小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明 敬語にまどわされる皇室との距離感 (日経ビジネスオンライン) - goo ニュース
藤村官房長官が、11月25日の会見の中で、「女性宮家の創設」に言及して以来、皇室関連報道は、久々の活況を呈している。女性皇族の私生活に直接言及した話もあれば、関係の無い記事もある。中吊りの見出しは、皇室一色 いや、さすがに一色ではない。でも、どこの雑誌も必ず一本は皇室関連の話題を載せている。
で、主だったところの記事をひと通り見渡してみたわけなのだが、これがわからない。
私の側の読解力の問題もあるのだろうが、どの雑誌を読んでみても、いったい何が言いたいのか、何のために記事が書かれたのかが、読み取れないのだ。
事実関係は、もとより、ほとんど明らかにされない。記者が記事を書くに至った経緯も省略されている。女性宮家に関する編集部の見解も説明されていない。
昔から同じだ。
皇室関連の記事は、読み取りにくい文体で書かれることになっている。
理由はおそらく、書いている人間が、自分の意図を隠したいと考えているからだ。
変な話だ。
言いたいことをはっきりさせたくないのなら、はじめから記事など書かなければ良い。それだけのことだ。
が、そうもいかないのだな。きっと。
記事は必ず書かれる。一定期間ごとに、断続的に、あるいは集中的に、時には連載コラムを蹴飛ばしてでも、必ずや執筆される。
何かが起これば、特集が組まれる。何も起こらない時には、情報が伝わってこないことをいぶかるカタチで憶測記事が制作される。皇室記事には固定客がついている。だから編集部は、記事の予定枚数を年間のカレンダーにあらかじめ書き込んでいる(はずだ)。
書き手は、不敬に当たらない範囲内で、あたう限りスキャンダラスな記事を書こうとする。
と、記事の内容が失礼である分だけ、言葉つきはますます丁寧になり、かくして、真綿に針を忍ばせるみたいな文体の、どうにも底意地の悪い嫁いびり原稿が刷り上がってくることになる。
毎年同じだ。
なぜなのか、お盆と年末が近づくと皇室関連の小姑報道記事が掲載される。しかも、口さがないゴシップに類する、品の無いテキストほど大きな見出しを獲得するのだ。
久しぶりに大量の皇室記事を読んだおかげで、気持ちが荒んでいる。
二時間も読んでいると記事を書いた人間の陰険さが感染して、アタマの右半分が赤木春恵状態になる。あらサツキさん、年末の忙しい時にお店を放り出してお出かけ? なんとまた、ご優雅なご日常をご満喫ですこと。
今回は、皇室報道について考えてみたい。
皇室についてではない。
皇室を中心に展開されている、わたくしどもの社会の陰険さについてだ。
誤解してはいけない。皇室が陰険だと言っているのではない。
皇室に言及する時、われわれは陰険になりがちだということを、私は言おうとしている。
ダイヤモンドが強欲なのではない。
ダイヤモンドを目前にした人間の中に、欲に目をくらませる連中が現れるということだ。
皇室は、それに接近する人間の下心を明らかにする。
また、それは、人々の隠された不満のはけ口になってもいる。
だから、皇室記事は、皇室自身の問題を明るみに出す以上に、記事を書いている人間の下劣さや、その記事を掲載した媒体の立ち位置をより雄弁に物語ることになるのだ。
話を最初に戻すと、まず、官房長官の談話がわからない。
新聞は、官房長官が「女性宮家の創設を検討する可能性を示唆した」と書いている。
あらためて読み直してみると、実になんとも遠まわしな文体だ。
この語尾を見ただけでも、記事を書く者にとって、「宮家」が、いかにセンシティブな課題であるのかがうかがえる。
われわれは、皇室の将来にかかわる話題を、率直に扱うことができない。だから、こんな簡単な談話を伝えるのに、「検討」する「可能性」を「示唆」したと、三段ぼかしの婉曲表現を用いて保険をかけに行かなければならない。
こういう場所では、誰も意見なんか述べない。
責任を取りたくないからだ。
それに、誰が街宣車の到来を歓迎できる? ちょっとした言葉の行き違いや、言い回しの間違いで、発言の主が十字架にかけられるような場面では、誰もが慎重になる。当然の展開じゃないか。
週刊誌の記事は慎重さとは別の局面で動いている。
新聞記事は、婉曲な語尾を用いながら、それでも、事実関係を伝えようと努力している。事実以外のことを伝えないように気を配ってもいる。その意味で、新聞記事を書いている書き手の姿勢は、臆病ではあるのかもしれないが、最低限、誠実ではある。
雑誌の記者は違う。
彼らが問題にしているのは、事実ではない。彼らは、事実の背後に横たわっている(かもしれない)確執や、孤独といった不定形なクラウドをネタに、一連のメロドラマを書き上げる。
読者は、その、ところどころに事実を含んだ大河貴種流離ソープオペラから、怒りや悲しみや嫉妬を読み取り、それらの下世話なやりとりを通じて、本来縁遠いはずの人たちとの交流を果たす(のだろうか)。
記事は、だから、事実と憶測の間をさまよい続ける。伝聞と噂。疑念と邪推。匿名の関係者によるほのめかしと、名前を明かさない専門家による穿った解説。そういった不確かな言葉を書き連ねながら、書き手は、最終的に、一見憂国に見える位置に着地してみせる。見事な手腕だ。というよりも、とんでもない根性だと思う。
『両陛下に近い千代田関係者はこの報道について「……」と一笑に付す』
『「初等科の父兄もさすがにこの校外学習については絶句しました」(学習院初等科関係者)』
『保護者からは「勘弁してほしい」という声が漏れた(前出の保護者A)』
……証言者は誰も実名を明かしていない。
記者も自分の意見を述べない。
記事の末尾に署名することもない。
自分の意見を述べる代わりに、記者は、他社の皇室記者の発言を引用する。そうやって記者仲間の間で、互いの発言を引用し合うことで、自分たちの記事にイロをつけつつ、責任を免れている――と、私はかように憶測しているのだが、この観察は醜いだろうか?
自社の原稿の中で自身の見解を述べれば、当然、相応の責任を引き受けねばならない。が、他社の雑誌に掲載される他人の原稿の中で匿名の記者として発言する限りにおいて、責任は生じない。
で、彼らは互いのコメントを融通しあうことで、発言の自由と記事のフレームアップという果実を二つながら手に入れつつ、その一方で、すべての責任を「ニュースソースの秘匿」という手品みたいな言葉の向こう側に追い落とすことに成功しているわけだ。
『元宮内庁担当記者はしみじみと振り返る…』
『さきの記者はさらに続ける…』
と、記事の核心部分を為す観測は、匿名の「記者」によって語られる。
誰も名前を明かさない。
記者もニュースソースも取材先も専門家も、誰も自分の責任において意見を言わない。
要するに、匿名の関係者の伝聞を引用することだけで記事ができているわけだ。
で、最後に「皇室ジャーナリスト」を名乗る人間が、非難めいた論調になってしまった流れを中和する宙ぶらりんなお話をして、テキストは最後のパラグラフに向かう。
シメのセリフがまたふるっている。
『袋小路を脱する糸口は、果たしてどこにあるのだろうか』
『雅子さまは十二月九日、誕生日を迎えられる。その日には新たな“所感”が公表されるはずなのだが、その中で、愛子さま、ご家族について、どのような思いを述べられるのだろうか』
『弟宮が発したこのメッセージは、皇太子両殿下に届いたのだろうか』
ご覧のとおり。すべてが問いかけのカタチで締めくくられている。
結論を提示せず、見解を述べず、立場を明らかにせず、名前を明かさない記者が、何を勘違いしたのか、皇室に向けて問いを発しているわけだ。
言葉つきは至極慇懃だし、ものの言い方もいたって上品だ。
が、最後の問いかけは、いずれも「上から」投げかけられている。
「どうするつもりなんだ?」
「なあ、聞いてんのかよ」
「おいおい、いいかげんにしてくれよ(笑)」
と、庶民の日常語に翻訳すれば、そういう意味の言葉で、彼らは皇室の人々を問い詰めているのだ。
読んでいて、イヤな気持ちになる。
記事は、感情を煽るばかりで、実際には何も伝えていない。
何を狙ってこんな煽りを入れているのかが、私にはよくわからない。
狙いとか意図がどうしたということではなくて、単に揉め事が大きくなって、雑誌が売れれば良いという、それだけの話なのだろうか。
人々が皇室に期待する役割と、皇室が実際に果たしている機能の間には、常に微妙な齟齬がある。
だから、皇室に対して苛立ちの感情を抱いている人々は、常に一定数存在している。
汚い言葉を使うことへの欲求は、それらがやんわりと禁じられていることで、さらに高まる。
かくして、ネット上の皇室関連には、決して印刷できないタイプの口汚い四文字言葉が溢れることになる。
皇室関連の発言では、2ちゃんねるの中の「既婚女性」カテゴリー(俗に「鬼女板」と呼ばれている)に収められたスレッドが名高い。
私はもう何年も見に行っていない。あまりにも残酷で、読んでいて胸糞が悪化するからだ。
もしかして、インターネットによる匿名評論の最大の犠牲者は、皇室のメンバーであるのかもしれない。
無論、インターネットが無かった時代にも皇室に対する非難や中傷は、様々な場面で、思い思いに発せられていたし、そうしたやりとりは、人々のガス抜きになってもいた。
ネットという共通の基盤ができる以前、その種の悪口雑言は、せいぜい数人の間で共有されるだけだった。だから、当事者に届くこともなかったし、実害を及ぼす例もまず生じなかった。
が、ネットを得た罵詈雑言は、不特定多数の閲覧者によって共有されるようになった。のみならず、それらの本来揮発性の悪意であったはずの中傷は、ネット上のサーバを転々としつつ、永遠に残留し、記録され、蓄積し、束ねられるようになった。
と、それらの他愛の無い悪意は、実質を獲得するに至る。
発言そのものが脅威になることはもちろんだが、実は、見逃してならないのは、マスメディアが影響を受けていることだ。
私自身は、平成に入ってからこっち、皇室報道に平然と悪意が込められるようになった背景には、ネット言論の影響があずかっているはずだと考えている。記者は、ネタ集めのために掲示板を見ている。影響を受けない記者もいるだろうが、影響を受ける記者もいる。毎日見ていれば、いやでも影響を受ける。メディアというのはそういうものだ。
それにしても、記事を書いている人たちは、皇太子妃に何を望んでいるのだろうか。
「不適応10年」
「長期にわたりご公務をお休みになる一方で、熱心すぎる子育てを見せる雅子さまに、違和感を感じている宮内庁関係者は数多い」
「付き添いの形があまりにも異常です」
「愛子さまは砂場の砂をいじってらっしゃって無視されてしまいました(笑)」
「天皇陛下のお見舞いすらままならぬご病身にあって、全身全霊をかけて愛子さまの一挙手一投足を見守られる雅子さま」
このほか、東京ディズニーリゾートに行ったといえばその軽挙をたしなめられ、イタリアンレストランで深夜まで食事をしたことがわかっただけで、大見出しの記事(「午前様」)が書かれる。
……ぞっとする書き方だ。
子育てや公務について、人それぞれ、様々な考え方があることは理解できる。私自身、感想を持っていないわけではない。
でも、誰ちゃんのママの教育方針がどうだとかいったタグイのヒトサマの家庭の内情に立ち入る話は、公的な報道機関が記事にして良い話題ではないはずだ。第一に失礼だし、第二に余計なお世話だし、第三に残酷だからだ。であるから、私は、個人の家庭の事情(嫁さんの帰りが遅いとか、ダンナが甘やかし過ぎだとか、上司との付き合いをもっと大切にすべきだとか)に踏み込むテの話は、私的な雑談の場ではいざしらず、ツイッターやブログ経由でさえ、一文字も書かないように心がけている。
陰口は、仕方がない。
「まあ、アレだ。あいつんとこもヨメさんがお受験にハマってて色々と面倒らしいわけだよ」
「色々って?」
「色々だよ」
仲間が集まれば、この程度の噂話は出てくる。
でも、この種の話は、決して文字にしないのが、大人のたしなみだ。たとえツイッターやブログであっても、だ。
なのに、家庭の内情にかかわる極めて私的な話を公の場で語ることが、皇室相手だとOKになる。実に、不可思議ななりゆきだ。
皇室の人間は「公人」で、そのプライバシーは、社会的に共有されている、とかなんとか、プライバシーに介入する理由を問われたら、記者諸君はたぶん、こんな理屈を言うのであろう。
でも、「公人」であるからこそ守られなければならないプライバシーというのもあるはずで、皇太子妃の例は、私の思うに、それに当たる。でなくても、体調の変化や、付き添いの頻度や、公務の負担は、外部の人間が軽々に論じたり介入できる案件ではない。
最後に、敬語について書きたい。
私は、皇室記事を運営している敬語の文章を読んでいると、気持ちが悪くなる。
敬語が隠蔽しようとしているものが、あまりにも醜いからだ。
敬語は、本来、感情を隠蔽するための言葉だ。
わたくしども日本人は、古来、あからさまな感情の表出をはばかり、言葉を婉曲にすることによって、人間関係を調整してきた。そういうふうに、互いを慮る言葉を専用に持っていることは、われわれの国語の床しさであり、われわれの文化の誇りでもある。
が、一方において、敬語は、陰険さの温床でもある。
少なくとも、皇室に対して用いられている過剰な敬語には、少なからず陰険な響きが宿っている。
これは、一部で「隔絶用法」と呼ばれている敬語の使用法だと思う。敬意や謙譲や丁寧とは別に、「よそよそしさ」を表現するために使う敬語だ。
時に、われわれは、過剰な敬語を使うことによって、拒絶の意思や、隔意を表現する。
「何をおっしゃるのですか!」
と、たとえば、落語の中でも、悋気した武家の妻女だとかは、馬鹿丁寧な口調で金切り声をあげることになっている。
「あなたなんかもう知りません。こっちをごらんにならないでください」
「こちらこそ。もうおともだちじゃありませんから。話しかけないでください」
と、小学生の女の子同士でも、喧嘩となると、なかなか達者な敬語を使いこなしていたりする。
まあ、小学生なら微笑ましい。
これを、大の大人がやるのは醜い。
ぜひおやめになっていただきたい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)