気ままに一筆

心に引っかかった居心地が悪い出来事や、心の隅で湧き上がってくる日本の風習への思いを感じるままにつぶやいています。

ACP :日本人の苦手な事

2023-11-19 09:48:33 | 日記
 2021年3月に日本財団が、子ども世代(35歳~59歳かつ、親あるいは義親が67歳以上で存命の男女)と親世代(67歳~81歳の男女)を無作為に選び「人生の最期の迎え方」に関する看取り側の「子世代」と看取られ側の「親世代」にアンケート調査を実施した結果を発表しています。
人生の最期の迎え方に関する全国調査のサマリー
「人生の最期を迎えたい場所」
 ➀一番望ましい場所 
   1位:自宅 約60%          
     理由:一番安心できる場所。最後まで自分らしく過ごしたい。
   2位:医療施設(病院・診療所) 約34%
     理由:家族に迷惑をかけたくない。プロのサポートで安心できる。
 ②絶対に絶対に避けたい場所は
   1位:子の家 約42%
     理由:子供に迷惑をかけられない。
   2位:介護施設 約34%
     理由:年齢が高い人ほど拒否感か高い。
「独居世帯が最期を迎えたい場所」
 ➀一番望ましい場所 
   1位:自宅 43.8%
   2位:医療機関 42.8%
 ②絶対に絶対に避けたい場所
   1位:介護施設 39.5%
「高齢者の生活に対する意識」
 ➀現在の状況や考え: 約8割が「自分に与えられた生を精いっぱい生きようと思う」
                「死ぬときに悔いが残らないような生活がしたい」
 ②今後の暮らし方 : 約7割が「自分らしく生きていたい」
            半数以上が「家族や友人を大切にしたい」「やすらぎのある暮らしがしたい」
「人生の最期を考える際、重要だと思う事」
  ●親世代の約9割が、「無理に治療をせずに、体を楽にさせる事を優先」したい。
  ●子ども世代は、(親が)「積極的な医療を受け続けられること。49.2%」
  「可能な限り長生きすること。43.5%」「少しでも延命できるようあらゆる医療を受けられること。24.9%」を
   望んでいると思っている。
「親の心、子しらず。子の心、親知らず。人生の最期についてお互いの思いにすれ違い。」
⁂ 親は、約8割が人生の最期に「家族に負担をかけたくない。」が子どもは、その実態を知らない。
  子どもは、親に「積極的な医療を受けられる事」「可能な限り長生きする事」を望むが、
  親はそれほど望んでいない。
と調査結果を表現しています。
「親は、約75%が自分の最期について子に話してあると思い 子の約50%は、聞いた覚えがない」 
これまでに「親御さんと/ご家族と」人生の最終段階における医療・療養等について、子ども世代の53.8%、
親世代の75.9%が家族と「お葬式・お墓」「人生の最終段階における、受けたい(受けたくない)医療・療養」
「財産などの相続」「最期の迎えかた」「最期を迎える場所」のいずれかについて話し合った経験があると答えています。しかし、
親世代の75.9%に対して、子ども世代は53.8%とその差が22.1%。親世代が、話し合ったと思っている子ども世代のうち約3人にひとりは、人生の最終段階等について話合ったとは思っていないということになります。
「地域と家が中心」
 一般的に日本人は、自分の死生観について家族も含めて人に話す事が苦手です。古くから家を中心とした日本人の「出る釘は打たれる」と言う諺にもある様に俗習や地域の人達との関わり合いが大切であって、日常生活の中で祖父母や父母のその時(最期)に立ち会う事もあり、近所の人達の助けを借りて、又は、手伝ったりと亡くなった人を弔うのが一般的常識だったのです。改めて「死」について議論しなくとも、お互いに解り合っているという思いと「死」を縁起が悪いと避ける社会通念があたからだと思うのです。
「令和4年「単独世帯」が3割を超え地域のつながりが稀薄に」
 最近、「終活」という言葉を耳にする様になりました。いつか来るその時に、「子供に迷惑をかけたくない。」、「頼れる人(親族、友人等)がいない。」と思っている高齢者が多くなっているからです。
  昭和61年、日本の全国総世帯数は3754万世帯で、そのうち「単独世帯」が682万6千世帯(全世帯の18.2%)でした。令和4年には、全国総世帯数は5431万世帯に、「単独世帯」は 1785 万 2 千世帯(全世帯の 32.9%)に、そのうち「65歳以上の単独世帯」が876万世帯を占め、年々増加傾向にあります。前出の日本財団の調査でも「近所付き合いについて」の問いに、「子ども世代」も「親世代」も約50%が、「ごく少数の人と面識・交流がある」と答えており、人とのつながりが稀薄になっている事が分かります。
「終活の前にACP(意思決定支援)を」
 「終活」は高齢者が、身の周りを整理する事。遺言書を書く事。と思っていませんか。確かに、いつか来るその時に「家族や友人に迷惑をかけられない。」と高齢者は、身の周りの物を整理します。しかし、いつか来るその時は、いつですか。解る訳ありませんし、若い人でも不慮の事故でその時を迎えることもあります。なので、年齢に関係なくACP(意思決定支援)は必要です。
ACP:意思決定支援:(Advance Care Planning)
 ACPは医療・介護関係者や親族・友人と本人が、医療を必要とした時にどんな医療を受けられるか、最期の時に望む医療について話合い共有し、記録しておくことだけではありません。健康を維持し、これからも続けたい事や大切にしている事、自分らしく生きる事の選択を具体的に表す事でもあります。
そして、ACPは、一度だけで決めるのではなく、体調や心境の変化によって何回でも、身近な人達と集まって話し合えるのです。
最初は、自分の意思が定まらず、身近な人に話すことが出来なくとも、何回も繰り返し機会を持つことで、自分自身の事を見つめる事や、自分の死生観を身近な人達に伝えられる手段の一つとなります。


   最後まで、お読みいただきありがとうございます。

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第3号被保険者④「年収の壁」

2023-10-01 06:52:00 | 日記
 サラリーマンの配偶者で扶養され社会保険料の負担がない第3号被保険者数は、令和3年度末に76.3万人で内訳は男性12万人、女性75.1万人となっている。女性の第3号被保険者のうち約4割が就労をしており、年末に向けて「就業調整をしている」と答えた女性パートタイム労働者は21.8%になる。その理由を「106万円の壁」、「130万円の壁」及び配偶者手当を意識していると答えている。(複数回答)
 9月下旬に岸田総理が、サラリーマンの扶養されている配偶者(保険料負担がない第3号被保険者)の「年収106万円の壁」について、『人手不足への対応が急務となる中で、短時間労働者が「年収の壁」を意識せず働く事が出来る環境づくりを支援するため、当面の対応として「支援強化パッケージ」に取り組むこととし、早急に開始する。』との内容の発言があった。 
 ⁂「年収の壁・支援強化パッケージ」の詳細については、厚生労働省等のHPにてご確認ください。⁂
 当面の対応策は、第3号被保険者が年収106万円を超えると第2号被保険者の適用を受け社会保険料が、毎月の給与から天引きされ、手取り額が減額する為その減額部分を補填するてめに考えられた政策で、数年間の措置と期限がある。また、支援強化パッケージには、130万円を超えた場合「一時的な事情」で労働時間が増えた事の証明を事業主がすれば、サラリーマンの被保険者の配偶者として第3号被保険者の資格を保つことができるという内容がある。これに年末調整に配偶者控除が受けられると、喜ばれている方もいるでしょう。でも、この政策は「人手不足への対応が急務」だから当面の対応なのです。人手不足でなかったら「106万円の壁」も「130万円の壁」も問題にする事はなかった。「第3号被保険者のサラリーマンの妻達が、年末調整の節税対策に知恵を絞っている。」と年末の恒例行事ぐらいに見ていたでしょう。昭和61年4月に基礎年金制度が改正され、日本に住む20歳~60歳までのすべての住民は、国民年金の被保険者として加入が義務付けられた。それまでの厚生年金の老齢年金給付の考え方は、夫婦単位(夫と妻)で、夫の年金に妻の分として加給年金が加算されていました。女性の被保険者は、企業内でBG(現在はOL)と呼ばれ結婚すれば退職して専業主婦になることがあたりまえとされていた。退職後に国民年金に加入しなくとも夫に扶養されるのだからと加入は任意であった。
<第3号被保険者の誕生>
 昭和61年4月の年金改正で加入が義務となった時、国民年金に加入していなかった専業主婦達の扱いに困り、第3号被保険者としてサラリーマンの夫が加入している厚生年金保険制度から第3号被保険者(妻)の保険料を国民年金へ納付することにした。結局、「家は男が守る」という昔の家族主義の発想から抜け出ることが出来なかったのだ。
<就労調整>
第3号被保険者の適用が始まって約40年を迎える今、結婚すれば専業主婦という考えは、一世代前の古い常識になった。第3号被保険者の「年収の壁」は、パート収入が妻のお小遣い稼ぎから、家計の収入の一部を占める存在となって、第3号被保険者の特権を守る為、一部の妻達の間で「就労調整」が当たり前になっていた。そして、第3号被保険者の4割が就労しており、そのうち2割強の人達が「就労調整」をしている現状に、急務となる人手不足への対応に生かす必要から岸田総理の発言となった。さらに収入要件のある配偶者手当が夫に支給されている事も、就業調整の要因の一つと見て、企業に配偶者手当の見直しの促進を勧める方針でいる。
<第3号被保険者を考える>
第3号被保険者の資格は、
➀厚生年金の被保険者の配偶者である事②就労していないか、年間の収入が非課税である事③年齢は20歳から60歳までの3条件になる。3条件の一つでも該当から外れれば、第3号被保険者から外れ、第1号か第2号の被保険者として保険料を納付することになる。第3号被保険者でいる為には当然「就労調整」を考えながら就労しなければ ならない。
第3号被保険者のメリットは、➀保険料を納付せずに65歳になると基礎年金を受給することが出来る。
デメリットは、➀責任ある仕事を任せてもらえない。②非課税以上の収入を望めない。③整理解雇の対象となる。④生きがいのある将来を思い描く足枷になる事が考えられる。
夫婦を単位とした年金給付から、個人一人ひとりの年金給付の時代になり、国は、人手不足の問題が表面化するという事態に、第3号被保険者が、もっと自由に第1号・第2号被保険者へ移り「年収の壁」を超えて就労することを支援しようとしている。第3号被保険者の種別が廃止される事は無いと思うが、仕事に生きがいを見出し仕事を続ける女性を、職場も受け入れる環境が整ってきている時代の流れの中で、第3号被保険者という種別を自分の人生設計の中で、どう生かすか考える時期に来ているのだと思う。


叔母のいた時・いちごのショートケーキ

2023-08-23 12:53:41 | 日記

8月20日、『洋菓子店で86年間続く横浜支店のレストランが、建物の老朽化で建て替えの為、閉鎖する』と夜のテレビニュースで流れた。店の入り口には、この洋菓子店のマスコット人形が立ち、レストランの入り口までのホールには、ミルキーや色とりどりのケーキ、シュクリームがショーウインドウの中に並ぶ。閉店の挨拶を最後に店のシャッターが下りると『家族で月1回食べに来ました。』『父親が、連れて来てくれました。』『懐かしい。なんか寂しい。』と高齢の親子が、インタビュ―に答えていた。昭和22年生まれの叔母は、この洋菓子店の銀座支店に中学を卒業後就職をしていた。当時、私にとって銀座は、なかなか簡単に行けないネオンの街で、親戚の結婚式の帰りに叔父に連れて行ってもらったのが初めてだった。入り口からレストランへ入るまでホールに並んでいたショーウインドウの記憶が、ニュースに流れた横浜店内の様子に甘い生クリームの匂いを思い出さされた。あの時の「イチゴのショートケーキ」が食べたくなった。
 叔母が、クリスマスに初めて持って来てくれたクリスマスケーキ。メリークリスマスと書かれたチョコレート板がのった「いちごのホールケーキ」白い生クリームに赤いイチゴ。それまで、バタークリームで作ったバラの花に仁丹の様な銀色の粒を飾ったケーキは食べたが、生クリームは初めて、口に入れた時のフワッと溶けてしまう感触とバタークリームにはない甘いミルクの味に感激して興奮した。叔母が、『カウンターに入っているから、私が作った。生クリームは新鮮だよ。』といいながらケーキの入った化粧箱を開けて、長径20cmのホールケーキを切り分けてくれた。ケーキの上に乗った真赤なイチゴを最初に食べるか、最後に食べるか?決めかねながら、叔母の話を聞いていた事をおぼえている。(イチゴの酸っぱさを覚えているから、キット最後まで残しておいて食べたと思う。)
現在、ケーキは専門店が出来、フルーツもイチゴだけでなく、ミカン・メロンetc……。季節によって新作が発表される。きっとあの時代より生クリームはふんわりとして美味しく、スポンジケーキは弾力があり、スポンジケーキの間に挟まった果物たちやイチゴは、甘酸っぱく美味しいだろう。でも、閉店するレストランの内部を写し出すテレビニースを見ながら、最近はどんなに珍しく美味しい物でもあの時の様に感激することが無くなってしまった。いつの間にかチョットした季節の変化に心踊らせることを忘れて、ケーキ一つに心躍らせることもなくなった自分に、『只々、あの時のイチゴのショートケーキが食べたい。』と強く問いかけた。














叔母のいた時・青春

2023-06-22 19:53:00 | 日記
 昭和22年第一次ベビーブーム団塊の世代に生まれ42歳で他界した叔母がいる。叔母は中学卒業後、銀座に本店を構える洋菓子店のレストラン部に就職した。この頃の銀座は、戦後の経済成長期を迎え、今まで知ることが出来なかった海外の文化(ジャズ、映画etc)珍しい食べ物。マネキンが映画スターの洋服を着て、9階建てガラス張りの円筒形のビルからポーズを取って笑いかけている。
 第60代内閣総理大臣・池田隼人が「国民所得倍増計画」を宣言し、昭和39年にアジアで初めての東京オリンピック開催が決まり、日本全体が未来は明るいと感じた銀座のど真ん中を叔母は生きていた。
 1958(昭和33)年に日劇で『ウエスタンカー二バル』が始まってアメリカのジャズ、ロックンロール、カントリーを紙テープに埋もれ舞台に仰向けに這うようにギターを弾きながら歌い続ける今までにない歌謡ショー。歌手も若く今までのスターとは違う身近な存在と、10代の叔母はかなり熱狂的に彼らと交友をしていたようだ。叔母は、「ミッキーカーティス、平尾昌晃、山下敬二郎、スリーフアンキーズ、森山かよ子、尾藤イサオ、、、。『舞台の上で声がかれるまで力を入れて唄ったので、今日は高音が出ないから舞台の下でハンディマイクで高音の部分になったらキャーキャー騒いで』とアルバイトを頼まれた。結構いいアルバイトになった」と笑った。テレビから流れている白黒の『ウエスタンカーニバル』のニュースフイルムが、まだ、性能の良い音響機器やカラオケも無かった時代に体力だけで熱く熱く舞台で弾けているアーティストに叔母の話は、スマホもSNSの情報も無い時代だったが今SNSで見られるどんな動画や噂話より、キラキラ輝いたいる。
 









ヒロシマ・ノート 2023

2023-04-26 11:38:47 | 日記
 大江健三郎さんが、3月3日に他界されたと知らされた。お昼のワイドショーで、『広島G7にやってくる各国の首相に大江さんの「ヒロシマ・ノート」を読ませるべきだ。』とロシアのプーチン大統領が、ウクライナに核を使用することをほのめかすニュースにコメントを求められたA評論家が声を上げた。「G7」、「核」、広島の原爆、、、、「黒い雨」井伏鱒二。私は、大江さんの「ヒロシマ・ノート」を知らなかった。図書館へ貸出し申し込み予約3番目、4週間待った。
 私が小学校高学年の夏、原水爆禁止世界大会の「原爆反対」のハチマキを頭に巻、拡声器で大声を上げながら広島へ向かうデモ隊の姿。その姿が一つではなく、共産と社会党と何か他にもあるのか、時には二・三っの集団がぶつかり合う激しいデモが、行われているのをテレビニュースで見ている。この日が過ぎるとその騒ぎはあっという間にいつもの生活に戻るお祭りと感じていた。「ヒロシマ・ノート」は、私がお祭りと感じていた頃の事を大江さんの目で書かれた書物だった。読み始めるとあの時の騒ぎが沸きあがってくる。原爆投下から20年。「ヒロシマ・ノート」が纏められた昭和40年は、直接被爆した人達がまだ生存していて、放射能という病原菌が、体内で目覚ると『原爆病院でお約束通り、一年後に死ぬ。』事を覚悟しながらも普通に生活を送ることに一生懸命な20代の広島の人。結婚をして健康な子供を産むことを祈る妊産婦。ケロイドを「恥」と家の奥に潜む娘。戦争が終わってもその遺産を引き受けて、拡声器を片手に行列に加わる事も無く、お祭りの輪の外で立っている人。あの時、理解できなかった騒ぎを順序だてて並べると、確かに、冷静にその騒ぎを見つめる普通の生活を望む広島人の姿や、それを理解していてもなお、この騒ぎに乗って『被爆者の保護を優先しなければならない』と声を上げる広島の人の姿を知ることが出来た。
 2023年。プーチン大統領は、核兵器をチラつかせながら自国の有利を保持しようとしている。これは昭和40年の拡声器を片手に「反対・反対」と騒ぎ立てていたデモに似ていないか。
 今年も原水爆禁止大会は、内外の来賓が平和公園広場に集まり核廃絶の「平和宣言」をして、過去1年間の被爆関係で死亡した広島の人達の名前を原爆記念碑の中に収める儀式になるのだろうか。
原爆が投下されて80年に近ずく、「今後75年は、草木が生えない。」と言わせた核開発は「平和利用」と身近になって、普通に日常を過ごしたい広島の人達の事など終わった事と振り向かないのだろうか。