成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡恵三と御殿場・便船塚の別邸、そして三井守之助、井上準之助

2015年07月22日 | 歴史・文化
大正8年1月、浅子が死去し、その後、御殿場の広岡別邸はどのようになったのだろうか。
 昭和10年8月24日の記録によると、便船塚の70広岡別邸には、大同生命社長の広岡恵三が滞在していたことがわかる。
 同じく便船塚の71西園寺別荘には、元老・西園寺公爵が滞在していた。公望は当時、87歳で、「公望年譜」によると、7月7日、興津の坐漁荘から御殿場別邸に到着、その後、9月10日、御殿場から興津に戻っている。
この記録は、御殿場町長・稲葉五三郎が別荘地を提供している地元の芹沢淳らに避暑滞在客の調査を依頼したものである。その結果、「避暑滞在客芳名録」が作成された。
「芳名録」は、別荘地(方面)別に作成され、「便船塚」「対山荘」「地蔵堂」「二の岡」「東山」などの各地区(方面)に滞在する避暑客を記録したものである。
冒頭に「便船塚」地区が挙げられ、「元老 西園寺公爵」「子爵 東園」「社長 広岡恵三」「会頭 志立鉄次郎」と記録されている。いわゆるアメリカ村がある「二の岡」や「東山」をさしおいて、「便船塚」が冒頭に置かれているのは、元老・西園寺公望や東園子爵夫人(久爾宮邦彦二女)が滞在しているからかもしれない。
 ところで広岡恵三が便船塚の別邸にどの程度滞在したかについては、筆者には調査不足でわからない。恵三は、昭和10年当時、59歳、大同生命HPなどによると、「昭和10年12月、東京日本橋加島ビル購入、大同生命ビルディングと改称」とある。この東京進出とも関連して、恵三は御殿場に滞在したのかもしれない。
 一方、子爵・東園というのは東園栄子(さかこ)夫人のことで、多分、72勝又春一別荘(昭和2年、初代御殿場市長)に滞在していたと思われる。栄子夫人は、久爾宮朝彦の次女で、子爵・東園基愛に嫁がれた。しかし子爵が大正9年に死去、栄子は勝又別荘に長期滞在したらしい。
 このようにみてくると、70広岡別邸は、二の岡というよりは、新橋、便船塚に所在したことがわかる。
 便船塚というのは、昔、このあたりに大沼があり、船着き場があったことに由来しているらしい。御殿場、小山、裾野地方は、かつて御厨といい、伊勢神宮の台所をまかなう荘園であった。便船塚は、その物資の輸送上の拠点であった名残なのかもしれない。現在、富士急の市内路線バスの一つ、東山循環線には、「便船塚」というバス停がある。
 一方、「地蔵堂」地区では、38芹沢淳方三井様別荘には、三井永坂町家8代当主・三井守之助(高泰、M28-S21、三井物産社長)が滞在してた。ほかに「地蔵堂」の別荘には、三井物産重役・今井 一、男爵で三井物産重役である伊達十郎が滞在していたことがわかる。
 「地蔵堂」地区は、現在、東田中の交差点、東田中交番(巡査派出所)のあたりである。38三井様別荘は、現存しないが、現在、住宅展示場になっているあたりにあったのではないだろうか。
 三井守之助は、大正10年から昭和9年まで三井物産社長を務めたが、昭和2年、大磯に別荘(洋館2階建)を普請している。御殿場地蔵堂の38三井別荘が大磯別荘より先に建てられたのか、それとも後に建てられたのか、調査不足で筆者にはわからない。いずれにせよ、守之助は海辺の別荘と高原の別荘を所有していたことになる。
 前後するが、井上準之助は、明治44年、大磯に別荘「富春堂」を所有したが、もっと静かなところに住みたいということで、大正15年、御殿場町深澤の名主の家を購入、東田中に移築して、96井上別荘「皆山堂」が誕生した。
 大磯駅から国府津駅経由で御殿場駅に行けば、「海辺」の大磯ー「高原」の御殿場の往来は、当時としては、快適なものであったのではないだろうか。
西園寺公望は、静岡県の興津と御殿場に別荘を所有、一年の大半を興津の坐漁荘で過ごし、暑い夏場を御殿場の別荘で過ごした。静岡県庁や静岡県警は、元老西園寺公望には最大限の警備と配慮を行っていた。
 昭和7年5月15日、時の総理大臣・犬養毅が暗殺され(五・一五事件)、後継内閣を御下問された西園寺は上京することになり、5月19日、坐漁荘を出発する。その際、静岡県庁が差し回した自動車には、西園寺をはじめ、近衛公や原田秘書が同乗、さらに中川小十郎や女中頭を従え、名古屋憲兵隊長の案内で、自動車十数台を連ね、静岡県警の物々しい警戒の下で静岡駅に到着、小休憩後、特急富士号の一等寝台車に乗車、静岡県知事は国府津まで随行し、警察部長は東京まで随行したという。
 このように権勢を誇る西園寺公望は、御殿場の便船塚の別荘においても別格扱いであり、昭和10年夏の「避暑滞在客芳名録」の冒頭に「便船塚」地区が挙げられているのもうなづけよう。
 





広岡浅子と御殿場、そして井上準之助別荘、東山荘

2015年07月21日 | 歴史・文化
御殿場新橋(にいはし)に所在した70広岡別荘、71西園寺公爵別荘、西園寺八郎様別荘、72勝又別荘などは、いずれも取り壊しあるいは焼失し、現在、この御殿場箱根線沿いには、大型の飲食店、商業施設、ガソリンスタンドなどが立ち並んでいる。車の往来も多く、昔日の面影はまったくない。
御殿場市は、現在、人口9万人、西に富士山、東に箱根山をのぞみ、冷涼な気候の高原都市である。御殿場市役所のHPをみると、「緑きらきら、人いきいき 御殿場市」とある。
 たしかに景観はよいが、陸上自衛隊の駐屯地が3つ、また本州最大の東富士演習場があり、市の1/3の区域が防衛関連で使用されている。昭和44年、東名高速道路御殿場ICが開通、ゴルフ場が点在し、平成12年、御殿場プレミアムアウトレットが開業している。バイパスや幹線道路には大型商業施設も多く、便利ではあるが、一方、いまひとつ町の性格をつかみにくい。しかし人口減が多い市町村の中で、御殿場市は人口が漸増している。
 御殿場市では、現在、秩父宮記念公園を中心として、東田中、二の岡、東山あたりを文化ゾーンとして位置づけているようである。
 御殿場箱根線を東名高速道路御殿場IC第一出入り口方向へ歩き、東名高速道路の下をくぐると、東田中の交差点につきあたる。一方の角地には、96井上準之助別荘(現・秩父宮記念公園)の塀があり、向かい側の角地には、交番(巡査派出所)がある。このあたりに来ると、現在でも、高原の別荘地の面影が残っている。
 この交差点を基点にして、東山湖方向へ進めば、96井上準之助別荘(現・秩父宮記念公園)、97東山荘、99松岡洋右別荘、旧岸信介首相別荘がある。逆に、裾野方向へ進めば、対山荘の別荘地、111小泉信三別荘、108松本蒸治別荘などがある。そして箱根方向へ進み、バス停・二の岡入口を右折すると、二の岡神社に至る。
 大正8年、西二の岡に「対山荘」という別荘地が売り出されたとき、「小軽井沢の御殿場」というキャッチフレーズが使われている。浅子が死去した大正8年当時、御殿場のこの辺りや二の岡神社、東山湖あたりは、小軽井沢に相応しい高原の別荘地であったのだろう。
 しかしその良質な別荘地も現在では、目抜きの通りに近いところでは、別荘地としてではなく、住宅地として分譲されたり、いわゆるラブホテルが建っていたりして、「小軽井沢」の趣きが後退していることは否めない。






















広岡浅子と御殿場二ノ岡、新橋、そして西園寺公望

2015年07月10日 | 歴史・文化
 御殿場の広岡別邸は、御殿場の二ノ岡というよりは、むしろ新橋(にいはし)、便船塚のあたり、現在の御殿場箱根線401号線の交差点の近くにあったのではないだろうか。
 昭和14年の「御殿場町二ノ岡及其附近別荘略図」によると、70広岡別荘は、71西園寺公爵別荘、西園寺八郎様別荘と隣り合わせにある。そして道路の向かい側には(当時・直線道路、現・御殿場箱根線)、72勝又別荘がある。
 72勝又別荘は、衆議院議員、初代御殿場市長の勝又春一(M25-S39)の別荘である。勝又別荘は、昭和2年、裾野から移築補修された民家であるので、年代的に浅子は勝又別荘のことを知らない。
 本館、中館、別館などから成る勝又別荘には、秩父宮殿下や吉田茂ら皇族や政治家も滞在されたが、昭和39年12月24日、春一が死去(72歳)、10日後の昭和40年1月4日、勝又別荘は焼失し、現存しない。跡地には、昭和44年、中国料理の「名鉄菜館」が開業し、現在にいたる。その北隣には、現在、和菓子で有名な「とらや御殿場店」(2006年竣工、内藤廣設計)の平屋建ての路面店がある。
 71西園寺公爵別荘は、大正11年8月、公望が74歳のとき、実弟の住友春翠より提供されたものである。従って浅子は、年代的に公望別荘のことも知らない。同別荘は、近くの竈の小林家住宅を移築したもので、茅葺きの建物であった。
 西園寺八郎は、公望の養子で、明治39年、公望の娘・新子と結婚している。新子は、日本女子大学校の卒業生で、成瀬仁蔵に献呈された両人の結婚記念の名刺判写真が残されている(丸木利陽撮影)。
 浅子が死去した大正8年1月14日当日、公望は、神戸港を丹波丸で出航、パリ平和会議の全権委員としてパリへ向かっている。新子・八郎夫妻も同行していた。前年の12月27日、新子を送別する会が日本女子大学で催され、成瀬仁蔵を中心に、右隣に新子、左隣に新子の息子と娘が同席している写真が残されている。新子が御殿場で避暑したことを回想している記事があるので掲載しておこう。
 公望は、実弟の住友春翠により、大正2年、京都の「清風荘」を提供され(昭和19年、京都大学に寄贈)、また大正8年、静岡県興津の「坐漁荘」(命名は大正14年)を提供され(昭和45年、明治村に移築)、さらに大正11年、御殿場の別荘を提供されている。春秋冬は興津、夏は御殿場に滞在することも多く、公望は、晩年、本邸は東京駿河台にあるが、興津、御殿場、京都を結構まめに行き来していたようである。ちなみに公望は、日本女子大学校の創立発起人、創立委員、評議員を歴任している。
 御殿場の公望別荘は、のちに大丸の保養所となったが、現在は取り壊され、現存しない。筆者は、広岡別邸について登記簿や土地台帳などで調べていないので詳しいことについてはわからない。しかし新橋に古くから住むという方に尋ねたところ、西園寺別荘は現在、ホームセンターのジャンボエンチョーがあるところにあったということである。もしこれが正しいならば、広岡別邸は、その隣にあったので、現在、ガソリンスタンド(エネオス)があるあたりにあったということになるだろう。




































広岡浅子と日本基督教女子青年会YWCA・夏期修養会、明治45年ー大正7年

2015年07月09日 | 歴史・文化
 浅子は、明治44年クリスマスに受洗、翌45年2月、女子青年会の中央委員に推挙され、以後、毎夏開催された女子青年会夏期修養会にほとんど毎年参加、講演、講話、感話、懇談会を行ってきている。
 このような継続的な活動は、当然、軽井沢の三泉寮の夏期寮などにおいてもなかったことであり、最晩年という彼女の年齢や体調のことを考えると、基督者としての使命感やその実践力、行動力に敬服せざるをえない。
 一方、この頃、成瀬仁蔵は、姉崎正治らとともに帰一協会の活動に最後の情熱を傾け、欧米にも遊説に出かけており、その「帰一化」「世界維新」への情熱にも敬服せざるをえない。
 しかし惜しくも、一方は大正8年1月、他方は同じく同年3月、道半ばで逝去している。
 明治45年夏から浅子が死去する前年の大正7年夏までに開催された女子青年会夏期修養会の内、浅子は、大正4年と7年を除いて、毎年参加、講演、感話などを行っている。
 不参加であった大正4年については、浅子は別途講演活動を行っており、『女子青年界』誌によれば、4月15日、東京で開催された東京協同伝道の婦人大会において、弁士の一人として、新渡戸稲造、外村義郎とともに講演を行っている。
 また大正7年については、4月27日、大阪基督教女子青年会大会が天王寺公会堂において開催され、浅子は、女子青年会本部幹事の河井道子と並び、講演を行っている。浅子は、大正6年秋に創立に着手し、翌7年3月、組織された大阪基督教女子青年会の創立委員長を務めていた。副委員長は、石神八重子と大塚常子である。
 このように老体に鞭打って実践・実行する浅子の使命感とは、どのようなものなのであろうか。その一端は、大正6年10月、女子青年会の修養会の講話「奨励」においてうかがうことができるだろう。
 「私は戦後の日本を思ふ時、真に此の儘では継続は危ぶまれるのであります。どうしても二十世紀は児童の世紀であり、婦人の世紀であります。、、、此処で皆様と共に考えたい事は、男子の間にたち誘惑に打勝つと云うことで、婦人の力を国家社会に及ぼすことは困難の事でありますが、これを見逃しにして居れば怒涛の中にただよわねばなりません。、、、我々は真に国家の母とし妻として、民本主義の国是をしかなくてはなりませぬ。これ日本をして世界に光輝あらしめる所以であると思ひます。婦人が真の力を出し、人のことを破壊するのでなく共に共に助けて、本当に婦人の事業を発達せしめる様にしなくてはなりませぬ。青年会にしろ矯風会にしろ、成功するようにしたいと思ひます。、、」(『女子青年界』文責記者、八ー九頁)














広岡浅子と日本基督教女子青年会YWCA、そして津田梅子 明治45年夏期修養会

2015年07月07日 | 歴史・文化
 浅子は、横須賀で開催された夏期修養会において、行事の初日に講演を行い、2日目の求道者懇話会では経験談を話し、28日、29日には浅子の師である宮川経輝の講演、30日には同じく山室軍平の講話が行われている。
 日本基督教女子青年会の第七回夏期修養会は、明治45年7月23日夕(火)ー31日午前(水)、神奈川県横須賀大津村の勝男館(かつをかん)を借り切って行われている。
 修養会の予告記事によると、勝男館は海辺に近い同地第一の旅館であり、昨年の開催会場の東屋(鵠沼の東屋旅館)より広大であると記されている。参加者は、横須賀停車場から徒歩、人力車(35銭)、馬車(8銭)などで行ったようである。
 修養会は盛会であったようで、来会者は総数で228名に及び、勝男館は狭隘となり、近傍の寺と百姓家に分宿することになったという。
 小橋三四子による修養会の報告記事によると、明治天皇の御大患を憂え今会期は親睦会、遠足などを遠慮したが、結局、会期中の30日未明、崩御され、朝講演予定の山室軍平の司会の下に奉悼の祈りが行われ、山室の講話「摂理」が行われたという。翌朝解散の予定も直ちに解散となり、会期は一日早く終わったようである。
 浅子の講演「基督の教訓と婦人問題」は、行事初日の24日、朝天祈祷会、聖書の組の後、10時から1時間、行われた。浅子の実績、多額の寄付、話題性などから講演は修養会の目玉であったのではないだろうか。
 2日目の25日には、求道者懇話会が行われ、浅子が経験談を話し、茶菓の饗応の間に懇談して益々基教の精神を知るの便を与えらると記されている。
 修養会の来会者として、支那人6名、朝鮮人1名があり、3日目の26日、青年会協議では、支那人の陳、李両女史と朝鮮人の金澤とし子姉の談話があった。金澤とし子は、故国朝鮮で日本人教師の下に小学校を終え、父母に乞い、師に計りて、日本に留学、爾来日本女子大学附属にありて業に就いているという。
 浅子の師である宮川経輝は、「霊的修養」という講演を28日、29日の2回にわたって行い、同じく山室軍平は、「摂理」という講話を30
日に行っている。
なお、夏期修養会の会計報告には、寄付金の一覧があり、浅子は金45円を寄付している。ついで外国人幹事のミス・マクドナルドと日本人の総幹事の河井道子がそれぞれ8円を寄付している。井深花子は5円、津田梅子は2円を寄付しており、浅子の寄付金が図抜けて大きいことがわかる。
 一方、浅子に宮川経輝牧師を紹介した成瀬仁蔵は、渋沢栄一、姉崎正治らとともに思想団体・帰一協会を設立し、明治45年7月10日、帰一協会第一回例会が上野精養軒において開催されている。出席者は13人である。
 このようにみてくると、浅子と仁蔵の考え方や方向性は、受洗や帰一協会などとの関係もあり、かなり異なって来ているといえるだろう。