が帰ると途端にその人の悪口を言い始める。」と言っていた。


 他の京都の女性は「 暗黙の了解だとか空気を読まなきゃいけないという点では多分日本で一番だと思う・・・ 」と言っていた。


 だが、関西人はよく「 大阪の方が冷たい。京都の方がまだまし。
 東京が一番冷たい。」と言う。

 大阪人の友人に話を聞いてい見ると10人が10人違った事を言うのが面白い。

 だがなべさんの大阪の友人によると

「 大阪、最悪。 血も涙も無い。

 ミナミなんてヤクザや。 吉本なんて人間じゃない。

 大阪の親は子供を叱る時は『お前そんな事してると吉本いれちゃうぞ!』と脅すんや。 そうするとすぐにおとなしくなる。 」と言っていた。


 その人は大阪の話をするだけで嫌な表情をし、大阪の話も聞きたくないといった風だった。
 だが、なべさんは京都出身ではないが、ブブ漬けみたいな事は子供時代に何度も経験したという。

 同級生や近所の家に遊びに行った際、友人のお母さんが子供に御菓子をあげる時に、なべさんにも呉れるのだが、その時になべさんに聞こえるように嫌味を言うのだ。  

 あるいは障子やフスマ越しに。

 それはいくらもしない安い駄菓子なのだが、それでも嫌味を言ってくる。

 別になべさんが欲しいとも言っていないのだ。

 同様の事は、思い出すだけで3度ある。


 だがそれはなべさんの父親も同様で、なべさんが友人を家に連れてくると、友人に聞こえるように嫌味を言ってくるのだ。

 友人は「 セコイ親父だな・・・ 」と呆れていた。


 つまり、ブブ漬けとは京都だけではなく、日本の社会風潮そのものなのだ!

 子供の頃、なべさんには親友が居た。

 その両親だけは決してそういう嫌味を言わない人だった。  

 いつ遊びに行っても常に親切に接してくれたし、御菓子なども呉れた。  
 なべさんはその友人の両親には今でも感謝している。





 「 三島由紀夫が言っていた事があるんだけど、動物の中で最も美しいのは人間で、次は馬か猫だと言っていたそうだ。

 俺は馬鹿じゃないかと思う。 
 人間ほど醜い動物が他に居るだろうか?

 人間の邪悪な心に比べたら、ドブネズミやゴキブリや蚊だとかの害虫や野獣の方がまだ、有害でも醜くもないだろう。 」



 なべさんの実家と親戚はお堅い家系で、教育関係者が多くまともな人が多い。  ハミダシ者や犯罪者は一人も居ない。


 又、旧制中学時代やそれ以前のなべさんの周りの友人もまともな冷めた人ばかりで、真面目に勉強して真面目に働くという人ばかりであった。


 なべさんのように文芸作家に憧れていた友人は殆どいなかった。

 あるいは愛好していてもそれは趣味程度で職業にはしないという人ばかりであった。


 なべさんは若い頃から無軌道な所があったが、周りの友人や親戚家族にまともな人が多かったので、なべさんの無軌道を何とか修正してくれていたのだ。

 なべさんが俗世間を完全に捨て切って聖なる世界に行こうとしても、その度に親が妥協案を出してきて何とか普通の生活、まともな仕事をさせようとしていた。

 なべさんはその頃はそういった周りの人にとても感謝していた。

 といっても若い頃にはうざかったが・・・



 「 俺はずっと道教信仰と真理の探究をしてきたけど、最近思うのは結局は平凡で普通が一番幸せな事なんじゃないかなって思う。

 自分本来で居られるって事こそ最も幸せな事なんじゃないかな。  
 だから皆何だかんだいって普通の暮らしをしようとするでしょ?! 

 別にとりたてて有名でも金持ちじゃなくても偉くなくても。」



 俺はある時欧米の空疎なペーパーバックの本を読んでいた時に、道教の理想を簡潔に表現した文章を見出した。




 ● 私は自分の夢想が完全に実現する事は望まない。 私は自分が自分のままで居られる事で完全に幸福である。 




 なべさんは浅草合羽橋の安アパートの部屋の壁に、道符という道教のお守りの御札や千社札や竹久夢二グッズや夢二式美人画などを飾った。

 麗華( リーホア )も喜んだ。 

 二人には文学的嗜好にも美術的嗜好にも共通する点が多いようだ。


 なべさんは書斎に置いてある、お土産でもらった日光三猿の人形を見て

 「 見ざる言わざる聞かざるの日光の三猿の意味知ってる? 」と千春に尋ねた。

 麗華( リーホア ) 「 知らないわ。 」

 なべさん「 これはね、孔子の論語に出てくる、非礼を見ざる、言わざる、聞かざるという故事から来ていたんだ。 」

 麗華( リーホア ) 「 へえ。そうだったの! 」 

 なべさん「 江戸時代にはそれ程、漢学が重視されていたという事さ。 」




 

 「 俺は子供の頃から、作文を褒められた事が殆ど無かった。
 大学に入っても、普通の学科とかの勉強はまあいいんだけど、論文になると必ず最低点だった。  

 小学校では恩師が居たんだけど、その先生には何か書くたびに怒られていた。 
 だけど俺は怒られても唯ヘラヘラ笑っているだけで全くこたえていなかった。


 それでも世界平和の話を書いた時だけは褒められた。  

 その先生が宿題で何かについて書いて来いと言われて、学校へ登校する直前に、母親に聞いて答えた事を適当に5分位で書いたんだ。


 そんで学校の先生はその文を皆の前で読んだんだ。


 他の時には、修学旅行で夜中に他の生徒がおしゃべりをしてうるさかったんだ。
 そんで俺は怒って先生に訴えに行ったりしていた。

 後で先生に修学旅行の事を何か書きなさいと言われてその事を書いたんだ。

 学校の新聞にその話が出ていて、色んな人になべさんの文章が出ていたと言われた。  

 だけどその文章は先生が全部書き直したものだった。

 だって俺の文章は他の生徒がうるさくて

『 ギャー 』だとか『 ウヮーッ 』

 だとかの叫び声ばかりだったからだ。



 俺は子供の頃から年賀状を書くと、皆が面白がっていた。
 俺が年賀状を送ると、新学期の最初の日にそいつらが教室入ってくるとニヤニヤしながら「 お前何だよあの年賀状はよ・・・」と笑っていた。


 俺の年賀状は独り善がりで自分の論理を展開するみたいな年賀状で相手がどう感じるかなんて一切考えないような年賀状だったからだ。


 考えてみると俺の基本的な人格ってのはあの頃からあんまり変わっていないな・・・


 旧制中学の頃、友人とシナリオを書いていたんだ。

 その時に、母親にちょこっとその内容を話したんだ。
 そのストーリーとは『 やばい。 俺は豚に恋をしてしまった。 』という内容だった。
 母親はそれを聞いて『 前のよりそっちの方がいいんじゃない。』なんて言っていたんだ。 


 まあ、あの母親が居て、俺のような馬鹿息子ありといったもんだな。



 太宰治は小学生の頃から作文が巧くて先生に褒められていたんだけど、一つだけ先生達が怒る事がある事に気がついたという。

 それは本当の事を書くと怒られるという事だった。

 その内に太宰はどう書けば先生に褒められるか、怒られるかが分かって来て、わざと褒められるような文章を書くようになっていったという。


 魯迅は子供の頃、中国の学校の作文は歴史上の良い人物を貶し、悪い人物を評価すると得点が良くなったと書いている。 


 つまり学校教育なんてそんな程度の矛盾だらけのものなのさ。 

 日本の大学なんて学問を追求する為の機関ではなくなっている。

 大学ってのは、正しい事、本当の事、筋の通ったことを言ったり書いたりすると怒られる所なのさ。 


俺が太宰や魯迅と同様に気が付いた事がある。
 それは大学では自分の意見を書くと駄目だという事だ。 
 これは他の学生の評価と比較して分かった事だ。 

 自分の意見を書いては駄目で、あとがきみたいなありきたりの無い意見を書くといい点数がもらえる。 


 俺は馬鹿じゃないかと思った。
 学問や科学ってのは自分の観点を徹底的に追求して得られるものなのに、大学がこんな事をやっているなんてとあきれ果てたね。  」





 なべさんと麗華( リーホア )は当時の世相を無視するように、清談に耽っていた。

 清談とは中国の主として儒者達が乱世で、儒教思想を持っている事で迫害を受けたので、俗世間から逃れ離れた所で、老荘思想をテーマとして浮世離れした対話に耽っていた事から始まったそうな。


 なべさんは道教の無為について語る。


 「 達人の無為とは、何もしないという事ではない。 

 不必要な言動を避けよという事である。 
 自分の本来なすべき事を地道に一歩一歩こなしていればよいという事だ。 
 世の中には不必要な言動をする人が多い。

 自分の本来の立場や任務をこなさないでいて、自分のすべきではない言動、自分本来の役割ではないことに無駄なエネルギーを注いでいる。

 達人は何も起こらない事を福となす。 
 何もしないでブラブラしている事を仙となす。


 快楽・幸福を盲目的に追求する事はせずに、むしろ不愉快・不幸が起こる事を避けるようにする。  

 そうして日々のささやかな精妙な福を味わうようにする。


 これが老荘思想の理想というものだろう・・・  」






 又、唐詩についても解説した。

 「 唐の時代は実は道教全盛の時代で、現在の中国文明の基礎を築いた時代だった。

 だから中国文明の根源は殆ど、道教に由来していると言われるのだ。
 玄宗皇帝は熱心な道教徒で、道教音楽も作曲したそうだ。


 唐詩の中ので、李白、杜甫、白楽天(白居易)はそれぞれ詩聖、詩仙、詩佛と言われている。

 これはそれぞれが儒教、道教、佛教の影響を受けているからだ。 」



 麗華( リーホア )「 へエー、道教ってそんなに重要だったとは知らなかったわ。 」





 秋の頃、予想外の収入を得たなべさんは千春と横浜中華街にデートに行き、麻婆豆腐や炒合菜などを食べて山下公園に寄って海を見ながら対話する。


 「 俺は大学の頃に未来に対して漠然とした曖昧な不安・予感を感じていたんだ。

 何か大学の学問や教科書や理論理屈とも違った、破滅への予感みたいなものが・・・  

 このまま行くと日本も自分も滅茶苦茶になるみたいな・・・  


 そして32歳の今になって振り返ってみると、あの頃の予感は全て真実であった事が分かる・・・

 俺が今時間が経ってハッキリ分かった事は、基本的には20歳前後で潜在意識や無意識に直感で感知していたものであった。


 道教の教義だとか宗教の理論だとかと全く違った、自分でもハッキリ表現する事ができない曖昧な気分・感情だった。


 つまり宗教の教義だとか理論だと大学の授業なんかより、自分自身の予感を信じた方がいいという事もあるっていう事だ。


 だが、俺の人格のいい所は余り深刻になりすぎないという点だ。

 絶望的・虚無的になったとしても芥川や太宰のようにはならない。

 深刻になったとしても、すぐに他のたわいもない事に興味が移ってしまうのでそこまで追い込まれないのだ。


 ニヒルに絶望的になったと思ったら、子猫や子供をあやしたり、下町散歩して大衆食堂に入ったりして他の事に移ってしまう。

 
 大学の授業なんかより、個人個人の対話の方が余程有益な事が多かった。

 
 経験のある中高年の人々との対話だとか、友人たちとの雑談だとかの方が余程有益だったんだと今になってハッキリ分かる。


 暇つぶしの雑談だと言って馬鹿にしてはならない。
 下らない事でも他愛の無い事でも何でも話して聞いてみるといい。


 俺のモットーとは、基本的にどんな人とも話してみる。
 どんな人からでも3つ位は面白い、聞いた事がないような話を引き出す事ができるという事だ。


 しかも一般社会から外れたような人程面白い話を引き出す事ができる。

 これが俺の経験から出た結論だ。 」




 その後、日本の戦局はどんどん敗戦へと向かっていく。


 1944年 3月頃 海軍軍令部において特攻兵器の試作、開発方針固まる。遅れて陸軍も特攻戦法研究着手。

 だが、新聞では相変わらず大本営発表で、連戦連勝、負けるわけがないと報道され続けていた。

 現状を知っている人が「 日本は近い内に敗戦するだろう。」などと言えば非国民扱いを受けた。



 1944年11月14日以降に106回の空爆を受けた東京大空襲。

 特に1945年3 月10日、4月13日、4 月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。通常「東京大空襲」と呼ばれているのは特に規模が大きかった1945年3 月10日に行われた空襲。

 1945年  4月5日、連合艦隊より戦艦大和の沖縄海上特攻の命令を受領。
 1945年4月7日沈没


 この頃になっても大多数の国民は、大本営発表を信じ続けていた・・・

 東京大空襲の頃、なべさんは静岡の実家に疎開していた。




 なべさんは

 「 特攻でカケガイノない青春・人生を費やしてしまうなんてもったいない。」
 
 とよく言っていた。



 「 幕末の志士勝海舟も次のように言っていた。
 
 ナニ、忠義の士といふものがあつて、国をつぶすのだ。
 己のやふな、大不忠、大不義のものがなければならぬ。
 

 愛国者になって特攻して軍神になるより、大非国民になっても生き延びる方がいい。


 人間一人の精神とは国家の興亡より偉大なものである。
 人間歳をとると見聞が広がってくる。

 すると素直に信じる事なんてできなくなる。
 何かに命を賭ける事なんてできなくなる。


 戦争・経済・政治などの国家の一時的な都合で自分の大事な青春・人生を犠牲にするなんて真っ平御免だぜ。  

 戦争や経済なんて一部の権力者や財界の権益に貢献させられるだけさ。  
 そんな下らないモノより自分オリジナルのノリを産み出して固定ファンを得る事さ。


 政治や宗教などのイデオロギーだって同じさ。 
 イデオロギーによって思考に罠を嵌められて、有望な青年の人生を台無しにしてしまうのさ。



 国家主義・民族主義・中華思想なんていう思想・理想・主義というものもみんなそうさ。

 国家主義・民族主義・中華思想なんて言葉で括って連帯感・仲間意識があるようなイメージを醸し出しているけど、現実に存在するのは人であり、エゴであり、金であり、保身でしかない。


 現実には日本だって中国だって連帯感なんてどこにも存在しないじゃないか。

 日本でも皇道派と統制派、陸軍と海軍で分裂しているし、同じ派閥内でもお互いに競い合っている。 

 仲間意識や連帯感なんてどこにも存在しない。


 中国人だって、中華思想などと言いながら、共産党、国民党、漢族、満族、客家、その他の海外の華僑で分裂し、同じ党の内部でも粛清などが行われている。 


 皆、お互いに信頼もしていないし憎しみ合って嫉妬し合って、お互いに見下しあっているのに、表面では信頼して協力しあっているように見せかけているのさ。

 唯、金と保身の為だけに・・・

 
 だが、国家の上層部や学者達はそういった醜い現実を覆い隠す為、或いは国民を自分達の権益の為に、そういった綺麗な言葉で括って、国民を自分達の目的に駆り立てようとするのさ。



 何とかイズムで、人生を空費するのはもう御免さ。
 そんなのは言葉だけで何の実態も無い。 

 何とかイストは、4行詩をいくつかつくってファンをうならせる事ができるかい?!

 俗に言う。  
 自分を本当に理解してくれる人が一人でも得られたのなら、死んでも惜しくはないと・・・


 俺にとって、人生とは女性さ。 
 女性が居なかったらこの世は地獄のようなものさ。  」



 この事を話しているときのなべさんの表情、目つきは輝きに満ちていた。

 精神的エクスタシーに到達したような表情をしていた。


 チャイナドレス姿の麗華( リーホア )はその話を聞いて「 フフフフ・・・ 」と意味ありげに笑った。


 麗華( リーホア )はとても変わった性格の女性であった。 
 なべさんも冷めた性格であったが、なべさんに輪をかけた様な冷めた女性であった。


 なべさんが取り乱す様な事も、麗華( リーホア )は全く動じない。

 戦争の状況が深刻になっても

 「 世の中そんなものですよ。 」

 「 日本なんてその程度の国なんですよ。」

 と言って全くうろたえる様な事が無い。




 日本と中国という二大文明の狭間。

 白人達の世界支配の野望に立ち向かう日本。

 人種と文明同士の衝突。

 お互いの祖国が戦争している。

 どこが勝っても負けても共に喜ぶ事ができない・・・・・



 だが麗華( リーホア )はどんな状況でも冷静に的確な判断を下せるような女性だった。

 日本の敗戦については「 時間の問題でしょ! 」とアッサリ言い切る。

 流石のなべさんもこの答えには驚く。

 なべさんにさえ少しは大和魂的な情緒が残されているというのに・・・  
 なべさんも冷めた人間であるが、東洋的情緒・浪漫主義みたいな要素がある。




 なべさんは日本の敗戦色が明らかになって来た情勢で、例の箴言集を取り出してページをペラペラめくっていた。

 そして次の文章を見つける。

 
 ● 女性の猜疑心は男性の肯定感より遥かに正確である。


 なるほど、俺の確信より麗華( リーホア )の判断の方が正確かもしれないな・・・



 又、次の文章も見つける。

 ● 困窮・困苦に陥ったら忍を持って対応する。そうすれば自ずと苦境は過ぎ去って行く。


 「 ま、どんな状況に陥ったとしても忍耐を持って切り抜ければ、状況はいつの間に好転しているものさ・・・  」

 


 そうこうしている内に、遂に特高がなべさん・麗華( リーホア )のカップルのアジトを突き止めたようだ。 

 特高が軍国主義を皮肉る詩集を書いた詩人を探し回り、それらしき人を知っているという近所の浅草・合羽橋の住人から報告から掴んだ情報であった。

 報告では「 何か変わったカップルがいつも軍国主義的世相と無関係な文芸談義を食堂や居酒屋で話している。」との事であった。


 特高がなべさんの異端思想に再び目を光らせるようになる。

 
 なべさんは特高から逃れる為に知人や親類などの家を転々とした時期もあった。

 
 特高、体制側の犬は天皇制・軍国主義に国民を駆り立てる為に、メディアを操り大本営発表で国民の戦意をかき立てようと躍起になっていた。

 
 ところが、なべさん・麗華( リーホア )の風変わりなカップルの異端思想の対話は天皇制軍国主義を根底から覆してしまうものであった。


 なべさんと麗華( リーホア )は敗戦色濃厚な時期、静岡の親戚の家を転々としながら、こりずに清談に耽っている。


 「 あなた、もし創作活動に行き詰ったらどうするつもりなの? 」と千春が尋ねた。

 「 ああ、それについてはね。
 俺の先輩がね、人間だからいつかは書けなくなってもしょうがないんじゃないかって言っていた。

 いつか書けなくなったとしても、それまでにした努力は評価されるべきだってね。

 俺の文芸仲間の友人の中にはとても脆弱な奴等も多かった。 
 そいつらは自分はどの道いずれ消滅する宿命なんだ。

 生命ってのはとても儚いものなんだと自分の運命を予感しているような感じだった。


 可哀想な奴等だった。  
 それに比べると俺の方が遥かにふてぶてしかった。

 おれもセンチな所があるんだけど、それでいてとても図々しい一面があって、自分でも愕く程だった。 
 後で考えてみると何であんな事をやったんだろうとびっくりする。


 だが、俺の周りにはそういう誠実すぎる奴が多かった。
 周囲の人々のどうでもいいような嫉妬や中傷や評判を余りに気にしすぎるんだ。

 そんなものを一々気にしていたら何もできずに自殺する以外になくなっちゃうだろう?! 

 誠実すぎると自殺に追い込まれてしまうのさ。

 俺なんか何言われたってヘッチャラだったね。
 よく周りの人にどういう神経してんだろう?
 なんて言われていた。 」



 実際、かつての文芸仲間の詩人は戦争の最中に自殺してしまった。

 なべさんの一番の親友と言ってもいい奴だった。

 そいつとはよく文芸評論に耽っていた。 
 とても繊細な奴で、やさしい奴だった。

 そいつはなべさんの目から見てもとても敏感過ぎて可哀相な奴だった。

 周囲の人の目や心や言葉に過敏すぎる程感応してしまう。

 日本の社会風潮を余りに本気に考えすぎる奴だった。

 そして自分の文芸的感性と二極分裂を起こしてしまい、最後には創作活動や金銭・人間関係などで行き詰まり自殺に追い込まれた。


 なべさんは言った。
 「 あいつは他人や世間の風潮や評判を余りに気にしすぎていた。 
 他人がチョコッと何気なく言った一言や、世間の動向に過敏に反応し過ぎたんだ。

 そんな下らないものを一々相手にしていると自殺に追い込まれてしまうという典型的な例さ。


 俺なんか、メディアの操作や日本社会の風潮なんて最初っから全部デタラメだという事を見抜いていて、まるで相手にもしていなかったからね。


 俺は先輩達を色々見て、周りにいくら馬鹿にされようが何を言われようが動じない様な頑固な職人タイプの人達は、崩れていないという事に気が付いたんだ。

 崩れてしまうのは主体性が無く周りの影響に振り回されてしまう奴等さ。 」



  
 静岡で親戚・友人の家を転々と逃げ回っている内にも、特高らしき体制側の犬が天皇や軍国主義に反対する非国民に関する情報を調査していた。

 特高らしき人やスパイ、私服警官らしき人物が現れると、麗華( リーホア )となべさんは裏門や隣の家の屋根などを通って、他の親戚・知人を頼った。

 なべさんのある親戚は赤紙で徴兵され中国の大陸部で国民党軍との抗争中に戦死してしまったという事をその際に知った。



 
 なべさんと麗華( リーホア )は知人の家へと逃れる。


 「 あなた道教信仰だとか言っているけど、何かあなたの言動って矛盾だらけじゃない?! 」と麗華( リーホア )が聞いてみる。


 「そうさ! 人間の存在自体が矛盾だらけなのさ。

 社会だって矛盾だらけじゃないか。 

 大体、自分の身体の存在自体矛盾に満ちている。

 俺は自分自身、こんな世の中に生まれたくて生まれた訳じゃない。

 だが身体を持っている限り生きていかなければならない。 

 これ自体が最悪の矛盾じゃないか。 」


 「 俺は宗教家・信徒みたいな人と沢山知り合ったけど、多くの人は自分の信仰する教義に自分の心身を無理に合わせようとして、自分の心や感情を枯らしてしまっているように見えるんだ。

 皆、信仰生活とは別の本来の自分というものがある筈なのに、無理に画一化しようとしているんだ。 
 だが、人間生まれ持った本性というものは抜き切ることも捨て去ることも変える事も不可能である。

 ここに宗教の偽善と腐敗が起こる。

 宗教には完全に出家して聖なる世界に入る出家信者もいる。 

 普通の生活をしながら信仰生活をしていく在家信者もいる。

 中には俺みたいに、文芸創作をしながら、信仰を表現したり、自分の精神世界を文芸作品としていく人もいる。

 遠藤周作や太宰治はキリスト教文士だし、仏教文士というのもいるかも知れない。


 俺は道教文士をしているからといって、別に道教精神を広めようだとか、自分の考えを他人様に押し付けようなどという気は毛頭無い。 



 もう一つ大事な事がある。 それは集団心理の恐ろしさだ。  

 人間一人一人だとフランクに話したり付き合ったりする事ができる。
 それが集団になると、つまらない違いで派閥ができてくる。

 そして派閥争いが起こってくる。

 人間何人か集まれば、自然発生的に訳の分からない価値基準ができて、ヒエラルキー(階級秩序)ができてくる。    

 そうなると訳の分からない方向に集団で暴走を始めてしまうのだ。

 宗教団体でさえこういった事が起こる。


 俺が集団や派閥を組まないのはこうした理由からだ。

 宗教でも右翼でも左翼でも、本来の理念は置き去りにされて全く意味の無い所で派閥争いや内ゲバに明け暮れているのだ。  

 これは日本に限らずどこの国、どこの時代でも似たようなもののようだがな・・・


 日本の島国の農村の陰湿な集団主義は恐ろしい。 

 真実や正義より周りの空気や暗黙の了解や人が重視されてしまう。

 日本の戦争だって言ってみりゃこういった集団主義の暴走だろ。



 真実や正義より周りの空気や人が重要視されるような国は、戦争でもいずれ負けるに決まっている。


 乃木稀典将軍が最初に切腹自殺を考えた理由は『 今の皇軍は、天皇陛下に対する忠誠を誓っていながら、お互い内部に於ける勢力争いにばかり精を出している。 』というものだったんだ。



 日本軍が真珠湾攻撃から破竹の勢いで英米に抗戦していった。
 山本五十六は戦争の前に最初の一年から一年半位は大暴れできるがその後は分からないと言っていた。

 実際その予感はそのままとなっていった。

 海軍はミッドウェー海戦から、陸軍はガタルカナルを契機として敗勢と変わっていった。

 ミッドウェー海戦に於いては、陸爆と艦爆の爆弾の付け替えをしている間に敵に攻撃を受けて付け替え最中の爆弾が却って自分の空母を炎上させることとなった。

 爆弾を付け替えないまま攻撃しても、それなりの戦果は上がった筈なのだ。

 ゼロ戦の撃墜王の坂井三郎は山本五十六が、これからは艦上爆撃が主体となるので戦闘機の操縦士は余り養成する必要がないだろうと言っていたのを聞いて

 『そんな馬鹿な! 昔も今も空中戦の主力は戦闘機だ。 海軍大将がそんな事を言っているとその内に大変な事になるぞ!』

 と思い、その後山本五十六が96式艦爆に搭乗していて撃墜された時は、自業自得だと思ったという話もある。


 要するに、日本の硬直した官僚主義的なやり方が悪かったのさ。 

 戦場の最前線の事を一番知っているのは、大本営ではなく現場を知っている下士官達なのだ。 」



 そう話している内に、その家に特高が訪ねてくる。
 知人はなべさんと麗華( リーホア )に逃げるように目配せする。

 なべさんと麗華( リーホア )は台所脇のドアから外へと出たが、特高の人数が多く他へと逃れる事ができなかったので、物置に隠れる。


 特高は家宅捜索を行い、なべさんと麗華( リーホア )の荷物らしきものを見かけると中を調べる。

 麗華( リーホア )の知人は必死に思いつきの適当な事を述べてごまかす。

 
 しばらくして特高が帰ると、なべさんと麗華( リーホア )は物置から出てくる。 



 敗戦色が濃厚になってきた終戦間際、大本営は長野松代に大本営を移し、ゲリラ戦にまで持ち込む事を計画していたという。

 これは言うまでも無く、分が悪いと分かっていながら徳川側より豊臣側に親の言葉を守って最期まで付いた真田雪村の判官びいきにあやかったものである。



静岡で知人・親戚の家を逃げ回っていたなべさんと麗華( リーホア )は、そろそろ限界に達したようで、とりあえず浅草・合羽橋の襤褸アパートへと一旦戻る事とする。 

 帰りの電車賃を恵んでもらって東京へと戻る。


 

 合羽橋の襤褸アパートでつかの間の平静を取り戻して、一息ついている時にドアをノックする音が聞こえてくる。

 誰だ?  特高か? 


 ドア越しに用件を尋ねてみる。  

 
 するとそれは以前、集会に招いてくれた左翼系反日帝団体の人々である。

 ホッとして、ドアを開けて部屋に招きいれる。


 その人達は、なべさんが特高に思想犯として狙われている事を知り、ずっと探し続けていたという。 

 左翼系の団体の事務所に来ませんか? と言ってくれる。


 なべさんと麗華( リーホア )はありがたく招きに応じ、杉並方南町の左翼系秘密結社の極秘事務所へと移って、匿ってもらう事にする。


 この頃、なべさんは相当弱気になってくる。

 事務所で落ち着くと、以前から時々こみ上げてきたものが再びもたげてくるのを感じる。

 それはあれである・・・ 



 自殺願望   



 子供の頃からの持病の胃腸も弱くなってくる。
 ストレス性の胃痛である。


 先に自殺してしまった文芸仲間の親友の事を想い、後を追う気持ちが強まってくる。


 金銭・創作・日本の社会風潮・道教信仰・戦争・・・  

 全てが頭の中で万華鏡の様にグルグル回転している。 

 それらを一度に成立させる事は不可能だったのだろうか?

 やはり、道教信仰を日本社会で実践する事は最初から不可能だったのだろうか?・・・ 


 自分の今までの人生・・・   全て否定的に思えてくる。  



 自殺するにしても自分はいいが 麗華( リーホア )はどうなる?



 そんな絶望的な状況に追い詰められたなべさんの頭の中に例の箴言集の言葉を思い出す。



 ● 逆境の際にどう対応するかでその人の能力・真価が試される。



 麗華( リーホア )は麗華( リーホア )でもう諦め切った表情をしている。
 東洋的諦観に達したような雰囲気である。


 なべさんと麗華( リーホア )は、お互いに今までの逆境や困難に際して乗り越えてきた比類なきノウハウやテクニックを語り合う。

 


 

 二人が絶望の果てに追い詰められそうになった1945(昭和20)年8月15日未明に玉音放送(「終戦の詔書」)が放送される。

 「 大変だ!   日本が降伏したんだとよ! 」



 その噂を聞いた人々は皆最初はデマだと思った。

 だが、街中で天皇陛下がポツダム宣言を受諾し、米英中に無条件降伏したという放送があったという事が確認される。


 なべさんと麗華( リーホア )はホッと胸をなで下ろした。

これで特高や日本軍国主義ファシズムの迫害から解放される。

 だがそれと同時に日本と自分の将来に対する不安がもたげてくる。


 
 しばらくして、街中で新聞の号外が配布され、日本は敗戦したという事実が伝えられていた。


 丸の内地区一帯のビルは、殆どが駐留する連合国軍によって収容され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。

 皇居を見下ろす形で堀沿いに建てられた第一生命館に本部を置くことは、連合国軍が天皇のさらに上に君臨するという政治的意図が込められている。

 実は東京大学(本郷キャンパス)が司令部として接収されかけたが、時の内田祥三総長が抵抗してやめさせた(「文藝春秋」より)。


 昭和天皇とマッカーサーが並んだ写真が新聞に載せられた。

 その写真を見てショックを受けた殉皇十二烈士が腹切り自殺をした。




 ひとつの時代が確実に終わりを告げた。  

 今まで絶対的なものとして君臨していた存在があっけなく崩れ去ったのだ。
 


 何もかもが水の泡と消えた。  全ては幻想に過ぎなかったのだ・・・


 神国日本・八紘一宇・万邦無比・世界に冠たる大和民族・大東亜共栄圏・神風  


 全て幻想  



 そして宗教さえもが・・・  




 終戦後、杉並方南町の左翼系秘密結社のアジトから再び浅草合羽橋にある襤褸アパートへ戻りしばらくして落ち着いた二人は、鰻を食べながら戦争時代を振り返る。



 「 日本の上層部は結局はヒットラー・ナチスに乗せられて踊らされていたのさ。

 ドイツがソ連と対立すれば、日本も対立。ドイツとソ連が不可侵条約を結べば日本も不可侵条約を結ぶ。

 そしてイタリア・ドイツが無条件降伏していくと、それではうちもそろそろ・・・ と無条件降伏していったじゃないか!

 本当にこの国は何から何まで猿真似民族なのさ。

 無条件降伏ではなくせめて何か条件つければよかったんだ。

 天皇・神道や日本人の自治を認めるだとか・・・


 ただアングロサクソンの鼻をへし折って斜陽の国にしてのは、誇りに思っていい。
 あの高慢ちきと人種差別主義はむかつくからな・・・
  

 金子光晴なんかは、若い頃から海外を旅して、上海に長く滞在していて、日本の軍部は日本国内では大東亜共栄圏だとか八紘一宇だとかの奇麗事を並べながら、現地では正反対の事をしているのを見てきたんだ。


 だから日本の世間の風潮なんてはなから胡散臭いものだと気がついていたんだ。
 金子光晴は軍国主義どころか、後では明治維新そのものを批判するようになったものさ。


  他の作家達はそんな事も知らずに見事に軍国主義的風潮に踊らされていた。
 芥川は陸軍・海軍の抗争、内部争いを評して

『 軍隊は子供そっくりだ。 自分達がどこへ向かうかも知らずにどんどん突き進んでいってしまう。』

 というような事を書いていた。


 インドのラビンドラナート・タゴールや勝海舟などは、日本が欧米の亜細亜侵略に対抗していった事自体は評価していたが、その後日本が欧米の猿真似で中国や亜細亜に対して盲目的に植民地主義を推し進めていくと否定的になっていった。



 他の文芸人で軍国主義を皮肉った文士は知らない。 

 岡本太郎なんて日本の村社会を批判していながら、自分自身はあんなファシズムに乗せられて5年も中国で戦争してたって言うじゃないか!   」


 GHQは、終戦後早速、戦前日本の国家体制の解体にとりかかった。

 まずはGHQにとっての諸悪の根源、大日本帝国憲法を廃止し民主的な日本国憲法を制定。

 婦人参政権を認め、国家神道の廃止、軍国主義を煽るような文芸の禁止、土地開放、戦犯の公職追放。

 
 そして極東軍事裁判。



 戦後混乱期の頃、日本国家の混乱と被害を最小限に抑えようとして闇で大活躍をしていたのは実はアウトローのヤクザ者達だった。

 右翼・愚連隊・やくざなどは警察の依頼を受けて、朝鮮系・台湾系の裏社会と抗争した。


 笹川良一は極東軍事裁判の頃、日本国家の道徳的な綺麗なイメージを保つ為に獄中で、東條英機に対して

「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」
 と説いている。


 戦前・戦中は軍部や財界から右翼団体に武器や金を提供して仕事を依頼していたが、GHQはこのパイプを遮断した。

 警察も右翼に共産主義者弾圧の用件を依頼していたという。




 
 なべさんは戦後の闇市で日用品の買い物をしていて路地を通りかかった時、前後からチンピラ3人に囲まれた。

 
 「 財布出せよ! 」


 「 ・・・・・・・・・・・・ 」

 なべさんは驚いたが、平静を装い、グッとこらえて何も言わなかった。


 チンピラは、なべさんのコートのポケットに手を入れようとした。

 なべさんは、仕方ないなと判断し、自分から財布を出して紙幣を何枚か出した。

 チンピラはなべさんの頬を殴り「 全部よこせ! 」と言って財布を盗み、紙幣全てを取り出すと、財布だけ捨てて逃げていった・・・



 後で麗華( リーホア )にその事を話したがなべさんは、

「 こんな御時世だから仕方が無い。 彼らだって家賃や飯代にさえ困っているんだ。

 あの金が彼らの夕食代になると思えばいいじゃないか・・・ 」と言った。





      ――――  劇終  ―――― 



http://www.youtube.com/watch?v=erJ25BUMZaA

  ラストの曲      孙悦     祝你平安