本日の主日礼拝は、上水めぐみキリスト教会との講壇交換により、吉村直人先生に宣教のご奉仕をしていただきました。
上水めぐみキリスト教会は私たちの教会を継続的にご支援いただいている教会です。本当にいつも尊いご支援を感謝しています。
「むなしい聖書の読み方」と題しましてメッセージをしていただきました。
聖書箇所: マルコの福音書7章1〜13節
パリサイ人たち、エルサレムからきた律法学者たちがイエス様のもとで、イエスの弟子のあるものたちが、洗っていない手でパンを食べているのを見る。そして、なぜ弟子たちは汚れた手でパンを食べるのかとイエス様を非難した。
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「なぜ、あなたのでしたちは、昔の人の言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
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パリサイ人や律法学者達が問題視したのは宗教的な汚れであった。当時、昔の言い伝え、食事の前に手をあらう、からだをきよめる、食器や寝台を洗いきよめるなど、昔から受け継いで固く守ってきたことがたくさんあったからだ。
それに対してイエス様の答えはとても厳しいものだった。
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「「この民は口先で私を敬うが、
その心は私から遠く離れている。
彼らが私を礼拝しても、むなしい。
人間の命令を、教えとして教えるのだから。」
あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っているのです。」
またイエスは言われた。あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために見事に神の戒めをないがしろにしています。
モーセは、「あなたの父と母を敬え」、また「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」と言いました。
それなのに、あなたがたは、もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち捧げ物)です、というならー」と言って、
その人が父または母のために、何もしないようにさせています。
このようにしてあなたがたは自分たちに伝えられた言い伝えによって神の言葉を無にしています。そしてこれと同じようなことを、たくさん行っているのです。」
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汚れ、きよめについては旧約聖書で語られていたこと。神様は聖い方、人には皆罪があり罪を持ったまま神様に近づくことはできない、神様にそのまま近づけば死んでしまうので死なないように汚れをきよめることについての律法が与えられた。
しかし、年月が経つにつれて神様に対して熱心であり真剣であったのに神様の前にきよさを保つには、〜した方が良いのでは?という論理が幾重にも言い伝えられ、その言い伝えが神様の言葉をむなしいものにしてしまった。
例えば、聖書に父や母を敬えとあるのに父や母を扶養するためのお金を神へのコルバン(捧げ物)といって面倒を見ることからまぬがれることができる。聖書の言葉の抜け道をつくっているのである。
イエス様はその事を指摘し、自分たちの文化や習慣によって神様の言葉を無にしたと言ったのである。
それでは聖書の抜け道を作らないようにするにはどうしたらいいのか。
私たちにできるのは聖書の言葉にまっすぐ向き合うことである。聖書の言葉は極めて現実的で困難を感じる。私たちにとって痛いところ、示されたくないところをついてくる。
私たちが抜け道を作ってしまうのは、聖書の言葉が難しいと思ってしまうから聞き流したり、解釈によって受け止めやすくアレンジしてしまう。
それは読んでいるけれども虚しい聖書の読み方になっている。
私たちを創られ、愛している神様は私たちが抱える問題を棚上げするのではなく、問題を解決して、神様との関係を回復してほしいと願っている。弱い私たちに愛を持って回復させようと、もう一度立ち返るように救い出そうとしているのである。その招きに応じるには抜け道を作らず聖書の言葉をまっすぐ聞くことである。愛しなさいと言われたら「はい、愛します。」赦しなさいと言われたら「はい、赦します。」延べ伝えなさいと言われたら「延べ伝えます。」そのように私たちが歩むことができるように私たち一人一人に聖霊なる神様が与えられている。今もともなってくだっている。聖霊なる神様が私たちを燃え立たせていつもイエス様に目を向けることができるように信じていきましょう。
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礼拝後は吉村先生を囲んでの楽しい愛餐会がありました。このように神様の御手の中での出会いを感謝します。祈りあい、助け合うことができることはなんで幸せなことでしょう。
吉村直人先生、上水めぐみキリスト教会の皆さん、ありがとうございます。