最期の祭り!

 もう、未来無いんでヤケクソ。 最期の祭り的なノリで行きます!

 亜細亜の民間伝承

2012-03-12 09:24:44 | 考古学


 ワット・プラ・タートゥ・パー・ンガォ(タイ語の意味は  聖なる岩陰の寺)  の伝承

 
 タイ北部  チェンセーンから歩いて40分程の所にある丘にあるお寺。

 

 ワット・プラ・タートゥ・パー・ンガォは、かつてワット・ソブカムと呼ばれメコン河の岸に位置していました。が、堤防が決壊し、寺院は崩壊してしまったので、管理人達は近くの丘に寺院を移さねばなりませんでした。

 1976年2月に管理人達は丘の森を整備し始めました。その土地は長い間閉ざされたままで「タム・パー・ンガォ」と呼ばれた洞穴でした。その地は密林となっていて、古代遺跡の瓦礫に満ちていました。

 ある大きな遺跡には20フィートの幅のある仏像の半身がありました。管理人達は本来の状態に戻す為、改修する事にしました。1976年2月28日、管理人の一人、チャンタ・プロンマは、寝ている時に夢の中に黒くて高い僧が現れ、仏像の半身を持ち上げる前に8人の僧を招き、儀式を行い、祭典の為に祈れば、中に奇跡的な事物を見出すであろうとおっしゃられました。

 次の日の朝1976年3月1日に、チャンタ・プロンマは全ての寺院管理人に、自分の夢を詳細に話し、そこでその話に従い儀式を遂行しました。森は株や根っこや石に覆われ整備するのが大変でした。
1976年3月17日の午後2時土地を整備した後、大きな株の根元に小さな煉瓦造りの壁を見つけた時、全ての管理人達は喜びました。

 壁が壊れた時、素晴らしい仏像が現れたのです。建築学者は700年~1300年前のものであると推測しています。
 管理人達はこの仏像を「ルアン・ポー・パー・ンガォ」と呼び、寺院の名を今の「ワット・プラ・タートゥ・パー・ンガォ」と変えました。



> 似たような伝承にカンボジア・プノンペンのワット・プノムにある。

 丘からある日、仏像が見つかったという・・・






 カンボジア・パイリンのワット・プノムヤートの謎

2012-03-12 09:24:14 | 考古学


           
                            プノム・ヤート


 タイとの国境近くにあるパイリンという所にプノム・ヤートという丘がある。
  
 その丘にはワット・プノムヤートという寺院があるそうな。

 だが、その様式はどう見てもカンボジアの様式ではない


 タイでも無い。    近隣の他の寺院の様式と著しく違う。


 何故だろう?   どこから飛来してきたのだろうか?



 そう疑問に思いながら、東南亜細亜学の文献を調べている時に似ている様式を見つけた



 西双版那のタイ族様式     これは似ている!



 パイリンにはビルマから来たという クラー と呼ばれる種族がいて、宝石を加工する職人として生計を立てているという事が分かった。  

 ひょっとすると彼等がデザインしたという可能性がある。
 西双版那とビルマはメコン川を挟んだ隣にあるからだ。


 だが、彼等はどういう経路を通って、どういう事情があってこんな地域にまでやってきたのだろうか?    

 メコン川を下ってきたにしてはかなりの距離がある。



 余談ではあるが、プノム・ヤートには地雷が未だに沢山残されているという。 2011にも、プノンペンで欧米人の地雷負傷者を見かけた。

 僻地にある遺跡の森の方まで見学したのか?

 丘や山間部にも沢山埋まっているという。


 ベトナム・カンボジアを旅される方々は細心のご注意を!






prototype(原型)     元々中国の少数民族の一つで建築もその様式の一つ



 以下は全てこれらの原型のバリエーション及び原地様式・インド様式との混合だと思われる。

 原地様式というのはプレ・インディア( インド文明あるは外来の要素が到来する以前にあった原地本来の様式 )の様式。




  ミャンマー様式     

 この段々状の建築はアンコール・ワットにまで受け継がれている




wat sisaket   ラオス



   カンボジア


  北部タイ






 現在住んでいる近代住宅にもこれらの伝統建築様式の影響・名残が見られる。







 東南アジアの王室

2012-01-25 08:33:20 | 考古学

    プノンペンのカンボジア王宮内の美術   

 
 カンボジアの王宮の中の美術を調べてて面白かったのは、クメール調ではないという事だ。

 カンボジア国内で見られる他の建築、仏像と全く異質。

 建築はミャンマー( ビルマ )様式みたい。

 仏像の顔は中国、ラオス人に似ている。


 これはこれらの仏像を造っている工房は中国、ラオスにあるという事を示している。
 
 仏像の顔はそれが造られた国、地域の顔となっているからだ。

 

 この理由として2つ考えられる。

 1、 カンボジア王室は元々、北方からメコン河を下ってきて君臨した。

 2、 王室は、自らを権威化する為にわざわざ外国の様式にして、一般庶民との差別化をはかっている。

 

 タイの王室においても、国王に対しては普通のタイ語ではない王室用語を使って敬意を表しているという。

 その王室用語とはインド語、ミャンマー、クメール等の近隣国語が多用されているという。


 
 カンボジアに於いては、腕輪、足輪などは かつてインドのカースト制みたいな身分があり、その身分を示していたという。

 そして、王様だけは自らを際立たせる為にインドや中国の文物を用いたという・・・





   これはインドのナンディン



   これは建築はミャンマー様式。  仏像はラオスによく見られる様式。




   だが仏像の顔は中国系。



   建築はミャンマー様式。



   この仏像はビルマ佛様式であるが、顔は中国系。



   この仏像の顔はラオスに近い。



   これは明らかにミャンマー様式(ビルマ佛)。












 日本は インドシナ ?!

2012-01-20 13:07:19 | 考古学

 日本がインドシナだというと驚くだろうが、ヤポネシアという学術用語がある程である。

 インドシナというと東南亜細亜の後進国を思い浮かべるだろうが、インドと中国の両方の文明の影響を受けてきたという意味に於いては、日本は立派なインドシナなのである。


 江戸時代の身分制度は カースト制、 武士道などは朱子学・陽明学、論語、禅など・・・   

 
 江戸時代の鎖国政策・キリスト教布教禁止令・踏み絵 などの260年の鎖国・封建政策によって、日本は良くも悪くも独自の進化発展を遂げ、世界独自の日本文明を培って来たのである・・・


 このインドシナ史観・世界観を理解してから東南亜細亜諸国を旅行して見ると、限りなく興味深くなってくる。

 
 普通の旅行者はただ、物見遊山をしているだけだけど・・・




日本語の秘密  古代日本は想像以上にインターナショナルな国だった!

2012-01-20 12:42:53 | 考古学

 日本語と朝鮮語は、極東で他の近隣諸国とは全く異なる文法で、その起源はどこから来たのか、長い間言語学者達の謎となっていた。

 だが、インドの言語は、日本語の文法と並べ方が殆ど同じ。

 つまり、古代、海のシルクロードによって南インドと日本は交易があったのではないか?!

 
 しかも、南インドのブッダパルティのサイババ・アシュラムで ヴェーダを学んでいた神道関係者が 日本の神道の祝詞とヴェーダが似ている事を指摘していた。


 日本の漢字の読み方は中国では広東・ベトナムととても似ている。

 つまり漢字の読みは、広東・福建 ⇒ 台湾 ⇒ 沖縄 ⇒ 日本 へと海を船伝いに来たのだと思う。


 数の数え方は、雲南省のイ族だかどこかの少数民族と共通している。


 しかも、19世紀に日本にキリスト教布教に来たユダヤ人が、日本の神道・神社の配置や作法が 古代ユダヤ教と共通点がとても多い事を指摘していた。

 これが いわゆる 日ユ同祖論である。


 又、日本の ひらがな・かたかな は漢字の変形であると言われてきたが、実は唐時代の 唐樂古譜 の楽譜から来ているという。

 北京大学出身の学者が、研究中に偶然気がついたという。

 私は早速、 唐樂古譜 を買ってきて、楽譜を見ると、日本のカナ文字が沢山あった。

 後に、他の日本人数名に見せると「 本当だ! 」と言っていた。


 つまり、遣唐使の時代に留学生達が、その楽譜を持ち帰り、カナ文字として使われるようになったのではないだろうか?


 そう考えてみると、古代日本は我々が想像する以上に インターナショナル な国であったのだ!









 JAPAN の語源

2012-01-20 08:42:40 | 考古学


 JAPAN の語源 は マルコ・ポーロの東方見聞録の ジパング からであるが、このジパングとはどこから来たのか?

 それはおそらく南方の中国語から来たと思われる。



 聖徳太子が隋の煬帝に送った 「 日出処の天子、書を没する処の天子に致す。」という書から、日本という呼び名が用いられるようになり、国旗は日の丸となっていった。


 日本は中国の標準語でリーペンと発音されるが、南方の方言ではズーペンと発音される地域もある。

 日本国(ズーペングオ)をマルコ・ポーロが ジパング と聴き取ったのでヨーロッパで JAPAN と呼ばれるようになった・・・


 これも私の仮説です。



 私の東南亜学・考古学に関して

2012-01-20 08:19:47 | 考古学


 私の東南亜細亜学や考古学などは、あくまで私自身の見聞や調べた範囲に於ける仮説でありまして、学問的に証明されている訳ではないのであしからず。


 東南亜細亜学は、とても深遠で歴史も長く、民族も多く今となっては解明できない点ばかりで、東南亜細亜に於ける研究もあくまで研究者の専門・見解に限られており、しかも研究者の間でも矛盾する見解が出てくる事もままあります。


 例えば、カンボジアの研究に於いても、インドからの視点・歴史観、中国側から、タイ族側から、ベトナム側からで全く相対・相反してきます。


 まあ、その点が又東南亜細亜学、考古学の面白さでもあります・・・


 あくまで、暇つぶしの雑談・エンタメ程度に捉えてください。

カンボジアの2種類の字体

2012-01-18 12:05:21 | 考古学


 クメール ≒ カンボジア として通用しているが、厳密に言うと微妙に違う。

 この事は後々に解説していきたい。


 マレーシアとインドネシアは別の国という事になっているが、元々は同じで言葉も文化も大体同じだという。






 現在、カンボジアには、アクスル・チュルーン(斜書体・手書き字体)とアクスル・ムール(丸字体・装飾字体)の2種類がある。

 アクスル・チュルーンは一般に使われる書き字体。

 アクスル・ムールは看板広告などに使われる装飾字体。

 これらの起源らしきものがある。




 これは南インド発祥で、西双版那やカンボジアなどとも共通する葉に書かれた経典。  アガスティアの葉と似たもの。





 こちらは、インドネシア・マレーシアの古代文字(現在はイギリス統治時代にアルファベットに統一されてしまった。)



 インドネシア人に聞いてみると、カンボジア文字と似ているが違うという。

どちらも、サンスクリット(南インドの文字)が元となっている。

 




 こちらは古代アンコール時代の字体で、現在のカンボジア文字の原型となったもの。

 だが、むしろインドネシア・マレーシアの古代文字の方が現在のカンボジア文字に近い。



 アンコール王朝時代はタイの殆どとラオス・ベトナムの南部を版図として納め、それらの地域には現在でもクメール調の名残が見られる。

 タイの寺院の内部には、カンボジア文字で書かれた装飾などが飾られたり祭られたりしている。



 カンボジア語は、同じような文字が沢山あり、しかも2種類の字体があるので、初学者をひどく混乱させる・・・




 渾沌 という神

2012-01-04 18:38:01 | 考古学

 道教の本を読んでいたら、道教には 渾沌 という神様もいらっしゃるという。

 古代神話集 山海経に天地の神として出てくる。



 人間誰しも不完全で、矛盾に満ちている。

 矛盾やアヤフヤ、曖昧模糊とした状況を堅持していくのが、正しい場合もある。

 完全でハッキリ確信に満ちているより・・・


 道教は懐が深いと関心した。