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落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯

2016年06月14日 | 
落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯

堀内豊秋海軍大佐を知っていたらかなりマニアックな歴史好きでしょう!
堀内海軍大佐を知らなくても海軍体操を知っている人は多いのではないでしょうか。
見た事ない方に…兵隊さん集団で体操している映像は見た事ありませんか。
この海軍体操を開発した人物こそ堀内大佐です。
戦後、この体操をもう少し簡略化したものこそ皆さんが小学校のころやっていた「ラジオ体操」ですよ。

堀内大佐の活躍
昭和十七年一月、真珠湾攻撃から緒戦は各地で優勢であった日本軍は次の攻略目標をセレベス島メナドに定めた。
日本軍として初めて落下傘降下を行った事で広く知れ渡った。時に堀内大佐四十一歳。過酷な落下傘部隊隊長としては世界最高齢の指揮官だったが、百メートルを12秒で走る俊足と海軍体操で鍛えぬいた機敏な動きでオランダ軍の攻撃をかわしながら飛行場を制圧した。
 この落下傘降下がどれほど危険な事か。まず落下地点の目標はあるわけだが、風の向きなどによってながされてしまうので、下手したら敵の陣地内に降り立ってしまう可能性があること。
 落下したらすぐさま落下傘を体から外さなければならない事。この間にも敵から攻撃を受けている。また落下中は自由に体が動かないため狙撃の目標になりやすいため地上に降り立つ前に命を絶つ可能性もある。
 落下して体から落下傘を外しても、武器も落下傘で落ちてくるので、速やかに武器の入った箱まで走り武器を確保しなければならない。ここまでが整ってから敵を攻撃することができるのです。
飛行場を制圧後、四キロ先のカカス水上基地にも侵攻、午後にはこの基地を奪って多くの犠牲者を出しながらも短時間のうちに作戦目標を達成した。
 オランダ軍の退路を断ち、南方作戦に圧倒的な優位を占めたその日、わが国最初の落下傘降下作戦がメラドにおいて勝利を収め指揮官「堀内豊秋」の名は国内外に広く伝わった。この事が後の彼に影響する。


占領地の司令官として
堀内司令官はメラド南側のランゴアンを占領後、捕虜にしたインドネシア兵を短期間のうちに釈放し、現地では貴重だった食塩を日本軍持参物資のなかから分け与えてとともに、バリ島では住民に製塩技術なども教えインドネシア人が自立できるように協力した。また同時に投降してきたオランダ軍将兵に対する暴行も禁じた。
堀内大佐は海軍学校時代から部下や下級生への暴力を禁止しており当時としては珍しい指揮官であった。もちろん部下などからは慕われていた。
 また住民が驚くほどの大幅な減税を進め三百五十年にわたりオランダの支配下で貧困と奴隷扱いの過酷な生活から解放した。軍紀:風紀は堀内司令の生活態度そのままに厳正を保ち、女性や子供たちが安心して外出できる街にした。現地では「殿」や「先生」など最大級の敬称で呼ばれ住民尊重の行政は内地まで知れ渡った。
堀内司令が異動になることを知った住民は転任引き止め嘆願書を上級司令官に出している。
日本軍司令官というと現地では略奪を行ったり自身は後方で命令を出しているだけの人も多かった中、誇れる日本軍人だと思います。

敗戦後
敗戦後堀内大佐はB級戦犯としてメナドのオランダ軍事法廷で裁かれた。
罪名は「捕虜に対する暴行、虐殺」を命じた罪である。
堀内部隊が厳粛でもその他の部隊が暴行などを行ったことで占領地の責任者である堀内が責任を負うことになったのであろう。まさに報復裁判だった。

堀内大佐以外にもインドネシアの現地人に慕われ一緒に独立運動に参加したインドネシア独立後スカルノ大統領から敬意を示された将校も多くいました。
彼らは武士道を貫いた本物の将官であったと思う。