cobatchの独り言

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聖教新聞(2015/ 2/ 8) 親子によせる親ごころ 詩人・エッセイスト 浜文子さん

2015年03月12日 17時49分17秒 | コラム・ルポ

言動の定め方
詩人・エッセイスト 浜文子

 近頃は、なんでもネットで検索。
 私はこれが嫌いです。本当の検索はささやかでも自らの目、耳、手、足を頼りに事物に対峙することで身に付き、実を結ぶことが真の「知」となると信じます。
 事物のワンポイントから、情報を手繰りよせられるインターネットの操作が〝理解すること〟の主流になりました。辞書だって「紙」のページを指でめくらない世の中。せめて子どもには、小、中、高と、その子専用の紙の「辞書」を一冊是非持たせてほしいものです。
 高校生に特別授業で詩や作文を書かせていた時は、「紙」の辞書を持参するように指示し、電子辞書は禁止しました。そしてページをめくったら、調べたい言葉の、前の言葉三つと後ろの言葉三つに必ず目を通し、一つの言葉を知るついでに他(ほか)の六つの言葉を心に留め言葉の表情をつかみなさいと言い続けました。
 一つの言葉から触発され広がっていくものを自身の中に耕すことをしてほしいと思ったからです。そうすることで言葉から「思いを馳せる」という想像力を育てたいと。
 すべてがワンポイント理解の今の時代に「惻隠(そくいん)の情(じょう)」という言葉とその意味する魂(たましい)を知る人が激減していると感じます。まして、それを身に付けている人は――。つまり「相手の心を思えばこその営為(えいい)」はどんな日本人の心にも深く根を張っているもの……と信じていたのですが、時代の流れの中で近頃はそんな心も遠のいているようです。
 忘れられない強烈なシーンがあります。以前、拉致被害者の横田めぐみさんのご両親の講演会に行った時のこと。当のめぐみさんは帰国できず、他の家族が長い空白の時間の後に空港で抱き合い涙し合う様子を横田夫妻は、しきりにカメラに納めて溢れんばかりの思いを共有していました。その歴史的な一瞬にその場に居合わせたというテレビ局の制作責任者を名乗る男性が、会場で夫妻に問いを発したのです。
 「あの日どんな気持ちでカメラを構えていたのですk」「自分の子は帰らないのに、なぜああやって一緒に喜べるのですか」。耳を疑いました。この人には、悲しみを悲しみ尽くした人の、自も他も無い透明な心の深さといったものについて想像できないのだ…。
 40代も半ばと思われる彼の無邪気すぎる問いは、思い通りの人生を、まっすぐ歩き続けてきた人のそれでした。
 横田夫妻は、実に実に静かなほほ笑みを彼に返し、口をつぐみ、何も答えませんでした。
 さて、さて、惻隠の情など知らぬ困った人はどこまでも人を困らせます。その会の終わる頃、彼は再び問うたのです。
 「最近、拉致被害者に関する報道も減り、国民の関心も薄くなったように思いますが」
 横田早紀江さんが、すぐに言葉を返しました。「そんなことありません! 先日も大雨の中を地方の体育館に、ぎっしりの人が話を聞きに来てくださいました」。彼女の言葉を追いかけるように、気が付いた時には、思わず声を発してしまっていました。
 「関心が薄い、報道が下火だと感じたらそれを取り上げるのが、アナタの仕事では?」。会場の後ろからたくさんの人の拍手が耳に届きました。
 少し前の話ですが、人の「情」について、相手の立場への「想像力」について、自らの仕事への使命について、私の中に、たくさんの「どうして?」が、心に渦巻く出来事だったので、書いてみました。

(2015. 2. 8. 聖教新聞)

 


聖教新聞に掲載されている浜文子さんの素敵な文章に、いつも励まされています。

聖教オンラインでも読むことができればいいんですけど…。

この『親子によせる詩ごころ』は出版されないんでしょうかねぇ。 


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