成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と桜楓会補助団発起人テレーゼとキャロライン

2016年01月03日 | 歴史・文化
 明治39年、浅子の主導により桜楓会補助団が組織されるが、発起人20名はいずれも女性ばかりであった。大隈伯爵夫人綾子、渋沢男爵夫人兼子、西園寺侯爵令嗣夫人新子、広岡久右衛門夫人夏子、広岡恵三夫人亀子(浅子の娘)、三井男爵夫人苞子、三井三郎助夫人寿天子、森村市左衛門夫人菊子、森村豊夫人鹿枝子、大倉孫兵衛夫人夏子、廣瀬實榮夫人鉄子、住友吉左衛門夫人満壽子、麻生学監夫人岸代子らのほか、ドイツ人の女性テレーゼとアメリカ人の女性キャロラインがいる。これは浅子ならではの陣容であるといってよいであろう。
 テレーゼは、長井長義東京帝国大学教授(薬学)夫人であり、キャロラインは、森村組の村井保固夫人である。
 長井長義は、明治34年、女子大学校の化学科講師として、自ら提案して設備された香雪化学館で講義と実験を指導し、また通俗化学講話を行い、その内容は『家庭』誌に掲載され、浅子は読者の1人であった。また長義とテレーゼはカトリックの信者であった。
 長井は、明治4年、第一回政府留学生の1人としてベルリン大学で学び、同大学の助手となり、明治16年、テレーゼと出会い、明治19年、テレーゼの生家のあるアンダーナッハの教会で結婚式を挙げた。同年、夫人を伴い帰国、翌20年、長男亜暦山、21年、長女エルザ、25年、次男維理が生まれている。2015年12月26日の当ブログ「広岡浅子と長井長義夫人テレーゼ&村井保固夫人キャロライン」を参照。
 一方、キャロラインと村井保固は、ニューヨークで村井が下宿していた家がキャロラインの姉宅である関係で知り合い、奇しくも長井と同じ明治19年、米国で結婚式を挙げている。村井はニューヨーク勤務が長かったが、日米の往復は90回に及び、客船時代の当時としては記録的な回数であった。キャロラインは牧師の家に生まれているが、浅子と村井保固の共通点は、救世軍の山室軍平を師と仰いでいることである。ちなみに、桜楓会補助団名簿には、「村井ネ・-」と記されていることがあるが、これは村井がキャロラインのことを「ネ・ネ・」と呼んでいることによる。2015年12月23日の当ブログ「広岡浅子と村井保固&キャロライン夫人」、2015年12月26日の当ブログ「広岡浅子と長井長義夫人テレーゼ&村井保固夫人キャロライン」を参照。












 

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