ようこそ!みよし福音キリスト教会へ

埼玉県入間郡三芳町にあるプロテスタントの教会です。
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6月のみことば

2020-06-11 10:42:00 | 今月のみことば

今月のみことば:「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」へブル4:16

 

2020年6月7日

みよし福音キリスト教主日礼拝説教   

創世記32:1~21 「ここは神の陣営」

 

1 「未解決の問題への導き」

 

ヤコブが長年願い祈り続け、ようやく実現したこの出発は、「両親のもとに帰る」だけでなく、ずっと棚上げしていた自分自身の未解決の問題と向き合うための主の導きでした。その問題とは、兄エサウへの謝罪、赦しと和解です。神の祝福の約束の実現のために、兄との和解は避けて通れない道であり、前章の「ラバンとの和解」は、この「もうひとつの和解」のためのステップでした。ヤコブにとってのこの20年間はエサウとの和解のため、と言っても過言ではありません。

 

31章の終わりでラバンと別れる時には、彼はきっと、「正々堂々、意気揚々、順風満帆」という心境だったに違いありませんが、約20年ぶりの道を逆方向に進みながら、カナンの地に近づくにつれて、彼の心は次第に暗く、その足取りは重くなっていったことでしょう。というのも、そもそも自分がなぜカナンの地からパダン・アラムに行くことになったのかという、あの心痛む記憶が蘇ってきたからです。逃げるようにして旅立つ時の母の、「お兄さんはあなたを殺すと言っている、だからしばらく叔父のところに逃げていなさい、兄の怒りが収まったら使いを送って呼び戻すから」ということばを。しかし結局20年経っても母からの使いは来ず。ということは、まだ怒っているであろう兄エサウがそこに。

 

そんな時、1節。神の使いが彼に現れ、「神のふたつの陣営、マハナイム」を見ます。ただし、そこに主のことばはありません。この沈黙のメッセージに一体どんな意味があり、彼はどんな思いで「ここは神の陣営」と叫んだのでしょうか。喜び二つの可能性があります。第一は、聖なる、力強い神がいつもどこにいてもヤコブと共にいてくださるという約束です。それはちょうど第二列王記での預言者エリシャが見た光景と同じです。そうだとすれば20年前のベテル体験、「あなたを必ずこの地に連れ戻す、わたしはあなたを決して見放さず見捨てない」という神の約束は決して変わることなく、かつてパダン・アラムへと導かれた主が今はカナンへと導かれるということを再確認させるためでしょう。しかし第二の可能性はそれと対照的で、天の軍勢の圧倒的な迫力に恐れおののき、そのような神の前にどれほど自分が小さく、弱く、愚かで、そして罪深い存在であるかを自覚させ、そんな自分がこれからエサウと会う、ということへ恐れと不安を大きくさせるものでした。それはちょうどヨシュア記で、エリコ攻略前に万軍の主の将がヨシュアの前に立ちはだかったのと同じです。前後の流れから考えると後者ではないでしょうか。いずれにしても、そのような神の沈黙のメッセージに促されるようにして、兄エサウに対して、直接会う前に何かしなければと思い立ち、具体的な行動を起こすのです。

それはエサウに対して前もって使いを送ることでした。この使いに託した伝言の中で注目すべき表現があります。「あなたのしもべヤコブ」、「私の主人エサウ」という呼び名が意味すること、それは策略家ヤコブらしく身を守るためのお世辞か、それとも心からの謝罪と謙遜の表れか、おそらく後者でしょう。もう20年前の「押しのける者・ヤコブ」ではないのですから。

 

<適用>

「それぞれの人生において、願っていた道が閉ざされたのは最善の道へと導かれるため」という名言がありますが、願い求めていたひとつの道が開かれたとすればそれは、未解決の問題に向き合うための主の導きなのかも知れません。だとすればそれもまた最善の道。私たちはそれぞれに、ずっと棚上げし、ずっと避けてきた、忘れていた、もう思い出したくない、未解決の問題があるのではないでしょうか。それは多くの場合、ヤコブと同様、家族親子兄弟友人との壊れてしまった関係の回復でしょう。かつては決して向き合うことができなかった、自分では決して解決できなかった、しかし、向き合うことが出来るように、解決できるように救われ、その解決のためにこれまで整えられてきた、たといその時は分からなくても、その解決の先に、神の祝福と神の栄光へとつながっている、そのような主の導きが私たちひとりひとりにも、あるのではないでしょうか。自分の願いと同じであろうと違っていようと、それこそが最善の道。

 

このことは、マルコ5章の「汚れた霊に憑かれたゲラサ人の癒し」の記事を連想させます。癒されたゲラサ人は主イエスについていきたいと願い出ましたが、主はお許しにならず、マルコ5:19「あなたの家族のところに帰って、主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんでくださったかを、知らせなさい」と命じました。主イエスについて行くことを禁じたというより、彼の未解決の問題である家族関係の回復、まずその問題に向き合うことを主は彼に願われたのであり、家族との和解の実現あってこそ主の祝福が彼の家族にも及ぶ、そのための彼自身の救いでもあるのです。あなたがずっと避けてきた問題は何でしょうか。主はあなたにどんな問題に向き合わせようとしているでしょうか。

 

2 「力強い祈りへの導き」

 

エサウの四百人が接近中、伝言に対する兄からの答えはなし。なぜわざわざ迎えに来るのか、しかもなぜ四百人も連れてなのか、エサウの意図が分からないという二重の恐怖です。もしかしたら20年前の報復か。到底勝ち目はないし、そもそも戦うつもりなどない。恐れと不安の中で「リスク分散作戦」に出ます。策略家ヤコブらしい対処か。ここに興味深いことに掛詞があります。「神のマハナイム(ふたつの陣営)」を見た(「ので」それとも「にもかかわらず))彼は、恐れと不安の中で「自分のマハナイム(ふたつの宿営)」に頼る。

 

しかし人間的な画策は通用しない、もうそういう生き方は過去のことで、神のみこころではないと自覚したヤコブ、葛藤しつつ、守りと導きは神ご自身の御手によることを信じ、追い詰められて神の前に。

こうして「神のマハナイム」は、彼を最善のタイミングで祈りへと導きます。

 

ともかく特に注目したいのは、ヤコブがどのような祈りに導かれたかということです。この祈りには大切な3つの特徴があります。ひとつめは、「あなたはかつて」と、嘆願の明確な根拠としての主のみことばの約束です。ふたつめは、「あなたの恵みを受けるに相応しくない自分」と、神の恵みを受けるに値しない、主の前に罪深く愚かな自分であるというへりくだりです。そしてみっつめに、「私はエサウが怖いのです」という、自分の切実な思いをさらけ出し、心をありのまま注ぎだすような正直さです。

 

 この祈りの3つの特徴は、ルカ7(ツロ・フェニキアの女)とマルコ7(百人隊長)で、主イエスが驚き賞賛なさった二人の異邦人の願い求めにも共通することです。ローマの百人隊長は、「主イエスを家にお招きする資格は自分にない、しかし司令官の命令が絶対であるように、ただおことばをください、あなたのことばは神の力です」と告白、またツロ・フェニキアの女は、「イスラエル人の食卓に連なる資格はないが、テーブルの下の子犬を主人があわれむように、異邦人であっても恵みのおこぼれをいただくことはできる」と。

 

<適用>

私たちもしばしば困難に直面し、自分で何とかしなければと、あれこれ思い悩み、でもどうにもならず、どうすることもできず、追い詰められて、ようやく切実に必死になって祈る、そんな私たちかも知れません。それでもあわれみ深い主は待っておられ聞いてくださるのです。それに追い詰められても全然祈らないよりは追い詰められて祈る方がずっと良いです。ともかく、義務的でマンネリで本当の意味で祈ることの少ない私たちを、あわれみ深い主は、追い詰めることによって祈りへと導いてくださるのです。

 

そしてこのヤコブの祈りの3つの特徴は、私たちへの祈りの模範です。みことばの約束への確信と、自分が聖なる神の前にどれほど罪深く、恵みを受けるに値しない者であるかという自覚と、そんな自分の思いを主はすべて承知の上でありのまま受け止めてくださるという信頼をもって大胆に祈る、それこそが、キリストの御名によって祈るということでしょう。「大祭司イエスのとりなしを通して大胆に恵みの御座に近づく」とは、そういう祈りのことではないでしょうか。神への祈りとは、決して外来語の「クレーム」ではなく、英語本来の「クレーム」なのです。

 それぞれの人生の中で、それがどのような状況であろうと、神はみことばを通して私たちに「ここは神の陣営」であることを教えてくださります。それは、私たちを祈りへと導き、祈りつつ主に従い主に信頼して前進していくようにと促すためなのです。

 

3)「悔い改めと赦しへの導き」

 

祈り終えたらすべてが解決するわけでなく、祈り終えたからこその一歩前進があるのです。ヤコブはこの祈りの後、多くの家畜をエサウへの贈り物として先に進ませます。ここに彼の心情の説明はありません。ここでも否定的解釈と肯定的解釈が可能でしょう。ご機嫌取りのパフォーマンスか、それとも心からの悔い改めのしるしか、昔のヤコブならば前者の可能性大、しかし今のヤコブならば後者であり、祈りの中で主から示されたことでしょう。かつては押しのける者、かかとをつかむ者、策略によって欺き奪い取る者であったヤコブは、この20年間、ラバンに押しのけられ、かかとをつかまれ、欺かれて奪い取られて、また子どもであった自分自身が今度は夫として親として家族のことで悩み苦しみ、そうしてかつての加害者がさんざん被害者を経験して、自分自身というものが分かった、そんなヤコブの償いの表明は、決してパフォーマンスではなく心からの謝罪の証しであったと信じます。ともかく、「真実な償い」は悔い改めを見える形で証するものであり、「悔い改めを伴う償い」は相手の怒りがなだめ、和解への橋渡しとなるのです。

 

<適用>

「ごめんで済めば警察はいらない」ということばはある意味で正論です。誰かに対して損害を与えた場合、口先だけの謝罪では解決しません。心からの謝罪と共に、その証しとしての償いが必要。謝罪だけで赦しと和解が成立することがあるとすれば、それは誰かが本人に代わって償った場合です。このことは神との関係にも当てはまります。「ごめんなさい」と祈っただけでは、たとえそれがどれほど真剣で正直な謝罪であろうとも、ただそれだけでは罪の赦しはあり得ないのです。罪の赦しのためには、キリストの十字架という、神の怒りをなだめる償いが必要です。

人は他の人に対しての幾らかの償いは出来るでしょう。でも神に対しては、誰も自分の罪を自分で償うことはできないし、他者が代わりにそれをすることもできません。しかし私たちのために神ご自身が完全で永遠の償いを用意してくださったのです。

エサウをなだめるために前を進ませる最大限の贈り物、それは第一ヨハネ4:10、「なだめのささげ物としての御子を遣わされた、ここに愛がある」のみことばに光を照らします。


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会堂での礼拝を再開しました!

2020-06-09 00:05:00 | お知らせ
ハレルヤ!6月7日から教会堂での礼拝再開しています!(約2ヶ月ぶり!)

新型コロナウイルス感染予防対策として次のことに気をつけています。

手指の消毒(入口に消毒液が置いてあります。)👐
人数制限👥(教会員のみ。インターネット環境がない方、ライブ配信が見られない人が優先)

座席もソーシャルディスタンス。

今後も礼拝のライブ配信を続ける

会堂内でのマスク着用😷

会堂では大きな声を出さない。🗣(発声、会話の自粛)
換気のため窓をあけています。

また、当日の健康状態の確認と検温にご協力お願いいたします。

これからも新型コロナウイルス感染の収束状況をみつつ対応していきます。

このブログを読んでくださっている人で教会の礼拝に参加してみたいと思っている方。ぜひ来てくださいね。歓迎致します!





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