皆さま、今日は!
しばらく間が空いてしまいましたが今月の御言葉です。
<10月11日 みよし福音キリスト教会・主日礼拝説教(聖書箇所:創世記42:1~28)より抜粋・再編集>
「彼のことばがそのとおりになるまで、主のことばは彼を練った。」詩篇105:19
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことの計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」創世記50:20
穀物を買いに来た兄たちに対して、見知らぬ者のふりをして荒々しく扱い、回し者つまりスパイの容疑をかけるヨセフ。注意深く読んでみると、そのヨセフの8つの言動に、それぞれ「表と裏の意味」があることに気づかされます。その状況下での直接的な意味と、神の大きなご計画による内面的な意味とのオーバーラップです。
①「ヨセフは兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。」(7,8節)
ヨセフはこのような形での再会を予想し待ち続けていたはずです。しかし兄たちにとっては、とっくに死んでしまったヨセフが目の前にいるなんて、ましてやエジプトの支配者になっているなど夢にも思わなかった、この認識の違いゆえの必然的結果です。しかし神はこの状況を、ヨセフに対するテストとして、そしてご自身の計画の実現のために用いられたのです。そしてヨセフもこの状況を「そのままスルーする」でも「素性を明かして仕返しをする」または「今すぐ仲直りする」チャンスとしてでもなく、赦しと和解へのプロセス、そして神の救いのご計画の実現への機会としました。与えられた権利や力を、自分の肉を喜ばせるための武器とせず、犠牲や危険を覚悟の上で、信仰により、神のみこころの実現のためにささげたのです。
②「かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。」(9節)
彼の一連の言動は、言うまでもなく意地悪や思いつきではありません。かつて夢で示された通り神のご目的があることを再認識して。しかし同時に、その夢との違いつまり両親と12人目のベニヤミンがそこにいないことに気づき、このことは家族全員が揃ってここに導かれるための途中経過であるということに気づいて、です。
③「わたしが、お前たちが回し者だと言ったのは、そのことだ。」(14節)
「そんな、取って付けたような嘘をついていることこそ、お前たちがスパイであることの証拠だ」という、まるで暴君の言いがかり、しかし同時に、「もうひとりはいなくなりましたと他人事のように言うなんて、あなたがたは自分たちが犯した罪を自覚していないのですか」というヨセフの内心にある訴えです。
④「次のことで、おまえたちを試そう。」(15節)
それは話の流れの通り、「おまえたちがスパイではなく、本当に正直者であるかどうか」を試すこと。しかし同時に、心に秘められた意味は、「果たして兄たちがあの時とは違って謙遜で誠実な者となっているかどうか、そうして私が安心して素性を明かし、ここに家族を呼び寄せることが出来るまでになっているかどうか」を試すことです。また、「次のこと」でヨセフが兄たちを試すだけでなく、神によって父ヨセフもヨセフ本人もまた、「赦しと和解」のために試されているのです。そのような神のテストはいわゆる選抜試験でなく、すでにご自身が選んでくださった者たちを導き訓練し整え、ご自身の栄光のために用いるためのテストです。
⑤「ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちの末の弟がここにこない限り~決して~」(15,16節)
エジプトの支配者を演じる上でふさわしいセリフと、牢獄から解放されるための条件の内容。しかし同時に、ヨセフの心は「主の御前にはっきり言うが、ベニヤミンを連れ来ることで、あなたがた家族の和解と信頼回復が証明できない限り、決して悩み苦しみからの真の解放はない、もしもあなたがた家族に疑いと不信しかないなら決して神からの祝福はない」と断言します。
⑥「次のようにして、生き延びよ。私も神を恐れる者だから。」(18節)
本来ならエジプトの支配者が言うはずのない言葉です。文脈上は、だから理不尽で残酷なことはしないという理由説明。しかし同時に、「あなたがたが次のようにして生き延びるために、何よりも必要なことは神を恐れることだということを忘れないで欲しい、今ここであなたがたは、自分たちこそ神を恐れる者であることを思い出して欲しい。」という熱い促しです。
⑦「ヨセフは彼らから離れて泣いた。」(24節)
彼らの会話を聞いて、堪え切れずに席を外して泣いたヨセフ。それは、彼らが神の御前に自分たちの罪を自覚していることへの感謝の涙であり、長男ルベンが自分を助けようとしたことをも知っての嬉しい涙、しかし同時に悲しみの涙。それは、彼らが自らの罪にずっと苦しみ続けていることへの悲しみであり、彼らのそれが悔い改めというよりまだ後悔であり、いまだに責任を擦り付け合っている、そんな彼らの現状に対する涙であり、こんなに困り果てている彼らに今すぐ自分を明かすことができない悲しみです。またそこに「アブラハム、イサク、ヤコブの神」ご自身の喜びと悲しみが重なっているかのようです。
⑧「それぞれの袋に彼らの銀を戻し、さらに道中の食料を与えるように命じた。」(25節)
もう一度来た時にそのことを正直に話すかどうか試すため。しかし同時に、彼らを無事に一刻も早く帰宅させたい、飢えている家族に確実に穀物を届けて欲しい、そしてもう一度買いに来る際に代金がなくては困るだろうからという、「家族の一員」であるヨセフ自身の思いやりです。
⑨最後に、これはヨセフでなく兄たちの言葉ですが、「神は私たちにいったい何をなさったのだろう。」(28節)
それぞれの袋にそれぞれの銀が入っていたという信じられない出来事に、彼らは「なぜあの人はこんなことを」ではなくて、見えざる神の全能の御手を認めつつ、その意味、理由、目的が全く分からないと叫びました。しかし同時にそれは、この創世記42章の一連の出来事に対する、ここまでしか読み進んでいない私たち読者の心の叫びを代弁しているかのようです。ただし、その結末を知っておられる読者は、創世記の後ろからの、つまり未来からの視点でその疑問に答えることができるでしょう。
私たちそれぞれの人生について言えば、思いがけない理解できない納得できない出来事について、未来の視点で現在の謎を解くことはできませんが、神の言葉である聖書こそが、神の視点でその謎を解き明かしてくださる、そうして「神を恐れて生きよ」と促してくださるでしょう。