最期の祭り!

 もう、未来無いんでヤケクソ。 最期の祭り的なノリで行きます!

ラマナ・マハリシの秘教哲学体系

2011-12-23 15:35:59 |  過去執筆物・翻訳物  


 ここでは、私が収集翻訳したラマナ・マハリシの秘教を皆様にご紹介します。

 イギリス人の弟子ポールブラントンは超神秘主義の必要性を唱えました。

 超神秘主義とは哲学を伴なった神秘主義だそうです。

 順序は適当に気楽に笑いながら読みましょう。


 シュリ・アルナチャラへの五つの詩

 1、甘露の大海であり、神の恩寵にあふれていて宇宙をあなたの輝きの中に巻き込んでいる!
   おお! アルナチャラ、至高そのものよ!
   あなたが太陽になって祝福のうちに私のハートの蓮華を開花させて下さい。

 2、おお、アルナチャラ! あなたの中で宇宙の映像が形成され、滞在し、消滅していきます。これは崇高な真理であります。
   あなたはハートの中で?私”としてダンスしている内的自己です。?ハート”とはあなたの名前です。
   おお、主よ!

 3、乱されていない心によって?私”という意識がどこから湧き起こってくるのかを探しに内面へ向かっていく人は自己を悟り、あなたの中に溶け込みます。
   おお、アルナチャラ! 川が大海に流れ込む様に。

 4、外部世界を捨てた後に、心と呼吸を制御し、内部にあなたを瞑想する事によってヨーギはあなたの輝きを見ます。
   おお、アルナチャラ! そしてあなたの中に喜びを見出します。

 5、あなたに心を捧げ、あなたを見、常に宇宙をあなたの形とみなし、いつでもあなたを賛美し、あなたを他ならぬ自己として愛する人、彼は無敵の師であり、あなたと一つの存在です。
   おお、アルナチャラ! そしてあなたの至福の中に我を失います。


 40詩句への補遺 (アヌバンダム) 

 祝福

 この宇宙はどこの中に存在するのだろうか? これら全ては何だろう?
 何から起こるのだろうか? 何の為にそして何によってこれらは全て現れるのだろうか?
 それは何によって成り立っているのだろうか? それは唯一つの起源、自己である。
 それは本当の真理である。この宝はハートの中に安全に保護されている。

 1、聖なる人との交わりによって、執着は落ちてゆき、そしてその様にして心の傾向性は殺されてゆく。
   それらが去ったと時、自己の中での不変性が見出される。そして生きている間でも解放が得られる。
   それゆえ、聖なる人を探し出し、仕えなさい。

 2、偉大なる人とのその様な交わりによって、心は自己を探す為に内部へ向かっていく。
   その様な明晰な探索を通して、最高の境地は見出される。その最高の境地は教師を通しての書物の勉強、
   あるいはいかなる善い行為によっても、また他のいかなる方法によっても決して達することはできない。

 3、もしその様な交わりが得られたならば、ヨーガの訓練やその他の訓練はゴールを得る為の何の役に立つだろう?
   南の海から涼しいそよ風が吹いている時に、扇を使って風をあおぎたがる人がいるだろうか?

 4、猛烈な熱は月の光によって冷やされ、貧困はカルパカの木によって避ける事ができ、
   罪は聖なるガンガーによって清められる。
   それら3つは単に光明なる人の姿を見る事によって消え去る。
   ああ、その様なものに匹敵するものがあるだろうか?

 5、いかに神聖な水の沐浴であっても、土と石でできた神の像も聖なる人にはとてもかなわない。
   なぜかといえば、沐浴や神像の効能は長い時間がかかり、献身的な奉仕が必要であるが、聖なる人のまなざしはあっというまに純化するからである。


 6、「それでは、誰が神であるのか?」
   「心の目撃者です。私の心は私自身、つまり魂によって目撃されています。」
   「それならば、あなたが神である。」
   聖典群もまた述べている。全ての目撃者であり、全ての被造物の中に隠されており、絶対の全てに浸透する、全ての内部の自己である唯一つの神が存在すると。

 7、「あなたに光を与えているものは何か?」
   「それは昼には太陽で、夜には照明です。」
   「その光を知る光は何か?」
   「それは目です。」
   「それを知る光は何か?」
    「心の光です」
   「その心の光を知るものは何か?」
   「おお、それは私です。」
   こうしてグルは答える。
   「この様に、あなたは光の中の光?私は在る”である。」

 8、ハートの洞窟の中心にブラフマンが全くひとりで?私は私である”という自己自覚として常に輝いている。
   心を自己の中に沈ませる自己探求または呼吸のコントロールを通してハートの中に深く潜り込む事によりハートに入り、自己に固く張り付く事を理解しなさい。

 9、ハートの蓮華の中に不動で純粋であり、?私”という形である意識が見出される。
   どの様にして見出されるのか? エゴを寄せ付けない事によってである。
   それによって知識に到達する事ができ、その知識が確実に導く所の解放を見出すだろう。

 10、肉体は瓶と同様不活発である。 それは?私”ではない。なぜかといえば意識を欠いているから。
   一方?私”は形の無い眠りの中にさえ存在する。これらを認めなさい。
   「私は誰で、どこから起こってくるのだろうか?」と探し、そこにとどまっている人のハートの中に主アルナチャラが?私”として輝き出る。
   


 11、真の起源であるブラフマンの中に生まれた彼が、熱心にどこから生まれたのかを探し求めたもの、それだけが本当に生まれたものなのだ。
    そして聖人達の主であり常に新鮮なそれは常に生まれ続けている。
    それゆえ一点に集中した心によって、自己の探究をたゆまず続行しなさい。
 
 12、「私はこの肉体の殻である。」という感覚を捨てなさい。絶え間ない祝福である真の自己を常に捜し求めなさい。
    肉体の完成を通して自己を悟ろうと努力する人は、丸太をわにと間違えてそれに座り、流れを渡る事を望んでいるようなものだ。

 13、施し物、苦行、いけにえ、義務の遂行、ヨーガ、献身、天国、不変の境地、静寂、うそを言わない事、沈黙、恵み、真理、死の無い死、放棄、至福、知恵、自由はこれ以上のものではない。
    肉体意識を捨てる事

 14、カルマ(行為)、ヴィバクティ(非献身)、ヴィヨーガ(分離)、アジュニャーナ(無知)が誰に属するのかを見出す探究が、カルマ(正しい行為)、バクティ(献身)、ヨーガ(結合)、ジュニャーナ(英知)としてそれぞれ返ってくる。
    このように問いかけ、エゴが消滅し、上記の8つを決して持たない自己になる事、それのみが現実なのである。

 15、ある人々は様々な不可思議な力を、それ自体単に、宇宙の神の創造力の道具であると知らずに獲得しようと努力する。
    それは、歩けないので、仲間に「私を起こしなさい。私がどの様に敵を倒すか見ていなさい。」と言ったかわいそうな人の話に似ている。


 16、心の静止のみが、常に存在する解放であるというのに、心の活動なしに獲得できない不思議な力に心が向かっている人々が、どのようにしてあらゆる種類の心の動きの静止である自由の至福の溶け込む事ができるだろうか?

 17、地球の重荷は神に支えられている。同様にそれに耐えているように装っているエゴは塔に彫刻された重さに耐えている様に見える肖像に似ている。
    誰の過失だろうか?
    電車に乗って旅行しているとき、頭の上に荷物を載せて苦労を感じる人がいるだろうか?
    
 18、腹部の上、乳首の間、胸の部位に6つの違った色の器官が見出される。
    右側には、胸の中央から2本分の指の広さ程離れた所に、スイレンのつぼみに似たものが置かれている。
    これがハートと呼ばれている器官である。

 19、それは逆さになっていて花は閉じている。 
    そしてその芯の中に小さな穴がある。
    その中には最も深遠な暗黒が見出され、執着やその他はここに含まれている。
    ここにはまた全ての重要神経が集中されている。
    そこは生命と、心と、光の座である。
 
 20、ハートの中に?私”として輝いている主が、主グヘサとして賞賛されているのだ。
    「洞窟の中の主が私である。」と絶えず瞑想しなさい。
    そしてあなたの肉体感覚の中でその中に静止しなさい。
    この強化により肉体神話は消滅する。
    闇が輝く太陽によって消散してしまうように。


 21、その時、ラーマは尋ねた。
    「おお、聖人よ。全てを映す広大な鏡である宇宙の全生物のハートとは何ですか?」
    ヴァシシュタは答えた。
    「親愛なる求道者よ! 全生物は2つのハートを持っていて、本質的なものと本質的でないものがある。私から学びなさい。」
    
 22、胸に置かれているハートは本質的ではない。それは肉体の一部である。
    意識それ自体であると主張するものが本質的なものである。
    それは内側でも外側でも内部でも外部でもない。
    これが真のハート、つまり宇宙である。

 23、そのハートの中には全被造物が映されている鏡が存在し、それは貴重なもの全ての宝庫である。
    この意識全体のみが全生物のハートなのであって、瓶の様に不活発で腐りやすい肉体の器官にはこの宝はひとかけらも見出す事はできない。

 24、それなので、心の傾向性と生命力の流れの制御は次のように効力を発揮する。
    心を完全に、ハートである純粋意識に溶け込ませる事によって。

 25、ハートの中に永続的に堅固にとどまり、そこで絶え間なく「私は、永遠の意識であり、常に自由であり、全ての属性を欠いたシヴァである。」と瞑想する事により、心の執着を避けなさい。


 26、人生の3状態を調べ終えた後、ハートの中で本当に最高のものであるその境地にしっかりしがみつきなさい。
    世界の中であっても常に楽しみなさい!
    ハートの中であなたが知ったもの、全ての現れの基本要素であるそれにしがみつきながら、あなたの好む方法で世界の中で遊びなさい!

 27、偽りの熱狂とうわべだけの楽しみと偽者の怒りによって人々は悲しんでいるように見える。
    全ての仕事を無関心に行い楽しみなさい! 
    全ての束縛から自由で一点集中した心によって、表面上は仕事に没頭していても人生の3状態の中で、世界の中で遊びなさい!

 28、最終的な勝利を得て、知恵の力のお陰で感覚器官を味方につけてしまった人は常に真理の知識に定着している。
    彼は自己を悟った人である。彼は知識の雷電になってしまったのである。
    時間を破壊したヒーローであり、死の征服者である。

 29、木の美しさや他の性質は春の到来によって増す様に、真理を悟った後に人の力と知性と輝きは増すだろう。

 30、完全に心がうわの空の人が語られている話を聞いている風に見える様に、心は全ての仕事の最中にも静止している。
    一方、執着に浸された心は仕事をしていない時にも苦労している。
    ちょうど、眠っている人が丘を登って転がり落ちている夢を見ている様に。


 31、乗り物の中で眠っている人にとって乗り物の動き、静止、車庫入れは、それらが起こっている間は、安らかな内部においてである。
    その様に仕事をしなさい。もう一方で賢者にとって眠りとは彼の骨格つまり地上での死すべき肉体の乗り物の中での休息である。

 32、目覚め、眠り、夢の3層からなる状態の中に生きている人はあの境地、第4番目の境地を“超越”とか“目覚めた睡眠”とさえ呼ぶ。その境地のみが実在である。
    その境地の中で他の状態が来ては去っていき、それゆえ無駄なものなのである。
    実在は絶対であり全てを超えている。

 33、ジュニャー二を弁解してサンチタ・カルマ(未来に起こるであろうカルマ)はとアガミャ・カルマ(現世において蓄積されつつあるカルマ)はないが、プラーラブタ・カルマ(現世に起こっているカルマ)があると説明するのは賢くない人の機嫌を取る為のえさである。
    3人の妻は夫が死んでしまったら妻としては残らない様に行為者である感覚がうしなわれてしまったらいかなるカルマも残らないだろう。

 34、無学な人の束縛は妻と子供から成り立っている。知識を溜め込みすぎた人の束縛はそれらではなく、学んできた無数の書物という家族である。
    それらが解放への道の障害物となってしまっている。

 35、よく勉強しているが、自分がどこから出てきたのかを探ろうとしない人々が来て、私は彼らの額から恐ろしい運命の徴をふき取るのだ。
    学問にどんな善い事ができるのだろう? その様な人々は主アルナチャラよ、ただの蓄音機です。
    彼らの口からは、うるさい空論が発せられます。
[9] 金太郎 2004/05/19 11:22

 36、学問があって平安を勝ち取る事が出来ない人よりも、無教育の人のほうが幸福である。
    傲慢という亡霊から救われるし、散らされた心からも、ころがる舌からも救われる。
    賞賛や富の追求からもまた救われる。実に彼らはそれらから自分達を救ったのである。

 37、人にとって世界はただの藁以上のものではないのに、神聖な学問の奥深い知識を意のままに有しているのに、彼は確実に彼を束縛するのろわれた売春婦である、お世辞という恐ろしい鎖から自分を殆ど救い出す事ができないでいる。

 38、真の自己から離れている人がいるだろうか? 他の人がどう言おうと問題になろうか?
    それはちょうど自己を賞賛したか非難したかの様なものだ。
    それゆえ決してあなたは自己から離れていると感じてはいけない。
    あなたの真の実在からずれてはいけない。
    常にあなたを“私”の中にしっかりととどまらせなさい。

 39、不二元論の概念はハートの中に保護しておかねばならない。外的行動に少しも表してはならない。
    たとえ3つの世界に適用できそうであっても、私の子供よ、グルとの取引の中で我々は決してそれを使ってはいけないという事を心にとめておかねばならない。
 
 40、ヴェーダーンタの精髄と他の全ての流派の核心を確かな声で宣言させてもらう。
    エゴを殺してそれになりなさい! そうすればその時自己である“私”つまり純粋意識が残され、そしてそれ自体が唯一つの実在なのである。


[10] 亀仙人 2004/05/19 20:37

金太郎さんに
ラ-マクリシュナの教えは立派ですね、彼は聖者です、しかし彼はインドの聖者で日本に適合した聖者ではありません。
彼は現世のカルマが輪廻することをたち、死後の輪廻を断ち、人間に複活することを拒絶して、神になったのである。そのためにインドは輪廻を立ったと言う指標がある。
彼の魂はインドでは影響を与えている。
そこで修行した人間は、インドでは別であるが、しばしば日本では生活が出来ないのです。
私はこの点に大変な疑問を持っています。インドのように働くことを卑下するようでは、到底日本では適応出来ないのです。
それを知った日本の聖者(禅者
)白隠禅師は日本人の適応するように改善して、日本人の魂としたのです。
詳しく知りたいのでしたら私のhttp://www.h5.dion.ne.jp/~j-kamei/ご連絡照覧ください。
合掌


 ● どんな名前や形を祈ってもかまわない。それは全てに浸透している至高のものを見出す方法に他ならない。
   君が無垢の彼に真の自己の意識を成長させ、幸福にみちた平安であるそれに溶け込まん事を!
   この様にして完全な悟りは見出される。

 ● 神はそれぞれの小さな知性の中に輝いていて、それを彼の全能の炎によって照らしている。
   知性を内向させ、無限であり、光の中の光である神との完全な結合の中にとけいる以外にどの様にして知性は彼を知る事ができるだろうか?

 ● 肉体がそれ自身を“私”であるというのではない。眠っている時に自分は存在しなくなってしまうという人は誰も居ない。
   単一の根源的思考“私”が生まれた後のみに現象世界が現れる。
   その同じ“私”の源は最も鋭敏(微細)な心の中に見出されるはずだ。

 ● エゴが起こった後に、全ては起こり、エゴが沈んでいくと全ては消えてしまう。
   それなので全てはエゴの形に他ならない。
   それならばおお、探求者よ。エゴを見出す熱心な探求とは、ここで我々を束縛する全ての執着をあきらめる事であるという事を知りなさい。


 ● 生まれたままの新鮮さでああって、エゴが死んでしまって、自己を悟った、幸福に満ちている聖者にとって、果たしたり、達成したりするべき何が残されているというのだろう。
   彼らは自己以外の何ものにも気付いてはいないのだ。
   心が世界に向かってしまっている人にはその様な完全な境地は想像すらできないのだ。

 ● 形があり、形がなく、あるいはどちらにもなる事のできる解放された境地に関してここで荘厳な真理を学びなさい。
   エゴの形つまり全ての思考の根源を消滅させる事、が真に救済なのである。
   それゆえ、おお探求者よ、自己を悟りなさい。

 ● “私”が最早現れなくなった境地が実際にそれである事なのだ。
   “私”が真の私に溶け込むまで「この“私”がどこから沸き起こってくるのだろう?」という不屈の探求を続ける事なしにどの様にしてその境地に達する事ができようか?
   “私”という思いの溶解なしにどの様にして自己を悟り、自己になる事ができようか?

 ● 世界は賢者にとっても無知な人にとっても現実である。
   しかし無知な人にとって実在は世界の中に限定されているのに対し、賢者にとって実在とは形がなく、それ自体で完結している基本材料なのだ。
   これが二者の違いである。


 ● 仕事が神への奉仕

 マハリシが丘を下っていった時、何人かが、掃除をしていた。
 そして彼らの一人が仕事を止め、マハリシの前に平伏そうとした。
 マハリシは「自分の義務に注意深く従事する事が真のナマスカールなのだ。自分の義務を注意深く行う事は神への最高の奉仕なのだ。」と言った。

 ● 私は行為者ではない。

 活動は続けなさい。それらは純粋な自己には影響しない。
 困難は人が、「私は行為者である。」と考える時にある。高い力が全てを行っているのであって、人は単なる道具である。
 もし人が、その立場を受け入れるなら、彼は問題から自由になる。

 ● 仕事

 Q、他の人より頭を使わなくてはならない時、どうすれば私の心は落ち着く事ができるのですか?
   私は学校の校長の仕事を放棄し、人気の無い所に行きたいのです。

 A、いや、あなたは今居る所に残り、仕事を続ける方がいいだろう。
   心に力を与え、それらの活動の全てを可能にする内部の流れは何だろうか?
   自己である!
   だからあなたの活動の真の源は自己なのだ。
   仕事の最中にもその事に気を付け、忘れないようにしなさい。
   仕事をしている時にも、心の背景に集中しなさい。
   それをする為には急いではいけない。 
   自分のペースでしなさい。
   仕事中でも真の性質が生きている事を想い続けなさい。
   そしてそれを忘れさせる焦りを避けなさい。
   入念になりなさい。
   瞑想を訓練しなさい。
   そうすれば、仕事を支える自己との真の関係に気づくようになるのだ。


 ● マハリシの出家

 Q、バガヴァンは他の人には放棄を勧めないのに、何故若いうちに出家したのでしょうか?

 A,ある力が私を連れて行ってしまったのだ。

 ● 眠りと死

 人は眠りを恐れるだろうか? 眠りは一時的な死である。死は長い眠りである。
 人は何故身体の足かせを望むのか?
 人に自己を見出させ不死にさせなさい。

 ● 社会改革

 バガヴァンの社会改革への意見はどのようなものでしょうか?
 
 自己改革は自動的に社会改革をもたらす。あなた自身の努力を自己改革だけに向けなさい。
 社会改革はそれ自身が気を付けるだろう。

 ● 他者の無知

 Q、他者の霊的無知を取り除くにはどうすればよいのでしょうか?

 A,あなたは自分自身の無知を取り除いたのだろうか?
   あなたの質問を自己探求に向けなさい。 あなたの中に据えられている力が他者にも機能しているのです。
   
 ● 神に任せよ。

 全ての目的、抱負、人間性への奉仕の願望、社会改革の計画
 ――それら宇宙を支えている宇宙的創造力の上に投げ捨てなさい。
 彼は馬鹿ではない。彼は必要とされる事をするだろう。
 あなたは“私はこれをしている。”という感覚を取り除いたのだろうか?
 エゴイズムを取り除きなさい。あなたが、改革に影響する人だと考えるのを止めなさい。
 それらの目的を心の中にとどめなさい。


 ● 息子の死

 Q、人の死後の状態を知る事はできるでしょうか?

 A、それは可能である。しかし何故、それを知ろうとするのか?

 Q、なぜかといえば、私の理解の水準では、私の息子の死を真実とみなすからです。

 A,私という想いが起こった後に自己と肉体の間違った同一視が起こるのだ。
   あなた自身を肉体と考えるから他者に偽りの価値を置き、彼らを身体であるとみなすのだ。
   あなたは息子が生まれる前に、息子の事を考えただろうか?
   彼のことを考えている時に限り、彼はあなたの息子なのだ。
   彼はどこへ行ってしまったのだろう。彼は彼が起こった源に帰っていったのだ。
   彼はあなたと一つなのである。
   あなたが存在する限り、彼も存在するのだ。
   真の自己を見れば、この身体との混同は消えるだろう。
   あなたは永遠である。他の人々もまた永遠である事が分かるであろう。
   この真理がさとられるまで、誤った同一視の為の悲しみがいつもあるだろう。


 ● 妻の死

 肉体の感覚器官から見る事を止め、全てのものを彼自身の自己として見始めた人にはどんな種類の悲しみもない。
 妻の死の悲しみは真の愛を示していない。
 外部の対象物と形への愛は真の愛ではない。
 真の愛は常に彼自身の自己にすみ続けている。
 死とは二つの誕生の間に入る眠りである。
 それは丁度、眠りが二つの目覚めの間に介入して、二つの目覚めが一時的である事と同様である。
 “妻は夫の半身である”というサンスクリットのコトワザに従えば、疑いなく、妻の死は夫にとっても悲しい事である。
 しかしもし人がアートマの次元で考え始まるなら、悲しみは全く存在しなくなる。
 聖典によれば、妻はいとしい存在である。
 なぜなら、彼女は夫の希望に従って夫を喜ばそうとするからである。
 もし、これらがアートマンの為の喜びだとすれば、どこに悲しみがあるだろうか。
 それにも関わらず、真の知識を垣間見た人々でさえ、このような事柄が起こると心の平静を失うのだ。
 睡眠では、人は幸福である。
 自己は睡眠では幸福であり、妻を知覚しない。
 しかし、今の目覚めた状態では、自己は幸福に睡眠しているのに、人々は世界の対象物の存在により、幸福や悲惨を味わうのである。


 ● 悲しみの予防法

 Q、愛している人が死んだら、悲しみがあります。このような悲しみを避ける為には私達は全ての人を同様に愛するべきでしょうか?
   それとも全く愛さないべきでしょうか?

 A,もし、ある人が死んだら、生きている人には悲しみがある。
   悲しみを取り除く方法はエゴとして生きない事である。
   悲しんでいる心を殺しなさい。そしたら苦しむべき誰が残るだろうか。
   エゴは死ななければならない。これが唯一の方法である。

   あなたの話した二つの選択肢は同等の事柄である。
   全てが自己である時、愛すべき人や憎むべき人が居るだろうか?
   
 ● カルマ

   何事かが起こると、我々はそれを何か、あるいは誰か他の人のせいにしがちである。
   しかし、事実は我々の経験する事は我々自身によってすでに造られて来たのである。
   我々に相応しいもの以上もそれ以下の何ものも起こらない。
   他の人は我々に何をする事が出来よう。
   我々に起こる事は他者に責任があるのではない。
   他者は我々にいずれは起こる事を起こしている道具にすぎない。
   信仰により我々を強くし、恐怖に圧倒されないようにしなければならない。
   何が起こっても、プラーラブタに従って起こったのである。
   邪悪な意図と邪悪な行為はその行為者にはね返るのである。
   個人としての人間は神の目的の為に彼らのカルマを苦しまねばならない。
   神はカルマの結果を操作する。
   神はそれに何も加えもしないし、取り除く事もしない。


 ● 愛を秘密にしなさい。
  
  他者に同情的な愛を持ちなさい。しかしそれを秘密にしなさい。
  それを示したり、話したりしてはいけない。

 ● 惑わされない様にしなさい。

  願望が満たされても浮き足立ってはいけない。
  欲求不満になっても、がっくりしてはいけない。

 ● カルマの障害

  Q、もし、瞑想の努力は過去のカルマを通して妨げられるのなら、どういう対処法があるのでしょうか?
  
  A,この様な空想的な怖れに自分を沈めることは自分を台無しにする事である。
  運命と過去のカルマは外部世界に関係する。
  大胆に自分の中に潜りなさい。それらはあなたを妨げないだろう。
  重大な障害を形成するものは、障害の事を考える事である。
  我々は全て、我々の源へかえらなければならない。
  全ての人間はその源を探していて、いつかはそこに行かなければならないのである。
  我々は内部から出てきたのだ。
  我々は外側に行ってしまった。
  今度は内側に戻らねばならない。


 ● グルの元を去る

 Q、私はバガヴァンのもとを去り、遠くの家へ帰る事をとても残念に思っています。

 A,あなたは常に私のもとにいると考えなさい。それはあなたを正しく感じさせるだろう。

[20] k 2004/05/22 06:13

金太郎さん、素晴らしい翻訳だと思います。
よろしければ原典を教えてください。
どのようにして入手されたのですか?

[21] 金太郎 2004/05/22 07:56

 原典はラマナシュラマムで購入したパンフレットみたいな小冊子です。

 後のは、ポールブラントンの死後、息子のケネス・ハーストによって見出された、P,B,の問答集であるConscious Immortality からの抜粋。

 どちらもラマナシュラマムで購入可能。 そのたマドラスの書店、リシュケーシュでも見かけた事があります。


 ● 心の集中からのすべり落ち

 Q、 心は我々の支配からすべり落ちていきます。

 A, そうさせて置きなさい。 その事を考えるのを止めなさい。
    あなたがそれに気づいた時は、内部に引き戻させなさい。
    それで十分である。努力なしに成功する人は居ない。
    心の制御は人の生得の権利ではない。

 ● 私はあらゆる哲学を知らなかった。

 私はティルバンナマライに来て人々が私のところに来て質問をせがまれるようになるまでこれらの哲学的なとんち問答や論議論争を全く知らなかった。
 それまでは自分はそれらに一切関わって来なかったのだ。
 それら全ての哲学的システムは悟りという一つの単純な真理から発達してきたのだ。
 それゆえ悟りを探しなさい。ヴィチャーラの修行をしなさい。
 そして哲学的システムや問題にかかずらわるのを止めなさい。

 ● 魂や個我は言葉に過ぎない

 魂、心、個我は単なる言葉に過ぎない。意識のみが真理である。

 ● この宇宙は映画である

 悟った人には、この外部の宇宙は映画である。それは自由であって、そのパフォーマンスは昼も夜も続く!
 悟った人は丁度普通の人が映画の画面や登場人物が架空で真実の人生の中には存在しないと知っているように、対象物や人々が架空の現われと知りながら、その中に住み、働く。
 しかし普通の人は日々の生活の外的な対象物を真実とみなすのだ。
[23] k 2004/05/22 15:30

金太郎さん レスありがとうございました。
また連載楽しみにしております




 ● 降服
   初めは、完全な降服は不可能である。部分的な降服は多分全ての人に可能であろう。
   時が熟せばそれは完全な降服に導くであろう。
   もし部分的な降服も不可能だったらどうなるか? 
   そうしたら心の平安は無い。心の平安は降服のみによってもたらされる。

 ● 私は及ばない

   “達成は困難だ。”とか“私など悟りには及ばない。”というような全ての考えは止めるべきである。
   それらが、障害になるからである。
   それらは偽の自己、つまりエゴによって生み出されるのだ。
   それらは真実ではない。
   あなたは実在であると言う事を疑ってはならない。
   そういう風に理解しなさい。

 ● 帰依者の資格

   Q、私は帰依者に値するでしょうか?

   A,誰でもなれる。精神的食物は全ての人に平等で、誰をも拒まない。



● 隠された磁石

   自己は我々の内部にある、強力な隠された磁石のようなものである。
   我々は我々の意図によって自己に近づいていこうとしていると想像するが自己が我々を段々とそれ自身に引き付けるのだ。
   我々が十分に近づいた時、それは我々の他の活動を終わらせ、不動にする。
   そして、我々の個人的な流れを飲み込み、個性を殺すのだ。
   それは知性を圧倒し、全存在を飲み込む。
   我々はそれに瞑想し、それに向かっていると考えるが、事実は我々は鉄くずのようなものであって、我々をそれ自身にひきつけているのは、アートマンという磁石なのだ。


 ● 最高の知恵は精妙である。

  最高の知恵は殆どの心にとって精妙過ぎるので、世界、神、身体、霊的進化などの哲学的システムが与えられねばならなかったのだ。
  なぜかと言えば、人々は単純な一つの実在つまり自己の真理を信じるより、それらの事を信じる方がやさしいと考えるからだ。
  そのように、輪廻、天体、死後の生その他は、真実ではあるが、低い見地から見たものなのである。

 ● 悪い性質
 
  全ての悪い性質はエゴの周りに結び付けられている。エゴが去る時、悟りは自ずから明白である。
  自己の中には良い性質も悪い性質もない。
  自己は全ての性質から自由である。性質は心にのみ付随する。

 ● ハートの小さい穴

  全宇宙はハートの中の一つの小さい穴に結合させられている。
  その穴は常に、閉じたままでヴィチャーラによって開けられる。
  その結果は“私―私”意識、つまりサマーディーである。


 ● 成熟していないポット

  帰依者:シュリ・ラーマクリシュナがしたようにイシュワラと話す事はできるでしょうか?

  バガヴァン:我々が話し合う事ができるなら、イシュワラとも同じ様に話し合えないはずはないだろう。

  帰:それなら何故、それは我々には起こらないのでしょうか?

  バ:それには心の純粋さと強さ、瞑想の訓練が必要である。

  帰:それらの条件がそろえば、神は明白なものになるでしょうか?

  バ:神の明確さはあなたの実在の状態と同程度の実在なのである。
    言葉を変えるとあなたが、目覚めの状態において自分自身を肉体と同一視すると、あなたは粗大な対象を見る。
    精妙な体、あるいは夢見状態ではあなたは同程度の精妙な対象を見る。
    深い眠りにおいての同一視の欠如の状態では何も見ない。
    対象物は見る人の状態に応じて現れてくるのだ。
    神のヴィジョンにおいてもそれと同じである。
    神の形に対する瞑想を長く続けているとそれは夢にも現れてくるだろうし、後には目覚めにも出てくるかもしれない。
  
  帰:それは神の悟りの境地なのでしょうか?
  バ:昔起きたある事を聞きなさい。

   ヴィソールはナーム・デヴが至高の真理を悟っていない事を知り、彼を教えたいと欲した。
  ジャネシュワールとナーム・デヴが巡礼から帰ってきたとき、ゴラ・クンバールは彼の所に居た全ての聖者を集め祝宴を催した。
  そしてジャネシュワールとナーム・デヴもそこに出た。


 祝宴でジャネシュワールはゴラと仕組んで、皆の前でゴラに、“君は陶工である。
毎日、陶器造りにいそしみ、ちゃんと陶器が焼けたか試す人だ。
君の前にいる人々はブラフマの陶器である。
 これらの陶器がちゃんとした音を出すかどうか、確かめてみたまえ。”

 そこでゴラは“かしこまりました、スワミ”と言って杖を取り、それらの音をチェックし始めた。
 ゴラは杖を高く持ち、彼の客の頭を叩き始めた。

 客は皆謙虚にこれを受けた。しかしゴラがナーム・デヴに近づいたとき、ナーム・デヴは憤然として、言い放った。
 “こら、陶工。そんな杖で私を叩いてどうするつもりだ。”
 そこでゴラはジャネシュワールに“スワミ。他の陶器はちゃんと焼けていましたが、この陶器だけはまだ焼けていません。”
 といった。

 そこに居た聖者達は皆笑った。

 ナーム・デヴは大変自尊心を傷つけられ、いつも一緒に遊んだり寝食を共にしていて、又神とあがめているヴィソールのもとへ行った。 


 ナーム・デヴはヴィソールに起こった事を話し、不平を言った。
 全てを知っていたヴィソールは同情するふりをして、ゴラの家での出来事についてもっと詳しく話し合った後に言った。
 “何故、そなたは他の人の様に杖で叩かれる事を黙って受けなかったのかね。
 それが原因で全てが起こったのだよ。”
 そしたらナームデヴは更に嘆いて言った。

 “あなたも他の人に加わって私をいじめようとするのですね。なんで杖で叩かれる事を受けるべきなのですか?
 私はあなたの親友であり、息子ではなかったのですか?”

 ヴィソールは「そなたはまだ真理を理解していない。私が言っても理解しないだろう。ある森の荒れた寺院に住んでいる聖者の所に行きなさい。
 彼はそなたに知識の光を与える事ができるだろう」と言った。

 ナームデヴは言う事に従ってその森へ行き、気取りのない老人が足をシヴァ・リンガムの上にのせて寺院の隅に眠っているのを見つけた。
 ナームデヴはその人がヴィソールの仲間で自分に知識の光を与えてくれる人だとは殆ど信じられなかった。


 しかし他に人は居なかったので、その人に近づいて手を叩いた。
 老人ははっとして起き、ナームデヴを見つめた。
 彼は「おお! お前さんはヴィソールがここへよこしたナームデヴか。来なさい。」と言った。
 ナームデヴはびっくりし“この人は凄い人に違いない。”と考え始めたが、いくら偉大な人であれ、シヴァリンガムの上に足をのせて休んでいる事には反感を抱いていた。
 彼は老人に言った。“あなたは並みの人ではない様に思われます。しかし、足をシヴァリンガムの上にのせているのは、あなたに相応しい事でしょうか?」
 老人は“おお! 私の足はシヴァリンガムの上に乗っているのかね? 他の場所に移してはくれまいか。”と答えた。
 そこで、ナームデヴは足を色々な場所に移し変えようとしたが、どこに移してもシヴァリンガムがつきまとった。
 しまいにナームデヴは足を自分のひざの上に置き、彼自身がシヴァリンガムになってしまった!
 そこで彼は真理を悟り、老人は彼に「よし、帰ってよろしい。」と言った。
 ナームデヴはそれまで毎日ヴィソールのところを訪ねていたばかりでなく、殆どの時間をヴィソールと共にすごしていたが、この悟りの後は何日かヴィソールのもとへ行かなかった。
 そこでヴィソールはナームデヴの家へ行き、何で自分のもとへ来なくなったのかを尋ねた。
 ナームデヴは返答した。「もう欺かれませんよ。私はやっと理解しました。あなたが存在しない場所がどこにあるでしょうか! あなたと一緒に居る為に寺院まで行く必要があるでしょうか?私はあなたを離れて存在するでしょうか?」
 そこでヴィソールは言った。
 「よろしい。 そなたは真理を悟った。 聖者のもとへ送ったのはこの為だったのじゃ。」


 ● エゴイズムを取り除く事によって、神はあなたを神の目的を遂行する為の道具として使うだろう。
   しかし、以前との違いはあなたはそれらをしている意識を持たないだろう。 神の意志はあなたを通して働いているだろう。
   そして仕事を駄目にする利己主義も持たないだろう。
   さもなければ、名声への欲望が残り人は人間性の為ではなく、個人的自己に奉仕する事になってしまう。

 ● リシの恩恵

   Q, 世界が重大な問題であふれかえっている時に、あなたの様な人が何もせずにじっと座っているのは有益な事でしょうか?

   A, 自己実現をした存在は世界に恩恵を与えずにはいられない。
      彼の存在自体が世界に最高の善を与えるのだ。

 ● リシの力
   リシがある場所に座っている事で、全ての事が彼によってなされるのだ。
   彼は戦争を引き起こしたり、終わらせたりする事もできる。
   しかし、彼は世界には宇宙的カルマ的な過程が続いている事を知っているので、それにむやみに干渉しようとはしないのだ。


3人の妻は夫が死んでしまったら妻としては残らない様に行為者である感覚がうしなわれてしまったらいかなるカルマも残らないだろう。
 
 これは昔のインドの夫が死んだら、妻も一緒に焼死させるという封建的習慣からか?


 ブッダ

 無執着に関する会話中にバガヴァンは言った。
 「 これらのベッド・ソファー・私の周りにある品々-これらは全て束縛であるー」
 「 ブッダはその例ではないですか? 」とある帰依者は言った。

 こうしてバガヴァンはブッダについて語り始めた・・・

 「そうだ。」ブッダが宮殿で世界で可能な限りの贅沢品に囲まれていた時、それにも関わらず彼は悲しかった。
  この悲しみを取り除く為、彼は以前にも増して贅沢品を取り寄せた。
  しかし、それらのものにも彼は満足しなかった。
  ある真夜中、彼は妻と子供を残して、消え去った。彼は6年間大変な苦行を続け、自己を悟り、世界の福祉の為に托鉢者(ビクシュ)になった。
  彼が偉大な祝福を楽しんだのは托鉢者になった後だった。 事実彼はそれ以上何を要求しただろうか?
  「 彼は托鉢者の服装で自分の町に戻りませんでしたか?」と帰依者は尋ねた。
  そうだ。彼の父スッドダナは、彼が帰ってきたと聞いて王の像を装飾し、軍隊全部をひきつれて、迎えに行った。
  しかしブッダは大通りを通らず、脇道を通って行った。彼は仲間を様々な道に行かせ、彼自身は父とは違う道を托鉢の格好で行った。
  父は自分の息子がそんな格好で来る事など知るはずがあろうか!
  しかし、ヤソダーラ(ブッダの妻)は彼を見つけ、彼女の息子をブッダの前にひれ伏させ、彼女自身ひれ伏した。
  それを見て父は彼がブッダであると分かった。


 ・・・自分の息子がこのような状態で再会するなどとは予期もしなかったスッドダナは大変怒り、どなった。
 「 恥を知れ! その服装は何だ? 最高の富を持っているはずの男がこんな風に帰ってくるとは! もう沢山だ!」
 そして、彼はブッダをにらんだ。 父がまだ無知を取り除いていない事を残念に思って、ブッダも彼の父をさらに強烈に見据えた。
 この目による戦いでついに父が負けた。
 父は彼の息子の足にひれ伏し、自分自身が托鉢者になった。
 無執着を知っている者だけが無執着の力を知っているのだ。
 そう言いながらバガヴァンは声を震わせた。





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