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意見の相違 4

2008-09-14 09:51:00 | 意見の相違

同じものを見ていても、見る位置、角度が違うと同じものでもまるで違うものにみえる

という話しを前回しました

                                                       

このことは、言われればわかるのですが、実際にはわかっていない人がほとんどで

そのため、あらゆるところで議論が発生しているとも述べました

                                                        

今回は、見る位置、角度が同じところから同じものを見ても微妙に違うものに見える場合の

話をしたいと思います

                                                        

今、あなたはある旅館に宿泊していると想像してください

その旅館の部屋からは富士山がよく見えます

あなたは旅行から帰って会社の同僚に

いかに旅館の部屋から見た景色がきれいだったかを話しています

                                                         

 あなた 「この前、ある旅館に泊まったんだけどそこから見た富士山すごくきれいだったよ」

 同僚  「どこに、泊まったんですか」

 あなた 「○○旅館だよ」

 同僚  「えっ、そこなら、自分も泊まったことありますよ、何号室に泊まったんですか?」

 あなた 「301号室だよ」

 同僚  「えー、奇遇だなー 自分も301号室です」

                                                        

こんな感じで会話が進むのですが、話していく間に富士山のきれいさを語るところで

微妙に意見が食い違います

そして、お互いが、感じ方が違うなー、おかしい人だなーと思うのでした

                                                                          

さて、同じ旅館の同じ部屋から富士山を見たのに

なぜ二人の感じ方は微妙に食い違ったのでしょうか

                                                       

その答えは、宿泊した日が違ったからです

 あなた「ところで、君 君が泊まったのはいつ?」

 同僚 「5月5日ですが」

 あなた「あー それでわかった、僕は11月3日だよ」

 同僚 「なんだ、そうなんですか」

と二人は意見の食い違いは宿泊した日が違うことにによって生じたものだと理解して

意見の食い違いに納得するのでした

                                                        

今、景色の見え方を例にあげて説明したので簡単なことに思えるかもしれませんが

これが、いざ人生の諸問題や社会現象になると途端にわからなくなります

                                                        

さらにいえば、場所と日が同じであっても、意見が食い違うこともあります

それは時間が違うときです

あなたが昼間みた富士山の話をしているのに、同僚は夕方見た富士山の話をしていれば

当然二人の話は微妙に食い違ってきます

                                                        

さて、さらに話を進めましょう

3わる2は? という算数の質問に対して

A君は

「わりきれない」 と 答えました

自身満々です、今日学校で習ったばっかりだからです

それに対してB君が

「1あまり1だよ」と 自信たっぷりに言います

B君も最近学校で習ったばっかリです

これをきいたA君は

3わる2はわりきれないのに 1あまり1だ なんて B君は変なことをいう奴だな

ちゃんと勉強した方がいいんじゃないかな と 内心思います

                                                        

この2人の会話を聞いていたC君がいいます

「3わる2はね 1.5 だよ」

A君は思いました

「いってんご?   なにそれ? てん って何! わけのわからないことをいう奴だなー」

B君も思います

「何バカなこと言てんだー! てん って 10のことだろう

 今は算数の話をしているんだからさー 英語なんか持ち出すなよー」

このように思います

そして2人してC君のことを笑います、愚かな奴だと思います

                                                        

これは子供の世界のたとえ話です

今度は大人の例で話をしましょう

                                                        

 鈴木さん 「地球の形って紙に書けば結局は円ですよね」

それをきいて佐藤さんが言います

 佐藤さん 「鈴木君、 君ー 、大学でてて、そんなこと言ってんのかー

        地球は自転しているからさー 遠心力が働くので正確には楕円形なんだよ

        君、しっかりしろよー」

                                                        

これを聞いて梅村さんが自信満々で笑いながら言います

 梅村さん 「2人ともたいしたことありませんねー

        いいですか、地球にはヒマラヤ山脈や日本海溝があるんですよ

        だから、正式には地球の形は円や楕円形ではなくてぎざぎざしてるんですよ

        全く、二人とも認識力低いですねー」

と 誇らしげに言います

                                                         

それを聞いた鈴木さんは思いました

 「遠心力によるゆがみやヒマラヤ山脈や日本海溝によるぎざぎざは

  紙に書けば鉛筆の黒い線の中におさまるので

  地球の形は見た目は円なるんだけどね」

でも、このことを指摘して先輩二人に恥をかかせてもしょうがないと思って

鈴木さんは指摘しませんでした

                                                         

その結果、鈴木さんは二人には認識力低い愚か者と判断されてしまうのですが

実際は鈴木さんが3人の中では一番認識力が高いということはいうまでもありません

                                                        

今2つの例を挙げて認識力の高さによって意見は異なるという話をしました

日常生活で自分がA君やB君、あるいは佐藤さんや梅村さんになっていないか

たまには振り返ってみるのは重要なことでしょう                                


意見の相違 3

2008-09-07 09:35:00 | 意見の相違

物体は見る位置・角度によって見え方が異なるので

当然、見る位置・角度が違う人がその見ている物の説明をしても

全く異なる説明となることがあります

                                                         

物体の場合、このことは簡単にわかりますが

対象が人生の諸問題や社会現象となると途端にわからなくなります

                                                        

人生のある問題について、自分とは全く異なる、他人の意見(説明)を聞いて

間違っている、正してあげよう、正さなければならないという気持ちから

最初は親切心あるいは義憤で

相手との違いを主張するわけですが

相手にも自分の主張には根拠も確信もあるわけで

そう簡単には納得(同意)しません

そして、議論がはじまります

そして、ある言葉でプライドが傷つくことにより感情的な言い争いとなります

                                                        

ブログでコメント欄を開放していると、このリスクがありますので

運営者は注意と覚悟が必要でしょう

多くのブログがコメント欄が原因で閉鎖されるのを見るにつけ少し悲しい思いがします

                                                       

大和光紀を訪れた人の中には、

ご自身も哲学系、精神世界系、宗教系のブログを運営している人が少なからずいると

思いますので、コメント欄を開放されているときは、このことを認識されて

承知の上で解放されるのがいいのではないかと思います

                                                                                                                

コメント欄でネガティブな発言をする人には、

 1、そのブログを運営している人と同じくらいのレベルの人が実は嫉妬している

   (本人は断固否定するでしょうが・・・というよりは気づいていないでしょうが)

 2. ブログ運営者よりかなりレベルが低いため

   ブログ運営者の言っていることが理解できず、的外れな主張をしている

この2つが多く見うけられます

                                                        

今、意見の相違というテーマで話をしているので、

コメントについて少し触れてみましたが参考にしていただければ幸いです

                                                        

それから参考までにいいますと

ブログを見た人がブログ運営者よりレベルがかなり高い場合

その人が何か発言するということはあまりありません

                                                        

そういう人は

「この人は今こういう発展段階にあるのだなー」 とか

かりに、教えてあげたいことがあったとしても

「今は認識できないだろうなー」 とか

いやむしろ、そんなことすればプライドを傷つけて

「感謝されるどころか、かえって反発を受けるだろうなー」 と思い

沈黙を守るだけです

                                                                                                                

一方、嫉妬心からではない、真の親切心からの、適切なアドバイスだとしても

議論になる場合は、その助言者はブログ運営者よりはレベルは上ではあるけれども

少し、上 というレベル ということになります

                                                        

レベルが大きく異なるとケンカにはなりません

プロの格闘家がケンカ自慢の素人と本気でケンカすることはないのです

腹をたてることもあまりないということもできるでしょう

                                                        

それから、社会に有益な内容のブログを運営している人で

コメント欄を公開している人の中には、心の奥底で

読者からの肯定的反応、つまり賞賛、感謝、激励を期待している人もいます

      (そうでない人も、もちろん多くいます) 

「この人は、心の底では実は賞賛、感謝を求めているな」

と思われていることもあるということを認識しておくのは有益なことでしょう

                                                        

いずれにせよ

世の中に貢献する内容なので感謝や賞賛という反応が返ってくるのは当然なのですが

同時に、同じように優れた内容のものを公開しながら

今ひとつ感謝や賞賛といった反応が得られない人からの嫉妬も返ってくることは多いです

そして、それが原因でコメント欄が荒れてブログが閉鎖になることがあります                                                        

                                                        

これは悪霊・悪魔が自分たちにとって邪魔なブログをつぶす常套手段である

ということを認識しておくことは極めて重要なことだと思います                                           

                                                                                                                 

次回は、人生経験が同じで且つ見ている地点が同じであっても

意見が異なるケースについてお話ししたいと思います


意見の相違 2

2008-08-31 09:38:00 | 意見の相違

各人の人生経験が違うために

その人生経験基づいて形成された信念や考え方は当然に違います

                                                         

しかし、たいていの人はこの基本的なことを悟っておらず

自分と違う信念や考え方に遭遇すると不快に感じることが多く

相手の方が間違いであると判断することも多いようです

                                                        

これは、相手の人生経験を認識しておらず、かつその人生経験に基づく

考え方や信念が理解できないもしくは容認できないことから生じています

                                                        

もし、あなたがこれまでに他の誰かと真剣に議論し

不愉快に感じて、相手をやりこめたことがあるならば

残念なことですが、あなたは上記のことを悟っているとは実はいえません

                                                         

真に悟っているならば、感情的になって議論することはないからです

                                                        

あなたはここまで読んである意味ショックをうけたかもしれませんが

気にすることはありません

                                                        

かなりのレベルの人でも同様だからです

(レベルとは、この世での地位、名声、そして精神の発達程度をさします)

正しい宗教の中興の祖といわれるレベルの人たちでさえ

感情的に他の正しい宗教を否定していることが少なからず見られるので

彼らをもってしても、厳密には、このことは悟っていなかったんだなということがわかります

                                                        

というと、

「ではおまえは全ての意見が正しいというのか」

「そんなことがありえると本当に思っているのか」

と、言う人が出てきますので、答えたいと思います

                                                        

意見の正誤はないが、高低はあると 

                                                        

そして、片方の意見があまりにも低いと高い方からみると、間違っているのとほぼ同じ

でも、高低にそれほど差がない場合

相対的に高い方が相対的に低い方をみて、間違っている、というのは適切ではない

と答えたいと思います

                                                        

低い方からは、高い方の意見が認識できないので

 認識出来ないものは肯定できない

 肯定できないものは否定だ

 否定されるものは間違っている

 間違っているならば、教えてあげよう、教えてあげねばならない

 間違っているならば、正してあげよう、正さねばならない

こういう論理で意見が発せられ

それを受けた相対的に高い方の意見の人も

相手の思考は理解ができたとしても

 間違っているから、教えてあげよう、いや教えねばならない

 間違っているから、正してあげよう、いや正さねばならない

と、同じように考えて反論してきます

                                                        

最初は双方ともに紳士的ですが

議論はだんだんと白熱化し、そしてどちらかが発したあるひとことが発端となって

感情的な言い争いになります

                                                        

さて

今日私が伝えたいのは

仮に人生経験が全く同じであり、全く同じ本を読んでいたとしても

意見が異なることがあるということです

                                                        

いま、3人の人が人生で初めて円錐を見たと想像してみてください

Aさんは円錐を真上から見ています

当然,Aさんの円錐に対する説明はこうなります

 「円錐というのは、曲線でできています 早い話が円です

                                                        

それを聞いたBさんがこう反論します

ちなみにBさんは円錐を斜め下から見ています

                                                        

 「今、Aさんは円錐とは曲線でできているとおしゃりましたが、私のみるところ

  円錐は3本の直線でできています

  円錐のことを円と同じというのは理解できません

  それをいうならな円錐は三角形でしょう」

                                                        

これを聞いたAさんが反論します

 「円錐が三角形とはあなた妙なことをおっしゃいますね

  円錐の外延部はどこをとっても中心部から同じ距離離れていますから

  どう考えても、円錐は円ですよ

  あなた、ちゃんと目はついていますか」

                                                        

これをうけてBさんが少々気色ばんで答えます

 「目がついているのかとは失礼な!

  そちらこそ、3つの角がみえないのですか

  今、Aさんは円錐は曲線でできているとおっしゃいましたけれど

  もし、曲線でできているのならば、角は絶対できないと思いますが・・・

  そちらこそ、事実を客観的にみた方がいいのではありませんか」

                                                        

これを受けてAさんはかなり皮肉って答えを返し

それをうけてBさんもかなり強い言葉でいいかえします

                                                        

それを見ていたCさんが論争をまとめようと出てきます

ちなみにCさんが円錐をみている地点はAさんよりは下でBさんよりは上です 

                                                        

 「Aさんの意見もBさんの意見も私はもっとだと思います

  しかし、私のみるところ、円錐とは曲線でできているところもあるし

  2本の直線でできているところもあるようにみえます

  さあさあ、もうこのへんで仲直りしましょうよ」

と、なかをとりもちます

                                                        

Cさんは内心自分はAさんよりもBさんよりも自分の方が悟っていると思っていますが

そういう態度はみせずに、大人の態度で事態を収拾しようと努めます

                                                        

しかし、Cさんの内心はAさんもBさんも見透かしていて

共に、Cさんの態度に不快感を感じます

そして三者三つ巴の議論となっていきます

                                                        

円錐を円とか扇型とか三角形というのは

間違いではありませんが正解ともいえません

                                                        

正解の一部であるもしくはそのように見えることはある

というのが正しい意見であることは

円錐の例だと簡単にわかるのですが

これが、人生の諸問題になってくると途端にわからなくなります

                                                        

円錐を2次元の概念までで説明すると

どうしてもAさん、Bさん、Cさんのようになります

円錐を正しく理解するには

3次元つまり立体の概念をもっていないと無理でしょう

                                                        

円錐の説明ができるぶんだけ

この3人は他の人よりは悟っているとは思いますが

立体の概念は無いみたいなので

円錐の本当の形について納得させることは困難か無理でしょう

時期を待たねばならないと思います                                                       

                                                       

今日の話は言われればすぐわかる話で

 「そんなこと、とっくの昔に知ってたよ

  そんなこと得意げに話すんじゃないよ、みっともない

  そういうのを自己顕示というんだよ」

と、思う人が少なからずいることを認識しつつ

今日の話の内容を真に身につけて、今後は人と議論しても熱くならない人が

1人でもでればいいなあと思っています

                                                        

                                                         


意見の相違 1

2008-08-23 08:23:00 | 意見の相違

意見の相違 これは誰もが必ず経験することです

親子間の意見の相違、夫婦間の意見の相違、

仲間内での意見の相違、上司、部下との意見の相違等

もう、ありとあらゆるところに意見の相違が存在しています

                                                      

そして、この意見の相違が発端となって多くの争いが起きています

最初は精神的な戦い、ついで、経済的な戦い、そして肉体的な戦い

最後には戦争という状態にまでなります

                                                      

今回はこの意見の相違がどうしておきるのかということを述べたいと思います

意見の相違がどうしておきるのかということを悟ると

意見の相違により丁々発止の議論をしている人々をみると

「あー、この人たちはまだ悟ってないなー」

と思え自分の心に余裕が生じます

                                                      

政治家全員が意見の相違により丁々発止の議論をしています

会社では経営陣が真剣に議論をしています

しかし、真剣に熱くなるまでそして怒りの感情が発生するほど

議論をしている人たちはどんなに地位が高かろうと名声があろうとも

今日話すテーマに関しては悟っていないといえます

                                                      

その意味で、あなたが今日、意見の相違というテーマで悟ると

あなたは、自分の会社の経営陣より、国会議員より、有名な学者より

悟っていることになりますが

そのことが、心に余裕をもたらすのはよいとしても

副作用として優越感も発生させるのでそこのところは気をつける必要があります

                                                      

しかし、いずれにせよ

今後は、意見の相違により不愉快にな気持ちになることは、もうなくなる

ことはまちがいないでしょう

                                                      

まず、第一に私たちが悟るべきことは

私たちの顔がそれぞれ違うように、意見も当然にそれぞれ違うのだという

基本中の基本をしっかり認識する必要があります

                                                      

こう言われれば、何を当たり前のことをいまさらと思う人がいるでしょうが

自分と違う意見を言われたとき、不愉快に思ったことがある人は

本当のことを言えば

私たちの顔がそれぞれ違うように、意見も当然にそれぞれ違う

ということを実は悟っていません

                                                       

もし、本当に悟っていたならば自分と違う意見を言われたときに

不愉快な気分になることはまずないはずです

                                                          

にもかかわらず不快な気分になったことがあるということは

実は悟っていないのだということを

しっかり、かつ素直に認めなければならないと思います

                                                      

各個人の顔が違うように考え方も当然違うのだという基本的なことを

ほとんどの人が実は悟っていない

だから多くの争いがおきているということを認識したうえで

では、なぜ人の意見はそれぞれ違うのでしょうか

                                                      

それは、私が改めて言うまでもなく、

その人が生きてきた人生が各人違うからです

                                                      

どんな家庭に生まれ、どんな教育を受けたのか、

どのような先生に教わりどのような本を読んだのか、

どんな苦楽があったのか、

これらの人生経験はそれぞれが違ったものを持っています

当然、自分の人生経験に基づいてそれぞれの考え方は人によってまちまちです

                                                      

お金で苦労した人が

何だかんだといってもお金は大事だという信念をもつのは当然です

反対に、お金はあっても家族愛の薄い家庭で育った人が

人生ではお金より愛の方が重要だという信念をもつこともまた当然なことです

                                                        

もし、この二人が出会いお金と愛はどちらが重要かということで議論したならば

お互いは決して譲らず

双方が相手のことを悟ってない愚か者と思うことでしょう

そして、この意見の不一致から相手の人格全否定まで進むこともあるでしょう

                                                      

そして、これと似たことが世の中のあちこちでおきています

それが実情です

ある意味残念なことです

                                                      

次回は、なぜ人の意見はちがうのかというテーマについて

別の角度から、言い換えれば守護霊の立場から

もっと掘り下げて述べてみたいと思います