gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

宗教の実態(大宗教の場合)

2008-09-28 09:50:00 | 宗教の是非

今日は宗教の実態について述べたいと思います

まず既存の大宗教ですが、成立から相当の年月が経過しているので

時代とあわなくなってきています

                                                        

きれいな言い方をすればこうなりますが、

率直にいうと、既存の宗教で救われる人は少なくなったということで                                                                      

仏教にせよ、キリスト教にせよ、日本神道にせよ、もはや冠婚葬祭のためにある

と、言い切る日本人は多いことでしょう

                                                        

私はこのことについては、その通りだと認めたいと思います

                                                        

仏教やキリスト教や日本神道のトップに立っている人や幹部たちに霊能力がある人は

ほとんどいません

これは、いたしかたのないことかもしれませんが

そういう人たちが人格者であるというよりは政治家に近いということを私は残念に思います

                                                        

例外は当然ありますが

既存宗教のトップや幹部は出世競争に勝ち残った人々です

出世競争に勝ち残る過程で、権力闘争や金にまつわるダーティーな部分に

関係することは避けられないことです

                                                       

さらに、権力を握ったならばその権力を維持するためにそれなりの悪行もしています

また、権力を使ってそれなりの悪行もしています

                                                        

つまり、神仏からみると、もはや人格者とはいえない、むしろ宗教を汚すものである

という人が、少なからずいるということです

                                                        

これは、時間の経過とともに腐敗と堕落が進むということが

宗教にもあてはまっているということに他なりません

                                                        

また、既存大宗教の中堅や末端の人たちはどうかというと

志をもって宗教に入ってくる人もいるでしょうが

多くは世襲により、なんとなく、あるいはそれが運命だからとあきらめて、あるいは納得して

宗教の世界に入ってくる人がほとんどです

                                                        

このことが宗教人の凡人化を決定的にしています

                                                        

私からみて、

お寺の住職や教会の神父や神社の神主が普通の人より特に悟っているとは思えません

自分の属する宗派の教義には多少精通してますし、儀式のやり方も知っていますが

それらは、残念ながら、短期間学習して暗記したものです

                                                        

ゆえに、人々に敬われるような言葉を発することができません

せいぜい、常識的なこと、道徳的なことを言うにすぎません

                                                        

これでは、人々が既存大宗教から離れるのは無理のないことでしょう

                                                        

私がこのことを確信したのはある日本神道系の学生寮に入寮したときです

それまで私は、その寮は教会の師弟が入る学生寮なのだから

立派な人たちがたくさんいるだろうと思っていたのですが

実際は、平均以下の人たちばかりで驚いたことがあります

                                                        

「えー、こんな人たちが、短期間学習しただけで教会長になるの~

 人々に教えを説くなんて無理だろう~

 この程度の人たちを先生として尊敬し、お布施を払うのはばかばかしいなー」

と心から思ったことがあります

                                                        

また、少しはましだなーと思う人がいても、

「俺次男坊だから、サラリーマンになるよ」

といっていました

                                                         

私は宗教家の家族といえども普通の家族と少しも変わらないのだなーということを

悟ったのがその寮に入寮して得たことでした

以来、世間で立派であると思われている宗教家がどんなに立派な偉そうなことを言っても

私はさめた目でみるようになります

  「あなたの私生活はどうなんですか~

   すぐかっとなることはありませんか~  

   あなた、謙虚ですか~

   まわりの人にいばりちらしてませんか~

   まさか、愛人、囲っていないでしょうね~」

と思いながら聞いているのです

そして、実態は私が思っている通りであるということを認識しながら・・・

                                                        

今回は既存大宗教の実態についてのべました

念のために言っておきますが、人格者がゼロだと言っているわけではありません

そこのところをはやとちりして、怒ったとしたら

それは今日の私の話を自分で証明したことになります

                                                        

なぜなら、人格者はこの程度のことでは怒らないからです

                                                        

次回は新興宗教の実態について述べたいと思います

                                                      

           

                                                        

                                                        


宗教の本質

2008-09-21 08:34:00 | 宗教の是非

あなたは宗教についてどういう意見・感想をもっていますか

という質問をすれば、さまざまな意見・感想がかえってくるでしょう

                                                         

そのさまざまな意見はその人たちの経験や見聞に基づいているものであり

その人たちにとっては、まさしくその通りなのだということは認識しつつも

私は正確なことを述べていきたいと思います

                                                        

当然、読む人に認識されなくて反発されることも予想しているのですが

ある意味しかたのないことと思っています

でも、私のいうことを理解されて人生に役立てる人もでてくるだろうとも考えています

                                                        

まず、宗教の本来の意味を伝えたいと思います

宗教は、肉体に宿った霊が本来の世界のことを全く忘れてしまわないように

神が自分の代理人を人間の世界に送り込んで教えをといたものです

                                                         

神は自分の分身である霊たちが

さまざまなことを経験して

その経験を通していろいろなことを学んで

進歩発展することを意図されて

霊を地上の世界で生活させることにしました

                                                        

この地上世界にはさまざまな霊域から霊が集まってきています

そして、生活しています

天上界では本来一緒に生活することのない霊たちが

地上界では一緒に生活することができます

なぜなら、肉体を持っているからです

                                                         

天上界では肉体がないので、

波動の法則(同じ波長のものが集まる)により

似たもの同士が集まって生活しています

そこでは、価値観に違いがあるもの、認識力に差があるものが

いっしょに生活することはありません

                                                        

しかし、人間の世界では肉体があるので

個々の波動がもろに外に表れるということはかなりおさえられています

それゆえに、いろいろな個性、考え方の霊が一緒に生活することができます

これは、いろいろな価値観に出会えて学ぶことも多いのですが

価値観の違いから衝突が当然おきてきます

                                                        

ここで、天上界の記憶が残っていれば衝突することもあまりないのでしょうが

神はあえて天上界の記憶を霊から一時封印されたのです

なぜなら、天上界の記憶があれば、似たもの同士が自然に集まってしまい

本来のさまざまな経験をするという意味が薄まってしまうからです

                                                        

さらにいうと、天上界の記憶がないことによって生じる混乱も

それを解決していくことが学びとなるという考え方をされているようです

これが地上世界に苦しみが存在している理由です

                                                         

ここのところを浅い理解で

地上世界に苦しみ、理不尽なことが多すぎる

神が実在するならばそして、人間が神の子であるならば

神はけっしてこのようなことは認めないだろう

しかし現実はどうだ、この世は苦しみと理不尽に満ちているではないか                                                    

だから、自分としては神の存在を信じることができないのだ

と、公に発言し、あるいは密かに思っている人は考え直す必要があります

                                                        

さらに、この誤った考えを持って自分を認識力高きものとし、

神の存在を信じているものを認識力低き愚か者と蔑んでいる人がいるならば

すぐに改めなさい

愚か者はあなたの方なのです

                                                        

神は学びのためにはある程度の混乱もしかたないと考えられましたが

その混乱で人間たちが苦しむのは放置できないということで

自分の代理人をつかわして

死後の世界はあるのだよ

人間の世界は仮の世界のなのだよ

そして、死後自分が戻る世界は自分がどんな生き方をしたかで決まるのだよ

ということを説かせたのです

                                                        

大宗教の教祖はこれらのことをそれぞれの方法で人間に教えたのですが

全部説ききらないうちに寿命がきてしまったり

教祖は教えてたのだけれど、教えてもらったほうが認識できず

そのため後世に残っていないというのが実情です

                                                        

いずれにせよ、死後の世界を説くのは

正しい宗教の「いろはのい」です

基本中の基本です

もしあなたが信じている新興宗教が

あの世の存在を否定することもないが肯定することもないのならば

その宗教は信仰するに値しません

                                                        

むしろ、邪宗か将来邪宗になるものと思ってよいでしょう

ましてや、現世だけの教えをとく宗教があれば、それは間違いなく邪教です

その邪教を信じ続けるならば、間違いなく不幸になります

                                                        

さらに

あの世の存在を否定することもないが肯定することもない人たちに言います

あなた方はこう言うことによって「自分は、かしこい」と思っているでしょう

しかし

死後、あなた方はこう思っていたことを恥じることになります

そのことは明確に伝えておきます

                                                        

特に仏教学者で「無我」を根拠に死後の世界を否定する人たちに伝えます

仏教の世界には天国・地獄の概念があります

もし、死後の世界がないのなら

仏教に天国・地獄の話、あるいは魔の惑わかしの話など一切でてこないはずです

                                                         

あなた方が学んだものは

霊能力なきものが、自分の低き認識力であやまった理解をして

それが書物という形で残されたものです

                                                        

つまり、初めから間違っているものをそうとは知らずに学んだのです

過去の文献を根拠に、それに少しばかしの自分の考えを付け足す

学問の弱点であるといえるでしょう

                                                        

宗教を学んでいる人たちにいいます

あなたがどれほどの書籍を読み、そしてたとえどれほど高い地位と名声を得ていたとしても

結局は死後の世界の存在を肯定しないのであれば

あなたは死後、宗教の本など1冊も読んだことはないけれども

素直に死後の世界の存在を信じ

道徳的にいきてきた普通の人の下座につくことになります

そこには、学歴、名声、地位、実績は一切関係ありません

このことは明白にしてストレートに伝えておきたいと思います

                                                      

                                                          


意見の相違 4

2008-09-14 09:51:00 | 意見の相違

同じものを見ていても、見る位置、角度が違うと同じものでもまるで違うものにみえる

という話しを前回しました

                                                       

このことは、言われればわかるのですが、実際にはわかっていない人がほとんどで

そのため、あらゆるところで議論が発生しているとも述べました

                                                        

今回は、見る位置、角度が同じところから同じものを見ても微妙に違うものに見える場合の

話をしたいと思います

                                                        

今、あなたはある旅館に宿泊していると想像してください

その旅館の部屋からは富士山がよく見えます

あなたは旅行から帰って会社の同僚に

いかに旅館の部屋から見た景色がきれいだったかを話しています

                                                         

 あなた 「この前、ある旅館に泊まったんだけどそこから見た富士山すごくきれいだったよ」

 同僚  「どこに、泊まったんですか」

 あなた 「○○旅館だよ」

 同僚  「えっ、そこなら、自分も泊まったことありますよ、何号室に泊まったんですか?」

 あなた 「301号室だよ」

 同僚  「えー、奇遇だなー 自分も301号室です」

                                                        

こんな感じで会話が進むのですが、話していく間に富士山のきれいさを語るところで

微妙に意見が食い違います

そして、お互いが、感じ方が違うなー、おかしい人だなーと思うのでした

                                                                          

さて、同じ旅館の同じ部屋から富士山を見たのに

なぜ二人の感じ方は微妙に食い違ったのでしょうか

                                                       

その答えは、宿泊した日が違ったからです

 あなた「ところで、君 君が泊まったのはいつ?」

 同僚 「5月5日ですが」

 あなた「あー それでわかった、僕は11月3日だよ」

 同僚 「なんだ、そうなんですか」

と二人は意見の食い違いは宿泊した日が違うことにによって生じたものだと理解して

意見の食い違いに納得するのでした

                                                        

今、景色の見え方を例にあげて説明したので簡単なことに思えるかもしれませんが

これが、いざ人生の諸問題や社会現象になると途端にわからなくなります

                                                        

さらにいえば、場所と日が同じであっても、意見が食い違うこともあります

それは時間が違うときです

あなたが昼間みた富士山の話をしているのに、同僚は夕方見た富士山の話をしていれば

当然二人の話は微妙に食い違ってきます

                                                        

さて、さらに話を進めましょう

3わる2は? という算数の質問に対して

A君は

「わりきれない」 と 答えました

自身満々です、今日学校で習ったばっかりだからです

それに対してB君が

「1あまり1だよ」と 自信たっぷりに言います

B君も最近学校で習ったばっかリです

これをきいたA君は

3わる2はわりきれないのに 1あまり1だ なんて B君は変なことをいう奴だな

ちゃんと勉強した方がいいんじゃないかな と 内心思います

                                                        

この2人の会話を聞いていたC君がいいます

「3わる2はね 1.5 だよ」

A君は思いました

「いってんご?   なにそれ? てん って何! わけのわからないことをいう奴だなー」

B君も思います

「何バカなこと言てんだー! てん って 10のことだろう

 今は算数の話をしているんだからさー 英語なんか持ち出すなよー」

このように思います

そして2人してC君のことを笑います、愚かな奴だと思います

                                                        

これは子供の世界のたとえ話です

今度は大人の例で話をしましょう

                                                        

 鈴木さん 「地球の形って紙に書けば結局は円ですよね」

それをきいて佐藤さんが言います

 佐藤さん 「鈴木君、 君ー 、大学でてて、そんなこと言ってんのかー

        地球は自転しているからさー 遠心力が働くので正確には楕円形なんだよ

        君、しっかりしろよー」

                                                        

これを聞いて梅村さんが自信満々で笑いながら言います

 梅村さん 「2人ともたいしたことありませんねー

        いいですか、地球にはヒマラヤ山脈や日本海溝があるんですよ

        だから、正式には地球の形は円や楕円形ではなくてぎざぎざしてるんですよ

        全く、二人とも認識力低いですねー」

と 誇らしげに言います

                                                         

それを聞いた鈴木さんは思いました

 「遠心力によるゆがみやヒマラヤ山脈や日本海溝によるぎざぎざは

  紙に書けば鉛筆の黒い線の中におさまるので

  地球の形は見た目は円なるんだけどね」

でも、このことを指摘して先輩二人に恥をかかせてもしょうがないと思って

鈴木さんは指摘しませんでした

                                                         

その結果、鈴木さんは二人には認識力低い愚か者と判断されてしまうのですが

実際は鈴木さんが3人の中では一番認識力が高いということはいうまでもありません

                                                        

今2つの例を挙げて認識力の高さによって意見は異なるという話をしました

日常生活で自分がA君やB君、あるいは佐藤さんや梅村さんになっていないか

たまには振り返ってみるのは重要なことでしょう                                


意見の相違 3

2008-09-07 09:35:00 | 意見の相違

物体は見る位置・角度によって見え方が異なるので

当然、見る位置・角度が違う人がその見ている物の説明をしても

全く異なる説明となることがあります

                                                         

物体の場合、このことは簡単にわかりますが

対象が人生の諸問題や社会現象となると途端にわからなくなります

                                                        

人生のある問題について、自分とは全く異なる、他人の意見(説明)を聞いて

間違っている、正してあげよう、正さなければならないという気持ちから

最初は親切心あるいは義憤で

相手との違いを主張するわけですが

相手にも自分の主張には根拠も確信もあるわけで

そう簡単には納得(同意)しません

そして、議論がはじまります

そして、ある言葉でプライドが傷つくことにより感情的な言い争いとなります

                                                        

ブログでコメント欄を開放していると、このリスクがありますので

運営者は注意と覚悟が必要でしょう

多くのブログがコメント欄が原因で閉鎖されるのを見るにつけ少し悲しい思いがします

                                                       

大和光紀を訪れた人の中には、

ご自身も哲学系、精神世界系、宗教系のブログを運営している人が少なからずいると

思いますので、コメント欄を開放されているときは、このことを認識されて

承知の上で解放されるのがいいのではないかと思います

                                                                                                                

コメント欄でネガティブな発言をする人には、

 1、そのブログを運営している人と同じくらいのレベルの人が実は嫉妬している

   (本人は断固否定するでしょうが・・・というよりは気づいていないでしょうが)

 2. ブログ運営者よりかなりレベルが低いため

   ブログ運営者の言っていることが理解できず、的外れな主張をしている

この2つが多く見うけられます

                                                        

今、意見の相違というテーマで話をしているので、

コメントについて少し触れてみましたが参考にしていただければ幸いです

                                                        

それから参考までにいいますと

ブログを見た人がブログ運営者よりレベルがかなり高い場合

その人が何か発言するということはあまりありません

                                                        

そういう人は

「この人は今こういう発展段階にあるのだなー」 とか

かりに、教えてあげたいことがあったとしても

「今は認識できないだろうなー」 とか

いやむしろ、そんなことすればプライドを傷つけて

「感謝されるどころか、かえって反発を受けるだろうなー」 と思い

沈黙を守るだけです

                                                                                                                

一方、嫉妬心からではない、真の親切心からの、適切なアドバイスだとしても

議論になる場合は、その助言者はブログ運営者よりはレベルは上ではあるけれども

少し、上 というレベル ということになります

                                                        

レベルが大きく異なるとケンカにはなりません

プロの格闘家がケンカ自慢の素人と本気でケンカすることはないのです

腹をたてることもあまりないということもできるでしょう

                                                        

それから、社会に有益な内容のブログを運営している人で

コメント欄を公開している人の中には、心の奥底で

読者からの肯定的反応、つまり賞賛、感謝、激励を期待している人もいます

      (そうでない人も、もちろん多くいます) 

「この人は、心の底では実は賞賛、感謝を求めているな」

と思われていることもあるということを認識しておくのは有益なことでしょう

                                                        

いずれにせよ

世の中に貢献する内容なので感謝や賞賛という反応が返ってくるのは当然なのですが

同時に、同じように優れた内容のものを公開しながら

今ひとつ感謝や賞賛といった反応が得られない人からの嫉妬も返ってくることは多いです

そして、それが原因でコメント欄が荒れてブログが閉鎖になることがあります                                                        

                                                        

これは悪霊・悪魔が自分たちにとって邪魔なブログをつぶす常套手段である

ということを認識しておくことは極めて重要なことだと思います                                           

                                                                                                                 

次回は、人生経験が同じで且つ見ている地点が同じであっても

意見が異なるケースについてお話ししたいと思います