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会津将軍 山川浩

2016年06月19日 | 
白虎隊 憧れの的!strong>


白虎隊から提督と呼ばれた男

会津藩の山川大蔵をご存知ですか?

大河ドラマ「八重の桜」をご覧になったかたでしたら玉山鉄二さんが演じていた若き指揮官を思い出していただけるだろうか。

山川大蔵

この若い武将は会津が誇るエリートで白虎隊の少年たちは提督と呼び尊敬し憧れの存在であった。
 山川家は高遠以来の家柄で早くに父を亡くし祖父の兵衛から英才教育を受けて育った。幕府がヨーロッパ視察団を送る時に会津藩から選ばれた。旧幕府外国奉行、小出大和守に随行しエジプト:ヨーロッパ:ロシアと諸外国を巡った。エジプトのスフィンクスの周りで侍たちが集合写真を撮っている古写真をご覧になった事ありませんか。その中に山川大蔵がいました。エジプトでは外国人通訳が日本人を侮る行為や言葉を発したので刀の鞘で殴りつけ従わせたり、パリ万博では日本には幕府の他に薩摩藩があると言いふらしてた薩摩藩士に激怒しあわや切り合いになる寸前までいった。若い時は血の気の多かったようだが会津人からしてみたら痛快なエピソードでありよくぞ会津魂を見せてくれたと賛辞を受けた。

鳥羽伏見と会津戊辰戦争

帰国するとすぐに鳥羽伏見の戦いが始まった。大蔵は会津藩砲兵隊として薩長軍と戦ったが、敵の最新鋭の重火器の前に苦戦。折しも、将軍慶喜が会津藩主松平容保を率いて敵前逃亡:大阪湾に停泊中だった幕府海軍軍艦「開陽丸」に乗って江戸に帰ってしまった。将軍に置き去りにされた幕府軍と会津軍は大敗を喫した。この時大蔵は最後まで大阪に踏み止まり、会津藩士のけが人の救出に当たった。何十人という怪我を負った会津藩士と幕臣を大阪湾に残っていた幕府軍艦に収容し江戸まで連れて帰った。この事から内外から賞賛をあつめ会津に帰るや若年寄りに昇進、日光口に派遣される。
 日光口の戦いは関東で戦っている旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介を助けて日光:今市の土佐兵を破り関東に出て白河口の西軍を孤立させる事が狙いであった。
 日光口では大いに暴れまわり、土佐藩兵を黙らせた。この時の土佐藩士の指揮官は谷千城といい、この日光口での見事な指揮を取る敵将を褒め、明治になってから山川を日本陸軍に誘った。
 ところがそのころ白河口にいた西軍は白河口を破り、二本松藩を攻め落城。母成峠を越えて一騎に会津城下へなだれ込んだ。せっかく日光口を防いでいても本国会津が落ちては意味がない!といった心境だったのではないだろうか。
 会津鶴ヶ城城下での出来事は割愛しますが予測よりも早く薩長軍が攻めてきたため混乱していた。
城内へ入り籠城と腹を決めた者:兵糧を無駄に減らしてしまうまたは薩長軍に凌辱されないようにと一族で自決した者など。会津戊辰戦争はまだ150年しか経っていないので生々しい体験談が今でも鮮明に語り継がれている。

大蔵は会津手前まで戻れたが、城はすでに西軍に囲まれていた。西軍は寄せ集めの兵ばかりであることに彼は茶雲のし、会津の豊作を祝う「彼岸獅子」を先頭に敵陣突破。西軍はどこかの藩の援軍が到着したものだと思っていた隙に城内へ。城内の士気は上がった。籠城戦で稀に見る敵陣突破である。
 しかしながらご存知のように会津藩は降伏。大蔵も東京へ送られる。その後、会津藩は斗南藩として岩手県と青森県に分散しながら3万石で立藩。ただし実際は9千石程度。しかも作物の育たない土地であった。

会津藩士とその家族18000人が斗南へ移動したが一冬で6000人が飢餓と極寒で亡くなった。長州閥が蛤御門での仕返しともいえる処置のため今でも会津人は長州人が好きではない。

逆に同じく攻め込んできた土佐藩は同情的であった。

山川浩西南戦争へ

斗南藩大参事を任された大蔵は名前を浩に改名。若き指導者は斗南での会津藩士の生活改善に奔走した。
この時期、薩摩閥は西郷隆盛を筆頭に政府での出仕を放棄し薩摩へ戻っていった。時代はまた戦乱に向かっていた。土佐の谷千城は戦闘力の高い元会津藩士に目を付けた。執拗に山川を陸軍に誘い部下とした。この事がきっかけで元会津藩士たちも陸軍や警視庁などに出仕する事ができるようになる。

そんなさなか、ついに西郷隆盛が1万3000人の士族を率いて反乱。熊本城にある熊本鎮台を攻撃。あっという間に熊本城は薩摩反乱軍に包囲され政府陸軍は籠城した。熊本鎮台の指揮官は谷千城であった。
山川浩に応援要請があり陸軍を率いて熊本城を目指した。
その時詠まれた和歌「薩摩人みよや東の丈夫が揚げ佩く太刀は利きか鈍きか」と内なる魂を燃やしていたのであろう。私はこの和歌が好きです。

熊本城下にたどり着くと一気に薩摩軍の囲を突破。見事上司である谷を助けたのである。
日本戦史の中で生涯の中で籠城戦を2回も突破した人物は山川浩しかいないであろう。
しかし、陸軍上層部は会津出身という事で山川浩を評価しなかった。非常時残念である。その後閑職に追いやられ予備役になる。政界にも進出したがもはやここまで。病に倒れ明治31年生涯と閉じた。

東京帝大の初代総長山川健次郎は浩の実弟。またアメリカに留学しのちに大山巌の後妻になる山川捨松は浩の実妹である。

是非、会津の山川兄弟の功績に興味を持って頂きたいと思い書かせて頂きました。

タッポーチョ 太平洋の奇跡

2016年06月17日 | 
タッポーチョ 太平洋の奇跡

昭和五七年 静かに暮らしていた「大場栄」元大尉の元をあるアメリが人が訪ねてきた。
忘れていた,いや封印していたサイパン島での記憶が蘇った。
昭和十九年 アメリカ軍司令部は日本軍による"バンザイ突撃"を恐れていた。
玉砕の島『サイパン島』でジャングル内【タッポーチョ山】に追い込まれた日本陸海軍と多数の民間人を指揮し日本が降伏した後も戦い抜いた本当にあった勇士の感動物語。

兵士だけではなく多くの民間人の命を救い且つ軍紀も保ちながら1945年12月1日までの1年半もジャングル内でお抵抗はよほどのリーダーシップを発揮できる人物でなければ実現できなかっただろう。

ジャングル内での出来事は割愛しますが民間人を率いながら、いつ終わるかわからない消耗戦に突入!
痛快なのはアメリカ軍基地内に忍び込み食料を奪ったり、捕虜となった民間時との情報交換を行ったりする。大場大尉の率いる人たちは常に最新情報を得ていたのだ。もちろん日本は連合軍に無条件降伏したことも。

降伏に関しても降伏勧告を前に「私は軍人である。上官の命令がない限り降伏はしない」とアメリカ軍通訳に伝え、元方面司令官からの「降伏せよ」との命令書が届くまでタッポーチョ山を下山しなかった。

降伏式では新しい軍服に身を包み、隊列を組んで威風堂々と行進する姿にアメリカ軍も敬意を示した。ここに大場栄大尉の名は英雄としてアメリカ軍史に刻まれた。

日本では無名に近い事が非常に残念です。

「太平洋の奇跡」という映画にもなっていますので入りやすい1冊ではないでしょうか。

影踏み鬼

2016年06月17日 | 
影踏み鬼

新撰組といえば「近藤勇」「土方歳三」「沖田総司」最近では「斎藤一」の活躍やあまりの美男子っぷりでファンになった人も多いのではないでしょうか。
 この「影踏み鬼」はその逆。近藤:土方が悪人で、伊東甲子太郎と一緒に新撰組を脱退し御陵衛士となった【篠原泰之進】の物語である。まさか近藤と土方が悪役として描かれているとはいささか驚きです!

篠原泰之進は久留米藩の石工の家に生まれ後に士族へ。脱藩して上京し剣術修行を行ったのが伊東の道場であった。伊東も元は水戸の士族の出だが江戸伊東道場の婿となり伊東姓を名乗っている。新撰組隊士の鈴木三樹三郎は実弟である。東国出身者が多いなかで九州出身者は珍しい。その辺が近藤:土方と合わないところだったのだろうか。元が武士ではない事は同じなんだが彼らが幕臣に取りたてられてからは特に衝突することが多くなった。

その事が伊東一派を脱退した理由となるのだが、また伊東甲子太郎もあまりにも人柄が良く描かれており、今まで読み込んできた新撰組系の物語はなんだったのだろうかと思ってしまった。立場が変われば描かれる目線も変わるものですね。

さて、御陵衛士として袂を分けて間もなく、油小路で伊東甲子太郎が討たれた。伊東の亡骸を引き取りに御陵衛士の面々は罠と知りながら油小路へ。そして新撰組とぶつかった事はファンなら知っている事だろう。

主人公である篠原泰之進はこの油小路で新撰組と刀を交えたが生き残り、薩摩藩邸に匿われた。さすがの新撰組でも薩摩藩邸には踏み込めず安全地帯といえよう。薩摩藩邸では【人斬り半次郎】こと中村半次郎の世話になりながら反撃の時を待っていた。が、チャンスは思いのほか早く巡って、近藤が隊士四人を率いて伏見奉行所へ向かったその帰りを狙う。そして近藤勇が狙撃された事はもちろんファンは知っているだろうが、それが篠原泰之進達であった事はあまり知られていない。
この物語はこの人の目線で描かれているのです。

近藤が流山で新政府軍に捕えられた時、幕臣「大久保大和」と名乗っていたが、近藤を知る御陵衛士生き残りが新政府軍にいるとは思ってもみなかっただろう。正体が見破られて板橋で斬首になる。ここに影踏み鬼の意味が隠されている。

その後、赤報隊へ身を投じ新政府軍として幕末の血なまぐさい戦いの日々を終える。


【影踏み鬼】のもう一つの意味は家族愛に隠されているがここではあえて書かない。この本をよんで家族の絆を確認して欲しいと思う。

落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯

2016年06月14日 | 
落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯

堀内豊秋海軍大佐を知っていたらかなりマニアックな歴史好きでしょう!
堀内海軍大佐を知らなくても海軍体操を知っている人は多いのではないでしょうか。
見た事ない方に…兵隊さん集団で体操している映像は見た事ありませんか。
この海軍体操を開発した人物こそ堀内大佐です。
戦後、この体操をもう少し簡略化したものこそ皆さんが小学校のころやっていた「ラジオ体操」ですよ。

堀内大佐の活躍
昭和十七年一月、真珠湾攻撃から緒戦は各地で優勢であった日本軍は次の攻略目標をセレベス島メナドに定めた。
日本軍として初めて落下傘降下を行った事で広く知れ渡った。時に堀内大佐四十一歳。過酷な落下傘部隊隊長としては世界最高齢の指揮官だったが、百メートルを12秒で走る俊足と海軍体操で鍛えぬいた機敏な動きでオランダ軍の攻撃をかわしながら飛行場を制圧した。
 この落下傘降下がどれほど危険な事か。まず落下地点の目標はあるわけだが、風の向きなどによってながされてしまうので、下手したら敵の陣地内に降り立ってしまう可能性があること。
 落下したらすぐさま落下傘を体から外さなければならない事。この間にも敵から攻撃を受けている。また落下中は自由に体が動かないため狙撃の目標になりやすいため地上に降り立つ前に命を絶つ可能性もある。
 落下して体から落下傘を外しても、武器も落下傘で落ちてくるので、速やかに武器の入った箱まで走り武器を確保しなければならない。ここまでが整ってから敵を攻撃することができるのです。
飛行場を制圧後、四キロ先のカカス水上基地にも侵攻、午後にはこの基地を奪って多くの犠牲者を出しながらも短時間のうちに作戦目標を達成した。
 オランダ軍の退路を断ち、南方作戦に圧倒的な優位を占めたその日、わが国最初の落下傘降下作戦がメラドにおいて勝利を収め指揮官「堀内豊秋」の名は国内外に広く伝わった。この事が後の彼に影響する。


占領地の司令官として
堀内司令官はメラド南側のランゴアンを占領後、捕虜にしたインドネシア兵を短期間のうちに釈放し、現地では貴重だった食塩を日本軍持参物資のなかから分け与えてとともに、バリ島では住民に製塩技術なども教えインドネシア人が自立できるように協力した。また同時に投降してきたオランダ軍将兵に対する暴行も禁じた。
堀内大佐は海軍学校時代から部下や下級生への暴力を禁止しており当時としては珍しい指揮官であった。もちろん部下などからは慕われていた。
 また住民が驚くほどの大幅な減税を進め三百五十年にわたりオランダの支配下で貧困と奴隷扱いの過酷な生活から解放した。軍紀:風紀は堀内司令の生活態度そのままに厳正を保ち、女性や子供たちが安心して外出できる街にした。現地では「殿」や「先生」など最大級の敬称で呼ばれ住民尊重の行政は内地まで知れ渡った。
堀内司令が異動になることを知った住民は転任引き止め嘆願書を上級司令官に出している。
日本軍司令官というと現地では略奪を行ったり自身は後方で命令を出しているだけの人も多かった中、誇れる日本軍人だと思います。

敗戦後
敗戦後堀内大佐はB級戦犯としてメナドのオランダ軍事法廷で裁かれた。
罪名は「捕虜に対する暴行、虐殺」を命じた罪である。
堀内部隊が厳粛でもその他の部隊が暴行などを行ったことで占領地の責任者である堀内が責任を負うことになったのであろう。まさに報復裁判だった。

堀内大佐以外にもインドネシアの現地人に慕われ一緒に独立運動に参加したインドネシア独立後スカルノ大統領から敬意を示された将校も多くいました。
彼らは武士道を貫いた本物の将官であったと思う。

アメリカ本土を爆撃した男

2016年06月13日 | 




アメリカ本土を爆撃した男

アメリカ大統領から星条旗を贈られて男がいる。
アメリカ本土を爆撃し全米を震撼させた男になで大統領は星条旗を贈ったのか。

物語は太平洋戦争の真っ最中。百二十余隻の潜水艦が海底深く沈んでいる・・・。


昭和十七年四月十八日、日本が初めて空襲に見舞われた。アメリカ軍空母から発艦したどーリットル中佐が指揮B25爆撃機十六機は東京:川崎:横須賀:名古屋:四日市:神戸を爆撃した。
「大本営発表~大した被害ではない」とされているが、実際は家屋の火災の他に機銃掃射などで小学生が亡くなっている。結局のところ、奇襲作戦に有効な反撃をすることが出来なかったため大慌ての状態であった事は多く知られている事です。これに対する反撃として潜水艦に飛行機を積んでアメリカ本土を空爆する計画が立ち、帝国海軍のエースパイロット『藤田信雄』に白羽の矢が立った。

この計画事態、日本の潜水艦技術がいかに優れていたかを物語る事で、当時の世界中の潜水艦の中で飛行機を積んでいたのは日本海軍だけ。本来は偵察用だったが攻撃機を積んでアメリカオレゴン州の山林を爆撃。これはアメリカ史上初めて本土が攻撃された出来事だった。
 とは言っても戦果は戦況を変えるほどではなく住民の少ない山林を少し焼いた程度ではあったがアメリカ軍としては本土防衛に多大な精力を注がねばならなくなった。しかしながら泥沼化した戦争は誰もが知る敗戦へと進んだ。
 
 戦後、金物屋を営んでいた藤田の元に昭和37年、大平正芳官房長官から連絡入り、「日米友好親善のためオレゴン州に爆弾を投下した貴殿及びご家族を当地に招待したい」とのオレゴン州市長サイン入りの手紙を受け取った。藤田がアメリカを爆撃して20年が経っていた。
オレゴン市民は藤田を英雄として迎い入れた。半信半疑で渡米した藤田にとって忘れられない日となった。

昭和59年、時間がかかってしまったが今度は藤田がオレゴン州の高校生を筑波万博へ招待。費用は藤田がコツコツと貯めていた。

この粋な計らいを知った時の大統領【ロナルド レーガン】
「藤田信雄元海軍中尉殿、貴殿の厚意と惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は貴殿の立派でまた勇敢な行為を讃えホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります」と、メッセージと星条旗が贈られたのだった。

後にも先にもアメリカ大統領から星条旗を贈られた元帝国軍人は藤田信雄ただ1人であろう。
それは彼が本物の侍だった証であったと思う。