ようこそ!みよし福音キリスト教会へ

埼玉県入間郡三芳町にあるプロテスタントの教会です。
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Footprintという詩

2018-08-27 13:28:00 | 聖書の話・神様はこんな方
そういえばエマオの途上のメッセージで紹介されていた詩があって、それがとても素敵な詩なのでご紹介します。

聖書の言葉ではないけれど神様が私たちをいかに愛しておられるかをよく表している詩だと思います。




「あしあと」マーガレット・F・パワーズ 




ある夜、私は夢を見た。

私は、主とともに、渚をあるいていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとが残されていた。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目をとめた。


そこには一つのあしあとしかなかった。

私の人生でいちばんつらく悲しい時だった。

このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。


「主よ、私があなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道において私とともに歩み、

私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一人のあしあとしかなかったのです。

一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。」


主はささやかれた。

「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりしない。ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとが一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた。」



(~あしあと~多くの人を感動させた詩の背後にある物語・太平洋放送協会刊1996年)から




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エマオへ行く途中の2人の弟子

2018-08-27 09:27:00 | 聖書の話・神様はこんな方
昨日は礼拝に高校生、中学生が来てくれてうれしかったなぁ。

礼拝のメッセージはルカの福音書24章13節から35節、復活のイエスキリストと出会う2人の弟子の話でした。

この箇所はイエス様の十字架刑の後、エマオ村への途上、2人の弟子たちとイエス様との会話が描かれています。

彼らはなぜエマオに行くのか理由は書かれていませんがこの2人の弟子は失望し混乱していました。話し合ったり論じ合ったりしていたのです。そこに復活のイエス様がそっと同行されるのです。

しかし、2人の弟子人の目はさえぎられていて「イエスであると気が付かなかった」のでした。

2人が失望していたのは「言葉にも行いにも力がある預言者イエス」がイスラエルを開放してくれるはずであったのに祭司長や議員たちに捕らえられて十字架刑で殺されてしまったからでした。そして混乱していたのはイエス様が十字架で死んだはずなのに仲間の婦人たちが、「墓はからっぽだった、イエス様が復活した」と聞いていたからでした。

しかし、2人の弟子は救い主キリストが私たちを社会的に救ってくれる政治的な力を持った救い主という「自分達の勝手な望み」によりイエス・キリストを誤解し、聖書を読んでいても理解していなかったんですね。

そこでイエス様はこういわれるのです。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くてキリスト預言者たちが言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエス様はモーセやすべての預言者から始めてご自分(救い主)について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされました。


エマオ村の近くまで来て、2人はイエス様に一緒に泊まってくれるように強く勧め増す。2人の弟子と一緒に食事をとるとき、パンを取って神様をほめたたえ、裂いて2人に渡しました。
その瞬間、2人の目は開かれ、その人がイエスだとわかったのでした。と同時にイエス様の姿は見えなくなりました。

2人はびっくりしたでしょうね。2人は話し合いました。
「道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

そして2人は立ち上がり、直ちにエルサレムの仲間のところに戻り、道中で起こったこと、パンを裂いたときにイエス様だとわかった次第を話しました。


私たちはこのエマオの途上の2人の弟子の様に目の前の問題や自分の思いに囚われて、神様のことから目を離してしまうことがあります。目がさえぎられる状態というのはこういうことなのかと思います。


自分たちの「思い」が神様の「思い」と同じとは限りません。
神様を信じていても、聖書を読んでいても、誤解したり、失敗したり、罪を犯したり、失望したりすることがあります。

そんな時イエス様から近づいてくださり、導いてくださり、ともに歩んでくださることをこの箇所で学びました。導きはイエス様であり、聖書なんです。

2人の弟子たちは直ちにエルサレムに戻ったとあります。この時信者たちは捕らえられたり、迫害されたりする危険があったにもかかわらず。

神様の真理を見つけた時、失望が希望に代わり、そうせざる得ないほどの行動に出ることがあります。そんな話が他にも聖書にでてくるんですよ。その話はまた別の時に....。では、またね。


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