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昭和20年代小学校時代の父親の記憶

おはようございます。
今日の神奈川県愛甲郡愛川町は今日も朝から雨が降っていてあがるかと思いきやなんともはっきりしない天気です。

脳卒中片麻痺歴6年,前立腺ガン全摘出術後歴1年半片麻痺ロマンシニアの原田太郎が元気印で今日も脳卒中障害者や高齢者のご本人はもとより、ご家族の悩み、苦しみを和らげ、明日への希望、未来への活力となっていくようなお話をします。

2009年5月22日より掲載原田太郎の義と仁の人生小さな武勇伝の部です。

【ガキの武勇伝Vol.9】

<昭和20年代小学校時代の父親の記憶>

父親の通勤は家から駅まで自転車で10分汽車に乗り継いで職場まで約2時間、
途中夕方から雨になると傘を持って駅まで向けによく行ったものですが
酒の好きな父親は毎日同じ汽車で帰ってくるとは限らず、さりとて次の汽車の到着は一時間以上あるわけで、駅の待合室で待つ事になる。

時間を潰すのが子供にとっては苦痛であった。
やがてご機嫌で改札口を出てくる。
時には友達になった通勤客と飲み足りないと近くの小さな飲み屋さんに付き合わされる。
黙ってついていくしかない。

春休みや夏休みなどは職場についていって職場の前の貸しスケーター屋で借りて一日中遊んでいたり、帰りの汽車でアイスキャンデーを買ってくれたり、
楽しいおもいでもある。

生み釣りを教えてくれたのも父親だし、つり好きな父親と2~3間ある長い釣竿を担いで自転車の後ろに乗り漕ぎ役は親父、上り坂は下りて押していくくだりになったらまた乗る。近所のおじさんやおないどしくらいの子供もよく一緒で楽しかった。

自転車を覚えたのは小学校のときで、チビの為サドルに座るとペダルに足が届かず漕げず三角乗りといって大人の自転車に乗ったものです。

当時の道路は舗装などしてなくてすべて砂利道、あるときなどはスピードを出しすぎて小石に乗り上げ弾みで砂利道に見事に横滑り膝小僧に大怪我をしました。

酒飲みの親父に金魚の糞みたいなとこありましたね~。
でも良く殴られました、スパルタの親父(^O^)/


さ~さ~今日も片麻痺なんかに負けないで
一つの動作でも自分で出来るように
無理せず日々コツコツと一つ上のちょうど良か爺・良か婆の生活リハビリを頑張りましょう
心と身体のバランスが大切です。
健康維持の為には「食べる事が生きること」です。
美味しく食べる為には口腔ケアを疎かにできませんね。

歯磨きはしっかり続けましょう。

片手で楽々片麻痺専用歯磨きパラリンコップParalymcup

脳内出血や脳梗塞による片麻痺障害において大事な事は自分の出来ることをひとつずつ自立をするという強い意志を持つことです。

リハビリテーション病院入院中の急性期回復期は改善も顕著ですが退院後の慢性期に入ると改善するスピードは畳みの目を数えるほどですが必ず改善はします。

あきらめずに日々強い意志と希望を持って努力を積み重ねましょう。

脳卒中片麻痺としっかりと向き合って日々を楽しめるようになるともうしめたものですよ。

そこに行き着くまでがこの病気の大変さでrといえるでしょうね。
片麻痺で戦ってるかた、原田太郎の体験がお役に立つのであれば左のメ~ル相談室をご利用下さい。

福祉ものづくり集団【NPO法人たくみ21の店】もオープンしましたよ~。

【ブログポリシー】
■前立腺ガン全摘出の経過発信と片麻痺に関する元気情報の執筆を心がけます。
■守秘義務がある情報は一切執筆いたしません。

【編集後記】

5月の最後を飾り茨城県の方から注文が入りました。

このパラリンコップは落としても割れませんのでガラスや陶器のようにケガの心配はありません。

一度購入で先ず一生ものですが長く使っているうちには練り歯磨きの白いあとや水垢なども溜まりますから、ご家族の方など介助の方に洗ってもらってください。

片手で楽々快適な整容歯磨きの自立の生活リハビリを送ってくださることを願っています。

し~ゆ~
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昔も今も時代は変わっても母は強し!

おはようございます。
今日の神奈川県愛甲郡愛川町は今日も朝から雨が降っていますがもしかしたら回復するかな~。気温もまだ体感で6~7℃低く感じます。ひんやりです。

脳卒中片麻痺歴6年,前立腺ガン全摘出術後歴1年半片麻痺ロマンシニアの原田太郎が元気印で今日も脳卒中障害者や高齢者のご本人はもとより、ご家族の悩み、苦しみを和らげ、明日への希望、未来への活力となっていくようなお話をします。

2009年5月22日より掲載原田太郎の義と仁の人生小さな武勇伝の部です。

【ガキの武勇伝Vol.8】

<昭和20年代小学校時代の生活プレイバック>

戦後の20年代初期は父親は塩造り・下駄の鼻緒を挿げたり・山を開拓してサツマイモや落花生を植えつけるなど。

白米は乱切りサツマイモに米粒がくっついてる程度、黒っぽい乾麺(この頃短麺とよんだ)は臭くて食えたしろものではなかった。

麦飯なんてのは超豪華な時代。

母親は片道2時間の汽車に乗って長崎まで往路はタマゴや米を復路ははイワシを仕入れ田舎の山の人たちに売りに行きお米と物々交換、ま、闇行商ってとこです。

で米粒おマンマが段々口に入るようになってきたんです。

母は父のお金にならない塩造りから少しでも安定収入を確保すべく父の就職先を
探しに奔走し、毎週片道約2時間かけて佐賀までいって就職窓口というか担当のお偉いさんのところに拝み倒して通いつめて詰めて話を決めてきたほどで、今思えば父親よりしっかりした根性を持っていたとおもいます。

田舎の末っ子のお嬢様育ちには見えませんでしたね。
食べていく為には必死だったんだとおもいます。
母の子供時代娘時代を知る人はよくもま~こう変われるもんだと舌をまいていましたね~。

母の奔走のおかげで父は片道約2時間かけて毎日県立病院の職員として佐賀までの通勤が始まり、何とか道筋がついたようでした。

母親の偉かった事は父を拾ってくれた勤め先のお偉いさんの自宅に盆と暮れには必ず感謝の気持ちを届けに転勤するまでの10年ほどでしたか続けた事です。
いつも子供の私もついていったものです。

この頃「義と仁」「恩」というのを母親の背中を見て子供心に教わったような気がします。

終戦までは外地で結構贅沢な暮らしが出来ていて、会社には馬車や車まであったわけで家にはゼンマイ仕掛けの手で回す蓄音機なるものもあったんです。

ゼンマイを巻きすぎて切れて、またやった~と4歳ぐらいのとき叱られた記憶もあります。

戦前の外地での栄華と戦後の内地でのどん底のギャップにはそれこそ天と地、極楽と地獄でしたよね。

国民総員平均して世の中ひっくり返って同じでしたよ。

でも日本民族は見事復興を遂げたのですから、当時の政治家・官僚は今の霞ヶ関の一部の官僚や政治屋と違ってよく仕事をしたんでしょうよね。

子供も大人も若いも老いも老若男女ひたすらに頑張ったんですよね。

子供時代プレイバックの後は
さ~さ~今日も片麻痺なんかに負けないで
一つの動作でも自分で出来るように
無理せず日々コツコツと一つ上のちょうど良か爺・良か婆の生活リハビリを頑張りましょう
心と身体のバランスが大切です。
健康維持の為には「食べる事が生きること」です。
美味しく食べる為には口腔ケアを疎かにできませんね。

歯磨きはしっかり続けましょう。

片手で楽々片麻痺専用歯磨きパラリンコップParalymcup

脳内出血や脳梗塞による片麻痺障害において大事な事は自分の出来ることをひとつずつ自立をするという強い意志を持つことです。

リハビリテーション病院入院中の急性期回復期は改善も顕著ですが退院後の慢性期に入ると改善するスピードは畳みの目を数えるほどですが必ず改善はします。

あきらめずに日々強い意志と希望を持って努力を積み重ねましょう。

脳卒中片麻痺としっかりと向き合って日々を楽しめるようになるともうしめたものですよ。

そこに行き着くまでがこの病気の大変さでrといえるでしょうね。
片麻痺で戦ってるかた、原田太郎の体験がお役に立つのであれば左のメ~ル相談室をご利用下さい。

福祉ものづくり集団【NPO法人たくみ21の店】もオープンしましたよ~。

【ブログポリシー】
■前立腺ガン全摘出の経過発信と片麻痺に関する元気情報の執筆を心がけます。
■守秘義務がある情報は一切執筆いたしません。

【編集後記】
当時を検索してみると
NHKラジオ番組「のど自慢素人音楽会」が戦後直ぐに始まって歌謡曲もリンゴの唄・かえり船・東京の花売り娘・啼くな小鳩よ・夜霧のブルース・港が見える丘
・東京ブギウギ・懐かしのブルースなど多くの局が出て歌と共に戦後の復興が始まった。
皆、夢とロマンを持っていましたよ。そして友愛をね。

し~ゆ~










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昭和33年前後高校時代へ青春プレイバック

おはようございます。
今日の神奈川県愛甲郡愛川町は今日も朝から雨が降っています。気温も体感で6~7℃低く感じます。ひんやりです。

脳卒中片麻痺歴6年,前立腺ガン全摘出術後歴1年半片麻痺ロマンシニアの原田太郎が元気印で今日も脳卒中障害者や高齢者のご本人はもとより、ご家族の悩み、苦しみを和らげ、明日への希望、未来への活力となっていくようなお話をします。

2009年5月22日より掲載原田太郎の義と仁の人生小さな武勇伝の部です。

【ガキの武勇伝Vol.7】

<昭和33年前後高校時代へ青春プレイバック>
通った高校はお城の跡で旭丘というところにありました。
校歌は「旭丘に立つ門、、、、、、、。校門は赤門でした。
赤門から赤門(東大)へなど当時は一人ぐらいでしたね~

学校終わって肥前鹿島駅までの途中、街の中を通るのですが今も記憶に残っている場所といえば同級生の文房具の万年筆屋さん・数件となりのアイスキャンデー屋さん、

其の先のY字通りを左に行ってお花屋さんと回転焼き屋さん(ここの回転焼きより美味しいのには今でも出会ったことが無いんです)ぐらいですかね。

通学の汽車は一時間か二時間に一本でしたからいつぞやか忘れましたが二つ先の駅まで友人と線路を歩いたこともありました。

アイスキャンデーや回転焼きは一年の2~3回食べれたら幸運というそんな時代でした。

当時の世間の出来事を検索してみると
日本が国連安全保障非常任理事国に
ウエスタンカーニバル
売春防止法
長嶋選手三振デビュー
阿蘇山大爆発
一万円札発行
東京タワー完成
などとある。

歌謡曲は夕焼けとんび・ダイアナ・星は何でも知っている・無法松の一生・
からたち日記・嵐を呼ぶ男・ダイナマイトが150本など

テレビはお金持ちのうちにしかなかった時代バス通り裏・月光仮面・事件記者
などと懐かしいですね。

青春時代プレイバックの後は
さ~さ~今日も片麻痺なんかに負けないで
一つの動作でも自分で出来るように
無理せず日々コツコツと一つ上のちょうど良か爺・良か婆の生活リハビリを頑張りましょう
心と身体のバランスが大切です。
健康維持の為には「食べる事が生きること」です。
美味しく食べる為には口腔ケアを疎かにできませんね。

歯磨きはしっかり続けましょう。

片手で楽々片麻痺専用歯磨きパラリンコップParalymcup

脳内出血や脳梗塞による片麻痺障害において大事な事は自分の出来ることをひとつずつ自立をするという強い意志を持つことです。

リハビリテーション病院入院中の急性期回復期は改善も顕著ですが退院後の慢性期に入ると改善するスピードは畳みの目を数えるほどですが必ず改善はします。

あきらめずに日々強い意志と希望を持って努力を積み重ねましょう。

脳卒中片麻痺としっかりと向き合って日々を楽しめるようになるともうしめたものですよ。

そこに行き着くまでがこの病気の大変さでrといえるでしょうね。
片麻痺で戦ってるかた、原田太郎の体験がお役に立つのであれば左のメ~ル相談室をご利用下さい。

福祉ものづくり集団【NPO法人たくみ21の店】もオープンしましたよ~。

【ブログポリシー】
■前立腺ガン全摘出の経過発信と片麻痺に関する元気情報の執筆を心がけます。
■守秘義務がある情報は一切執筆いたしません。

【編集後記】

明日は小学校の頃の父や母・親戚の思い出へも少しもどってみようと思います。

今日はこれからホームページの手直しです。

最近、厚木市情報プラザの指導スタッフの皆さんのおかげさまでPCの操作が楽しくなってきました。

錆び付く脳ミソと損傷した脳ミソの活性化と再生に頑張らネバ~ギブアップ!(^O^)/

し~ゆ~




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浪人時代の昭和35年

おはようございます。
今日の神奈川県愛甲郡愛川町は朝から雨が降っています。気温も体感で6~7℃
低く感じます。ひんやりです。

脳卒中片麻痺歴6年,前立腺ガン全摘出術後歴1年半片麻痺ロマンシニアの原田太郎が元気印で今日も脳卒中障害者や高齢者のご本人はもとより、ご家族の悩み、苦しみを和らげ、明日への希望、未来への活力となっていくようなお話をします。

2009年5月22日より掲載原田太郎の義と仁の小さな武勇伝の部です。

【ガキの武勇伝Vol.6】

<浪人時代の昭和34年>
東京での受験失敗長崎への予備校か良いの年昭和34年の出来事を検索すると
①今の天皇皇后陛下のご成婚
②長嶋村山対決展覧試合
③伊勢湾台風
④スバル360マイカー幕開け
⑤東京の公害スモッグ(今の中国のようですね)
⑥ミスユニバース小島明子さん
などが出てきますね。

第一回レコード大賞黒い花びら水原弘
時折見る長崎市内を走るリアマスクが翼を広げたようなでっかいアメ車、
物質の豊かさはアメリカには及びもつかない時代。

日本の経済復興は朝鮮戦争の特需がきっかけであったことは間違いない。
戦争という多くの人間の命の犠牲のうえにあるというなんとも矛盾したやるせない。

浪人時代、勉強どころか予備校さぼることばかり考えていたきっとこのころから
遊び人の兆候が出てきていたのかも。ヽ(^。^)ノ

18歳といえば将来何をやりたいとか真剣に考える年頃なのにただ遊ぶ事のみに興味が、、、、、。

長崎は坂の多い町でざぼんの木があちこちにありザボンをもぎりに行ってしこたま叱られた。

夕方長崎駅で帰りの列車の待ち時間の間に修学旅行生への送迎のブラスバンドが演奏するクワイ川マーチなど何度も聞いて楽しんだものでした。

さ~さ~今日も片麻痺なんかに負けないで
一つの動作でも自分で出来るように
無理せず日々コツコツと一つ上のイイ爺(easy)な生活リハビリを頑張りましょう
心と身体のバランスが大切です。
健康維持の為には「食べる事が生きること」です。
美味しく食べる為には口腔ケアを疎かにできませんね。

歯磨きはしっかり続けましょう。

片手で楽々片麻痺専用歯磨きパラリンコップParalymcup

脳内出血や脳梗塞による片麻痺障害において大事な事は自分の出来ることをひとつずつ自立をするという強い意志を持つことです。

リハビリテーション病院入院中の急性期回復期は改善も顕著ですが退院後の慢性期に入ると改善するスピードは畳みの目を数えるほどですが必ず改善はします。

あきらめずに日々強い意志と希望を持って努力を積み重ねましょう。

脳卒中片麻痺としっかりと向き合って日々を楽しめるようになるともうしめたものですよ。

そこに行き着くまでがこの病気の大変さでrといえるでしょうね。
片麻痺で戦ってるかた、原田太郎の体験がお役に立つのであれば左のメ~ル相談室をご利用下さい。

【ブログポリシー】
■前立腺ガン全摘出の経過発信と片麻痺に関する元気情報の執筆を心がけます。
■守秘義務がある情報は一切執筆いたしません。

【編集後記】
NPO法人というのは株式会社の法人格と組織構成も理念も違うものです。

NPO法人への入会に関しては定款に沿っていれば原則認めるわけです。

入り口も広いが出口も広いとおもうんです。

いつも言っていますがNPO法人が何をしてくれるかを求めるのではなくNPO法人に入会する事で自分は何を貢献できるかが最優先事項だとおもっています。

それぞれが本業を持ってる人が多く+社会貢献しながら満足感を得る生きがいとなる。とおもっています。
  
し~ゆ~


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原田太郎の無謀な受験生

おはようございます。
今日の神奈川県愛甲郡愛川町は曇っています、それほど暑くはないですし午後はくずれるとかです。

脳卒中片麻痺歴6年,前立腺ガン全摘出術後歴1年半片麻痺ロマンシニアの原田太郎が元気印で今日も脳卒中障害者や高齢者のご本人はもとより、ご家族の悩み、苦しみを和らげ、明日への希望、未来への活力となっていくようなお話をします。

2009年5月22日より掲載原田太郎の義と仁の小さな武勇伝の部です。

【ガキの武勇伝Vol.5】

<無謀な受験生>

三年生、いざ大学受験で担任の数学の先生との面談で、
先生「志望校は?」
原田「国立の薬学部」といったら
先生「一年か二年浪人したらウカルかもしれない」と(生徒を傷つけまいとする言葉)

で東京に出て市立の倍率の低い薬学部を受けて全滅でした。
身の程を知っていないというかわきまえていなかったんですよね。

ただのガキだったんです。無謀にもほどがありました。
理由はクラス43人中42番です一人は長欠、ビリってことです。がははぁ~

あったま悪るかったんですよね~

で、一年浪人毎日片道2時間もかけて長崎の予備校まで通い一年後大学ならどの学部どこでも良いと福岡の私立大学に入ったんです。

高校の三年間は帰宅部!?汽車通学、駅の数で4駅そうですSLの機関車です。

夏はうっかり汽車の窓を開けたままだとトンネルに入ってSLの機関車の煙突から吐き出された煤煙の小さな石炭の粒が目に入ってなかされたものですが今では懐かしいですよね。

ジーゼル車珍しくて珍しくての時代です。

亡き母親が未生流の師範代で華道教室を自宅でやっていたので頼まれて華道の花材料を高校のある町の花屋さんから毎週帰り道によいしょと一抱えも担いで還った事を覚えています。

青春の甘酸っぱいほのかなはっきり告白できない一方通行の恋もしました。
好きな子が生物部ってんで入部して部活はせずにその子ととバトミントンばかりしていました。

高校は丘の上にあり、坂道を二人で帰るのですが2~㍍離れて歩いたものでした。
ドキドキのこんなときもあったんです。

20数年後東京で高校の同窓会に行ったとき其の子は原田のことなど記憶隅にもありませんでしたよ。ショック!!m(__)mでした~

今は年賀状のやり取りぐらいです。

さ~さ~今日も片麻痺なんかに負けないで
一つの動作でも自分で出来るように
無理せず日々コツコツと一つ上のイイ爺(easy)な生活リハビリを頑張りましょう
心と身体のバランスが大切です。
健康維持の為には「食べる事が生きること」です。
美味しく食べる為には口腔ケアを疎かにできませんね。

歯磨きはしっかり続けましょう。

片手で楽々片麻痺専用歯磨きパラリンコップParalymcup

脳内出血や脳梗塞による片麻痺障害において大事な事は自分の出来ることをひとつずつ自立をするという強い意志を持つことです。

リハビリテーション病院入院中の急性期回復期は改善も顕著ですが退院後の慢性期に入ると改善するスピードは畳みの目を数えるほどですが必ず改善はします。

あきらめずに日々強い意志と希望を持って努力を積み重ねましょう。

脳卒中片麻痺としっかりと向き合って日々を楽しめるようになるともうしめたものですよ。

そこに行き着くまでがこの病気の大変さでrといえるでしょうね。
片麻痺で戦ってるかた、原田太郎の体験がお役に立つのであれば左のメ~ル相談室をご利用下さい。

【ブログポリシー】
■前立腺ガン全摘出の経過発信と片麻痺に関する元気情報の執筆を心がけます。
■守秘義務がある情報は一切執筆いたしません。

【編集後記】

脳卒中片麻痺での座位保持ってとても大変ですよ~

健常のときは座れて当たり前なんですけどね、まともに座位保持できるまで個人差はありますが相当に日数が必要です。

寝たきりにならないためにはまずベットの飢えで座位保持、ベットの端から両足を
おろして座位保持するだけで十分リハビリになるんです。

頑張りましょう!

し~ゆ~







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