白虎隊 憧れの的!strong>
白虎隊から提督と呼ばれた男
会津藩の山川大蔵をご存知ですか?
大河ドラマ「八重の桜」をご覧になったかたでしたら玉山鉄二さんが演じていた若き指揮官を思い出していただけるだろうか。
山川大蔵
この若い武将は会津が誇るエリートで白虎隊の少年たちは提督と呼び尊敬し憧れの存在であった。
山川家は高遠以来の家柄で早くに父を亡くし祖父の兵衛から英才教育を受けて育った。幕府がヨーロッパ視察団を送る時に会津藩から選ばれた。旧幕府外国奉行、小出大和守に随行しエジプト:ヨーロッパ:ロシアと諸外国を巡った。エジプトのスフィンクスの周りで侍たちが集合写真を撮っている古写真をご覧になった事ありませんか。その中に山川大蔵がいました。エジプトでは外国人通訳が日本人を侮る行為や言葉を発したので刀の鞘で殴りつけ従わせたり、パリ万博では日本には幕府の他に薩摩藩があると言いふらしてた薩摩藩士に激怒しあわや切り合いになる寸前までいった。若い時は血の気の多かったようだが会津人からしてみたら痛快なエピソードでありよくぞ会津魂を見せてくれたと賛辞を受けた。
鳥羽伏見と会津戊辰戦争
帰国するとすぐに鳥羽伏見の戦いが始まった。大蔵は会津藩砲兵隊として薩長軍と戦ったが、敵の最新鋭の重火器の前に苦戦。折しも、将軍慶喜が会津藩主松平容保を率いて敵前逃亡:大阪湾に停泊中だった幕府海軍軍艦「開陽丸」に乗って江戸に帰ってしまった。将軍に置き去りにされた幕府軍と会津軍は大敗を喫した。この時大蔵は最後まで大阪に踏み止まり、会津藩士のけが人の救出に当たった。何十人という怪我を負った会津藩士と幕臣を大阪湾に残っていた幕府軍艦に収容し江戸まで連れて帰った。この事から内外から賞賛をあつめ会津に帰るや若年寄りに昇進、日光口に派遣される。
日光口の戦いは関東で戦っている旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介を助けて日光:今市の土佐兵を破り関東に出て白河口の西軍を孤立させる事が狙いであった。
日光口では大いに暴れまわり、土佐藩兵を黙らせた。この時の土佐藩士の指揮官は谷千城といい、この日光口での見事な指揮を取る敵将を褒め、明治になってから山川を日本陸軍に誘った。
ところがそのころ白河口にいた西軍は白河口を破り、二本松藩を攻め落城。母成峠を越えて一騎に会津城下へなだれ込んだ。せっかく日光口を防いでいても本国会津が落ちては意味がない!といった心境だったのではないだろうか。
会津鶴ヶ城城下での出来事は割愛しますが予測よりも早く薩長軍が攻めてきたため混乱していた。
城内へ入り籠城と腹を決めた者:兵糧を無駄に減らしてしまうまたは薩長軍に凌辱されないようにと一族で自決した者など。会津戊辰戦争はまだ150年しか経っていないので生々しい体験談が今でも鮮明に語り継がれている。
大蔵は会津手前まで戻れたが、城はすでに西軍に囲まれていた。西軍は寄せ集めの兵ばかりであることに彼は茶雲のし、会津の豊作を祝う「彼岸獅子」を先頭に敵陣突破。西軍はどこかの藩の援軍が到着したものだと思っていた隙に城内へ。城内の士気は上がった。籠城戦で稀に見る敵陣突破である。
しかしながらご存知のように会津藩は降伏。大蔵も東京へ送られる。その後、会津藩は斗南藩として岩手県と青森県に分散しながら3万石で立藩。ただし実際は9千石程度。しかも作物の育たない土地であった。
会津藩士とその家族18000人が斗南へ移動したが一冬で6000人が飢餓と極寒で亡くなった。長州閥が蛤御門での仕返しともいえる処置のため今でも会津人は長州人が好きではない。
逆に同じく攻め込んできた土佐藩は同情的であった。
山川浩西南戦争へ
斗南藩大参事を任された大蔵は名前を浩に改名。若き指導者は斗南での会津藩士の生活改善に奔走した。
この時期、薩摩閥は西郷隆盛を筆頭に政府での出仕を放棄し薩摩へ戻っていった。時代はまた戦乱に向かっていた。土佐の谷千城は戦闘力の高い元会津藩士に目を付けた。執拗に山川を陸軍に誘い部下とした。この事がきっかけで元会津藩士たちも陸軍や警視庁などに出仕する事ができるようになる。
そんなさなか、ついに西郷隆盛が1万3000人の士族を率いて反乱。熊本城にある熊本鎮台を攻撃。あっという間に熊本城は薩摩反乱軍に包囲され政府陸軍は籠城した。熊本鎮台の指揮官は谷千城であった。
山川浩に応援要請があり陸軍を率いて熊本城を目指した。
その時詠まれた和歌「薩摩人みよや東の丈夫が揚げ佩く太刀は利きか鈍きか」と内なる魂を燃やしていたのであろう。私はこの和歌が好きです。
熊本城下にたどり着くと一気に薩摩軍の囲を突破。見事上司である谷を助けたのである。
日本戦史の中で生涯の中で籠城戦を2回も突破した人物は山川浩しかいないであろう。
しかし、陸軍上層部は会津出身という事で山川浩を評価しなかった。非常時残念である。その後閑職に追いやられ予備役になる。政界にも進出したがもはやここまで。病に倒れ明治31年生涯と閉じた。
東京帝大の初代総長山川健次郎は浩の実弟。またアメリカに留学しのちに大山巌の後妻になる山川捨松は浩の実妹である。
是非、会津の山川兄弟の功績に興味を持って頂きたいと思い書かせて頂きました。
白虎隊から提督と呼ばれた男
会津藩の山川大蔵をご存知ですか?
大河ドラマ「八重の桜」をご覧になったかたでしたら玉山鉄二さんが演じていた若き指揮官を思い出していただけるだろうか。
山川大蔵
この若い武将は会津が誇るエリートで白虎隊の少年たちは提督と呼び尊敬し憧れの存在であった。
山川家は高遠以来の家柄で早くに父を亡くし祖父の兵衛から英才教育を受けて育った。幕府がヨーロッパ視察団を送る時に会津藩から選ばれた。旧幕府外国奉行、小出大和守に随行しエジプト:ヨーロッパ:ロシアと諸外国を巡った。エジプトのスフィンクスの周りで侍たちが集合写真を撮っている古写真をご覧になった事ありませんか。その中に山川大蔵がいました。エジプトでは外国人通訳が日本人を侮る行為や言葉を発したので刀の鞘で殴りつけ従わせたり、パリ万博では日本には幕府の他に薩摩藩があると言いふらしてた薩摩藩士に激怒しあわや切り合いになる寸前までいった。若い時は血の気の多かったようだが会津人からしてみたら痛快なエピソードでありよくぞ会津魂を見せてくれたと賛辞を受けた。
鳥羽伏見と会津戊辰戦争
帰国するとすぐに鳥羽伏見の戦いが始まった。大蔵は会津藩砲兵隊として薩長軍と戦ったが、敵の最新鋭の重火器の前に苦戦。折しも、将軍慶喜が会津藩主松平容保を率いて敵前逃亡:大阪湾に停泊中だった幕府海軍軍艦「開陽丸」に乗って江戸に帰ってしまった。将軍に置き去りにされた幕府軍と会津軍は大敗を喫した。この時大蔵は最後まで大阪に踏み止まり、会津藩士のけが人の救出に当たった。何十人という怪我を負った会津藩士と幕臣を大阪湾に残っていた幕府軍艦に収容し江戸まで連れて帰った。この事から内外から賞賛をあつめ会津に帰るや若年寄りに昇進、日光口に派遣される。
日光口の戦いは関東で戦っている旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介を助けて日光:今市の土佐兵を破り関東に出て白河口の西軍を孤立させる事が狙いであった。
日光口では大いに暴れまわり、土佐藩兵を黙らせた。この時の土佐藩士の指揮官は谷千城といい、この日光口での見事な指揮を取る敵将を褒め、明治になってから山川を日本陸軍に誘った。
ところがそのころ白河口にいた西軍は白河口を破り、二本松藩を攻め落城。母成峠を越えて一騎に会津城下へなだれ込んだ。せっかく日光口を防いでいても本国会津が落ちては意味がない!といった心境だったのではないだろうか。
会津鶴ヶ城城下での出来事は割愛しますが予測よりも早く薩長軍が攻めてきたため混乱していた。
城内へ入り籠城と腹を決めた者:兵糧を無駄に減らしてしまうまたは薩長軍に凌辱されないようにと一族で自決した者など。会津戊辰戦争はまだ150年しか経っていないので生々しい体験談が今でも鮮明に語り継がれている。
大蔵は会津手前まで戻れたが、城はすでに西軍に囲まれていた。西軍は寄せ集めの兵ばかりであることに彼は茶雲のし、会津の豊作を祝う「彼岸獅子」を先頭に敵陣突破。西軍はどこかの藩の援軍が到着したものだと思っていた隙に城内へ。城内の士気は上がった。籠城戦で稀に見る敵陣突破である。
しかしながらご存知のように会津藩は降伏。大蔵も東京へ送られる。その後、会津藩は斗南藩として岩手県と青森県に分散しながら3万石で立藩。ただし実際は9千石程度。しかも作物の育たない土地であった。
会津藩士とその家族18000人が斗南へ移動したが一冬で6000人が飢餓と極寒で亡くなった。長州閥が蛤御門での仕返しともいえる処置のため今でも会津人は長州人が好きではない。
逆に同じく攻め込んできた土佐藩は同情的であった。
山川浩西南戦争へ
斗南藩大参事を任された大蔵は名前を浩に改名。若き指導者は斗南での会津藩士の生活改善に奔走した。
この時期、薩摩閥は西郷隆盛を筆頭に政府での出仕を放棄し薩摩へ戻っていった。時代はまた戦乱に向かっていた。土佐の谷千城は戦闘力の高い元会津藩士に目を付けた。執拗に山川を陸軍に誘い部下とした。この事がきっかけで元会津藩士たちも陸軍や警視庁などに出仕する事ができるようになる。
そんなさなか、ついに西郷隆盛が1万3000人の士族を率いて反乱。熊本城にある熊本鎮台を攻撃。あっという間に熊本城は薩摩反乱軍に包囲され政府陸軍は籠城した。熊本鎮台の指揮官は谷千城であった。
山川浩に応援要請があり陸軍を率いて熊本城を目指した。
その時詠まれた和歌「薩摩人みよや東の丈夫が揚げ佩く太刀は利きか鈍きか」と内なる魂を燃やしていたのであろう。私はこの和歌が好きです。
熊本城下にたどり着くと一気に薩摩軍の囲を突破。見事上司である谷を助けたのである。
日本戦史の中で生涯の中で籠城戦を2回も突破した人物は山川浩しかいないであろう。
しかし、陸軍上層部は会津出身という事で山川浩を評価しなかった。非常時残念である。その後閑職に追いやられ予備役になる。政界にも進出したがもはやここまで。病に倒れ明治31年生涯と閉じた。
東京帝大の初代総長山川健次郎は浩の実弟。またアメリカに留学しのちに大山巌の後妻になる山川捨松は浩の実妹である。
是非、会津の山川兄弟の功績に興味を持って頂きたいと思い書かせて頂きました。