http://www.youtube.com/watch?v=3Nt_eg46seE
ストーリー全体のイメージ・ソング 裘海正 愛処ン十分淚七分
貧乏文士の生活
(この小説はフィクションです。)
● 日中文明の狭間で時代の激流にもまれながらも生き抜く男女の物語。
戦前、高田馬場、早稲田大学の近くの学生向けの安居酒屋で、早稲田の文芸志望の学生達が集まって、文芸談義に花を咲かせている。
その中に学生帽を被って議論をしている貧乏文士が居る。
その人はなべさんと呼ばれている。
焼酎をねぎ間、枝豆などをつまみにしながら飲んでいる。
巣鴨に住む道教を信奉する貧乏文士である。
なべさんは道教を信仰していたが、何分俗世間に生きる身。戒律を守る事ができない。
世間の良識からははみ出してしまうが、道教の教義からもはみ出してしまう。
なべさんの文学はその自分の道教信仰と、世間の要求する枠、良識とのギャップを吐露していく文学であった。
なべさんは文壇からはデカダン生活演技型文士と評される事が多かったが決してデカダンな性格ではなく、むしろ几帳面な性格で貧乏アパートの家賃は一度も滞納した事が無かった。独身で禁欲的な生活を送っていた。
なべさんが旧制中学、早稲田、文士生活を始めた頃の世相は革命を思わせる物騒な御時世だった。
血盟団事件 【1932年(昭和7年)2月から3月にかけて】、
5・15事件【1932年(昭和7年)】 、
2・26事件【1936(昭和11)】
日中戦争 【1937年7月7日から1945年9月9日】
当時は法華経信仰の理想に導かれた思潮が多かった。
血盟団の井上日召、皇道派の北一輝、統制派の石原莞爾、宮沢賢治などは皆法華経信者だった。
なべさんは心情的には北一輝の思想に最も近かった。
が、なべさんは所詮国家主義や政治・イデオロギーなどより大衆文芸・娯楽の世界の人であったし道教信者だったので法華経の信者ではなかった。
別に政治だとか社会運動にまで手を広げようという気は無かったのだ。
なべさんは旧制中学の頃、当時の金子光晴や太宰治や竹久夢二などの文芸人に憧れ、文化人になる事を夢見た。
自分の好きな事を書き散らしてそれで生活していけるなんて夢みたいな生活だなと夢想していた。
竹久夢二が昭和9年(1934年)9月1日に亡くなった時は、 ああ! 俺の幻想が一つ消えていった・・・ と感慨に浸った。
芥川龍之介が自殺したのは 1927年(昭和2年)7月24日)であった。
太宰治は相当ショックを受けたというが、なべさんはまだ若かったのでよく分からなかった。
なべさんは太宰治は好きだったが、芥川龍之介の文学はよく理解できなかった。
宮沢賢治が1933年9 月21日に亡くなったのを聞いた時は、多少驚いたが、なべさんは宮沢賢治に関しては余り興味が無かった。
親が満州に渡って仕事をしていた関係で中国文化に興味を持ち、中国文学科を目指す。
早稲田大学高等予科文科に入学した後に、中国文学の中でもとりわけ道教思想にのめりこむようになっていく。
何故、様々な中国文学の中の道教思想なのか?
「老荘思想に強く惹かれる。
何故かよく分からないが、他の思想と違って空想的で神秘性に富んでいて魅力がある。
儒教や佛教はまともすぎる。
自分のようなハミダシ者には似合わない。
俺は世間一般の風潮に嵌れないが、逆に宗教教義や僧院生活にも嵌れない。
俺は生身の人間だ。
結局は自分自身の問題なのさ。 」
大学のミニコミ系サークルで、金子光晴や太宰治や竹久夢二を真似した詩や短編小説を載せて、同人誌を発行するようになる。
早稲田の古本屋で中国の古典に関する本をあさり、その思想や道士の思想・人生を追うような文章を書くようになる。
時には神田神保町の本屋まで行った。
巣鴨の襤褸アパートから早稲田までは自転車でも通えたし、路面電車ですぐだ。
自転車では、巣鴨→大塚→護国寺→早稲田で、30分かからない。
神田神保町へは、 巣鴨→大塚→茗荷谷→飯田橋→神田神保町で、同じ位である。
風呂はいつも銭湯で入っていて、襤褸マンションの大家さんは江戸時代からの巣鴨の住人で、江戸っ子である。
巣鴨は旧中仙道の宿場町だった。 板橋あたりから川越街道と分岐する。
なべさんの襤褸アパートから早稲田までの間は、講談社、新潮社などの大手老舗出版社や印刷会社があり、文士達ゆかりの地が集中している。
「夏目漱石生誕之地」と刻まれた黒みかげ石の記念碑が建つ夏目坂。
周恩来が日本留学時に暮らしていたという山吹町、矢来町。
金子光晴が暮らしていた神楽坂赤城神社周辺。
歩いていると石碑や看板にここは昔の文士ゆかりの地だとか書かれているのに出くわす。
非常に文学的色彩の濃い一帯である。
周恩来はこの頃、吉野作造の民本主義に触れ
「 政治とは民衆の為にあるものだ。 」
という文を読み、大いに共鳴し、生涯の座右の銘にしたという。
時は満州国【1932年から1945年】を巡って日中対立の最中であったが、なべさんは政治には無関心を装っていた。
だが、戦争には道教的な観点から反対している。
日本はおかしな方向へと突き進んでいる。
欧米諸国の亜細亜侵略に対抗すべきではあるが、亜細亜諸国へ植民地主義を推し進める事には反対だ。
中国には孔子や老子や荘子などの道徳が残されている。
むやみやらに欧米の猿真似をしていると後で取り返しのつかない事態に陥るぞ!
なべさんは早稲田では、文芸志向の仲間達と交流を持つようになる。
つねにミニコミ系サークルの部室に集まったり、学食の一角で誰かがたむろしていた。
夢を喰って生きるような、自称芸術家の卵達である。
殆どはハッタリだけの屑みたいな連中である。
だが、なべさんはそんな連中が嫌いではなく、つるんでいた。
カメラマン・画家・ミュージシャン・映画人・・・
成功するあてや見込みがありそうな人は一人も居なかった。
だが、そういう人達との交流はインスピレーションの源・文章のテーマとなる。
中高年の先輩がなべさんに言ってくれた事があった。
「 人間関係ってのは、短期的に見ると損している様に見えるけど、長期的に見れば得を取っているのよ。 」
皆が巣鴨・大塚界隈の学生向け貧乏アパートに住んでいて、困った時はお互い助け合って生活している。
そいつらとたむろするのは巣鴨地蔵通りの大衆食堂、居酒屋、喫茶である。
なべさんは文芸仲間と談義している時に自分でも無意識の内にフト次のような事を言った。
「 僕の場合はね・・・
理想的な社会なんて幻想、アナキストに近い・・・ 」
何故なべさんがそんな事を言ったのかは自分でもわからなかった。
おそらくなべさんの直感で人生と世界の真実を見抜いていたのかもしれなかった。
他の学生達からは、なんか変な学生が居る。
こいつは普通とは違う事を考えて企んでいるな・・・
と噂されていた。
なべさんは大学に入って中国語を基礎から勉強し始める。
その他、唐宋時代の詩などを読むようになる。
なべさんは芸術家の卵達と安酒を飲みながら文芸評論に明け暮れていた。
なべさんの文芸活動の目的とは何か? と尋ねられた。
「 うん、基本は自分の道教信仰の吐露、真理の追究、道教精神を広める事・・・
そんなご大層な事などは考えていない。
本当の事を言えば、自分の趣味の延長、ただ楽しければいいだけさ・・・ 」
ところが、なべさんにはとんでもない程美しい美少女のファンがつくようになる。
これは仲間達にとっても予想外な事であった。
なべさんはどう見ても女性にもてるようななりではない。
あのなべさんの辛気臭い道教文学に、あんな不釣合いな美少女のファンがつくとは・・・
まるで寅さんとマドンナみたいな不釣合いである。
ある芸術家仲間が「 女性にもてる事は創作の活動力となりますか? 」と尋ねてみた事があった。
なべさん「 俺は元々、信仰が基礎だから女性にもてるなんて考えた事もないよ。
だけど、そういうファンが居れば当然、がんばろうという気にもなるわな・・・
ハッ、ハッ、ハッ・・・ 」
なべさんは道教信仰を生活の中で実践し、世間の軍国主義的な風潮には無頓着だった。
世間のルールや良識から外れていった。
当然、世間からは非国民扱いを受け破綻者と見られていた。
だが、なべさんは
「 世間の風潮が怖くて道教文士なんてやっていられるかい?!
そんなものが怖い位なら最初からこんな生活なんてしてないわ!
俺は不良の破綻者で結構さ! 」
と一向に気にせずに文士生活を続けていた。
だが、何故その美少女はなべさんの道教文学のどの点に魅力を感じているのだろうか?
「 なべさんの短編小説や詩ってのは、今の日本の他の作家とは全然違う。
そこが面白い。 とても空想的でロマンティックだわ。 」
なべさんは若い頃から、独特の奇妙な特徴があった。
それは自分が読んだり聞いたりした話に異様な位影響を受けてしまうという事であった。
それは言動や生活様式全てに亘った。
しかもそれらは全て日本の社会風潮とは全く関係の無い中国の古典だったり、道教思想だったり仏教だったり、当時の軍国主義的風潮から見れば異端とみなされるようなものばかりであった。
というよりそもそも普通の日本人が聞いた事もないような思想ばかりであった。
周りの人達は、なべさんがどこに情報源があるのか首をかしげていた。
どうやら古本屋や中国人留学生から手に入れているらしかった。
なべさんはとある経路から中国仏教・道教・儒教の箴言集を手に入れた。
中国語で書かれたもので、なべさんは辞書をひきながらなんとか読みこなしていた。
なべさんは人生の節目・節目、又困った時、挫折・失敗・人々の裏切り、人生の岐路などにぶち当たった時には必ず、その書物を手にとって、そこに書いてある通りに選択をしてきた。
それどころか、自分自身が書いた文章、小説にそのまま影響を受けてしまうのであった。
文章や小説を書く事によって、自分自身の思想や方向性を見出し、それに影響を受けて生活していくという点で、創作活動と生活がごちゃまぜになってしまうという、典型的な生活演技型文士であった。
それとなべさんには天使と悪魔のささやきに導かれていた。
ひらめきと言ってもいい天使と悪魔のささやきに導かれていた。
もう一つなべさんの人格・文学には特異な点があった。
それはなべさん個人的人生体験から来るものであった。
それは、一般世間から役立たずとして軽蔑・無視されるような人々の意見を、偉い人、有名な人の意見より尊重するという点だった。
なべさんは若い頃に、学校教育、学校の成績では落ちこぼれとみなされるような生徒程、大人社会の偽善・茶番あるいは人生の本質を見抜いたような事をボソッと言うという事を何度も経験してきた。
そして学校教育の優等生なんて唯主体性も無く、周囲に流されているだけだという場面も嫌という程見てきた。
なべさんは今までの人生経験で
「 世間で軽蔑されているような人の方が余程、人生と世の中の正体・本質を見抜いているものなのだ。
学校教育の落ちコボレは、世の中は本当は学校で教えられるようなものではないという事を直感的に見抜いているのだ。
エリートみたいなのは、学問や理論の言葉尻だけで、人生や世の中ってのはそんな屁理屈で成り立っている訳ではないという事に気がつかず、乗せられ易い騙され易い人達なのだ。 」
という独特のものの見方をしていた。
「 世間で偉いとみなされている政治家・大学教授・財界経営者や有名な文化人達は、自分達の地位・利益・名誉の為に嘘をつかなければならない立場にある。
だからそういった人の言う事なんて信じられない。
逆に世間から軽蔑されているようなただのおじさんの言う事の方が余程信じるに値するものだ・・・
なぜなら、無名の人は嘘をつく必要がないからなんだ。
俺は大学や学者連中なんて信用しない。
あいつ等、自分自身よく分かっていない事を偉そうに学生に教えていやがる。
しかも高い学費をとりながら。
学生は大学で教わった事なんて社会に出たらどこにも存在しないという事に後で気が付くだけさ。 」
そしてなべさんの文学のテーマは、一般世間とは正反対な視点からのものばかりで、描く題材も世間の誰もが下らないとして相手にもしないような子供染みた馬鹿げた題材を選んでばかりいた。
「 俺には世間の人々が必死になって追求しているものなんて、唯のごみくずにしか見えないのさ。
人々を動かしているもの、なんだかんだ言って結局は金じゃないか!
俺はそれ以上のものを求めているのさ。
世間の人々が利益にならないといって見向きもしないようなもの。
安居酒屋に飾られているひょっとこやおかめのお面みたいなものにしか生甲斐を感じられないような男なのさ・・・
それこそ、老荘思想の説く所の無用の用さ。 」
なべさんある仲間から社会に対する無責任・不誠実・矛盾などを指摘された。
なべさんは答えた。
「 俺はあらゆる矛盾を恐れない。
それどころか敢えて矛盾に突き進んでいく。
そうしてあらゆる矛盾を乗り越え、超越していく・・・
俺の社会に対する無責任・不誠実・矛盾なんて政治家や財界や世の大人達に比べたら微々たるものさ。
何故俺だけがそんな事を気にしなきゃならない訳? 」
なべさんは世の中の大人社会全般を毛嫌いしていた。
あんな連中は全ていかさま連中だという事を見抜いていたのだ・・・
仲間と文芸評論をしている時に、なべさんは語る。
「 中国人留学生が、『日本の作家は何でこんなに自殺が多いの?
中国では自殺とは逃げだと考えられています。』と言っていた。
俺は日本の作家や芸術家の生涯を沢山追跡調査して一つの事に気が付いた。
それは純情・誠実な人程自殺してしまうという事だ。
年とって生き延びている奴ってのは、皆化け物・やくざみたいな連中じゃないか。
そういう奴等は平気でイカサマをする事ができる。
自分もファンも欺ける。
自分の創作活動を金儲けと割り切ることができる奴等は長生きしている。
自殺してしまう文芸人は皆、誠実過ぎて純粋な奴ばかりじゃないか・・・ 」
ある時は、文芸仲間で酒を飲みながら文芸評論をしている内に些細な事から分裂し、半年にも及ぶ内ゲバみたいな事が起こる。
なべさんは非暴力主義に徹したが、内ゲバみたいな揉め事に巻き込まれ相当な精神的被害にあった。
だが、その時にも例の箴言集を引き出し
「 世の中の辛酸を嘗めた事がない男は真の男とはいえまい。 」
「 世の辛苦を経験した事がない作家は、人の心を打つような文章は書けまい。 」
という言葉を見つけ、自分自身を慰めた。
なべさんは文芸仲間と道教の薀蓄を語っていた。
「 俺の友人で中国拳法をやっている人が居るんだけど、その人がこんな事を言っていたんだ。
『 老子の事を悪く言う人は居ない。 だがある人は老子ってのは嘘吐きだという。 』
魯迅は道教についてこう書いている。
『 中国文化の根底は道教が源となっている事がわかれば、中国文化をハッキリ理解する事ができる。 』
『 中国人で道士の悪口を言う人は居ない。 』
俺の他の友人で関西のお寺の息子が居たんだけど、ヒンドゥー教の事を話していたら、『 俺はヒンドゥー教ってのは信じない・・・ 』と言ったんだ。
俺はその時はそういった人達の言葉をそれ程気に留めていなかったけど、後々になってそういう人達の言った事をよく思い出すんだ。
ああ、あいつ等の言っていた事にも一理はあるんだなって・・・ 」
「 つまり宗教なんて信じられないと? 」
「 信心も程ほどにしておいた方がいいんじゃないかなって。
つまり、皆一理はあってその人の視点から見たら正しいんじゃないかなってね。
俗人は俗人なりの見識がある。
でも、宗教が信じられないとなると一体何を信じられる?
何も無いんだよ! 信じられるものなんて何もない。
以前、たまたま話した男の人が居たんだ。
その人はもうすぐ結婚するといっていた。
そして子供もつくるつもりだと言っていた。
俺はこんな軍国主義的な世の中で子供なんてつくって戦場へ送るつもりかい?
といさめたんだ。
どうせ聞く耳なんて持たないとは思っていたがね。
その人は愛だとかなんだとか戯言を言っていたから俺は
『 愛なんてどこにもないよ。憎しみだけだよ。』
と言ってやったんだ。
これも聞く耳なんて持ってないとは思っていたがね。」
早稲田では、四年で卒業してしまうような学生は大した人物にはなれないというジンクスめいたものがあった。
留年を繰り返してやっと卒業するのはまだまし。
中退が一番大成するという。
実際、早稲田出身の文芸人を見ていると、中退者の方が四年で卒業するよりも大物が多いという風に思われていた。
実際、なべさんが憧れている文芸人達は皆、学校は途中で辞めて独学で身に付けた人達ばかりであった。
金子光晴、太宰治、竹久夢二、魯迅・・・
「 だから、不良は不良で独学で身に付けるべきなのさ。
学校で身に付くものじゃないのよ・・・ 」
なべさんは体制の特高(特別高等警察)という日本ファシズムの傀儡・手先に 左翼系アナキスト という嫌疑を受けていた。
事件を起こした訳ではないが、目をつけられていた。
なべさんは例の箴言集を引き出す。
そこで
「 いつもビクビクオドオドしながら生活していれば、悪い事は起こらないものだ。 」という箴言を見出す。
「 そうか、放埓は油断を生み出し、そこから災いが生ずる。 常に周囲を警戒し、無難に暮らしていこう。 」と思う。
「 しっかし、権力側の犬ってのは魂を売り渡しているせいか酷い顔つき・表情をしているね。
俺、鏡見て自分があんな顔つきしていたら自己嫌悪に陥って自殺しかねないよ。 」
「 夢や理想、信念を追いかけて生きる事はもともと命がけなのさ。
遊び半分でやろうとするのなら、最初からやめた方がいい。
もし自分の信念を貫こうとするのなら、世間の風潮や世間体なんて一々相手にしていられるかい?
善良な一般市民の良識的な生活様式なんてできるかい?
そんなもの一々気にして合わせていたら、結局は体制のカモになるしかないんだ!
博打で本当に儲けた人は居ない。
儲かるのは胴元だけだという。
博打ってのは、最初に小さく儲けさせていく。
そして調子に乗せていく。
そして調子に乗った所でどかんと損をさせる。
これが胴元が博徒をカモにする王道さ。
国家だってこれと同じさ。
世間で悪いと思われている道を敢えて突き進んでいく。
それは当然死ぬ覚悟が必要になってくる。 」
なべさんの処女作は早稲田の同人誌に書いた詩や短編小説や新たに書き足したもの、今まで書き溜めておいたものなどをまとめてパンフレットにしたものだった。
自費出版だった。
バイト代と親のお金でまかなった。
パンフレットの表紙は、文芸仲間の画家に頼み大正ロマン風の情緒に富む絵だった。
知人や文芸仲間に配布し、書店に置いてもらった。
例の美少女のファンは喜んだ。
「 美少女ってのは表面は美しいけど、頭の中身は空っぽなものさ。
彼女は自分には肝心なモノが欠けている事に薄々気が付いている。
自分に欠けているものを無意識の内に俺の文学の中に見出して自分に欠けている点を補おうとしているのさ。 」
なべさんにはかつて文学に導いてくれた人が居た。
その人はたまたま知り合った中年男性で、なべさんと少し話したら
「 君には文学の素質があるかも知れない。 何か文章を書いてみたらどうだい? 」と言ってくれたのだ。
なべさんはそれまで文学の世界というものをとても胡散臭い世界だと思っていた。
どうと言うことない事をもったいぶって書いて、読者をたぶらかしている。
あんなものに騙されて喜んでいる奴等の気が知れないと思っていた。
それに例え自分が文章を書いたってそんなもの読んでくれる人なんているのかな? と思った。
ところが、なべさんの文章を読んでくれる人達が居たのだ!
パンフレット発行後は、早稲田のミニコミ系サークル、文芸仲間で弟子ができた。
だが、なべさんは書き方をひとつひとつ教えるという事はしなかった。
弟子が書いてきた詩や短編小説にいくつかコメントし、指摘を加えるという事位しかしなかった。
「 文章ってのは究極的に言えば、本人の人格の問題になる。
文は人なりというが、自分で独自の視点と書き方を見つけなければならない。
俺が教えてしまうと、俺の真似にしかならない。
それに俺を表面的に真似したって内面の精神を真似する事はできないのだ。
俺には弟子本来の持ち味を引き出してあげる事位しかできない。
だから俺はよく人格を高める事を勧めているのだ。
文学ってのは高尚な精神の発露なんだ。
まあ、基本的な知識や手法ってのは絶対に必要だ。
何もない所から産まれるという事は無いからな・・・ 」
日本は昔から漢学が盛んで、江戸時代には朱子学や陽明学などがほぼ国教的な地位にまで登りつめた。
御茶ノ水には湯島聖堂もある。
だが、老荘思想や道教は実用性に欠け、支配者層にとっては役に立たない世捨て人の思想であり、日本人には余り理解されず受け入れられなかった。
漢文の折り返し点やレ点などは中国語の文法を知らない人々の為の茶番で、解釈も原文の真意から外れて伝えられている事の方が多かった。
なべさんは江戸の元禄文化や末期の西洋文明が到来する以前の日本の大衆文芸に親しみ、それらが根っこにあった。
それに大正ロマンの情緒と道教思想が入り混じったのが、なべさんの文学であった。
日本は明治維新以来、富国強兵、脱亜入欧、欧米に追いつけ追い越せでやってきたけど、欧米文明の影響で日本古来の情緒がどんどん失われていって、今ではその名残しか見られなくなってしまった。
文芸ではどんどんつまらなくなっていってしまっている。
一方フランス人達は日本古来の美意識を高く評価しているのだが、日本人はその事に気が付かない。
「 日本の体制派はよく『 日本人である事を誇りに思え。 』なんて言うけど、俺はむしろ日本人として生まれた事を恥と思っている。
日本人なんて体制多数派に迎合するだけの犬だ!
強い方、金のある方ばかりに媚び擦り寄り、逆に弱い立場の人達には威権高になる奴隷民族だ!
欧米の猿真似ばかりする物まね猿じゃないか!
私は自分が日本人である事に自己嫌悪を感じる。
生んだ両親に対してはむしろ腹が立つ。
ある人と最近の日本の風潮を話していたんだ。
俺は『 最近の日本人は野獣みたいだ。 』と言ったら彼は何と答えたと思う?
『 人間ってのはもともと野獣なんですよ。 』と平然と答えたんだ。
野獣は征服できるが、人間の野獣性はどうしたら征服する事ができる? 」
ある時、なべさんの作風を一変させてしまうような事が起こる。
神田神保町の洋書店で欧米の空疎なペーパーバックの本を暇つぶしにめくっていたら次の文章を見つけたのだ。
戦争なんかしているより、女の子と遊んでいる方が遥かにいい。
なべさんはこの文章を読んでまさに我が意を得たり! と思わず飛び跳ねた程であった。
これからはこの至高の教えを文学によって伝えていく事が俺の天命だ。
この後は、なべさんは軍国的な風潮に反抗するために敢えて不道徳な詩を書き連ねるようになっていく。
それが当時の状況に対するなべさんのせめてもの抵抗であった。
たとえば次のような和歌・・・
● 君の事 忘れないよと ささやくと 感動したと 紅梅(ホン・メイ)が言う
● 紅梅(ホン・メイ)が 憂鬱そうな 僕を見て 「 私と会うのに そんな顔して・・・ 」
● 「 僕たちの 間の愛は 永遠さ 」「 あなたドンドン 口うまくなる・・・ 」
● 「わたくしが 一番信用 置けぬのは 男の口よ」と 彼女は言った
● 王英(ワン・イン)が 口紅ついた 僕を見て 「女性だったら きっと綺麗ヨ」
● 今までも 色々苦悩 したけれど 君の笑顔で 全てふきとぶ
● 「 王琳(ワン・リン)が 僕の好みと 言うけれど それじゃ私は どうなっちゃうの?! 」
● 今日はヒゲ きちんと剃って 来てるけど ヒゲある時も なかなかいいわ
● 半年も 会わなかったら わたしなど 嫌いになったと うたがってたわ
● そんなこと ありえないよと あのときに 折った折り鶴 再び見せる
● そのときに 彼女の瞳 輝いて ずっとわたしを おもってたのね
● 拾七じゃ まだ子供ねと 尋ねると 拾八とみてと 彼女は言った
● 王琳(ワンリン)の 林檎のほっぺ(苹果脸) キスしたら 甘く酸っぱい 香りしたんだ
● 夢霞(モンシア)の あわくせつない ときめきは 青春時代の 一ページなり
● 可馨(クーシン)の マシュマロみたいな くちびるは とろけるような 味がしました。。。
● 可馨(クーシン)が ティッシュで拭いた キスマーク 持って帰って 一生取っとく
● 可馨(クーシン)の テーブル落ちた 髪の毛を ノートに貼って 記念にしとく
● 呉雪(ウーシュエ)と ともに誓った 約束は 今になっても 果たせないまま・・・
● 亭亭(ティンティン)と あの日交わした 約束は バラ色染まる まぼろしのにじ
● あのころは やさしい女性(ひと)と 想いきや 実はつめたい 女性(ひと)だったのね
● ごめんねと あやまらなければ いけないな いままで会った たくさんの女性(ひと)
● ありがとう 感謝しなくちゃ ならないな いままで会った たくさんの友
● 許影(シュー・イン)の AQUAの様な 瞳から シルクロードへ つながって行く・・・
● 劉艶(リウ・イェン)と 僕は太陽 君は月 照らしてく仲 誓いあう春
● 孫麗(スン・リー)と 僕は玄宗 君は貴妃 浮世は忘れ 国は傾く
● 金丹(ジン・ダン)は なんでこんなに 綺麗なの 電影明星 見てる様だね・・・
● 李娜(リー・ナー)も 今はどこかで 過ごしてる 平凡だけど 幸せな日々
● 雲海(ユン・ハイ)に 君とぷかぷか 浮かんでる 峨眉山(オーメイ・シャン)の 山頂付近
● わたくしは うまれたときから おとこみたい なんでなのかは わからないけど
● あなたって カッコいいのに ワザワザと 帽子かぶって 隠してるのね
なべさんは文学賞や中央の文壇を全く気にしていなかった。
「 文学には絶対なんて存在しない。
どちらかが好きかという個人的相対的な問題だ。
文学の価値ってのは結局の所、自分自身が決めるしかないんだ。
俺の場合は、自分自身が最高と思えるかどうかだ。
極論すれば自分自身が最高と思えれば、全世界が無視しようと最悪だと言おうと構わないんだ。
まあもちろん他に共鳴してくれる人が出てくればうれしいけど。 」
とは言っているものの、なべさんはファンや世間がどう見ているか、どう評価するかという事を常に意識していた。
他の人達は諌めた。
「 もし文芸を職業とするのなら、そんな悠長な事は言ってられませんよ。
出版の編集者、書店、読者からそっぽをむかれたらもう御仕舞の世界ですからね。 」
夢を追ったり、自分の信念を追求する人々に対して、日本社会は非常に冷たい。
なべさんもどれだけ周りの人から無理解・軽蔑・嘲笑・嫉妬などを受けてきたか分からない。
「 俺が憧れている先輩文芸人にしたって、どれ程周囲の人々から迫害されてきたか分からない。
だが、先輩達もそういう迫害に耐え抜いて創作活動を続けてきたんだ・・・
だからこの程度でへこたれちゃ駄目だ。
ちょこっと位、何か言われて妥協する信念なんて、そんなもの本物じゃない。
そんなんだったらどこへ行っても通用しない。 」
早稲田は二年程在籍していたが、結局は中退してしまった。
在籍していても、文芸の仲間と文芸談義をしたりして授業には余り出席せず、片言の中国語と文学史程度しか学んでいなかった。
なべさんは処女作から、マイナーミニコミ同人誌、中小出版社などに雑文を寄稿したり出版したりしたが、何しろ題材が題材だけに売れ行きはサッパリだった。
収入の為に信念を曲げるという事が大嫌いなのだ。
だが、一部の文学青年、文学志望の若い女性などには口コミで根強い人気が広まっていく。
「 なべさんの作風は今の日本の文壇や中央の権威とは全く違う。
馬鹿馬鹿し過ぎて面白い。 」
なべさんは言う。
「 文芸仲間の連中は、もっと売れ筋を狙ったり、日本社会に受けるような題材を考えて選んだ方がいいよだとか、文壇や中央に寄り添った方がいいとか言う人も居る。
だが、俺はメジャーになろうとは思わない。 作風も生活様式も自分本来のままでいい。 」
なべさんは収入は衣食住が揃って、好きな文芸作品が買える程度でいい、道教信仰を生活で実践していくという信念を貫くこそが大事だという主義だった。
独身主義だったので、自分一人暮らしていける程度の収入があればいい。
文士では生活できずに、屈辱的な雑役をする事も多かったが、なべさんは黙々とこなした。
もし本当に生活に行き詰ったら飢え死にする覚悟もあった。
文芸仲間となべさんの襤褸アパートで談義をしている。
「 日本の文学ってのは、欧米の文学に比べてはっきりした物言いを嫌う。○か×かと言い切らない。
欧米の哲学は白黒をハッキリさせる。」
「 何でですかね? 」
「 それは歴史的伝統的な起源があるからだと思う。
日本文学も古事記、日本書紀から始まり源氏物語や枕草子みたいのがあって、先輩のを真似しているんだ。
逆に日本人は欧米人の事を見ると、余りに白黒をハッキリさせたがるんで、物事をそんなに簡単に割り切っていいものだろうか?と不安になる。
良い悪いってのはそんなに単純なものではない。
良いと思われるものにも弊害もある。
悪いといって切り捨てるものの中にも善の可能性があるのではないかと・・・ 」
仲間に中国の事をどう思うか?と尋ねられる。
「 うん、中国っていう国はある意味、可哀想な国だね。
一方には中国4000年にも及ぶ伝統文化がある。
文字文化、封建制度によって押し潰されてきた人々。
一方、欧米の侵略に対しては、現実に起きている事より科挙の文字文化秩序を尊び、伝統文化を保護していて対応できない。
俺は中国文明の良さも悪さも知っているし日本文明の良い点も悪い点も知っているが、それでも結局は日本の方がまだいい。
何故なら、日本には天皇、侍という文化があるからだ。
中国人なら自由を語る事はできない、自由を語るのなら中国人である事をやめよ。とも言うが、日本人はどんな低い生まれでも自分の信念によって文化を創り上げる事ができる。
そして失敗したら腹切という文化もある・・・
これは世界中のどこにも無い素晴らしい文明文化だと思うよ。
ただ、中国文明にも他の世界にはない優れた点もある。
それは破綻しにくい文明であるという事だ。
欧米や日本は破綻しやすい文明だ。
日本に来ている中国人留学生はよくこんな事を言う。
中国に居た頃は、日本文化とは全て中国から来たものであると教わっていたが、日本に来たら、日本文化と中国文化は全く違ったものだと分かる。
こんな物は中国には絶対に無い物が沢山あると。
同じ中国人にも色々な人が居る。
日本の華僑はどちらかというと中華民国つまり国民党側を支持している人が多い。
大陸の人でもよく我々の地方という。
地方によって言葉も文化も相当に異なる。 」
「 その中華民国と中国ってのはどう違うんですか? 」
「 うん、これが相当に複雑で俺も詳しい事はよく分からないが、簡単に言うと西太后が17カ国に宣戦布告して故宮に連合軍が進行し、西太后は裏門から逃げてその後の消息は不明。
清朝最後の皇帝溥儀は満州国に連行される。
その後、中華民国というのができるが、しばらくすると毛沢東の共産党の方が優勢となる。
その後中華民国側は国民党として残り、共産党とずっと抗争を続ける。
アメリカは国民党にテコ入れする。
その後武力に勝る共産党が優勢となるが、国民党側はいまだに大陸と台湾は中華民国の領土だと主張している。 」
「 そうとう訳が分かりませんね・・・ 」
「 うん、訳が分からないんだ。 」
そう話している内に、文芸仲間が部屋の隅に盗聴器が付けられている事を発見する。
どうやらなべさんの異端思想は特高からもマークされているらしい。
そう考えて思い起こせば、普段も巣鴨界隈で文芸談義している喫茶などで私服警官などスパイに盗聴されていた可能性も高い。
これからは身辺を十分に注意しながら談義しなければ。
日本は遂に真珠湾攻撃【1941/12/07】から英米との全面戦争に突入していった。
「 日中戦争、英米との戦争・・・
日本は一体どうなるんでしょうね?
戦争の結末はどうなるんでしょうね? 」
「 人生、時には時代風潮に流される事も必要だ。
歴史には必然的な因果関係がある。
周りにまかせていれば、目的地には辿り着けるし、必要なものも自然とそろっているものさ・・・ 」
「 詩人ってのは、世界とか物事を何でもロマンティックに見ようとする。
時には現実的側面を無視してまでも。
詩人ってのは例えば、ある魅力的な女性を讃えようとすると、実際にその女性と結婚しようとは思わなくても、賛美する。
現実の女性や結婚生活なんてそんなに理想的でも綺麗なものでもない。
俺は以前、物流の経営者みたいな人と交流していた頃があったんだけど、その人は見るもの聞くものなんでも、経済効率的なものの見方をするんだ。
あの装飾だって実際には塗料だとか色んなお金がかかっているんだみたいな事ばかり言っている。
遊んでいても、こんな事してていいんかいみたいな。
だから俺ともう一人の奴は、あの人の話は面白くないと言い合ったものさ。
もう一人の奴は俺の事をあの人面白いとよく言っていた。
逆に俺は、何でも情緒的なモノの見方をする。
現実的計算なんて一切無視して、漁村を見れば、海だとか船だとか漁民の呑気な生活に空想を馳せる。
襤褸小屋を見れば、そこに込められた歳月や人々の喜怒哀楽に思いを馳せる。
実際にそこで生活をしている人は色々問題を抱えているかもしれない。
が、そんな事俺の知った事じゃない。
俺を文学に導いてくれた中年男性も俺のそんな所を見て、文学的な素質があるんじゃないかと言ってくれたんだと思う。
だけど、そんな俺を子供じみた無責任な奴だと言う人もいる。 」
こんななべさんにも恋愛めいた女性が現れたが、なべさんが独身主義で道教信仰と創作活動だけに一生捧げるという決心を知ると自然に離れていってしまった。
ところが、なべさんの作風は女性の出現によって作風が変化していった。
その相手は文学少女だったり、女性ファンだったりした。
文芸仲間は「 何だよ。なべさんは道教信仰の実践とかいいながら、女で作風が変わっていっているじゃないか?! 」と驚いていた。
その相手の女性の魅力を賛美したり、逆にワザワザその女性を怒らせるような事を書いて、気を惹こうとする作風になった。
それはなべさんの育った境遇から来た歪んだ精神の顕れだったようだ。
なべさんは子供の頃から、気に入った女性が現れると、素直に愛情表現ができないのか、相手に意地悪をしてしまうという奇妙な傾向があった。
そしてその女性は泣いてしまう事もあった。
成人後も意中の女性に対して、敢えて他の女性を賛美したり親切にしたりという歪んだ愛情表現をするようになっていた。
そういう風にすれば、相手の女性の気を惹けると勘違いしているらしかった。
なべさんがそんな事をしている間、日本は大本営発表で
連戦連勝、アメリカ巡洋艦2隻撃沈! 駆逐艦大破!
などの号外が街中で配られていた。
なべさんの周りでも近くの若者や大人が赤紙で徴兵され、「 御国の為に死んで来い。 」と武運長久を祈られながら出征していった。
なべさんはそういった風潮に嫌気がさすと、巣鴨からお岩通りを通って、駒込から東京帝大、その後谷根千まで散歩に行った。
谷中の屋台で焼酎をあおり、西日暮里の駄菓子屋横丁まで行って、巣鴨へ戻った。
江戸情緒に親しむ事が、当時の状況に対しての現実逃避だった。
文芸仲間の中には、ノイローゼになってしまう人も出てくる。
「 精神の病ってのは、本人じゃなきゃその苦しさは分からない。
本人にしか分からない理由ってものがある。 」
多くの文芸仲間がアイデンティティーと作風と時代風潮の変化の間でバランスを取ることが難しくなってパニックになりそうだった。
多くの人は、次第に文芸生活、文芸活動から離れていった・・・
訳が分からなくなって廃人みたいになってしまった人、普通の仕事する生活をするようになっていった人。
死んでしまった人も居る。
文芸理論や時代の風潮の激流の中で自分自身を見失いアイデンティティー・クライシスに陥ってしまう人も多かった。
欧米志向、戦争、アカデミズム・・・
東京は元々の江戸情緒、日本情緒から欧米の影響・流入などで殆どカオスに近かった。
その頃の日本の多くの文士達がヒロポンなどの薬を使っているのは公然の事実であった。
戦前戦中の日本文学はドラッグの産物であったのだ。
実際、そんな世相の中で文学を書くことなんてドラッグでも使わなきゃ気が狂いそうであった。
そんな中でも、なべさんは全くドラッグの類は使っていなかった。
それはなべさんの体質が依存性が少ない点、道教信仰で自分をしっかり持っていたからである。
作風も生活様式も世相に関係無く、自分本来を貫いていたからであった。
「 世間ってのは身勝手なもんさ。
女性関係が全く無ければ無かったで、童貞だなんて非難してくる。
そして女性関係ができればできたで女が出来たなんて非難してくる。
だから、そんなもん一切気にしないで自分の信じるように生きればいいのさ。 」
文芸作家には自己肯定感の強い人と弱い人が居る。
だが、ある程度の自己肯定感がなければ文芸作家などやっていられない。
自殺してしまう人は自己否定感が強すぎる人だ。
なべさんは自分の文学自体が自己肯定の為であった。
自分の生活・立場を文学作品として表明する。
そして自己を肯定していく。