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2016年06月22日 | 
会津戊辰戦争

薩長軍が持つ最新重火器の前では勇猛果敢な会津藩士たちも苦戦続き。
一番困ったのは「アームストロング砲」だ。会津藩や旧幕府軍の持つ丸砲弾と違い、椎実型破裂砲は飛距離も威力も各段に違う。さらに籠城戦を不利にしたのは鶴ヶ城から約2キロにある小田山を薩長軍に占領されたことだ。
小田山は鶴ヶ城より高く、山頂から城を覗く事ができる。鶴ヶ城は台地に立つ城で、山頂から見下ろしながら砲撃が可能。周りに高い建物もないので格好の目印だった。私もこの小田山西軍陣地を訪れた事があるが、これは見事に鶴ヶ城を見下ろせた。
 それに対して会津藩の砲撃は飛距離に短く上に向かって放つため西軍陣地まで届かない。なぜこの要所を取られないように押さえていなかった事は疑問でならない。とは言え、籠城戦の約1ヶ月間、1日2000発もの砲弾を受けても落城しなかった鶴ヶ城もまた天下の名城であったと思う。

生き残った少年

白虎隊の自刃については前回の「ならぬものはならぬものです(会津編)」で書かせてもらった。
ここからはその続きになる。飯盛山で自刃をした白虎隊の近くをたまたま近くの村の者が通り書かりその者が飯沼家に出入りしていた藩士の妻であったことから偶然にも助けられた。同じく飯盛山で自刃した19名はすでに絶命していたそうだ。飯沼少年は小太刀を喉に突き刺したがわずかに急所を外してしまい絶命しなかった。通りかかった地元農民に助けるふりをされ太刀を奪われ自分で止めを刺す事が出来なかった。会津の地元民にこのような行為にさらされた事が前年でならない。
 夜陰に紛れて城下町近くの宿で匿われ飯沼少年は命を長らえた。ただ回復に時間がかかってしまい歩けるようになった時には会津藩は降伏していた。
 飯沼少年は政府軍局に出頭したが脱走兵扱いを受け東京に護送。そこで長州藩士「楢崎頼三」と面会。その楢崎から敵国長州で謹慎する事と言い渡され楢崎とともに長州へ。かなり屈辱的な仕打ちと感じただろう。

長州での生活

飯盛山で自刃した白虎隊士の内、唯一生き残った飯沼貞吉。ひとり生き残った事を恥じ死を願う少年に再び生きる光を見出したのは敵である長州藩士楢崎頼三であった。山口県美弥市の小杉集落、その庄屋であった高見家には100年以上にわたり語り継がれてきた興味深い話がある。その内容は書き記されておらず一族が集まった時にだけ長老たちから内々に語られて今日に至る。村人も知らない長州人でもない謎の少年が現れたのは明治元年十二月初旬の事であった。
 飯沼少年はこの美弥村での生活で勉学に励んだ。時折楢崎から当時の最新事情の本などが送られてきては食い入るように読み込んだ。その中にあった西洋事情の「機会に向かってしゃべると紐を通じて離れた人と会話が出来る」といった文章にひかれた。いわゆる電話だ。
 当時の世界情勢ではイギリスとアメリカの間では海底ケーブルによって国を越えて会話する事が出来ていたのだ。この新しい西洋技術を知ることによって生きる光を見出す事ができた。

旅立ち

長州に来てから2年半が経ち飯沼少年も18歳になった。この時、会津藩も謹慎が解かれて自由の身になるが、楢崎から長州にいた2年半の事は絶対に他言しない事を約束させられた。謹慎が解けたと言っても長州藩に恨みを持つ会津藩士も多いだろうからこの先の人生に影響する事を懸念された。もちろん美弥村の村人にも箝口令が引かれたため口外されなかった。飯沼少年を匿っていた庄屋の高見家だけが口伝で子孫に伝えていた。今でもその風習は変わらないという。

その後電信技術学校に進んだ飯沼少年は明治五年に工部省に任官。各地の電信設備を手掛けた。その技術の高さかを買われ日清戦争時は大本営付き技術院として朝鮮半島に渡った。朝鮮半島では過酷な環境下であったが架設を成功させた。時折馬賊に襲われることもあり電信検査の時は拳銃を携帯するのだが、飯沼氏は「白虎隊士として一度死んだから命は惜しくない」といって携帯を拒んだ。
 また日露戦争時は海底ケーブルを状況に応じて移動させる離れ業で世界戦争の勝利に貢献した。
電信技術でその功績が認められ青色銅葉章を賜った。
昭和6年 その波乱に満ちた人生に幕をおろした。会津には一度も戻らなかったという。
この物語は平成になってから見つかった記手による。
2011年 飯沼貞吉子孫と高見家子孫と楢崎家子孫が一堂に会う機会があり話題になったのも新しい。
昨年、飯沼氏と直接お会いしてお話を伺う事ができた。内容が濃すぎて書ききれないので是非飯沼氏が手掛けた「白虎隊士飯沼貞吉の回生」を読んで頂きたい。