🍀今月のみことば🍀
「神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」第二ペテロ1:2
<7月5日 みよし福音キリスト教会 主日礼拝説教、創世記35章より:>
ヤコブの生涯のしめくくりです。創世記35章で描かれているふたつのコントラスト(対比)に注目しましょう。そこには私たちへの大切な教訓が示されています。
1)ラケルの最期とイサクの最期
最近話題のトランプ暴露本のタイトルは「Too Much and Never Enough (あり余る程持っているのに決して満足せず)」。この言葉から私が連想したのは、ヤコブの最愛の妻ラケルの人生です。彼女はエフラテ途上で待望の第二子を出産しますが、その難産の末、命を落とします。死の間際に彼女がその子につけた名前は何と「ベン・オニ(私の苦しみの子)」。彼女の心を占めていたのは難産の苦痛と同時に彼女の人生全体の苦痛でした。それは、自分に与えられた豊かな恵みに気づかずに、持っていないものを何が何でも手に入れようとし、本当に頼るべきお方を知っているはずなのに、目の前の何かに必死にすがりつく、そんなラケルのこれまでの人生を象徴するかのような命名です。聖書は彼女のことをかなり詳しく記しており、かつて「姉と死に物狂いの争いをして勝った」と叫んでナフタリと命名し、「私に子どもをくれないと私は死ぬ」と訴えて夫を怒らせ、「その恋ナスビを私に譲ってくれ」と取引を持ち掛けて姉を呆れさせ、父のテラフィムを盗み出し最後まで隠し通した、そんな彼女のこれまでの生き方を想う時、私の心には水野源三さんの有名な詩・「どうしてそんなにも」が浮かびます。
「父なる神様に生かされているのに
生かされているのに
どうしてそんなにも 思い煩うのか
父なる神様に愛されているのに
愛されているのに
どうしてそんなにもいつもつぶやくのか
父なる神様にすべてをよきように
すべてをよきように
なしてくださるからすべてをゆだねよう」
そんなラケルと対照的だったのが、ヤコブの父イサクの最期です。「満ち足りて死んだ」とは、ただ単に「長寿を全うして」ではありません。祈って送り出した息子ヤコブの帰郷と、ふたりの息子たちの和解の実現は、どれほど大きな喜び、感謝だったでしょうか。親として何よりの幸せ、いやそれ以上に、ひとりの信仰者としての幸いです。というのも、息子たちの和解は、自分自身への主の赦しの恵みであり、主の約束が決して変わらないことの確証となったからです。かつて日野原重明さんは「どのような人生であれ、最後に感謝しながらこの世を去ることができれば、それは素晴らしい人生」と語られましたが、それこそ主イエスを知る者に約束された幸いです。
2)ラケルの命名、ヤコブの命名
「新しい名前」、それはヤコブの生涯のキーワードです。夫ヤコブは、最愛の妻が出産で命を落とすという嘆き悲しみの中、妻による「ベン・オニ」という命名を取り消し、よく似た音の「ベニヤミン」に変更します。今までずっと我が子の命名を妻に任せてきたのですから、異例のことであり、彼の強いこだわり。もちろん妻の苦しみを理解しなかったわけではありません。文字通りの意味は「右手の子」で、「神の右の手にある子」、「神の祝福の子」です。「ベン・オニなんて、将来この子が可哀そうだから」という配慮というより何より、ヤコブの信仰告白がそこに込められていました。それは、もはや「ヤコブ」ではなく、あの「ペヌエル」を通過して「ベテル」に帰った「イスラエル」の、恵みによる新しい人生観でもあります。またその子については「この子が神の祝福を豊かに受けますように、そして人々に祝福を与える者となりますように」という祈り。確かに主はこの祈りに応えてくださいます。
私たちの救いは「死後の行き先の変更」だけではありません。嘆きに支配されて、「慰められることを拒む(エレミヤ31)」ラケルになってはなりません。誰でもキリストのうちにあるなら新しく作り変えられた人。それゆえ私たちひとりひとりの人生もまた、新しく生まれたその瞬間に「ベン・オニ」から「ベニヤミン」に変更されていることを覚えましょう。