運命と宿命の違いについて述べたいと思います
まず、宿命ですが、宿命はそうなることが決まっていて
変更すること、あるいは変更される可能性がゼロのものをいいます
たとえば、あなたが男性として生まれてきたならば子供を産むことはできません
これはどうしようもありません
あなたが、過去世女性であってどんなに子供が好きであっても
今世男性として生まれたならばどうしようもないのです
一方、運命はそうなることが決まっているが
変更すること、あるいは変更される可能性がゼロではないものをいいます
たとえば、敵同士の家にうまれた男女は結婚できない運命にあります
しかし、絶対に結婚できないかといえば、そうでもありません
可能性は極めて小さいですがゼロということはありません
さて、ここで私があなたに伝えたいことは
宿命も運命も生まれてくる時に自分で決めている
あるいは、自分で決めているわけではないけれども
自分がそういう宿命、運命をもっていることを
自分では納得している、または承認しているということです
そして、魂の進歩の程度、言葉を変えれば悟りの高さに応じて
自分の宿命、運命を自分できめる割合は大きくなります
したがって、以前述べたヘレンケラーは自分が三重苦の肉体をもつということは
自分で決めていたといえます
そして、相当きつい人生をおくる運命になることは納得していたということになります
(現在の日本においても、そういう人がいます)
進歩の程度がそれほど高くない魂は、より進歩している魂と相談して
自分の宿命、運命を決めています
ここで重要なことは
運命を自分で決めている、あるいはそうなる運命を自分では納得しているということは
たとえどんなに苦しい運命であっても
自分では何とか克服できると思っていたということです
この事実をとらえて、
自分がこえられない苦難はこない、またはない という教えがあります
肉体的ハンデを生まれたときから背負っている人
あるいは、人生の途中から背負うことになった人は
生まれてくる前にそうなること、あるいはそうなる可能性が高いことを承知の上で
でも自分は何とか克服できるだろうという見通しを持って
生まれてきているのです
この点をとらえて
肉体的ハンデを背負った人は強い魂の人である ということもあります
ですから、今この文章を読んでいるあなたが
もし、車イスの生活になって人生を悲観しているのなら
悲観するのをやめてもっと前向きな考え方をとらねばなりません
車イスの生活になることは自分で決めてきた
あるいは納得してきたと認識し
そういう状態になっても自分はその苦難を克服してみせる
その苦難に負けずに今回の人生をまっとうする、まっとうできると
思って生まれてきたのだと認識し
残された人生に積極的な意味を見出すのです
「そうか、車イスの生活になるという困難に出会っても
自分はその困難に負けないという前提にたって
車イス生活になることは自分で決めてきたのか」
「自分で決めないまでも自分では納得してきたのか」
ということを思い出していただきたいと思います
そして
「やってやろうじゃないか、自分はこの困難に打ち勝ってみせるぞ」
という勇気と決意を持って
残された人生に積極的な意味を見出していただきたいと思います
今回は車イス生活を例にして話しをしました
あなたがもしこれとは違う別の困難を今背負っているのなら
その背負っている困難に置き換えて考えてみることをお勧めします
人は例外なく、
その人に合った
困難苦難を背負って生まれてきています
でも、その困難苦難は自分で決めたか、
自分で決めたわけではないけれども、納得または承知しているものです
ですから、あなたはその困難苦難に負けないはずです
一歩譲っても耐えられるはずです
少なくとも、自分ではそう思っていました
そして、あなたはその困難苦難から何かを学ばねばなりません
それが、今回、肉体をもった目的のひとつであるわけですから